表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
91/148

第九十一話 ロゴス(言葉)(1)

エルサレム神殿へのパレードのような参詣さんけいを終えた翌日、ラザルスの屋敷の前は相変わらず、人の波は引かないようだった。



それと言うのも、死者復活を始めとしたイエスの奇跡話はその年、一番の話題トレンドニュースの一つでもあったし、ペサハ(過ぎ越しの祭り)のためにエルサレムへ続々とやって来る巡礼客達にとっては、べサニー村がちょうどエルサレム神殿に行くまでの途上にあったことから、どうやら村に立ち寄ってイエスを見に行くことがこの年における祭りの催事イベントの一つか、もしくは現代で言うなら流行りのマスコットキャラクターのいる観光名所のように思われているみたいだった。




むろん、この当時、インターネットもなければ、テレビやラジオもない。

この時代のソーシャルメディアネットワーク(Social Media Network、大衆情報交換伝達網)とは、もっぱら“ロゴス”(=Logos、元はギリシャ語のLego「わたしは言う」の意味が転じて、言葉、意見、論理、言い訳、演説、宗教もしくは政治的声明、宣伝ロゴなどの意味を持つようにもなった)によるものだった。



だが、これは現代と何も変わらない。



人が人と共に築く社会にいる以上、言葉が交わされ、言葉が文字や数字に変換され、言葉が絵や記号、デザインになり、言葉によって知識や技術が教えられ、言葉でそれらを習い、言葉を物や形、サービスにして仕事を作り、言葉と共に友の輪を広げ、言葉に魅せられて人を知り、恋をして結婚し、言葉でもって子供を育て、言葉を通して家族や周囲の人々と信頼や協力の絆を結び、言葉を聞いて政治に参加し、言葉を掲げて国や政治が動く。



だから、インターネットやテレビ、ラジオ、携帯電話にパソコンといった様々な情報交換機器コミュニケーションツールはなくても、イエス達が生きていた時代もまた、様々な手段や道具を使って多様な“ロゴス”(情報)があちこち飛び交っていた。






その最も簡単で迅速な手段は今も昔も変わらない、“噂”である。



(日本語で“噂”という漢字の語源は『口を尊ぶ』、つまり、酒樽を手で持ち上げるようにして口(人の言葉)をたたえるというイメージから生まれた漢字。


英語はGossip、語源は中世時代の“Godsibb”『(キリスト教洗礼儀式における)名付け親』(注1)という意味の言葉から転じたものである。キリスト教の洗礼において名付け親になれば、必然的に子供はもちろん、その家族の素性、恥部に至るまですべての事情に通じることになるため、子供の名付け親になった女性達がそうした他人の個人情報プライバシーを井戸端会議で広めやすいため生まれた言葉と思われる。


ラテン語はRumusculus、語源の意味は『田舎臭ダサい小さなネズミ』である。


ギリシャ語ではDiabolosディアボロス、『悪口を言う人』という意味だが、キリスト教ではこのディアボロスを『悪魔』という意味に使われる。聖書の中でアダムとイブが蛇に誘惑されるシーンがあるが、この蛇をキリスト教の教義においては悪魔もしくは堕天使と“想像して解釈し”、イエスの登場以降、聖書の原語がギリシャ語になっていったため、Diabolosディアボロスを『悪魔』と訳すようになった。


ヘブライ語はRekhilut、語源は『商人が情報をあっちこっちで拾って広める』という意味の言葉が転じたものである。もしくはLashon haraともいうが、こちらの語源は『悪意のある舌』という意味で、特に悪口や悪い噂のことを言う)




噂による情報拡散は、実はインターネットよりずっと早い。

何せわざわざ接続しなくてもその場ですぐに知ることができ、しかも、自ら語彙ごい(word)を検索する必要もなく、その話題に興味があってもなくても必ず聞こえてきて、さらにその話題に興味を持った人ならたちまちその話をまた、別のところへ喜んで運んで行ってくれる。


しかも、この当時、人々はありとあらゆるところで噂を聞くことができた。


まず、朝、髪や髭を整えに床屋(理髪店)へ行けば、顔見知りや常連客から何らかのニュースや噂話を聞かされるし、さらに職場に行けば、当然、同僚や上役が何か言ってくる。

さらに、仕事が終われば、ローマ人は誰でも公衆浴場に行くので、そこでもまた、噂話に花が咲く。

特にローマ人にとって公衆浴場は、あらかた貴賤きせん(身分)や性別を問わず誰でも入浴できる場所だったため(ただし、子供は入れない)、時には金持ちで身分の高い政治家が庶民の人気取り(票集め)のためにやってきて話をすることもあれば、そういう政治のお堅い話を敬遠してちょっとつやっぽい話を聞きたければ男女混浴風呂にでも行けばよかった。


その上、ローマの公衆浴場は温水、冷水、サウナといった様々なお風呂が設けられていたため必然的に浴場にいる時間は長くなる。

しかも、公衆浴場はお風呂だけに終わらない。

図書館もあれば、ジムやプールにマッサージ室、寸劇や音楽を奏でられるステージ会場、絵画や噴水、様々な彫刻などが飾られたアートギャラリー、マッサージに使う香油などが売られている売店、さらにはレストランや少し歩けば居酒屋まで備えられているまさしく総合レジャー&リラクゼーション施設だった。

(ちなみに、日本の公衆浴場の壁面に富士山の絵などがよく描かれるが、この浴場の壁面に絵を描くという趣向は、ローマの公衆浴場でもよく行われていて、そこで描かれていたのはもっぱら木々や花々、鳥をあしらった牧歌的な風景画が多く、また、天井にも星々が輝く天空が広がっていて、ずいぶんと豪奢ごうしゃな装飾が施されていたようである。その他、公衆浴場はこの当時、“テルマエ”の名で知られる国が運営する施設だけでなく、“バルネア”と呼ばれる民間の公衆浴場も至る所で建築されており、中には男女混浴を主にしている公衆浴場だと性的サービスも行われ、そういった施設だと壁面には男女が絡み合う猥褻わいせつなポルノ画がよく描かれていた。)


そんな猥雑わいざつな場所にそれこそローマ中、しかもローマ帝国(世界)の至る所に必ず公衆浴場はあったのだから、シルクロードを通じてやってくる東方の商人や留学生、観光客などの外国人も含め、地球上のほとんどの人間が毎日、集まってくるわけで、そこで交わされる噂話を聞かないはずはない。


だから、別にインターネットやテレビ、ラジオはなくてもこの当時の人々は十分、世界中の情報に通じることはできていたのである。



それに加えて、彼らの識字率も高かった。


それゆえ、公衆浴場に図書館が併設されているのであって、この当時、学校制度や習い事のような私教育プライベートエデュケーションはほぼ、富裕層の子女のみに限られていたが、それでも共和政時代の度重なる戦争が終わってパックスロマーナ(ローマ帝国の平和な時代)が訪れると、庶民(中流階級層)の多くが次第に経済的に豊かになると共に自由を謳歌するようになり、奴隷を含めた一般庶民も明日の成功を夢見ていっそう教育に力を入れるようになった。

そのため、学校制度がまだ庶民レベルにまで浸透していない時代であったにも関わらず、巷で近所の人や家族、職場の雇用主や同僚などに教えてもらったりして、庶民は庶民なりに独自に文字や数字を学習していった。

何より、“その経済発展がもたらした商取引の拡大”により、庶民は自分達が生活する上でお金を稼いだり、あるいは食料や物品、サービスを買うにはどうしても文字や数字を習う必要があったからである。


そして、彼らの生活に欠かせない情報交換道具コミュニケーションツールとして登場したのが、手紙による郵便制度と携帯型の“蝋板”(ろうばん)だった。



人が人に文字(手紙)を送るという行為そのものは、文字の起源といっても差し支えない。


だが、そこに別の人が仲介して文字(手紙)を送ってくれる郵便制度メールサービスとなると、古くは今から約4000年前の中国やエジプトにさかのぼるらしい。

元々はエジプトのファラオや中国の王が勅令ちょくれい(人々に法律を広める)の為に使者を立ててお触れ書きの粘土板や石板を各地に運ばせたということから郵便が始まったと言われているが、今のところ、その根拠となるような考古学的な遺物は何も見つかっていない。

(ならば、聖書に出てくるモーゼも神が人間に宛てて書き送った十戒の石板を運んできた天の使者(天使、メッセンジャー)なのだから、彼が人類史上初の郵便屋さんだったかもしれない・・・)

ともかく、現在の考古学的な見地からすれば、最も確証的な郵便制度として名高いのは、BC5~6世紀頃のアケメネス朝ペルシャにおいて敷かれていた“チャアパ・カーネー”(Chapar Khaneh、ペルシャ語で「宅配所」の意)と呼ばれる郵便制度だろう。

全長約2699km、アッシリアやバビロニア、アケネメス朝ペルシャといったメソポタミア文明で興った数々の古代王朝の頃より受け継がれ、シルクロードにも通じる王道(Royal Road、古代から高速道路として有名だったことから『学問に王道(最短・最速の道)無し』といった諺や隠喩に使われるようになった)が、現代の南イランのスーサからギリシャに近いトルコのサルディスまで整えられ、その王道に沿って配達人の為の替え馬や水・食料の補給場所として111か所の宅配所チャアパ・カーネーを設けることで、当時、徒歩で片道90日かかるところをなんと7日で走破していた。

そのため、当時よりギリシャの歴史学者ヘロドトス(BC5世紀)が「ペルシャの郵便配達屋ほど死ぬほど早いものはない」と称賛したぐらい、その郵便制度は早くて確実、しかも雨だろうと雪だろうと、夜だろうと走ってくれたそうなので、それこそ現代の情報網に匹敵するぐらい大量の情報が東と西の国際間を行き交っていたことになる。

その証拠に、聖書の中のエズラ記にもこの当時、国際郵便インターナショナルメールが頻繁に飛び交っていた様子が記されている。

それは、バビロニア帝国によって滅ぼされ、捕虜とされてきたユダヤ人達がアケネメス朝ペルシャのキュロス王にその虜囚を解かれてようやく独立が許され、再びエルサレムの地に神殿と都市国家を築こうとしていたのだが、当時、バビロニア帝国時代からユダヤ人と同じように支配されてきたサマリア人達はこれに反発し、自分達はペルシャ帝国の連合国として納税も貢納もしてきたが、ユダヤ人達が独立したら納税も貢納もしなくなり、帝国の税収は減るだろうと言って彼らの独立を阻止しようとキュロス王を始めとしてその後、代々の王達とも何度もこの件について書簡をやり取りした記録が残されている。


このように、アケネメス朝ペルシャ時代に確立した郵便制度は、「全ての道はローマに通ず」とその道路整備の技術の高さを後世に謳われたローマ帝国にも引き継がれ、ローマの皇帝アウグストゥスは“アンガリア”(ギリシャ語およびラテン語で「特使」という意味。英語ではAngaryとなり、今では“軍事徴用権”を意味し、交戦国が中立国に住む人達の財産を戦闘の為に接収・使用する権利のことをいう)という、公的な郵便物を運ぶ使者に対し、帝国内に住む人間は皇帝以外、必ず替え馬などの補給を行う義務があるとする郵政徴用法まで定めて“キュルスス・ピュブリクス”(ラテン語で「公道」の意)と呼ばれる公的郵便制度を構築した。

彼が遺したこの郵便制度キュルスス・ピュブリクスはその後、600年近く機能し続け、郵便物以外に人や税収、貢納品を運ぶ交通および物流ネットワークとしてもローマ帝国と属州地域(世界各地)を結ぶ重要な制度となり、その情報経路の広大さときめ細やかさは既にAD1世紀には作成されていた“タブラ・ペウティンゲリアナ”(注2)と呼ばれる中国から北アフリカに至るまでの道路および海路を描いた世界地図にも伺える。

(ちなみに、日本でもAD7世紀にローマやペルシャの郵便制度をそのまま模した“駅伝制”を敷いていたが、紀元前のペルシャの郵便屋さんが北海道から九州まで縦断する距離(約2600km)を7日間で走ったのに対し、日本は飛駅と呼ばれる速達便でも一日約160km程度しか走れなかったらしいので、情報伝達の速度においては日本の方が倍以上かかっていたことになり、はるかに遅れていたことは否めない。

ただし、そんな緻密に発達した情報および物流ネットワークも結局、運営していく人々の意識や倫理観モラルが低下するにつれて次第にすたれていき、公的な特使でも何でもないのに属州地に住む有力者や役人の家族などが旅行に行く際にアンガリア(徴用権)を行使して無料ただで自分達の馬車の替え馬や飲み物、食料の補給を行ったり、配送途上で輸送品などをくすねる横領や窃盗なども相次ぐようになり、さらに辺境地での治安も悪化していったことから、ローマ帝国初期だとアウグストゥスの後継者と目されていたガイウス・カエサルが地中海沿岸地域のリュキアという小さな町で死んだ時は、1か月かそこらでそこから約2100kmも離れたローマ中にそのニュースは既に広まっていたのに、2世紀頃にローマ皇帝となったペルティナクスの即位の知らせはローマの食糧を運ぶ穀物船が行き交う定期航路があったにも関わらず、エジプトのアレクサンドリアに届くまでになんと2か月以上もかかるようになっていた。

そのため、6世紀にはローマ帝国の衰退と共にこの郵便制度キュルスス・ピュブリクスも経費の増大や人手不足、信頼性の欠如から一部を除き、大幅に解体されるようになってしまうのである。)



こうして、文字ロゴスを送る郵便制度とその情報及び物流ネットワークが早く便利になっていくと、それに伴った情報伝達道具コミュニケーションツールも生まれるようになり、その道具の一つとして当時、彼らローマ人達の間で最も流行した商品が“タブラ”と呼ばれる蝋板ろうばんだった。



蝋板ろうばんは、木枠の中に蝋の板をはめたもので、そこに“ステュルス”(現代だとスタイラスの名で知られている)という鉛筆のような先の尖った棒で文字を書き、書いた文字も不要になればステュルスの上についているヘラで削ったり、蝋板そのものを火にあぶって蝋を溶かせば文字が消せる仕組みになっていた。


大きさは大体、現代のノートパソコンか大き目の携帯電話の画面スクリーンぐらいで、いつでもどこでも手軽に文字が書けて(ただし、かなり器用かつ力を要するが)、持ち運びに便利だったことと、パピルス紙や羊皮紙(注3)よりも湿気やカビ、腐食に強くて簡単に文字が消えない利点があったことからローマ帝国中で大流行した。

ただし、蝋板そのものは既にBC14世紀のメソポタミア文明においてアッシリア帝国や広く中東地域にも使われていたらしく、ローマ人達が発明したものではなかったが、そうした歴史的事実が発掘された数々の蝋板から読めることからして、いかに蝋板が壊れにくくて書かれた文字が消えにくいかを数千年後の私達に証明できるほど画期的な商品だった。

しかも、逆に文字を消そうと思えば簡単に消せて、何度も繰り返し書けるのだから、庶民にしてみれば紙を買うよりも安価で使いやすく、学校に行けない庶民が文字に親しむ上でもかなり便利な文房具だった。


そして、この蝋板タブラが進化して、板の表と裏の両方に文字が書けるようにしたり、板の枚数を増やしたり、さらに蝋板の代わりに紙そのものをじて使えるようにしたのが“コウデックス”(ラテン語で「木の幹」、「木の塊」の意、英語ではCodex)、現代の私達が手にしている『本』(=Book、Block of Wood「木の塊」が省略されてBook「ブック」になった)の始まりだった。



こうしたことから、ローマ人達は貧富の差に関係なく、仕事上でもプライベートでも本を読んだり、文字や数字を書くのは日常茶飯事で、それこそローマ帝国中(世界中)、至る所で手紙や本、蝋板タブラが頻繁に飛び交っており、その上、床屋でも浴場でも毎日、他人と顔を会わせて嫌でも話さなければならないのだから、彼らローマ人達の読書や会話による情報量は現代並み、いや、それ以上に多かったに違いない。



それゆえ、言葉ロゴスそのものもそうした大量の情報を伝えるためにどんどん進化していった。


そこで彼らが編み出した言葉ロゴスが省略した言葉、つまり略語(=abbreviation)である。


その最たる例が“SPQR”と刻印されたローマ貨幣が存在することであり、SPQRとはSenātusセナトゥス PopulusQueポピュリュスク Rōmānusロマヌゥスの頭文字をとった略語で、「議員と人民によるローマ」、つまりは、『この国は人民によって選ばれた議員と人民のための民主主義の国、ローマ帝国です』と宣伝する、今でいうロゴマークである。

この他にも、手紙で使う“SVBEEV”(Si Vales, Bene Est, Ego Valeo、「お元気で」)とか、“SPD”(Salutem Plurimam Dicit、「拝啓」)など、こうした言葉ロゴスによる知恵と工夫が彼らローマ人達の間だけでなく、現代の私達の間でのソーシャルメディア(社会における情報交換)の共有シェアにも今なお、活かされ続けているのである。



だが、そうした様々な道具や知恵により大量の情報ロゴスが氾濫する一方で、それらの情報ロゴスを発信する方も受け取る方も、お互いの意識や倫理観モラルが低下していくと、情報一つ一つを精査したり、見極めようとする力もどんどん弱まっていき、最後は緻密で複雑な真実や正しい知識も闇に葬り去られていくことになる。

それが実はこの後、イエスの身に起きた一連の出来事とその生涯、さらには彼の弟子達の生涯をも、多くの人々が流す噂や本、手紙などによるソーシャルメディア(大衆情報交換)の渦に巻き込まれ、次第に真実が闇に葬り去られていくようになるのである。






そして今、イエスを見にベサニー村にやってくる客達もそうした噂によるロゴス(情報)に踊らされ、真実のイエスとはかけ離れた“偶像”(アイドル、憧れや妄信、崇拝の対象)を追ってやってきた人々であることは確かだった。


そのため、イエスの弟子達は、そうやってひっきりなしにやってくる客達の対応やペサハの準備などに追われ、昨日のような暗い気分に浸っている暇はなかった。

イエスも、真面目に自分の話を聞きに来た人であろうと、好奇心だけで彼に会いに来た人だろうと、誰とでもきちんと会うつもりだったし、その日もエルサレム神殿で話した同じ説法をラザルスの屋敷でもやるつもりだった。


だから、誰もが屋敷中を駈け回っているかのようにバタバタとしていて忙しかった。


そんな最中、フィリポが偶然、応対した客は、ギリシャからやって来たというソフィスト(哲学者)達だった。

彼らがイエスを訪ねてきたのはもちろん、イエスにまつわる噂もあったかもしれないが、昨日、彼らも偶然、エルサレム神殿に居合わせていて、イエスの説法を聞いたからだった。

実は彼らはこの時、イエスの将来に大きな転機をもたらそうとしていた。




(注1)

“名付け親制度”は、その始まりは定かではないが、3世紀頃のディオクレティアヌス帝が土地税や人頭税を増税するようになったことから農奴制(第八十七話 母の願い(1)あとがき(注釈1)を参照)が強化され、さらにローマ帝国初期(AD1世紀)の志願兵制度も法改正されて一般市民が一定期間、兵役に就くことが義務となる徴兵制となり、キリスト教徒に改宗したコロヌス(農奴)達の間では、徴兵期間中もしくは戦死するなどした後、残された子供や家族の面倒を村や地域で見てもらえるよう、近所に住む同じキリスト教徒のコロヌスに子供の名付け親になってもらうことで自分の子供と家族のパトロン(保証人、または支援者)としての約束を交わす目的に生まれた制度である。

この名付け親の制度により、一つの村や地域の中でお互いの家族の情報を共有し合うため、その地域での庶民同士の結束力は高まるのだが、その一方でお互いの行動や人生そのものを監視することもできるようになるため、村の掟=キリスト教そのものから逸脱した意見や行動、価値観を形成することなど到底できなくなり、また、村の掟(キリスト教)以外の知識や考え、価値観を持とうとすることは、自分を含めて家族全員を村や地域から孤立させ、最悪の場合は迫害や私刑リンチ、それに伴う虐殺をも招きかねないため、人々は次第にそうした脅威や権力、暴力を恐れて個人としての人格や能力、思想、権利などを手放すようになり、理不尽と思っても逆らわず隷属して、中世以降、そうした庶民(農奴)の隷属度の高さから専制君主制を敷くヨーロッパ(旧ローマ帝国)の各地域でキリスト教が国教となっていくと、人々は誰も自分を知らない人がいない狭い村や地域内で安住する一方、ますますお互いを監視しあって暮らすようになっていった。


(注2)

“タブラ・ペウティンゲリアナ”(Tabula Peutingeriana)は、別名“ポインティンガー図”とも呼ばれ、ローマ帝国時代にローマとつながっていた世界中の道路と海路、時にはその観光名所などを記した長さ6.75m、高さ0.34mの世界地図であり、13世紀の東フランスの修道僧によって原本が複写コピーされ、それが16世紀のドイツの人文学者コンラッド・ケルテスとその友達で当時、建設大臣だったコンラッド・ポインティンガーに発見され、その名にちなんでポインテインガー図と名づけられている。

残念ながら原本は既に紛失し、現存しているのは13世紀にコピーされたものしかないが、それでも地図に記されている全部で555都市以上、3500カ所以上の地名のうち、AD79年のヴェスビィウス火山の大噴火までローマ帝国の中心的な都市として数えられ、その災害後、二度と復興されることなく、人々の記憶からも遠ざかっていたポンペイの名が載っていることからして、原本そのものは既にAD1世紀には作られていたと見られている。

その後、AD328年に建設されたコンスタンティノープルの地名もあることからこの複写版もおそらくAD4~5世紀にコピーされたものであることも分かっている。

驚くことに、この地図にはインドのスリランカ諸島や中国の存在も記されていて、AD1世紀から4、5世紀までのローマ帝国がいかにグローバル(地球規模)経済大国だったかがしのばれる。



(注3)

“羊皮紙”は、羊やヤギ、牛の皮などを伸ばして文字が書けるように加工した紙のことをいい、英語でParchment、ラテン語ではPergamenumと呼ばれ、古代ギリシャのペルガモン図書館にちなんで名づけられたと言われている。

一説によると、古代最大の図書館だったエジプトのアレクサンドリア図書館に対抗して、ギリシャのペルガモン図書館がパピルス紙以外の蔵書を誇ろうと、羊皮紙を発明し、その蔵書を多く扱ったとされているが、その説は古代における都市伝説か雑学の類と思われる。

古代ではエジプトで主に生産されていたパピルス紙が広く流通していたが、エジプト以外の気候の土地だとパピルス紙はひどく傷みやすかったため、羊皮紙もよく用いられていた。

しかし、羊皮紙自体も、その材料となる動物の皮そのものに傷や斑点、疾病などの箇所があると筆記用としてはあまり役には立たないので、そうした選別や加工に手間がかかり、パピルス紙よりも高価であることは否めなかった。

最高級の羊皮紙だとParchmentとは呼ばず、Vellum(ラテン語ではVitulinum「子牛の皮製」の意)と言い、子牛の白い皮だけで作られるが、それ以外は様々な種類の動物の皮で作られていたり、紙に厚みがあることから最初に書いた文字を削って再利用していたものなどもあった。

そのため、時には公文書が改ざんされていたこともあったらしく、聖書もその例にもれず、特に羊皮紙ペルガモンに書かれて出版されることが多かったラテン語やギリシャ語の新約聖書は、ローマ時代以降、改ざんされて伝承されてきた傾向があり、書写本によって文章があったり、なかったり、名前がバラバラに書かれるなど、明らかに“人の手により”改ざんされてきた痕跡を今なお、目にすることができる。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ツギクルバナー
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ