第九十二話 ロゴス(言葉)(2)
この当時、ソフィストというのは、現代で言うような“哲学者”とは少し違う。
彼らソフィストは、古代ギリシャのみならず、ローマ帝国においても政治、経済、文化、法律、宗教、そして何よりも“教育”に関して多大な影響を与えていた人々だった。
本来、ソフィストというのは、ギリシャ語で“ソフィア”(=知恵)、または“フィロソフィア”(=知恵を愛する)という言葉に基づき、古代の宗教思想(=迷信)によって呪いや魔法、霊の仕業といったもので“理由もなく”結論づけてきた自然の働きや人間の思考・感情・行動について“その理由をより正確に、分かりやすく、順序良く説明できる”よう研究し、それを“論理的な知識”としてまとめる学問、つまり自然科学(もしくは、単に科学)を教える教師のことだった。
例えば、それまでは人類の起源に近いはるか昔から伝承されてきた神話や伝説に基づいて、星や太陽の動きを人間が勝手に“想像して”「神様の気分次第で何となく変わるんだろう」とか「神々や精霊が怒ってやったことだ」とか、日食や月食といった自然現象を「呪いの兆候だ」などと解釈してきたが、ソフィスト達はこの考えや方法を改め、緻密かつ詳細な観察や分析を取り入れながらもっと正確な理由を探り、それを“彼ら独自の言語で持って”きちんと世間の人達に説明しようとしたのである。
これが“ソフィズム”と呼ばれる、ギリシャ(西洋)哲学の始まりであり、彼らソフィスト達の学究姿勢が、今日に至る世界の人々の知識や技術、自分達の住む社会への理解を深め、お互いを発展させていく“教育方針”(方向)に繋がったことは言うまでもない。
この学問は、後世になるとさらに細かく分かれていき、長々とした言葉で書くよりも数字や記号にして自然の法則をもっと簡単に言い表そうとする数学や、天体や自然現象をより緻密に観察して説明する天文学や物理学、人間の思想や概念、行為などを技巧の凝らした言葉で表そうとする哲学や文学、お金や物の流れをある法則にして説明する経済学など、実に様々な学問分野へと発展していったのだった。
(ただし、誤解が無いようここで断っておきたいが、ギリシャ以外でもエジプトや中国、メソポタミア文明などにおいて既に文字と同じように数学も天文学も広まっていて、迷信から脱却してより深遠な“理性”(=reason、自身の感情や周りの状況に流されず、正しい理由(=道理)でもって物事を理解したり、判断しようとする能力)を持とうとする自然科学そのものの概念は、ギリシャ(西洋)のみならず、世界中どこでも存在していたので、決してギリシャ(西洋)だけがフィロソフィア(智慧を愛する)人種だった訳ではない)
しかし、その一方で、ソフィズム(哲学)は、全ての事象や現象(要するに出来事や形、状態など)を必ず“言語”(文字だけでなく数字や記号も含む)にて証明もしくは表現しようとする学問だったので、次第にソフィスト達は“ロゴス”(ギリシャ語で「言葉、論理、真理」の意)そのものに固執するようになっていった。
そのため、BC(紀元前)6世紀~5世紀初め頃は、「万物は数である」と謳い、ピタゴラスの定理(注1)を編み出した数学者のピタゴラスや天文学から日食を預言したタレス(注2)、宇宙と生命の起源について論文を書き記したアナクシマンドロス(注3)やアナクシメネスが活躍し、主に天体や自然現象を研究するコスモロジー(宇宙学)色の強い学問だったが、その後、「ロゴスは火、または闘争である」としたヘラクレイトスや「真理の道」(注4)を説いたパルメニデス、そしてその愛弟子ゼノンによって、今度はレトリック(ギリシャ語で「修辞学」の意。または雄弁術)を中心とする学問へと大きく変わっていった。
この頃から、ソフィズムは様々な観察や分析を織り交ぜながら飽くまでも自然現象を探求していこうとする人々と、ひたすら言語上で人間の思想や概念、行為などを(時には自然の働きも)論じ合って何らかの答えを導き出そうとする人々とに分かれるようになった。
ただし、ソフィスト(科学者や哲学者)達が、わずらわしいほどロゴス(言葉や論理)にこだわったのは、何も学問上、必要不可欠だったというだけではない。
実際のところ、彼らソフィスト界(いわゆる“学界”)を生んだギリシャという国そのものが、常にロゴス(言葉や論理)によって左右されていたからだった。
ギリシャは、地球上の氷河期が終わり、農作のできる土地やその技術の広まりと共に人類がアフリカや中東から次第にヨーロッパへと拡散していった新石器革命(BC12,500年頃)の頃から、今は広大な氷床が溶けて海になり、大部分の土地が海に沈んでエーゲ海の島々になってしまったが、それらの土地を中心に同じく農耕を営んで一つの地域に人々が定住していき、そこで文字(言葉)や道具を使って共同社会を築く“文明”(=Civilization)が徐々に花開くようになった。
そのため、まだ島はなく、地続きだったBC1万年頃から、現在のペロポネソス半島にあるフランチティ洞窟やクレタ島のクノッソスなどにその面影が残るキクラデス文明やミノア文明が興り、そこからさらにクレタ、トロイア、ミケーネと文明はもっと細かく分かれていき、人々はそうした文明群を通じて次第に農業や畜産業、商業、工業、壁画を描いたり、音楽を奏でるといった芸能業など、いろいろな職業や社会での役割を作るようにもなっていった。
だが、そうやって人々がたくさん集まってきて同じ地域に住むようになると、どうしてもお互いの能力や努力の差を競い合う“競争心”、その結果による慢心、嫉妬、劣等感なども生まれるようになる。
例えば、聖書の中で最初に都市(=city)を築いたとされるカイン(カインの名前の意味は「槍(暴力)で何かを得ようとする人」)も、元々は木の実をもいだり、野生の稲などを刈って収穫する農民だったのだが、それに対して弟アベル(アベルの名前の意味は「虚栄心」)は牛や羊などを飼って加工する畜産業を営んでいた。
むろん、この世にたった二人の兄弟といえど、競争心や嫉妬心が生まれない訳ではない。
自分達の労働の出来(結果)を示し、神への感謝を表そうと二人がそれぞれ捧げた作物や供物を見て、神はアベルの働きを大いに誉めた(つまり、成果に差ができた)。
そのことからアベルは慢心し、カインは嫉妬から弟を憎んでとうとう彼を殺してしまった。
その後、罪を犯したカインは肥沃な土地から追い出され、もっと過酷な労働を強いられる痩せた土地へと移住していき、そこで都市(city)を築くようになったとされている。
ギリシャもまた、様々な文明群において人々が集まり出し、一つの土地でコミュニティー(共同社会)を築くようになると、やはりカインとアベルのように互いにその能力や仕事の成果を競い合うようにもなった。
何より、農業という仕事は人手や肥沃な土地が最も必要とされる為、悪を知った人々の中には他の人達よりもっと肥沃な土地や労働力となる子供を産んでくれそうな女達を求め、多勢の暴力でもって元々、住んでいた人々を追い出したり、殺したり、女達を強姦したり、あるいは弱い人々を奴隷にして自分達の代わりに農耕(労働)させるといった“軍事力”を持つようになり、その軍事力の差で次第に部族王(=Tribal chief)や酋長(=Chief)といった身分や地位をも作るようになっていった。
とは言え、そうやって奪い合ったり、殺し合ったり、お互いの田畑(仕事の成果)を荒しまくって競い合っても結局、収穫=食糧&人手は減るばかりで何ら得することはない。
そうして誰もが争い(戦争)に疲れだし、一人、また一人と、自分達の醜い争いに疑問を持つようになり、お互いどうしたらいいのか考えた末、彼らが出した答えは自分達の収穫(仕事の成果)をコミュニティー(共同社会)の中で平等に“分け合うこと”だった。
ただし、それはギリシャに限らない。
世界中どこだろうと、人が家族やコミュニティー(共同社会)を築くようになった頃から“分け合う”という心(精神)は、絶えず培われてきていた。
だから、氷河期の名残で氷床がまだ地球上に残っていた頃は、人々は天然の冷蔵庫として地面に穴を掘ってそこに貝や魚、狩猟で獲った動物の肉などをそのまま並べたり、自分達が作った土器やその他の品物も一緒に保存したりして、狩猟や漁業での収獲が芳しくなく食べ物に困る際はその貯蔵庫から少しずつ“分け合って”その生を永らえていたのである。
(その遺跡が日本では“貝塚”(=Shell mound)と呼ばれるものなのだが、まだ氷河期についてあまりよく知られていなかった19世紀の考古学以降、貝殻や動物の骨といった食糧の跡が地中から大量に発掘されるせいか“ゴミ捨て場”と勘違いされ、再考されないまま現代に至っているが、実際、今でも氷床のあるグリーンランドやカナダ、アラスカに住むエスキモーの人々が地下に貯蔵庫(=ice cellar)を作っていることからしても、氷河期の人類も同じように地面に穴を掘ってそこを食糧の貯蔵庫にしていたと思われる)
しかし、地球の温暖化が進むと魚や貝、動物の生肉などを保存していた地下の貯蔵庫(ice cellar)がもはや使えなくなり、麦などの農業技術の広まりから今度は地上に建物を建ててアベルとカインが行ったように神への感謝と農業には欠かせない天(太陽や雨などの自然)の恵みを請う為、神に捧げる供物として自分達の収穫(食料や道具といった仕事の成果)を一か所に集めるようになった。
それが神殿の始まりであり、また、お互いの収穫を分け合う、つまり、税金の始まりでもあった。
だが、それでも争いは止まない。
このお話の中でも前述した(第42話『神聖』を参照)通り、モーゼや古代ヘブライ人達が砂漠を彷徨っている間、お互い“分け合って”生きていこうと思っていても、誰かしら自分の取り分を不当に多くしようとしたり、独占しようとしたり、あるいは相手を騙して奪おうとしたりといった我儘で強欲な人達によってコミュニティー(共同社会)そのものの平和や秩序がかき乱されることがままある。
ギリシャもお互いに収穫(仕事の成果)や能力を公平・公正に競い合いながら、これまた、お互いの(平和と秩序の)為にその利益の一部を分け合おうとする一方で、そうした我儘で強欲な人々に振り回されてもいた。
しかも、兄弟姉妹、夫婦や親子、親戚同士の骨肉の争いやほんのちょっとした小競り合いなどはどうしても見過ごされがちで、それが日々、繰り返されて行くうち、お互いの心労を生み出し、引いてはカインとアベルのような深刻な殺人事件に発展したり、集団になると再び戦争(内戦)にもつながることになる。
特に農業の場合、土地の広さによって収穫(食糧)にも差ができやすくなるため、縄張り争いは頻繁に起きやすく、これを収めることがまず、必要だった。
そこで、彼らもまた、モーゼ達が行ったようにお互いにロゴス(言葉)でもって話し合い、ロゴス(言葉と論理)でもって“何が正しいのか、何が間違ってるのか”のルール(法律)を作って何とか自分達のコミュニティー(共同社会)の平和や秩序を保とうと努力した。
もちろん、これも人類が誕生し、文明(civilization)が地球上のあちこちで興って以来、同じようにしてきた事で、武力(暴力と無秩序)でもって自分達が認める仲間だけの安全を確保し、常によその地域の人々を襲って利益を奪い盗り、集団を恐怖心で統率するか、あるいはロゴス(言葉と論理)で形作られた法律(正義心と秩序)の下で自分達の仲間だけでなく、他の地域に住む人々も含めて誰だろうと隔たりなくその生命と尊厳を守ってまとめるか?
常に人類はこの二択に迫られてきた。
そして、後者を選んだおかげで、自らが社会でその生命と尊厳を保って生きるという権利(=right)が生まれ、汗水たらして耕した土地を所有する土地所有権(=property right、財産権)が認められ、また、それを自分の子孫に与えたり、受け継がせられる相続権(=inheritance right)をも保障されるようになった。
だからこそ、現代の私達が今尚、数千年も前のメソポタミア文明におけるウルカギナ法典(BC24世紀頃)やウル・ナンム法典(BC21世紀頃)、ハムラビ法典(BC18世紀頃)など(注5)を目にすることができるのであって、言葉によるルール(法律)や契約、約束こそ、神が地球に住む全人類に与えた平和と秩序を保つ為の智慧であり、救いであり、愛だった。
だが、それでも人はその神の愛が分からず、しつこく神(善)を裏切ろうとする。
何とかして“自分だけ”の欲を満たそうと今度はそのロゴス(言葉や論理)をねじ曲げ、嘘をつき、自分の悪意をロゴス(言葉や論理)の裏に潜ませてそれを善(神)にすり替え、結局、自分もろとも多くの人を騙して傷つけ、苦しめていく・・・。
人々の言葉に流され、モーゼや古代ヘブライ人達が神からその良心に与えられたはずの法を次第にねじ曲げていったように(第42話参照)、ギリシャも様々な部族が入れ替わり、立ち替わりする中で当初はコミュニティー(共同社会)の平和や秩序を保つ為に作られたはずの法律も、そうした様々な人々の思惑によってその目的からどんどん離れていくようになっていった。
そうなると、法律を守る人と、守らない人との間でまた、争いが起きるようになる。
一部の人達には都合がよくてもその他の人々にとっては理不尽で不公平な法律なら、無論、守る気すらも失せていく。
また、法律という言葉の下で弱い立場の人や、その法律そのものをよく知らない人々を虐めたり、騙したりすれば、法律そのものへの信頼も薄れていく。
こうして、争いを鎮めて互いに苦難においては食糧(財産)を分け合って生きていこうとして定めたはずの法律が、なぜか今度は逆に人と人とが殺し合う原因にもなっていった。
というのも、ギリシャは当初、法制度が既に整っていた中東やエジプトなどに倣い、武力(暴力)に走りやすい男達に徒党(軍)を組ませないよう軍資金(味方への分配食糧)の資源を抑制し、代わりに武力の犠牲になりやすく子孫を産む女達を手厚く保護すると共に血の繋がった親戚同士が縄張りを確保できるよう、土地所有権(=property right)を女が相続できるようにして、土地を相続する女と結婚した場合は婿となる男も花嫁の“持参金”(=dowry)としてその権利を共有できるよう法律を定めていたからだった。
しかも、この当時は現代のような一夫一婦制はなく、男も女も多重婚社会だったことから争いはもっとこじれることとなった。
(ただし、多重婚については別に性欲にかられて行っていたというよりも、あくまで土地を守る為に兄弟姉妹、いとこ同士といった親戚間でお互いの配偶者を交換し合って子孫を作る近親結婚が多く、よその土地の者と結婚する場合は女は持参金を、男は花嫁代償(=bride price)を支払ってお互いの資産を守りあうようにしていた)
つまり、男も女も一人の配偶者を(性的に)裏切らずお互いに永続的に尽くし合うという夫婦倫理にかなり欠けていた。
そのため、土地相続権を持っている女が既に近親間で結婚していてもよその土地の男とも結婚できてしまうため、結婚した男が女の持っている土地権利を主張して女の親戚とまた、縄張り争い=戦争が起きるといったこともしばしば起こっていた。
そうして、皆が働いて得た食糧(税金)を集め、保管する神殿に仕える僧職や巫女などがその食糧(税金)を皆に配分する事で権力を持ち、(そのせいで古代の王権には必ず神話がつきまとう)その権力でもって収獲(税金)分担を増やしたり、払えなければ債務(借金)を負わせてその代わりに食糧を生み出す土地そのものを奪い盗り、所有する土地を増やす一方、その僧職や巫女の子孫達がそれらの土地を相続するようになると、それぞれが結婚する相手によって今度は土地所有権を巡っての戦争が起きるという、一体、何の為に法律を作ったのか訳が分からなくなるような事態にまでなっていった。
そんな時、一人の女を巡って現在のギリシャとトルコの地に住んでいた人々が真っ二つに分かれて争う大戦争が勃発した。
それが世にいうトロイア戦争(Trojan war)(年代については今のところ、BC14世紀からBC12世紀辺りに起こったとされている)である。
この頃には、ギリシャを地続きにしていた氷河期の氷床などはすっかり溶けてなくなっていて火山活動も活発化し、そのせいで大部分の土地が海に沈んで陸地として残ったのは、現在、私達が目にしているエーゲ海の島々だけだった。
その事も災いしてか、一人の女が持つ土地所有権がギリシャの地に住む人々の最後の命の砦でもあった。
スパルタのヘレナ、後にトロイアのヘレナとも呼ばれるが、元は現在のペロポネソス半島にあったミケーネ文明(王朝)下のスパルタ王の娘だった。
そして、親戚の一人であるミケーネ王の息子メネラウスと結婚し、既に子供までいた人妻だった。
だが、スパルタのヘレナは欲をかいたのか、それとも純粋に現アナトリア半島にあったとされるトロイアの王子パリスに恋をしたのか、ある日、突然、彼と駆け落ちしてしまった。
この駆け落ちがギリシャの地を大きく揺るがす事となった。
なぜなら、ヘレナこそがスパルタ全土一切(ギリシャの大部分の富)を握っていたからである。
ヘレナが“この世で最も美しい人”と称えられた所以はここにあった。
つまり、ヘレナがパリスと結婚することはヘレナがトロイアの土地権利を共有できるだけでなく、パリスもまた、ヘレナの持つスパルタの土地を支配できる権利を持つことになる。
無論、同じ土地に住む近親者同士で結婚を繰り返し、一つの民族という意識も芽生え始め、さらに海にどんどん浸食されて行く土地をどうにか守り抜こうとしてきたギリシャの人々にしてみれば、ヘレナの勝手な駆け落ちはまさしく自分達の生命(食糧)の源を外国人に奪われるようなものだったに違いない。
こうして10年にも及ぶ大戦争がエーゲ海を挟んで繰り広げられ、その間、“トロイの木馬”(注6)の名で知られる世界初(?)の装甲車とおぼしき新型兵器も導入され、その戦闘は熾烈を極めた。
それまでにもミケーネ王朝(文明)下で訳の分からない法律に縛られ、どんどん税(食糧)分担を増やされて借金を背負わされた挙句、いつの間にか身分を貶められて自分達が汗水垂らして耕していた土地(財産)を次々とヘレナ達のような王族に奪われた名もない人々(一般庶民)や、ドリア人と呼ばれる北方地域に住んでいた周辺部族の人々などが戦争のどさくさに紛れて我先に土地(財産)を奪おうと、この争いに勇んで参加したからだった。
後にギリシャ神話において、ギリシャの主神であるゼウスが地球の人口を減らそうとしてこのトロイア戦争を起こしたと言い伝えられている通り、この大戦での死者は相当な数に上り、国土は荒廃し、トロイアもミケーネ王朝(文明)も滅亡した。
そして、生き残った人々が戦争難民として地中海沿岸地域や北アフリカなどに逃れていくようになると、ギリシャ本島を中心に“ポリス”と呼ばれる大小の都市国家が乱立するようになった。
“古代ギリシャ”とはすなわち、このトロイア戦争で生き残った人々が大戦の教訓を胸に、『もう二度と、あのような悲惨な戦争を繰り返さないでお互いに助け合って生きていこう』としてそれぞれの考えや理想に基づいたポリス(都市国家)を築き、その各ポリス同士が連立して覇権を握り合い、地中海交易においてお互いに同盟を結んだり、植民地を増やすことでその勢力を拡大していった“連合国家”(現代で言えば、国連のようなものだろうか)のことを指している。
そのため、同じくポリス(都市国家)としてローマが建国されたばかりのBC8世紀頃には、ギリシャは既に本土だけでなく、クレタ島を始めとするエーゲ海の島々、アナトリア半島(現在のトルコ)にまで広がり、さらにBC5世紀頃になると、マッシリア(現在のフランス南部の都市マルセイユ)などのプロバンス・コートダジュール地方や、スペイン北部、イタリア南部やシチリア島、チュニジア、エジプトなどの北アフリカ地域にもギリシャ系のポリスや植民地が点在するようになった。
(ちなみに、連合国家とは言え、彼らにはトロイア戦争以前に言語を一つにしていた民族としてのアイデンティティー(自覚)はあったので、ギリシャ人、もしくはギリシャ語を母国語とする人々を“ヘレネス”、あるいは“ヘレニスト”、それ以外の外国語を話す人々を“バルバロイ(野蛮人)”(注7)と呼んで区別していた。
なお、この“ヘレネス”(=Hellenes)という言葉がどこから来たのかと言うと、氷河期の氷床が溶けて陸地が海に沈んでしまったギリシャでは、聖書の中の“ノアの箱舟”(注8)と同じように、ギリシャ神話においてもゼウス神が起こした大洪水の際、デウカリオン王とその家族は箱舟に乗っていて助かったという話が伝承されており、そのデウカリオン王の息子の“ヘレネ”から来たものだと言われている。
古代ギリシャ人達はこの“ヘレネ”を自分達の祖先とし、自分達をヘレネの子孫、つまり、“ヘレネス”(=Hellenes)と呼んでいた。)
しかし、時が経ってこれだけ勢力が広がっていき、人口も増え、同盟国や植民地が続々と生まれてくるようになると、どの国や社会であっても人類の歴史は何かお定まりのようにしてまた、人々は傲慢になっていき、もはやあの悲惨だった戦争の記憶など薄れてしまい、再び人種や経済、価値観の違いによる確執を起こすようになる。
トロイア戦争以降のギリシャもその例外ではなく、小ポリスであったマケドニア王国から踊り出たアレクサンダー大王が全ギリシャを統一するBC338年までは、異なる政治体制を敷いたポリス同士が何とかあの、『もう二度と、あのような悲惨な戦争は繰り返さない』という戦後の誓いに基づいた条約や同盟を結び、互いの経済や文化、国力を守りあって発展していこうとするか、あるいはそんな誓いなど捨て去って互いに軍事力を競い合い、相手を植民地にしてしまうまで戦うかのどちらかだった。
こうした事情から、BC5世紀頃より有力ポリスの一つであったアテネに住む貴族の子女達を中心に、ソフィズム(哲学)において使われている言葉、特にレトリック(修辞学または雄弁術)が注目されるようになった。
と言うのも、レトリック(雄弁術)を身に付けておけば、政治や法律の場において、同盟諸国を説得し、議論において有利な権益を引き出したり、ポリス内では市民に向けて演説して自分の法案をアピール(売り込む)したり、また、戦争の際には人々の戦意をロゴス(言葉)によって鼓舞することができるからだった。
それに元々、戦争避難民や移民によって各ポリス(都市国家)を築いてきたギリシャでは、市民の平等意識が根強く、ポリスの多くは直接民主制を採っていた。
(ただし、社会的な格差や身分が無かった訳ではない。)
そういった政治体制の点からも、レトリック(雄弁術)は一つの有効な政治手段となったのである。
それゆえ、その習得の為にギリシャの貴族や有力者達は大金をはたき、ソフィストを家庭教師に雇ったり、弟子(生徒)として入門するようにもなっていった。
もちろん、ソフィスト達の方も“賢者”として世間から高く評価されるには、レトリック(雄弁術)に長けていなければならない。
だからこそ、彼らもまた、議論の上で誰よりも優位に立てるロゴス(言葉や論理)の鍛錬に励むようになったのである。
そうして、この傾向がさらに強まると、ソフィスト以外にも、“オーラトル”(ラテン語で「話し手」の意。現代で言うオーラル・メソッド、つまり「発音」や「声の響き」を主眼においた話術を教える教師、またはそれを駆使する演説家)や“グラマリアン”(ラテン語で「文法家」の意)といった、いわゆる“言葉を上手く操る技法”だけを専門に指導する教師なども現れるようになっていった。
ところが、こうしたロゴス(言葉)、特にレトリック(雄弁術)を偏重する傾向には大きな落とし穴があった。
と言うのも、ロゴス(言葉や論理)そのものの形式に強くこだわれば、当然、耳に心地の良い話や立派に聞こえる言葉などが生まれるようになるだろうが、間違った仮説や憶測のような“事実でないこと”、つまり、“嘘”を証明するためにそういったロゴスを駆使すれば、それは「黒を白と言いくるめる」といった“ごまかしのロゴス”、“詭弁”が生まれるようになってしまう。
そのため、特にソフィスト(哲学者)達をもてはやしたアテネでは、巧みな弁舌を利用し、金だけを目当てにした似非ソフィストや犯罪をうやむやにしようとするインチキ弁護士、政治においては大衆を操って不当な法案や政策の支持を得ようとするデマゴーグ(民衆扇動家)などが徐々に出没するようになっていった。
そんな時、突如としてアテネに現れたのがソクラテスという男だった。
(注1)
“ピタゴラスの定理”とは、別名、三平方の定理とも呼ばれ、図形や空間について考える数学(=幾何学)において、直角三角形の三つの辺は直角を挟んだ二辺それぞれを二乗して足すと、斜辺を二乗した長さに等しくなるという法則をBC6世紀頃のソフィスト(自然科学者)だったピタゴラスが証明(論理的に説明)したものである。
元々はエジプトや中東、中国でも既にその法則は知られていて、ピラミッドの測量技術や天文学などに使われており、さほど珍しくもない説だったのだが、ギリシャではちょうどソフィズムが流行だったため、ピタゴラスがこの法則を提唱したことでさらにソフィズムへの関心が高まった。
以後、“ピタゴラスの定理”は数千年を経て現代にまで重要な数学の法則として伝承され、山の高さや田畑の面積、建築における測量はもちろん、今では自分の位置を示してくれるGPS機能(global positioning system)や、車の走っている地点が分かるカーナビ(car navigation system)などに応用されている。
(注2)
タレスは、ピタゴラスと同じBC6世紀頃のソフィスト(自然科学者)で、最初にギリシャにソフィズムブームを巻き起こしたのは、彼がソフィズム専門の学校を創設したからである。
エジプトで測量技術の基礎である幾何学を学んだタレスは、その知識を天文学に活かし、太陽や月、天空の星々と地球の関係性や距離を測って日食の法則を突き止めたと言われている。この他、「半円に内接する角は直角である」という“タレスの定理”を証明したり、また宇宙の起源についても研究し、地球の気象変動によって大地が海に沈んだ歴史を持つギリシャ人らしく、水が万物の要素と提唱した。
(注3)
アナクシマンドロスもアナクシメネスも、タレスが創設したソフィズム専門の学校、ミレトス学校(ミレトス学派とも呼ばれる)の出身者で、タレスと同じく二人共、宇宙の起源について研究したことで知られている。
特にアナクシマンドロスは、地球の形状が筒状もしくは輪状になっていて、地球は空気中に浮いており、その筒や輪の周りを月や太陽がまわっているとした天動説(?)を初めて書き記した人として知られている。
アナクシメネスは万物は水から作られるとしたタレスの教えから自然観察を繰り返し、雨や霧などを見て水から空気が作られている事を発見し、万物を構成している目に見えない元素について研究した。
(注4)
ヘラクレイトスはBC5世紀のソフィスト(?)で、「自然について」という彼の本がその当時、ブームになったことからその名が知られるようになったが、その後、下火になったようで出版され続けることが無く、後世における読者(それでもAD3世紀頃)からその内容を伝えられるのみだが、その内容も完結していないらしく、いろんなソフィスト達が提唱した宇宙の起源やら、政治の話、神学についての学説などを寄せ集めただけで、それ以外は自分の学歴の高さや独学での努力を自慢する一方、『ヘシオドスやピタゴラスは人から学んだ割には何にも分かっておらず、詩人のホメロスやアルキロコスは死に値するレベル』とまで言ってのけ、他のソフィストや詩人作家達を批判しまくっていたことから、まさしく彼の言葉は火であり、闘争だったのだろう。
また、「真理の道」を説いたパルメニデスも、ヘラクレイトスと同じ題名の「自然について」という本を書いたが、こちらはクセノファネスという67年間、ギリシャ各地を旅して歩き、当時、あらゆるソフィスト達に影響を与えたとされるBC5世紀頃の吟遊詩人を真似て全て詩で構成されている。
宇宙についてというよりどちらかというと神学に偏っており、万物の存在について説いたもので、一つの命題(判断事項)に対し、“有る”(肯定論)、“無い”(否定論)の二つの論を挙げてそれを自問自答しながら考えていくという今日の哲学の手法は、パラメニデスの手法から生まれたもののようである。
そして、その手法によって得られた真理とは「無いものは無い(存在しないものは元から存在しない)」という言葉だった。
その愛弟子ゼノンは、パラメニデスが開いたエレア学校(エレア学派)の出身者で、師の手法である、自分の論(意見や考え)を“有る(肯定論)、無い(否定論)”でもって結論へと導く哲学手法をさらに深め、その論に理由(reason)を付け加えることで多勢の憶測や偏見、常識に偏って判断されがちな結論をひっくり返す逆説(=Paradox、パラドックス)の手法を生み出した。
例えば、「アキレスと亀」の話はゼノンの有名な逆説の一つだが、アキレスという足の速い男が100m先から走る足の遅い亀と競争したらどちらが勝つか?というもので、多くの人は足の速いアキレスが勝つと思いがちだが、ゼノンはこれを“論理”(=Logic、ロジック)を用いて全く逆の結論にした。
“なぜなら、亀は100m先から走るという約束なので”、アキレスがどれだけ早く走ってもその一歩毎にその約束はついて回り、亀は必ずアキレスより100m先にいることになるため、結局、いつまで走っても100mの差は埋まらないというものである。
このように、ゼノンは自分の論(意見や考え)に根拠(=evidence、理由や証拠)を加えることで、結論をより真実(真理)に近づけさせられることを証明してみせた。
ただし、アキレスと亀の競争については、実際には走る前だけ100mの差を設けられても、走り出したらもはや差を設けることは不可能なのでこの理屈は非現実なものでしかない。
つまり、いくら理由をつけて「これも論理です」と主張しても、事実にそぐわない理由や結論に無理やり自分の論(考えや意見)をこじつけるような理由を付け加えてしまうと、それは逆に真実(真理)から程遠くなる。
これが屁理屈、もしくは詭弁と呼ばれるものである。
(注5)
ウルカギナ法典(BC24世紀頃)は、これまでに発掘された遺跡の中で世界最古の法典と言われるもので、メソポタミアのシュメール文明(王朝)の頃にラガシュ(現イラク南部のテル・アル・ヒバ)という都市国家において作られた法典である。
特徴的なのは、行政改革を行った事が記されており、先王(もしくは前リーダー)の腐敗した政権を倒して新たな王としてウルカギナ(ウルイニムギナという名前も存在する)が立ち上がり、僧侶や大地主達の権力を抑制し、孤児や未亡人には税金を免除すると言った条項が書かれている。
ただし、女性の土地所有権を50人から1500人に拡大させたり、自分の妻シャシャを女王(女神に仕える巫女長)にするなど手厚く女性の権利を保護する一方、慣習だった女性の多重婚制を石打ち刑でもって厳しく廃止しようとしたが、彼自身が元々、多重婚によって先王の妻と結婚して王になり、その政権転覆で先王の息子を隣の領土に追いやっていた為、その息子が報復としてウルカギナの二番目の妻シャシャと結婚し、その妻の裏切りにより先王の息子に領土権を主張されて戦争となり、結局、ウルカギナも別の領土に追いやられ、行政改革もとん挫した。
ウル・ナンム法典(BC21世紀頃)もシュメール文明(王朝)下で作られた世界最古の法典と言われているが、こちらはウルカギナ法典と違い、法律を公文書としてまとめた粘土板が発掘されたことから世界最古の“法文書”とされている。
この頃になると戦争(縄張り争い)の種になっていた多重婚制度を厳しく処罰する制度が出来上がっていて、むしろ、女性の不倫や姦淫(多くの男性と性交渉すること)を殊更、強く処分する制度になっている。
例えば、夫のある女性がよその男と姦通した場合、女性だけが死刑になる決まりになっていたり、不倫の疑いを掛けられた妻は川に沈められる拷問を受けて自分の身の潔白を証明しないといけなかったりと、女性への処分がかなり差別的になっているように思えるが、その一方で、結婚前の処女を強姦した場合は、罪を犯した男は死刑になったり、妻と離婚したい場合は、夫は必ず慰謝料を支払うようにも定められていたので女性を全く保護していなかった訳でもないようである。
その260年後に作られたハムラビ法典(BC18世紀頃)は、これまで解読できた法典の中で最も古い法典であり、ウルカギナ法典もウル・ナンム法典もシュメール語で書かれているのに対し、ハムラビ法典はこれまで公用語として重用されてきたシュメール語に代わってアッカド語で書かれた世界初の法典である。
つまり、言語によって政権が変わったことを示す貴重な法典でもある。
恐らく、シュメール文明(王朝)下での政治腐敗が進み、それによって少子化などで人口減少が起き、さらに戦争避難民や経済的な移民などが増えていったことでシュメール語を日常、話す人よりも、シュメール語と周辺部族の方言が合わさったアッカド語を話す人が増え、一つの国家において法律を伝えるにはもはやシュメール語よりもアッカド語の方が伝えやすかったからだと思われる。
ちなみに、言語学上ではアッカド語はセム語派と呼ばれる言語グループに属し、セム語派は現在、アラビア語やヘブライ語、アルメニア語といった諸派に分かれていっているが、今尚、世界で3億3千万人以上が話す主要な言語でもある。
しかし、ハムラビ法典の内容を見る限り、国家における混乱は依然、続いていたようで、有名な条項の一つである「目には目を、歯には歯を」の暴行罪に対する処罰の他に、窃盗や強盗、詐欺、殺人、父娘相姦、乳母による児童虐待など凶悪犯罪を死刑や拷問でもって罰する条項が多く、それだけ犯罪が横行していたことを伺わせ、ウルカギナ法典における孤児や未亡人の税免除のような行政改革の恩典などは一切、書かれていない。
また、この頃から土地相続において、母親が相続権を性別に関係なく自分が育てた子供達に分配することができ、かつてのように女性だけが土地を相続するといった慣習は徐々に改められていったようである。
ただし、依然、女性の権利はかなり強かったようで、結婚後、価値観が合わず、女性側に何ら責められるべき理由がない場合、女性側からでも離婚してもいいことになっており、女性の持参金も返還される決まりになっていた。
また、男性側が離婚したい場合は、よほど悪妻だと世間から認められない限り、男性側は必ず慰謝料として妻の持参金を返還しなければならず、これは現代と変わらない決まりになっていたようである。
(注6)
“トロイの木馬”とは、現代ではコンピューターウィルスの代名詞みたいになっているが、元は木馬に似せた城壁を破る為の兵器のことである。
トロイアは、現在のアナトリア半島の西側にあるエーゲ海岸沿いのヒサルリクという地域にあったとされ、その地形からも分かるようにトロイアもギリシャと同じように海に脅かされる土地でもあった。
恐らく、氷河期の終わり頃から氷床が溶けて地続きだった土地が海に沈んでいっただけでなく、地震や火山活動も活発になり、海からの津波や洪水も頻繁に起きていたと思われる。
その為、都市を城壁(堤防)で囲う必要があったのか、発掘された遺跡からも高さ5m以上、厚さ4.5mぐらいの石灰岩(現代のセメントの原料)でできた城壁の跡が見つかっており、海からの侵入者を見張る物見櫓や弓矢などで城壁から攻撃を仕掛けられるようにもなっていたようである。
つまり、トロイアを陥落させるには弓矢の攻撃を避けながら城壁を破らなければならず、その為にギリシャ軍は巨大な木馬を建造し、その木馬の中に精鋭のギリシャ部隊を潜ませ、“巨大な木馬を後方から押して弓矢の攻撃を避けながら、城壁(堤防)をうち破ったもの”と考えられる。
その様子については、後世のギリシャの詩人ホメロス(実在の人物かどうかは謎だが)やローマの詩人ウェルギリウスなどが描いているが、彼らの頃になるともはやトロイの木馬(装甲車)がどういう兵器なのか想像できなかったらしく、単にギリシャ兵が木馬の中に隠れていた事が勝因だと伝え聞いていたのもあって、彼らの作品の中では、ギリシャ軍は木馬をトロイアの城壁前に残して撤退したと見せかけ、勝ったと勘違いしたトロイア軍が残された木馬を戦利品だとして自分達でわざわざ街中まで引っ張っていったことになっている。
(注7)
バルバロイ(=barbaroi、ギリシャ語で『野蛮人もしくは異国人』の意。英語ではbarbarian、バーバリアン)の語源については諸説あり、トロイア人達が話すメソポタミア文明から派生したシュメール語やアッカド語などの言葉をギリシャ人達が初めて聞いた時、「ヴァル、ヴァル」という発音が耳についたため「ヴァルヴァルという言葉を話す人」という意味から転じたものと言われている他、シュメール語やアッカド語を話す人達が住む地域が当時、バビロニアだった為、その地名から来ているとも言われている。
ちなみに、聖書の中で共通の言葉(方言)を話す人々が徒党(軍)を組んで高い塔(要塞)を作り、戦争(残忍な殺戮)でもって地上(世界)を支配しようとするのを神は見て心配し、そうした悪意のある人々が同調することでますます悪事が拡がらないよう彼らの言語(方言)を互いに違えさせたという“バベル(ヘブライ語で「混乱」の意味)の塔”の話はこのバビロニアで起きた事とされている。
実際、そのバベルの塔の遺跡として残っているのが、 “ウルのジグラット”(BC21世紀頃)(アッカド語では「ウルに建てられた高い建物」の意味でしかないが、シュメール語ではエ・テメン・ニグウルと言い、「その礎から恐怖を創り出すウルの神殿」という意味になる)
と呼ばれる長さ64m、幅45m、高さ30mの階段式ピラミッド型神殿で、現在のイラクのナシリーヤ市ウルに現存している。
前述のウル・ナンム法典を作ったウル・ナンム王が建て始めたものとされていて、遺跡の高さは今では30mほど(ビルなら7~8階ぐらい)しかないが、その上にもっと別の建物があったらしいので実際の高さは分かっていない。
神殿は月の満ち欠けを読んで農業を行うのにちなんでか、月の神ナンナ(アッカド語ではSin、シン)を祭り、代々、僧侶(王)である父や夫と共に巫女(王女)達が絶大な権力を振るって圧政を行い、戦争も頻繁に起こし、そうした政治腐敗から戦争避難民や周辺部族の流入を招いてまさしくバベルの塔の話の通り、シュメール語からアッカド語へと国家の共通言語が混乱しながら変わっていったようである。
後に聖書におけるモーゼの時代(BC15世紀頃)になると、そうした戦争(残忍な大量殺戮)や政治腐敗(堕落)を“良し(善)”として人々に教え広め、多くの人々を不幸にして国家を衰亡させた彼らバビロニアの宗教(教え)の主神シン(Sin)を真実の神(善)への冒涜とみなし、彼らバビロニア人達をバルバロイ(野蛮で凶悪な犯罪者もしくは集団)と呼ぶようになり、また、そこから英語のSin(=大罪、冒涜)の語源にもなっていったとも考えられる。
いずれにせよ、ギリシャ(西洋)人達が自分達の住むエーゲ海沿岸地域から東に位置する中東地域に住む(東洋)人達をバルバロイ(野蛮人もしくは外国人)と呼んで蔑んだり、敵意を持つようになったのはこのトロイア戦争以降となる。
(注8)
“ノアの箱舟”は、旧約聖書の創世記6章~9章に描かれた地球の氷河期の終わりの様子を伝える話であり、神は人間が結婚して子孫を増やしていくにつれ、どんどん悪事を重ねていくことに心を痛め、とうとう人類を含めて地球上の生物全てを滅亡させようと決意するところから始まる。
だが、たった一人、ノアという男だけは神の心に適った思いやりのある人だったらしく、彼は神に教えられた通り、箱舟を作り、鳥や野生動物のオスとメスをそれぞれ選んで自分の家族と一緒に船に乗ったことで生命を救われる。
そして、地球の氷床が溶け出して大洪水になり、氷床の上に住んでいた人類は野生動物達と共に氷河などに押し流されて滅んでいく。
その後、洪水が引いて新たな陸地が出現し、ノア達、人間の家族と野生動物達はそこから再び地球上で子孫を増やしていくことになる。
― 主は、ノア達が調理した供物から漂う美味しそうな匂いに満足し、
その心に誓った。
『二度と、人間のせいでこの地上を呪ったりしない。
たとえ、人間が幼い時からその心に悪意を抱いていても、
わたしは二度と、地球上の生物をこのように全滅させたりしない。
地球が存続する限り、
種をまく時期、収穫する時期、
寒い時期、暑い時期、
夏や冬、
昼や夜が止むことはない。』
(創世記8章21-22節)
― 神はノアと、ノアの子供達に仰った。
『さぁ、今こそ、わたしはお前達と“約束”しよう。
お前達、人間の子孫達と、
地球上のあらゆる生物達と、
わたしはお前達、地球にいる全ての生物と“約束する”。
もう二度と、洪水によってあらゆる生命が滅ぶことはない。
もう決して、洪水が来て地球が崩壊することはない。』
さらに、神は仰った。
『これがお前達、お前と共にいるあらゆる地球の生物達との約束の印だ。
今後、あらゆる生物の子孫達との約束の印でもある。
わたしが空の雲に虹をかける時、それがわたしと地球との約束の印だ。
いつであろうと、わたしが雲を立ち昇らせ、
その雲に虹が見える時、
それはわたしがお前達、地球に住む生物達とした約束の印だ。
わたしはその虹を見る度にお前達、人間と地球に住むあらゆる種類の
生物達との約束を思い出す。
それは永遠の約束だ。
決して二度と、お前達、全ての生命を滅ぼすような津波や洪水など起きない。
地上から昇る雲の上に虹がかかるのを見る度にわたしは忘れない。
これこそ、神とこの地球上のすべての生物達との永遠の約束の印だ。』
(創世記9章8-17節)