28.中富新次郎
数日後。
琉菜は中富屋にいた。
山崎も、仕事の合間を縫って来ていた。
「明日の夜やな」
「はい」
「ええか。抜ける時はこっそりや。自分の逃げ足を信じるんやで」
「はい」琉菜は決然とした面持ちで言った。
「にしても、なんや寂しなるなあ」山崎は少しだけ微笑んだ。
「あたしもです。山崎さん、今まで本当にありがとうございました。山崎さんがいなかったら、あたし今日まで隊士としていられませんでした。お世話になりました」
琉菜は深々と頭を下げた。
「お互い様や。お前といろいろ話して、おもろかったで。向こうでも達者にな」
「はい。山崎さんもお元気で」
その時、襖の向こうで、「琉菜ちゃん?入るえ」と多代が声をかけてきた。
開けると、多代と、兵右衛門もいた。
「これでええやろか」兵右衛門が手紙を差し出してきた。琉菜が代筆を頼んだ代物だ。
琉菜は手紙を受け取ると、内容を読んだ。
「完璧です!ありがとうございます。自分じゃこんなにきれいに書けなかったから、本当に助かりました」
「そらあよかった」兵右衛門も破顔した。
琉菜は手紙を懐にしまうと、二人に向かって深々と頭を下げた。
「兵右衛門さん、お多代さん、今まで、本当にありがとうございました!」
「琉菜ちゃん…」多代が驚いたような顔で琉菜を見た。
琉菜は顔を上げて微笑んだ。
「大事な息子さんの名前を頂き、女としてのあたしをいつも支えてくれて、兵右衛門さんと多代さんには本当に感謝しつくしても足りません」
「…礼を言わなあかんのはうちらの方やで」兵右衛門が言った。
「そうやで。琉菜ちゃんには本当に感謝しとる。新次郎も、本望やと思う」多代も続いた。
「ごめんなさい。最後まで新次郎さんでいられなくて。新次郎さんの名前で脱走なんて、新選組隊士として…失格ですね…」
琉菜は再び頭を下げた。
「ええんや。いくら強い言うたかて、琉菜ちゃんは女子や。いつまでも新次郎 のままでおるわけにもいかんやろ」兵右衛門はにっこりと笑った。
「琉菜ちゃんが中富新次郎として、新選組隊士として、公方様のため、京の治安維持のために働いたことは変わらへん。琉菜ちゃんはほんまの武士やったんや。そんで、新次郎を武士にしてくれはった。ほんまに、おおきに」
多代が頭を下げた。兵右衛門も倣った。
琉菜はにっこりと笑った。
「どういたしまして。ありがとうございます」
「またこっちに来はった時は、遠慮せんとうちに寄るんやで?」兵右衛門が言った。
「そうや。ここは琉菜ちゃんの家やさかい。いつでも帰ってくるんやで」多代も念押しするように言った。
「はいっ!」
そう言って笑った琉菜の目からは涙がすうっと流れ落ちていた。
寂しくて泣いているのか、うれしくて泣いているのか、それとも全く違う理由なのか。
それは琉菜にもわからなかった。
ただ、拭っても拭っても、着物の袖が濡れるだけだった。
琉菜はその時暖かいものに包まれたのを感じた。
多代が琉菜を抱き締めていた。
母のような暖かさは、琉菜の涙をさらに流した。
琉菜の居場所は、ここに、1つ増えていた。
兵右衛門さん、お多代さん、山崎さん。
今まで、本当にありがとう。
次またここに来れたら――ううん、絶対に来てみせる。
だって、あたしの運命の地はやっぱりここしかないから。
きっとまた会える。
だから、それまで、元気でいてね。
絶対会えるから。帰ってくるから。
待っててください――
こうして、琉菜と山崎は中富屋を後にした。
屯所に戻るにつれ、頭痛がひどくなっていった。そして門をくぐって一層頭痛がひどくなったのを受けあたりを見回すと、賄い方の琉菜をおぶさった沖田が、鈴たちの部屋に向かっているところを目撃した。
な、何あれ…!ずるい…!
「沖田先生、なんかあったんですか?」
琉菜は思わず沖田に駆け寄り、何故自分が沖田におんぶをしてもらっているのか真相を聞こうとした。何しろ、前回のタイムスリップでこんな羨ましい状態になっていたという記憶が全くない。
「先ほど、賊に襲われそうになっているところに出くわしたんですよ。賊は斬り伏せましたが、琉菜さんが気絶しちゃったみたいで…。そうだ中富さん、番屋へ走って、遺体の後処理を頼まれてもらってもいいですか?」
そう言われてしまえば、琉菜は首を縦に振るしかない。
沖田ともう一人の自分の様子が気になって仕方なく、後ろ髪を引かれる思いで琉菜は屯所を出た。
そうか、今日はあの事件の日でもあったんだ。
賊にからまれたところを助けてもらって。
沖田さんのことが好きだって、気付いた日。
それにしても、あたしのバカー!
あんな、状況、全然記憶にないなんて!
代われるものなら代わって欲しい…
琉菜は往来で大きなため息をつき、番屋へと向かった。
そして、次の日。
琉菜は今晩、隊規を破って新選組を脱走し、未来へ帰る。
もちろん、気取られぬよう努めていつも通りふるまう。
午前の巡察も、午後の稽古も、いつも通り終わった。
が、傍から見ればそうでもなかったらしい。
防具を片づけていると、木内に声をかけられた。
「中富、お前やっぱりまた調子悪いのか?今日の稽古、全然身が入ってなかったじゃねえか」
「別に。まあ頭痛は少しするけど。木内にそんなこと言われるようじゃオレもおしまいだな」
「なんだよそれ、人が心配してやってるのに!でもまあ、そんな減らず口叩けるようなら心配いらねえな」
木内はニッと笑顔を見せた。先に行ってるぜ、と道場を出て行く彼の背中を、琉菜は切なげな表情で見つめた。
ありがとう、木内。
あんたは間違いなく、こっちでの親友だよ。
次にもし、女としてタイムスリップできたら、沖田さんたちとは再会だけど、木内とは、本当のお別れになっちゃうんだ。
ごめん、ごめんね。
でも、あたしは脱走する。
次に戻ってこれたら、中富新次郎としては会えないかもしれないけど、また会おうね。
だからそれまで、死ぬんじゃないよ?
平成の世で新選組についてあれこれ調べた琉菜であったが、平隊士一人ひとりの名前を覚えているわけではない。木内がこの先どんな運命を辿るのか知らない琉菜は、ただその身を案じることしかできないのであった。
庭の前を通りかかると、賄い方の琉菜が掃き掃除をしていた。
「おい、大丈夫なのか?昨日の話聞いたぞ」
何も言わないのもどうかと思い、琉菜は自分に声をかけた。かけられた方は、びくっとしたような素振りを見せると、声をかけてきたのが中富であると気づき、応えた。
「ありがとうございます。もう大丈夫です。兄上。いつもあたしのこと気にかけてくれて、ありがとうございます」
「別にそういうわけじゃねえけど。兄妹らしくしてないと怪しまれるだろ?」
琉菜はそのまま縁側に腰を下ろし、ふうと息をついた。
「怖かったろ。沖田先生が、助けてくれたんだってな」
言いながら、あの時のことを思い出していた。斬られるのではないか、死ぬのではないかというゾクゾクとした恐怖感は、今でも鮮明に思い出せる。
今の琉菜であれば、あの状況を自分で切り抜けられただろう。それもこれも、1年以上、新選組隊士として鍛錬を積んで身につけた気力胆力のおかげである。
賄い方の琉菜は、箒で地面を掃くのをやめ、「はい」と答えた。
すると、彼女の様子が変わった。「やだ…」と小さくつぶやいたかと思うと、箒から手を離し、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
「おい、大丈夫か?」琉菜は慌てて駆け寄り、目の前の自分の肩を掴んだ。奇妙な感覚だった。自分で、自分に触れているのだから。
「悪い。思い出させちまったな」
とにかく今は自然な会話をと、琉菜は話しかけた。
「怖かった。目の前で、人が…」目の前の琉菜はぽろぽろと涙を流し始めた。
「そっか。そっちの方が怖かったか…。まあほら、座れよ」
琉菜はもう1人の自分に立ち上がるよう促し、縁側に座らせた。その隣に、自分も腰掛けた。
「そりゃそうだよな。俺も最初は怖かったよ。でも、新選組の隊士としてここにいる以上、鬼にならなきゃいけないんだ。もしかしたら聞いたかも知んねえけど、新選組には法度がある」
「法度?」
聞き返されて初めて、本当にこの頃の自分は何も知らなかったのだと、少し可笑しくなってきた。
「揺すり、隊内の私闘、勝手な訴訟、それから、脱走。こういうことをすると、切腹になるんだ」
「せっ…ぷく…?」
まあ、ショックだよね。ショックだったもん。
琉菜は話を続けた。
「法度があるから、新選組の隊士はいつも命がけで生きてる。武士らしくあれってことをいつも肝に銘じなきゃいけない。敵前逃亡したら切腹だから、目の前に敵が現れた時は斬るか、捕まえて屯所に連れてくるかしかないんだ。オレも、人を斬ったよ」
「兄上も…?」
「ああ。慣れるっていう人もいるけど、オレはやっぱり、慣れないな。でもその代わり、新選組に忠義を尽くして、日本のために働かなきゃって、そうすれば、人を斬ったことも無駄にはならないって、そう信じてられるし」
琉菜は、目の前の自分ではなく、今の自分自身に言い聞かせるようにそんなことを言っていた。
覚悟しといてよ。
あなたはこの先、人を斬ることになるんだから。
「慣れろとは言わない。けど、ああいうことは、日常茶飯事だって思っといた方がいいぜ」
「日常、茶飯事…」
目の前の琉菜は、しゅんと落ち込んだように俯いた。
「怖い、早く、帰りたい…兄上や、沖田さんたちとお別れするのは寂しいけど」
「…帰る方法は、必ず探せ。来られたんだから、帰れるはずだ」
大丈夫。絶対帰れるから。
琉菜は声には出さず、目線でそう訴えた。伝わったのだろうか。中富新次郎の妹は、すっくと立ち上がって庭掃除を再開した。
「オレは、武士だ」
琉菜はポツリとつぶやいた。
あたしは、武士だ。
確かに武士だった。今日までは。
だって、沖田さんも認めてくれた。
それだけで十分だ。
あたしは、今日までは武士なんだ。




