22.伊東甲子太郎
10月下旬。
京の町には、冬の冷たい風が吹いている。
藤堂が江戸から壬生に戻ってきた。
隊士らは道場で稽古していたが、藤堂がひょいっと顔を出したので全員が動きを止めた。
「ただいま帰りました」藤堂はにこりと笑った。
「藤堂先生!」
「お帰りなさい!」
隊士たちが藤堂の周りに集まった。
琉菜もそれに混じり、約2ヶ月ぶりに見る藤堂の顔を見た。二十歳も過ぎた人に言うのもなんだが、この2ヶ月で顔つきが大人びたようだ。
「近藤先生たちが午後に追って帰ってきますよ。もう知らせが行っているとは思いますが、伊東先生を筆頭に10人以上の新入隊士が入られますから、皆さんよろしくお願いしますね」
「伊東甲子太郎ってどんな人なんだろうな」
木内にそう言われ、琉菜は本で読んだ伊東甲子太郎、そして以前来た時に実際に少しだけ会った伊東甲子太郎を思い出した。
伊東は離れに住んでいて、琉菜が時々食事の膳を持っていくことはあったが、挨拶程度で話をしたことはほとんどなかった。もっとも、特段用もなければ話す必要もなかったのだが、当時は新選組のことなど何も知らなかったから、後に彼が新選組における重要人物だったと知り、どうしてもっと交流しておかなかったのかと後悔したものだ。
本で読む限りでは、容姿端麗、頭脳明晰。そして非常に大ざっぱにいえば、新選組を尊王攘夷の組織にしようと機会を伺っていた、という人物だ。
「中富?何ぼーっとしてんだよ」
考えているうちに、琉菜は木内の問かけを忘れていた。
「ああ。伊東さんは…北辰一刀流を納めてて、学問もスゴい人だって聞いたぞ」
「へえ。北辰一刀流か…それで学問って、そういう人材なら山南先生がいるじゃんか」
「そうだなあ…」
琉菜はまた考えを巡らせた。
以前、山南が脱走した日に聞いたのは「屯所の移転の件でもめていたらしい」という物であったが、平成の世で改めて本を読んだりした琉菜は、そう単純な話ではないことも理解していた。
少なくとも、伊東が来るにあたって山南に命ぜられた「総長」という事実上の窓際人事がそれを物語っていた。
山南さんが切腹するのなんか2回も居合わせたくないよ…
こうなってくると、早く未来に帰りたいわ…
琉菜はこの先起こることを思い出して表情を曇らせた。
午後になり、屯所の門前には近藤や伊東を出迎えるべく、隊士が集まった。
「ただいま帰ったぞ。皆達者だったか?」
まず門を入ってきた近藤に、みんなが口々に「お帰りなさい、局長」と笑顔を見せた。
そして、あとから入ってきた永倉に促され、伊東甲子太郎が皆の前に姿を現した。
うわぁ、改めて見ると、そうそうこんな顔だった!
土方さんとは別の方向にイケメンだわ。未来だったら、こういう顔の俳優さんいそう。
そんなことを考えながら、口をぽかんと開けていた琉菜だったが、そういう顔をしているのは琉菜だけではなかった。
伊東は容姿淡麗で、何か人を圧倒させるオーラを放っていた。
伊東が挨拶を始めたので、みんな我にかえって口を閉じた。
「みなさん、初めまして。伊東甲子太郎です。以後お見知りおきを」
「伊東さん、長旅ご苦労様です。奥の部屋へどうぞ」
近藤は伊東を中へ案内した。
その後ろから10数人の男がぞろぞろとついていった。
近藤が琉菜の前を通りがかった時、ちょうどいいとばかりに話しかけてきた。
「中富くん、お茶を人数分持ってきてくれるか?」
「あ、はい。承知しました」
琉菜は伊東らの列を見送って、台所に急いだ。
「失礼します」
琉菜は副長室の障子をガラッと開けて中に入った。
琉菜から見て左側には近藤・土方・山南が座っていて、右側には伊東とその同志らがいた。
「ああ、ありがとう中富くん」近藤が言った。
琉菜は軽く頭を下げ、お茶を配った。
「君は?」伊東が尋ねた。
「一番隊隊士、中富新次郎です」
「中富くんか。よろしく頼むよ」
「はい、こちらこそ」琉菜は軽く笑った。
「それじゃ、失礼しますね」
琉菜はぺこりと頭を下げると、立ち上がって部屋を出ようとした。
「ああ、ちょっと待ってくれないか」
伊東に呼び止められ、琉菜は浮かせた腰を再び降ろした。
「な、なんでしょうか…?」
もう、正体バレないようになるべく幹部とは関わりたくないのにっ!
「今度、私が講師になって皆に学問を学んでもらう時間を設けようと思っているんだ。だが、受けてくれる隊士がいなければ意味がない。平隊士代表として、君はどう思うかね?」
それって、学校の授業みたいなやつってこと?
えー。あたしは勉強キライだしなぁ。
そもそも、ここにいるみんなだって、国語や数学より体育が好き!みたいなタイプの人ばっかな気がするし…
「どうですかねぇ。皆剣術の稽古も忙しいですし。オレは正直難しいことは苦手で…」
「そうか。ならばやはり、この話は進めよう。ねえ近藤さん?」
今、あたしの話聞いてました?
「ええ。ですがこの中富の言う通り、ここには勉学の類が苦手な者が多いのもまた然りでして…」
「だからこそです。そういう隊士たちにこそ、論を身につけることが必要なのです」
そういう理屈?
琉菜がその場に固まっていると、伊東は今琉菜の存在に気づいたような目で見てきた。
「君、もう下がっていいよ」
「え、あ、はい、じゃあ失礼します…」
琉菜はお盆を抱えるとそそくさと部屋を出た。
な、なんだったんだ一体…
てか絶対あたしさっき作り笑いしてたっ!
目付けられてないといいけど…
琉菜はこわばった顔をぱしぱしと叩いた。
そして、伊東という人への好感度が少しだけ下がった、ということを琉菜は実感した。
しばらくして、そろそろ話も終わっただろうと琉菜は副長室に行った。
「副長?いるんですか?湯飲み取りに来ました」
「入れ」
土方の指示で中に入ると、土方がこちらに背を向け座っていた。
空の湯飲みは隅に集めてあった。
「どうかしたんですか?」
琉菜は土方を見なくても、彼がふてくされていることを知っていた。土方が笑顔で伊東を迎えたという話は聞いたことがない。
「あいつは長州と変わんねぇ」土方は言った。
「どうしてですか?」
「あいつは確かに自分は尊皇壤夷派だと言った。俺たちにもそういう思想はあるが、あくまでも佐幕が前提だ。だがあいつは佐幕の佐の字も口にしなかった」
「たまたま言わなかっただけじゃないですか?」琉菜は一応意見を言った。
「…あいつは危険だ」
土方は琉菜の言葉を聞いていないようだった。
ホント、鋭いよなぁ。
琉菜はしみじみとそう感じ、空の湯飲みをお盆に乗せて「失礼しました」と部屋を出た。
数日後、早速伊東の講義が始まった。
この時期、新選組では各分野の師範を設けて、隊士の得意分野を強化するという画期的な制度ができた。
伊東は文学師範、剣術師範は沖田や斎藤で、ほかにも柔術、槍術などがあった。
琉菜はためしに伊東の講義に行ってみた。
なんだかんだ言っても、学校のようで懐かしいと思ったのだ。
「孔子先生は、学ぶことを楽しめと言いました」
伊東の話は主に「論語」をはじめとする古典、儒学というものだった。
論語、とか、孔子、とか学校で名前は聞いたことあるなぁ。
助動詞だの文法だのめんどくさいこと考えないで、こうやって話だけ聞いてればなかなか面白いじゃん。
「また、武器よりも信じることが大切とも言っています」
他にも、中国に古くから伝わる話や、日本の逸話など、学校の古典の先生よりわかりやすく解説していて、数学や物理よりは面白い、と琉菜は思った。
「伊東先生ってすげえな」
講義が終わり、隊士は廊下に出るなり口々にそう言った。
「論ってのもいいもんだよなぁ、中富」
一緒に講義を受けた隊士らに言われ、琉菜はうんうんとうなずいた。
「だな!結構面白かった!」
今まで剣の稽古ばかりしてきた彼等にとって、こういう話を聞くこと自体新鮮だったのだろう。
伊東の講義についてわいわいと感想を言い合っていると、前方から土方が歩いてきた。土方は無表情のまま琉菜たちの横を通りすぎた。
「おや土方殿」
最後に部屋から出た伊東が土方に挨拶した。
琉菜や他の隊士は、好奇心から振り返り、土方と伊東の様子を見ていた。
「どうです?あなたも私の講義を受けてみては」伊東はにっこりと言った。
「武士には剣さえあればそれでいい。論なんかいらねぇ」
「ほう。どうやら食わず嫌いというのはあなたのことのようですね」
「結構。食べる必要もありません」
「他の隊士のみなさんは、私の講義に感銘を受けてくださったみたいですが…」
「じきに気付くさ。論なんて必要ないってことがな」
「必要ないのなら、何故こんな講義が用意されたのでしょうね」
「さあな。近藤さんに聞いてくれ」
「局長は、江戸で私の論を誉めてくださいました」
「それはよかった。しかし俺は誉める気はありませんので」
二人の間に火花が散るのが見えるようだった。
その険悪なムードをよそに、琉菜は
わあ、土方さんと伊東さんが喧嘩してるー!こんなに早く見られるなんて!
と、他人事のように楽しんでいた。
その後、巡察に向かうべく門前で隊士らが揃うのを待つ間に琉菜はこのことを沖田に話した。
「副長には悪いですけど、傍から見てる分には結構面白かったですよ」ククク、と琉菜は笑い声を押し殺した。
「そうみたいですね。まさか山南さん以外に土方さんの口喧嘩相手ができるなんて…」
沖田もどこか楽しそうだった。
いつも勝ち気な土方が、伊東の論に言い負かされるのが面白いらしい。
「でも、私は土方さんに賛成ですよ」
沖田は真剣な顔になった。
「私たちは武士ですから。そりゃあ幕府のお偉い方みたいな、論が必要な方々もいますけど、少なくとも新選組は主君や守りたいもののために戦ってればそれでいいんです」
土方と伊東は容姿も剣の腕も互角だ。
つまり、頭がいい分伊東の方が勝っている。
しかも、厳しい土方に対して伊東は優しく、彼を支持する隊士は増えていった。
琉菜はそのことを知っている。
そうだ、危うく伊東先生に乗せられるところだった。
あたしが支持するのは試衛館の人たちで、伊東先生じゃない。
剣があれば、論なんかいらない。
未来でもここでも、あたしはそういう生活してたじゃん。
それでいいんだ。
これから伊東が新選組にもたらす様々な波紋のことを思い浮かべながら、琉菜は巡察に出かけた。




