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青嵐―誠の未来へ―  作者: 初音
第3章
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22.大政奉還、そして…




 十月になった。

 冬の足音は徐々に近付いてきている。


 予定通り、土方や井上は隊士募集のために江戸へ下っていた。

 沖田はといえば、近藤を守る者がいなくなったと俄然はりきっていた。が、本人の気持ちとは裏腹に体調は悪化の一途をたどり、思うように体が動かない日も続いた。


 数日ぶりに、少しだけ熱が下がった。そういう日は巡察に出るのだが、戻ってくると部屋で泥のように眠る。


 琉菜はそんな沖田を布団に寝かせ、の熱を測った。

 ピピッピピッという音がすると、「三十八度二分」と琉菜はつぶやいた。


「ああ、やっぱり、駄目ですねえ」


 沖田が弱弱しく呟いた。


「次はいつ”熱を測る”んですか?私、この鳥の鳴き声みたいな音、結構好きなんです」


 冗談か本気かわからなかったが、琉菜は可笑しくなって笑みを漏らした。少なくとも、そんなことを言う余裕はあるようだ。


 琉菜と沖田は、取り決めをしていた。

 それは、隊務につけるか否かの分岐点。


 三十七度五分を越えたら、安静にする。それ以下であれば、稽古や巡察に出てもよし。それが判断基準だった。

 

 琉菜は沖田の額と、脇の下にも濡らした手ぬぐいを宛てがった。熱中症対策として有名な二十一世紀の知恵だ。


「今日はもう、夕飯を食べたら早めに休んでください。寝る前に薬を飲めば、明日には下がりますよ。そしたらまた熱を測りましょう」


 琉菜は優しく声をかけると、また後でと声をかけ、立ち上がった。


「琉菜さん」

「はい」

「ありがとうございます」


 琉菜は笑みを浮かべ、頷いた。




 それから半月。小学生向けの歴史の教科書にさえ載っているような重大事件があった。

 大政奉還である。

 今にも武力で幕府を倒さんとする薩長を抑えるために、坂本や、その上司にあたる土佐藩の後藤象二郎らが駆け回って、やっと成しえた成果である。

 これにより、約二百六十年続いた江戸幕府が、名目上政権を失ったことになる。

 そして、その後に控える王政復古の大号令を持って、完全に徳川は政権を奪われる。

 教科書には、二つの事件が起こる間には何事もなかったかのように書かれていたが、この二ヶ月あまりの間にも、たくさんの男たちが日本の未来のために命を散らしていくことになる。

 琉菜は、そう考えると、胸が締め付けられる思いだった。



 日本史上最後の将軍が大政奉還を発表した日、近藤は会津の守護職邸から暗い面持ちで帰ってきた。


「近藤局長」


 庭掃除をしていた琉菜は、いち早く、帰ってきた近藤に声をかけた。


「おかえりなさい」

「琉菜さん……」


 近藤は突然何か思い付いたような顔をした。


「もしかして、ご存じですか?」

「大政奉還……ですよね」琉菜は呟くように言った。近藤はこくりと頷いた。

「このあと幕府はどうなってしまうのですか、なんて、野暮なことは聞かないことにします」近藤は力なく微笑んだ。

「はい。あたしは何も言うことはできません」


 幕府のためにまさに文字通り身命を賭してきたこの男に、「幕府はおしまいです」などと言えるはずもない。

 近藤は琉菜をじっと見つめると、その場をあとにした。




 大政奉還の話は、夜には隊中に広まっていた。


「おい、幕府はなくなっちまうのか?」

「まだそうと決まったわけじゃねえ。上様は、政治に慣れてない朝廷のことだから、すぐに政権を返上するだろうと踏んでるらしいぜ」

「せっかく幕臣になったのになぁ」

「これからどうなるんだろうな」


 夕食の時は、そんなふうにいろいろな隊士があちこちで同じ話題を話していたので、琉菜の耳にはタコができそうだった。


 大政奉還……それさえなければ、新選組も報われたのに。

 まあ、大政奉還がなかったら薩長がそのまま武力討伐に乗り込んでたんだろうけど。

 じゃあ、大政奉還はいいのか……いいとして……


 新選組が日の目を見るルートはどこにあったんだろう。

 いや、最初からそんなものなかったのかも。

 どこに行っても行き止まりの迷路みたいなものなのかもしれないな。


 琉菜はいろいろと考えをめぐらせたが、やっぱり、この先の新選組のことを思うと、胸がはりさけそうだった。

 どちらにせよ、琉菜のようなただの賄い方にできることなどあるはずもなく。

 あとはもう、歴史の流れに身を任せるしかないのだ。


 琉菜は大きく溜め息をついて、食事を口に運んだ。


***

 

 そして十一月になり、土方が隊士を連れて帰還した。

 江戸は将軍の膝元であり、徳川への信頼をよせる者も少なくないだろうということで、新入隊士は難なく集まる見込みだった。今なら漏れなく幕臣になれるという特典付きだ。

 だが、そんな特典はもはや無用の長物であった。


 結局、目標としていた人数を集めることはできなかった。それはそれで残念なことであったが、旅の途中で大政奉還の話を聞きつけた土方は、もはやそれどころではないと言わんばかりに機嫌が悪かった。



 そんなある日、買い物に行こうと琉菜が町を歩いていると、「琉菜ちゃん!」と琉菜を呼ぶ声がした。

 だが、あたりを見回してみても声の主は見付からない。

 そしてやっと、小さな路地で手招きしている男を見付けた。


「坂本さん!どうしてここに!?」琉菜は新選組の誰かに見られたらまずいと思い、こそこそと坂本に近付いた。

「あのあとどうなったかの?」坂本は早口で言った。

「大変でしたよ、いろいろと。でも大丈夫です」琉菜は声を低くした。

「迷惑かけようてすまんの。ところで、大政奉還は知っとるじゃろう?」


 坂本がずっとこの話をしたくてうずうずしていたであろうことは手にとるようにわかった。


「知ってます」琉菜は短く答えた。


 複雑な気持ちだった。大政奉還のおかげで今の日本があるといっても過言ではない 

 ここで幕府が力を取り戻したり、従来のように誰かが別の幕府を立てたりしたら、歴史は大きく変わり、令和の世でも刀を持ち歩いたり着物を着たりしていたかもしれない。


 でも、それで新選組が幸せになれるなら、あたしはそれでもいいんだけど。


 あと百年幕府が続いて、新選組も代々受け継がれて、初代局長の近藤勇が歴史的に大きな位置を占める……そんな想像を一度か二度したことはある。

 だが、それは叶わぬ願い。幕府はもう、なくなるのだ。


「これで戦は起きんじゃろう。あとは、みんなぁでまつりごとを進めるぜよ」坂本は嬉しそうに言った。それから、これを一番聞きたかったのであろうが、坂本はうずうずとした様子でこう尋ねた。


「それで、このあと、日本はどうなるんじゃ?」


 屈託のない坂本の笑顔を見て、琉菜は言葉につまった。

 その質問をもう何度されたかわからない。

 そして、これからますます増えるのだろうと思うと、なんともやりきれない気持ちになった。


「未来は平和です」少し迷ってから、琉菜は小さく言った。

「こんなに毎日が血まみれなんかじゃない。殺人がないわけじゃないし、外国には戦争もあるけど、ほとんどの日本人が平和に生きてます」


 坂本はにこりと微笑んだ。


「でも、未来には失われてしまったものもあります。こっちの方が、みんなが生き生きしてる。きれいな心で毎日を必死に生きてる。あたしはこの時代が、未来と同じくらい大好きです。……治安の良さとかだったら断然未来がいいですけどね」


 琉菜は思いのままにぺらぺらと語ってから、我に帰った。


「すいません、答えになってませんね」琉菜は苦笑いした。しかし、坂本は満足そうに微笑んでいた。

「そんなことないきに。琉菜ちゃんは未来が好きなんじゃろう?」

「はい」琉菜はきっぱりと答えた。


 幕末も大好き。でも、未来も大好き。

 どっちにもいることができてるあたしは、とっても幸せ者だよね。


「それで十分じゃ。わしらのやったことは間違いじゃなかったんかの?」

「それは、誰にもわからないと思います。百五十年経っても、どっちが正しいか、もしも幕府が続いていたら、どうなっているかわかりません」


 琉菜は坂本の少し曇った顔を見て慌てて次の言葉をつけ加えた。


「でも、立場が違っても、この時代の人たちは日本のために命をかけたヒーローとして、人気があります。新選組も、薩長も。だからその、安心してください」


 琉菜も自分で何を言っているのかよくわからなかったが、坂本が笑顔を見せたので、笑い返した。


「ありがとな、琉菜ちゃん。参考になったぜよ。それじゃ、わしゃあ行くきに」

「はい。久しぶりに話せてよかったです」

「わしもじゃ」


 琉菜は坂本をじっと見た。

 幕末最大の謎、坂本龍馬を殺した男の正体を琉菜は自分の目で見たいと一瞬思った。

 しかし、そんなことは不可能だ。


 これ以上坂本さんに深入りしたら今度こそ新選組を裏切ることになる。

 それだけは、やっぱりできない。


「バイバイじゃ、琉菜ちゃん」

「はい、あの……気をつけてください。今度の、十五日」


 琉菜は思わず坂本に忠告してしまった。

 そんなことをしたところで、何が変わるというわけでもないのに。

 坂本が琉菜の言葉を察したのかはわからないが、にっと笑ってその場を去った。

 琉菜はおそらく最後になるであろう坂本龍馬の生きている姿を、じっと見つめていた。


 この目に、焼き付けておきたい。

 幕末史上最も有名で、偉大な志士を。

 さよなら。坂本さん。


 数日後、新選組に坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたという知らせが入った。





「新選組に疑いがかけられている」


 局長室で近藤に書類を見せながら土方が苦々しく言った。

 琉菜は二人の前にことんとお茶を置いた。


「そんな。新選組は昨日の夜は全然反対方向の巡察だけで、あとはみんな屯所にいたじゃないですか」

「しらばっくれやがって」土方はつまらなさそうに言った。琉菜は首を傾げた。

「お前は全部知ってるんだろ」

「知りません」琉菜はきっぱりと言った。

「坂本龍馬を殺したのは誰かっていうのは、この時代一番の謎として、未来でも有名です」


 本当のことだ。

 今になっても、坂本を殺したのは、誰か、明確な答えは出ていない。

 見廻組だという説が有力だが、それを言えば「先を越された」と土方を余計ヒートアップさせることがわかっていたから言わなかった。


 そして新選組の仕業だという説は多くの研究で否定されており、土方や近藤の様子から、琉菜はそれを確信した。


「へえ、そうかい」土方はどうでもいいというふうに相槌をうった。

「だから、あたしとしては、逆にその謎を本場のここで知っときたいなあと……」

「お前に言われなくても、山崎に調べさせてる。なんで俺たちが濡衣着せられなきゃならねえんだ」土方は苦々しく舌打ちした。

「琉菜さん、わかったらお教えしますよ」近藤が朗らかに言った。

「ありがとうございます」


 どうせわからないんだろうな、と思いながら琉菜は空になったお盆を持って立ち上がった。


「総司はどうですか」近藤が何気無く尋ねた。

「今日は熱が少し落ち着いたので、素振りされてましたよ」


 琉菜は微笑んだ。近藤も笑い返した。




 琉菜はお盆を台所の戸棚にしまいながら、ふうと溜め息をついた。


 坂本龍馬は死んだ。

 次は琉菜のよく知っているあの男だ。


 時代の動きは加速している。

 琉菜は、その流れについていけるか、無性に心配になってしまうのだった。






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