16.二人目
数日後の朝、ドタバタと騒ぐ音で琉菜は目覚めた。
「何事ですかぁ…?」琉菜は寝惚け眼で鈴に尋ねた。
「琉菜ちゃん、実は…」
「脱走!?」
屯所内では、この単語がもはや流行語のように飛び交っていた。
「ああ、山南先生が、いないんだ!」
この一瞬の流行語が意味することは一つ、山南の切腹だ。
「だっ…そう?」
琉菜はまだ信じられていなかった。
記憶に新しい、中富が脱走した夜のことを思い出した。
「中富がこの前逃げおおせただろ。あれで自分も大丈夫と思ったんじゃないか」
「山南先生もそこまでバカじゃないだろう。あれから『自分も大丈夫かも』って脱走したやつが何人か切腹になったじゃねえか」
「でも、中富ができたなら自分もって、山南先生ならあり得るぞ」
屯所ではそんな話も聞かれた。
兄上…
今どこで何をしてるの?
やっぱり、兄上が脱走した理由がわからない…
しかも、兄上のせいか、わかんないけど、山南さんまで脱走しちゃったよ…
「すぐに連れ戻して切腹だ!山南の野郎、脱走なんてバカなことしやがって!」
試衛館の面々が一つの部屋に集まる中、土方は怒り狂っていた。
「ああ…しかし…」近藤は言葉を濁した。
「助けてあげられないんですか?」沖田が尋ねた。
「ダメだ。例外を認めたら他のやつも続くだろう」
「中富がいるじゃねえか。あいつみたいに逃げおおせたことにしてさぁ」原田も沖田に同調した。
「だから、あいつは本当に逃げおおせたんだから仕方ないだろう」土方は悔しそうな表情を見せた。
土方は一瞬間を置いて次の言葉を続けた。
「…総司。山南を連れ戻してこい」
沖田は一瞬驚いた顔をしたが、真剣な眼差しで土方と近藤を見た。
「…承知」
琉菜は慌ただしい屯所の中を行ったり来たりしていた。
とにかく、だれかに事情を説明して欲しかった。
「あ、沖田さん!」琉菜は沖田を見つけ、呼びとめた。
「琉菜さん…聞きました…?」
「あたし、まだ信じられないんです、どうして脱走なんか…で、でも、兄上みたいに、うまく逃げますよね!?切腹なんか、ならないですよね!?」琉菜は涙ぐみながら言った
「琉菜さん」沖田は真剣な面持ちで言った。
「中富さんの時の方が、例外的なことだったんです。あの人だけは、隊士を総動員しても見つからなかった。山南さんもそうなるとは言い切れません。」
「…そんな」
「土方さんに山南さんを連れ戻す役目を頼まれました。私一人で。これがどういうことかわかりますか?」
「…土方さんが、手抜きしてる…?」
沖田はその言葉を聞いてくすくすと笑った。
「こんな時ですが、面白い人ですね、あなたは。そうです。土方さんは本気で見つける気なんかないんですよ。大丈夫。必ず山南さんを助けますから」
「はい、必ず。沖田さん、お願いします」
琉菜は涙を袖でぬぐいながら沖田の背中を見送った。
そして力が抜けたようにその場にへなっと座りこんだ。
山南さん、それにしてもなんでだろう…
理由を聞きたい、と琉菜は思ったが、理由を聞ける時はここに連れ戻された時。つまり切腹が決まるということだ。
琉菜は、複雑な思いで沖田が1人で帰ってくることを祈った。
その後は、普通に一日が過ぎていった。
土方が、くよくよしないでさっさと仕事につくようにと琉菜や隊士たちに一喝したのだ。
普通の一日だった。
山南と沖田だけがいない、普通の一日だった。
「山南先生が帰ってきたぞ!」
次の日、その情報は一気に知れ渡った。
だれもが想像していたよりも早かった。
山南はたった1日で、屯所に潔く戻ってきたのだ。
琉菜も朝起きた瞬間にこの一大ニュースを聞き付け、すぐに部屋を走り出た。
「山南さん…!」
琉菜は屯所の門前まで行き、馬から降りる山南を見上げた。
その後ろでは、悔しそうな、それでいて悲しそうな顔をした沖田が立っていた。
「ああ、琉菜さん。心配かけたね」
山南は比較的元気そうで、いつもと変わりはなかった。ただ、少しだけ疲れたような顔をしていた。
「なんで脱走なんかしたんですか!?切腹になっちゃいますよ!」
「ああ、覚悟はしている」
「山南さんっ…!」
山南は少し笑うと、近藤さんに挨拶してくる、とその場を立ち去った。
「沖田さん、見つかっちゃったんですね…」琉菜は沖田に近寄った。
「琉菜さん。申し訳ありません。思ったよりも、早く会えてしまったんです。それで、山南さんはもう…覚悟が決まっているからと」
「そんな…」
琉菜は零れ落ちそうな涙をなんとか堪えた。
その夜、琉菜の部屋に沖田がやってきた。
「琉菜さん、山南さんは今夜切腹になりました。」
沖田は淡々とそう告げた。
「今夜…?」
琉菜はその場にくずれ落ちた。
そんなに早く?
やっぱり切腹なんだよね。
山南さん…
「介錯は私がやることになりました。琉菜さんは切腹の現場なんて見ない方がいいと思うのでくれぐれも、このままここにいてください。それと」
沖田は険しい表情を少しだけやわらげた。
「山南さんが、あなたに会いたいそうです」
琉菜は山南のいる部屋に急いだ。
中に入ると、山南はいたって穏やかな表情でぼんやりと窓の外を見ていた。
そして琉菜に気がつくと、うれしそうに声をかけた。
「ああ、琉菜さん来てくれたのか」
「どうして脱走したんですか」琉菜は間髪入れずに尋ねた。怒りと哀しさが入り混じっていた。
「そうだなぁ。…私はね、新選組にいることが疲れたんだよ」
「そんなことで脱走したんですか?」
「そんなことだ。」
「山南さん…バカですよ。」
「山南はん!山南はん!」
突然、外から女性の声がした。山南はがばっと立ち上がり、格子窓の外を覗いた。
「明里!どうしてここに?」
明里と呼ばれた女は泣きじゃくりながら格子窓に手を入れ、なんとか山南に触れようとしていた。
「山南はん!どうしてなん?うちを置いていかんといて!」
「明里…」
「山南はん、うち山南はんのこと大好きやで?後生や、お願い…行かんといて」
「明里…私は武士として死ぬんだ。これほど名誉なことはないんだよ。君を残していくのはつらいけど、私をどうか許しおくれ」
「いやっ!いやや、山南はん!」
山南はピシャリと窓を閉めた。
あとには、山南の名を泣きながら呼ぶ声だけが残った。
「いいんですか?山南さん。」琉菜は少し声を荒げた。
「ああ、いいんだ」山南は落ち着き払っていた。
「彼女がいたんなら、なおさら脱走なんかすべきじゃなかったのに…」琉菜は体をわなわなと震わせた。
目の前にいるこの人は、もういなくなってしまうのだ。
その思いがますます強くなり、琉菜の目から涙がぽたぽたと落ちていった。
「君のお兄さんは、どこに行ったんだろうね」山南はぽつりと言った。
「わかりません。でも、兄上が脱走したから、山南さんも『いけるかも』って思って脱走したんじゃないかってみんな言ってます」
「ふふ、そうだな。確かに中富君のことで少し背中を押されたというのも嘘ではない。彼はきっと、我々の手では決して届かないところに行ったんだろう」
この話をするために自分は呼ばれたのかと琉菜は訝った。
「琉菜さん。今、佐幕派と尊皇派が争っている。どっちのやってることが正しいのか、と最近ずっと考えていた。そして、どちらが正しいかきめられるのは、未来に生きるものたちだと私は思ったんだ。琉菜さん、あなたの世界ではどちらが正しいと言われていますか?未来は、どうなっていますか?」
琉菜は一瞬黙りこんだ。
未来のことを聞きたくて、山南は自分を呼んだのだと合点がいった。
未来がどうなるか。
それは琉菜がこの時代に来た時に、迂濶にも近藤と土方に言おうとしたことだ。
あれから、その行為が歴史を変えてしまうかもしれない程の大間違いだということに気付いた。
琉菜は質問に答えようか迷った。
しかし、山南の最期の頼みである。
琉菜は、ゆっくりと口を開いた。
「何が正しいかは、人によって意見が違うと思います。あたしには、どっちが正しいとかわからないけど、新選組が正しくないとは思えない。未来で政治をしているのは、天皇でも幕府でもありません。あたしたち国民なんです。そして…外国では、まだ戦争をしている国もあるし、日本だって殺人事件とかもあるけど…それでも、この時代みたいに人々が刀を持ち歩いて、町中でむやみに人を斬ることはありません。少なくともあたしの周りは平和です。毎日が、普通に過ぎていく。あたしの世界は…未来は、平和です。」
琉菜はじっと山南を見た。
山南は、生気を失ったような目で「そうか。よかった」とつぶやいた。
少し、気まずい沈黙が流れた。山南がその沈黙を破った。
「琉菜さん、もう行きなさい。」
「…はい」
琉菜は立ち上がって、部屋の戸を開けた。
「あ、琉菜さん」
呼び止められて、琉菜は振り返った。山南は、シンプルなデザインの簪を差し出して言った。
「もし明里に会ったら、この簪を渡してくれないか。ずっと預かっていたのだが…返す時が来たようだ。」
「わかりました」
琉菜は簪を受取り、山南に背を向けて1歩歩いた。
「琉菜さん」
再び名前を呼ばれ、琉菜は山南を見た。
「どうか、達者で」
「…山南さんも、お元気で。」
琉菜は部屋を出て戸を閉めた。
まるで、単純に山南が遠くへ引っ越してしまう直前のような会話だった。
しかし、それが琉菜と山南が交した最後の言葉だった。
その夜、山南は帰らぬ人となった。