第九話 師弟(3)
ナサニエルとしては、ヨハネがそこまで事の状況を見抜いていたかどうかは定かでなかったが、今度のことで戦争が起きれば、それでなくてもここ数年、急激な都市変化で疲弊していたユダヤの民達の心がますます荒むのではないかとヨハネが強く懸念していたことはよく分かっていただけに、師を心から慕っていたナサニエルは自然とヨハネの肩を持ったのだった。
だが、どんな理由にせよ、まさか政治批判したぐらいでヨハネが逮捕されるとはナサニエルも思っていなかった。
だから、今度の事はさすがにあまり気に病まない性格のナサニエルでもかなりの衝撃を受けていた。
同じくヨハネの弟子フィリポは、ヨハネの活動にまだ納得はしていなかったが、ナサニエルがそう言ってため息をつくのを聞いて、それ以上、質問するのをあきらめ、いっそう師のいない寂しさと先行きの不安を感じていた。
その時、ふと、目を上げると、一人の男が自分達に向かって歩いてくることにフィリポは気づいた。
「おい、あれはヨハネ先生が言ってた男じゃないか?」
フィリポが突拍子もなくそう言うと、
「え? どれ?」
と、ナサニエルもうつむいていた顔を上げ、フィリポが見ている方へと目を向けた。
「ほら、こっちにやって来るあの男。ヨルダン川で俺達の反対側にいた、あの男さ。
以前、ヨハネ先生のところに洗礼を受けにやって来て、先生と話したら、先生が偉く気に入っちゃってさ。
先生、あの男のこと、褒めまくってたじゃないか。
それに、その後、ヨハネ先生に対抗してあの男も同じ洗礼活動を始めたってことで他の弟子達がえらく怒ってさ、ヨハネ先生のところに直談判に行ったって話を聞いたよ」
フィリポは向かってくる男から視線をそらさず、隣にいるナサニエルにそれまでの弟子達の噂話を話した。
「ああ、あのイエスって男のことだろ? そういや、俺もそんな話、聞いたことあったな。
それにどうも、うちの何人かが抜けてあいつのところへ行ったってことも聞いたな。
ほら、お前と同郷の、あのシモンとか、アンデレとかってのもそうなんだろ?」
ナサニエルは興味なさそうにフンと鼻を鳴らすと、それ以上、向かってくる男を見ようともしなかった。
ちょうどその時、名前の挙がったシモンとアンデレは、実はフィリポと同じ町、ベサイダの出身だった。
ベサイダは、ヨルダン川の東、ガリレー海岸にある大きな居住地エ・テルに隣接した小さな町だった。
“ ガリレー海岸 ”は、正確にはガリレー“ 湖岸 ”と呼ぶべきなのだが、長さ21km、幅13km、一周りが53kmに及ぶこのイスラエル最大の湖のことを、古くから人々は“ ガリレーの海 ”と呼んでいた。
そして、このガリレー海岸にはヘロデの住むティベリウスやガダラ(現在、ウム・ケイスと呼ばれる)といった都市や町、村々が海岸沿い(または湖岸沿い)に数多く造られており、これらの都市や村々は古来よりヴィア・マリス(ラテン語で「海への道」の意)と呼ばれる道路に点在してエジプトやシリアといった地中海沿岸地域とアジアのシルクロードを結び、商品や原料を運ぶ交易の中継地として栄えていた。
また、自然の条件を生かした地場産業として漁業も盛んに行われていたため、ガリレー海(湖)上には常時、230もの舟が稼動するユダヤの一大漁場地でもあった。
ベサイダも、そういった漁業を主とする小さな町であり、シモンやアンデレ、フィリポも元々はみんな、漁業で生計を立てていた。
しかし、ヘロデ大王とその息子ヘロデ・アンティパスが急激に都市開発を行うようになると、地中海交易が盛んとなり、ガリレー海岸沿いに住む人の数が増え、それにつれて漁師の数もどんどん増えていった。
そのため、ガリレー海(湖)上における水産業は飽和状態になり、また地場産業そのものも都市経済の変化によって衰退していったのである。
そうして、それまでは生計が立てられた漁業も飽和状態になったことで段々、収入が少なくなり、若者達は次第にもっと収入の多そうな別の職を求めて隣接している大きな都市や町々へと次々、移っていった。
だから、アンデレやシモン、そしてフィリポもまた、そういった都会での成功を夢見て出て行く若者達の一人だった。
そして、そんな若者達がたまたま集まったところが、あのヨルダン川のヨハネのところだったのである。
当時、ヨハネの人気がすさまじかったこともあって、未来に希望を抱こうとする若い彼らの多くが集まったのはとても自然なことだった。
だが、そのヨハネがいなくなり、途端に路頭に迷うこととなった弟子達の中には、アンデレとシモンが先にイエスに弟子入りして職を確保していた運の良さを少なからず妬み、時たま不満を漏らすのをフィリポはよく耳にしていた。
だから、ナサニエルが何気なくアンデレとシモンの名を口にした時、フィリポはそれを思い出してちょっと嫌な気分になった。
だが、今、アンデレとシモンが弟子入りしたという当のイエスが自分達の方へと向かって歩いて来るのを見て、フィリポは人知れず胸がワクワクするのを感じていた。
「あなたがフィリポか?」
イエスは二人に近づくとどちらともなくそう尋ねた。
「あ、私です」
フィリポは一歩、ナサニエルの前に出る形で進み出た。
「フィリポ、俺、話が終わるまで向こうで座って待ってるよ」
ナサニエルは無花果の木の下を指差し、フィリポにそう告げると、フィリポとイエスを残してさっさと向こうへと行ってしまった。
一人残されたフィリポは少し心もとなさそうにイエスの前に立っていた。
「わたしは、ナザレのイエスと言います。アンデレとペトロ、いや、シモンを知っていますよね?
彼らはあなたのことをとても心配しています。あなたは彼らと同じ町の出身だと聞きましたが?」
イエスは淡々と話した。
フィリポは少し緊張して言葉もなく、ただうなずいていただけだった。
「あなたの師であるヨハネ先生が捕まったことはわたしも町で聞いています。
だから、これからわたしはガリレーに向かおうと思います。
時が来たのです。
あなたもアンデレ達と一緒に来ますか? 彼らはあなたも一緒に連れてって欲しいとわたしに頼みました。
それでわたしが直接、ここに来ました。
わたしがこれから行こうとしているのはクファノウムというところですが、あなたは聞いた事がありますか?」
「クファノウムですか・・・? あのガリレーですよね?
まさか、あのゼブランとナフタリの土地ってことですか・・・?
一体、あなたはどういう・・・?」
フィリポはそこで言葉を失った。
まさか、そんな馬鹿な。
この男、本気であの預言者イザヤの句を信じているのか?
そのつもりであそこへ移ろうって言うのか・・・?
フィリポはこの男の正体を少し気味悪く感じた。
狂っているんだろうか?
メシア(救い主)気取りにしてはあまりにもまじめ過ぎるような感じだし・・・
「あ、あのっ、時が来たって、一体、どういうことでしょうか?」
フィリポはイエスの言葉を確かめようとあわててそう尋ねた。
「あなたも知っているでしょう、律法書(旧約聖書)の中にある言葉を。
わたしは今、その話をしています」
イエスはフィリポの動揺をよそに声色一つ変えず、冷静に話した。
フィリポの頭の中は突然のことにぐるぐるといろんな考えや疑念が巡っていたが、イエスの冷静さになぜか真実味を感じていた。
狂ってなんかいない。確かに、この男は本気で言っている。
そう感じると、フィリポはさっきとは違う訳の分からない興奮が胸の中でじわじわと湧いてくるのを感じていた。
ヨハネ先生はこの男の事を褒めていた。
この男なら神の精神で持って洗礼を授けてくれるだろう、とも言っていた。
このままここで何もせずに迷っていても仕方がない。
とりあえずこの男についていって、神の子が生まれるだろうと言われてきた土地でもう一度、俺の運を賭けてみたっていいじゃないか。
さっきまでヨハネを失った寂しさと不安で一杯だったのが、急にそれらが吹っ飛んで別の新たな希望がふつふつと湧いて来るのを感じ、フィリポの胸は熱くなった。
そうして、フィリポはイエスに承諾の返事をすると、彼に少し断ってすぐさまナサニエルの方へと走っていった。
「おーい、ナサニエル! いい話だぞぉ。律法書に書かれた人がやって来たんだ!
あの預言者達が言ってた事が本当に当たったんだぞぉっ!」
興奮したフィリポはナサニエルのところに着くまでにそう大声で叫んでいた。
ナサニエルはそんなフィリポを少し怪訝そうに見ていたが、それでも無花果の木の下に座ったまま動こうとせず、フィリポがやって来るのをじっと待っていた。
「ナサニエル、ガリレーに一緒に行こうっ!
預言者やヨハネ先生が以前から言ってた人が現れたんだっ!
ナザレからいらっしゃったイエス先生だそうだ」
フィリポはナサニエルのところまでやって来ると、急いでそう話した。
「へ、ナザレ? あんなところに一体、何があるっていうんだ?」
ナサニエルはそう言うと、にわかにイエスの言葉を聞いて興奮しているフィリポをあきれたように眺めた。
確かに、ナサニエルが言うように、イエスが生まれ育ったナザレはベサイダ以上に何もない町だった。
ナザレは、地中海に面したカエサリア・パレスティナからガリレー海岸の間のほぼ真中辺りにあり、町と言うよりも村に近い小さな田舎町だった。
そんな小さな田舎町が、現代ではイスラエルでも最大のアラブ都市にまで発展するのだが、まだこの時は誰もそんなことを想像すらしなかっただろう。
だから、ナサニエルはフィリポがそんな田舎町から来た男の言葉を信じてその名を興奮しながら叫んでいるのを見て、信じられないと言わんばかりに小さく首を横に振った。
だが、フィリポはナサニエルの様子には構わず彼の腕を強く引っ張った。
「なぁ、ナサニエル、あの人と一緒にクファノウムに行こうっ!
そこで、また一緒に洗礼活動をやろうよ」
「俺はいいよ。俺はヨハネ先生が牢から出てくるのを待つつもりだ。
お前は行ったらいい。俺はここに残る」
ナサニエルはフィリポに素っ気無くそう言った。
「そんなこと言うなよ。ヨハネ先生が出てくるのを待つのはどこでもできるじゃないか。
それに、何もせずにここにいるより、ヨハネ先生が褒めておられた人と一緒に活動を続けた方が先生も喜ぶってもんだろ?」
フィリポはいつになくナサニエルに食い下がった。
「とにかくあの人に会ってみろよ。お前だってあの人が本物だって分かるからさ」
そう言うと、彼はナサニエルの腕をそのまま引っ張ってイエスの前へ連れてきた。
そんな二人を、イエスはさっきから遠く離れたところでじっと眺めていた。
そして、ナサニエルがフィリポに引っ張られてしかめ面してこちらに来ると、イエスはまず、ナサニエルに向かってニッと笑った。
「あなたはまさしく本物の“ イスラエル人 ”ですね。
あなたには全く嘘というものがないようだ」
「は? どうしてあなたにわたしのことが分かるんです?」
ナサニエルはちっともイエスへの胡散臭さを隠そうともせず、冷めた口調でそう答えた。
それでもイエスは微笑を崩さずに再びナサニエルに話しかけた。
「さっきからあなたのことをわたしはじっと見てました。
フィリポがあなたを呼びに行ってもあなたはあの無花果の木の下から出ようとしなかった。
それを見て、わたしは預言者ゼカリヤが告げた神の御言葉を思い出しました。
― 全知全能の主はおっしゃった。
『その日が来たら、わたしがたった一日でこの地球上の罪と言う罪をすべて取り払ってやろう。
その日になれば、お前達はそれぞれ、自分の隣人を招いて、
お互いブドウや無花果の木の下に集まり、
(あのソロモン王の時代の平和で豊かな日々と同じように)
実りの日を祝うかのごとく座すだろう』
(ゼカリヤ3章10節および1列王記4章25節)
わたしもその日を待ち望んでいます。誰もが平和で豊かに暮らせる日が来ることを。
その前にわたしはしなければならないことがあります。その時が来たのです。
だから、わたしと一緒に来ませんか?」
ナサニエルはそのイエスの言葉に絶句した。