第九十話 分かれ道(2)
「ナサニエル、お前がそこまで言うんだったら、俺も正直な気持ちを話すよ。
本当のことを言えば、俺は最近、迷っている。
他の弟子達も先のことを心配しているが、そうなったのは何よりイエス先生が一体、どういう人なのか皆、よく分からなくなってきたからだ。
俺も入信して間もない頃は、先生の宗派はよその宗派とは違う、戒律、戒律って人の自由を縛り付けるような儀式や教義なんかもうるさく言われることがない、すごく革新的だし、ああ、なんて楽なんだろうって思ったよ。
だけど、先生は説法以外、何もしないから他の宗派の連中だけでなく、信者達の中からも最近じゃあ、しょっちゅう言われるんだ。
『一体、あの先生は何をしてるんだ?』って。
まるで俺達が全然、働いてないようにも言われるから、やっぱり説法だけじゃ駄目なのかなって思ってさ。
それで、慈善活動の話が来た時、それをすれば、俺達の宗派もちゃんとした宗派だってことが皆に分かってもらえるだろうし、実際、困っている人達の為にもなるって思ったんだ。
それに、俺達の慈善活動が知られるようになった途端、それまでは説法を聞いてくれなかった人達も聞きに来てくれるようになったし、寄付もしてくれるようにもなった。
だから、ちゃんと皆の為に一生懸命、働いている姿もはっきり見せないと、誰も俺達を信じてくれないんだってことが分かったんだ。
皆が思っているように、俺も今、イエス先生が一体、何をしたいのかが分からない。
俺達の心を立て直すたって、一体、どうやったら立て直せるって言うんだ?
これだけ擦れて荒んじまっている世の中を、あの先生が一生懸命、説いて廻ったって誰も見向きもしないじゃないか。
俺は、他の弟子達のようにイエス先生に奇跡ができるなんて、そんなおとぎ話を信じちゃいない。
だったら、最初から先生が奇跡か魔術かして、俺達の“腐った心”を一遍に変えてしまえばそれで済む話だ。
だが、現実はそうじゃない。
先生の話を聞いて、怒って石を投げてくるファリサイ派やサンヘドリンの連中が先生を狙ってすぐそこまで迫ってきているし、貧しい人達を暴行してまで税金をふんだくる異教徒のローマ兵やその配下の連中がますます富んでふんぞり返っているような世の中だ。
それを先生は説法だけでどうにかしてくれるって言うのか?」
「トマス。お前、何か飛んでもない勘違いをしているんじゃないのか?
なんでイエス先生一人がそこまで世の中、全ての責任を取らなくちゃならないんだ?
こんな世の中になったのは全部、イエス先生のせいなのか?
主は、俺達、一人一人には何の知恵も力も与えてくれなかった、愛や信頼というものを生まれてから一度たりともその心に教えてもらったことはないとでもお前は言うのか?
そうじゃないだろう。
俺達は、ちゃんと授けられながら、ちゃんと教えられていながら、それでも一人一人が何となくやろうとせず、知っていても知らない振りをし、気づこうとせずについ犯してきた、そういったお互いの過ちや失敗がいろいろと折り重なって、今の世の中になったんじゃないのか?
そうして、主が与えてくれた愛や信頼、人の心を大切にするよりも、神殿や寄付金、目に見えるものや形ばかりを信じて崇め、多少、誰かを傷つけようと、影では裏切ろうとも、『まぁ、仕方がない』、『それほど悪いことをしたんじゃない』とさらにやり過ごしてきた結果が、お前の言う、“これだけ擦れて荒んじまった世界”になったんじゃないのか?
それをどうにも自分達の手に負えなくなったからって、その全ての責任をどうしてイエス先生一人が背負い込まなきゃならないんだ?
“なぜ、イエス先生一人が全ての人達がやった過ちを償わなきゃならないんだ?”
“お前、それが正しいことだって思うのか?”
俺達、一人一人が、誰かや何かのせいにして、自分達がやった不始末やら思い通りにいかなかった責任をすべて天におられる主に押し付け、メシア(天から遣わされた救い主)か誰かに都合よく尻拭いしてもらおうって考えることは、本当に良いことなのか?
俺は、そもそもその考え自体が間違いだったって、今じゃそう思っているよ。
だけど、あの先生は、誰もが匙を投げたくなるようなこんな荒んだ世の中でも、それでも尚、あきらめずに一人で頑張っているじゃないか。
ほとんどの人達が口先だけでまともには信じようとしなくなった愛や信頼、主を畏れる心を何とか取り戻そうと、石を投げられても、皆から馬鹿にされても、それでも尚、あの人は一生懸命、俺達、一人一人に愛(神)を伝えようとしているじゃないか。
俺は、少なくともあの先生の言葉に嘘、偽りはない、ちゃんと主の精神が宿った“真実の心”から出たものだって信じているよ。
だから、あの先生は誰に助けてもらえなくても、今は誰に認めてもらえなくても
『きっと神は私達、一人一人の心や行いを見てくださっている。
必ず、主を信じる人達には愛と安らぎ、平和と幸せが訪れる』
と信じて、主(善)に希望を持ってサンヘドリンやファリサイ派、その他、いろいろと意地悪してくる連中にも一人で立ち向かっているんだ。
なのに、お前は、皆の言うことは信じても、あの先生の言っていることや今までやってきたことは信じられないって言うのかっ?!」
けんか腰のようなナサニエルの言い方に、トマスは慌てて首を振った。
「そうじゃない、そうじゃないって!
俺だってイエス先生が好きだし、あの先生を信じたい。
だけど、やっぱり迷う気持ちが消せないのはどうしようもないんだ。
俺だってサンヘドリンのやり方は間違っていると思っているよ。
あいつらが先生に仕掛けてくることは、理不尽すぎて腹が立つことばっかりだ。
でも、イエス先生一人が国を牛耳っている連中に歯向かったところで、それこそどうなるっていうんだ?
先生がやっていることは、あまりにも無謀すぎる。
どう考えたって無茶だし、却って先生が傷つくだけだ。
俺は、・・・俺は先生を死なせたくないだけだ」
「先生がやっていることのどこが無謀なんだ。
先生は“本当のことを言っているだけ”じゃないか。
それをサンヘドリンのお偉方が気に入らないからって、先生を殺そうとしているんだぞ。
その方がよっぽど主をも畏れぬ非道ってもんだろ!
お前はこれを間違っているって思わないのか?
こんなこと、いつまでも許していていいのか?」
ナサニエルはかなり興奮し、思わずトマスの胸ぐらをつかんで言った。
すると、フィリポが慌てて二人の間に割って入った。
「やめろよ、二人共っ!落ち着けよ。
こんなところで二人がケンカしても仕方ないだろ。何にもならないよ」
フィリポの仲裁に、ナサニエルはバツが悪そうにトマスから手を放した。
トマスもナサニエルの怒りに戸惑ったらしく、何も言えずに下を向いていた。
「フィリポ、お前はどうなんだ?
イエス先生のこと、どう思っているんだ?」
ナサニエルは、うつむいているトマスから目を離し、今度はフィリポの気持ちを確かめるように質問した。
「・・・俺は、・・・俺は、まだ分からないよ。
イエス先生の言っていることもそうだけど、他の弟子達や皆の意見もちゃんと聞いてからでないと、すぐにどっちが正しいかなんて俺には決められない」
フィリポはそう言って、トマスと同じようにうなだれた。
そのフィリポの様子に、ナサニエルはちっと舌打ちして、むしゃくしゃした気持ちを外で吐き出そうとそのまま部屋を後にした。
部屋に残されたトマスとフィリポは、ナサニエルが出て行ったドア(注1)を見つめると、二人共、ため息をついて再び考え込んだ。
トマスは、腕枕をして寝床にひっくり返り、じっと天井を見つめたままだったし、フィリポは椅子にへたり込み、自分の足元を見つめて考えていた。
さっきナサニエルに気持ちを聞かれた時、実はフィリポの答えは既に決まっていた。
だが、長年の親友であり、これまで絶対的な信頼を置いてきたナサニエルにそれを打ち明けることなど、フィリポにはできそうになかった。
正直なところ、フィリポ自身はイエスについていくことをあきらめたくなっていた。
それは別にトマスやペトロ達の意見を聞いたからではなく、フィリポはもう、あの洗礼者ヨハネの弟子だった頃の自分には戻りたくなかった。
あの時もそうだった。
ヘロデ王の再婚について強く意見したヨハネ先生が突然、逮捕され、そして殺された。
あんな事を言わなければ、あれほど強くヨハネ先生がヘロデ王やその他の権威者達を糾弾しなければ、今も先生は生きていたかもしれない。
俺達だって、こんなに苦しまなくても良かった。
そしてまた、イエス先生は同じ事をしようとしている、ヨハネ先生と同じ間違いを・・・。
俺はもう嫌だ。
あんな悲しい思いをするのも、また一からやり直さなくちゃならないのも、もうご免だ。
確かに、俺がイエス先生の弟子になるようナサニエルをつい誘ってしまったが、だけど、俺にはもう限界なのかもしれない。
こんな惨めでみっともない暮らしにはもううんざりだ。
毎日を脅かされ、人からも蔑まれ、明日をもおぼつかない、こんな暗く辛い生活はもう嫌だ。
ナサニエル、お前には悪いが、俺は抜ける。
イエス先生についていくのは、俺にはもう無理だ。
フィリポは、泥で汚れた自分の足の爪を見つめながら、そうして心の中でイエスを見限ろうとしていた。
だが、それはイエスだけでなく、親友のナサニエルをも見限ることになるのをフィリポはこの時、深く考えようとしなかった。
フィリポにとってナサニエルを見捨てるということは、イエスを見捨てるよりも身を切られるように辛いことだった。
だから、ナサニエルのことを考えないように、フィリポは何とかイエスの宗派を抜けるそれなりの理由というものを探そうとしていた。
こうして、イエスの弟子達もまた、イエスと同じように“生と死の狭間”に立ち尽くし、イエスが歩んでいこうとする道が“生へと続く道”なのか、それとも“死へと突き進もうとする道”なのかを見定められず、ずっと悩んでいた。
だが、その彼らの答えも、そろそろそれぞれの心の中で決まろうとしていたのだった。
(注1)
ドア(Door)は、古代の土着信仰において現世と来世を分ける場所と信じられていたこともあって、神殿や墳墓などで数多く使われており、聖書においてもソロモン王の神殿には(BC960年建立)オリーブの木を使った飾り扉が作られていて(1列王記6章31節)、扉の表面には花や天使、ヤシの木などが彫られ、金箔で覆われるなど、ドアの装飾技術や性能は古代からかなり進んでいた。
そのため、ギリシャ・ローマ時代になると、ドアの種類も増え、片開き、両開き、3重扉、引き戸、折り戸(あるいは、アコーディオンドア/フォールディングドアとも呼ぶ)といった様々な形態の扉も使われるようになった。
中でも、イエスとほぼ同世代で、AD1世紀頃にエジプトのアレクサンドリアに住んでいたエンジニアのヘロンは、蒸気エンジンもしくは蒸気タービン(蒸気機関)を使って神殿の巨大な扉を自動ドアにしたことで知られている。
ちなみに、このヘロンが使った蒸気機関は“アイオロスの球”(=aeolipile、ギリシャ神話に出てくる風の神アイオロスにちなみ、『風の神の球』という意味で名づけられている)と呼ばれる構造モデルが作られており、細い管を両側に取り付けた真鍮の球を軸で固定し、球の下に水を入れた容器を設置してそれを熱することで、軸を通じて球に水蒸気が送られ、その水蒸気が両側の細い管から放出される度に球が回転するという仕組みになっている。
このアイオロスの球の構造モデルはヘロンの他、BC1世紀頃の建築家ウィトルウィウスにも紹介されており、世界初の蒸気機関が誰によって、いつ発明されたかは残された記述もかなり少ないことから未だ謎であるが、それでも古代において既に発明されていた蒸気タービンは現代においては火力発電や原子力発電、船舶の動力などにも用いられ、今なお、彼ら古代人の知恵が現代における私達の生活(命)を支える源になっている。