第八十八話 母の願い(2)
「先生、いかがでしょう?
わたしの息子達をあなた様の両隣に置いていただけませんでしょうか?」
そのサロメの声に、さっきから全く別の事を考えていたイエスは、一気に自分の世界から現実へと引き戻された。
そこで、イエスは自分の前に跪くサロメの姿から彼女の後ろに控えている二人の息子達に目を移した。
母親に引っ張り出されて少しブスッとした様子のゼベダイ兄弟は、まだ食べかけのケーキの方が気になっているようだった。
彼女は、彼らの気性というものが本当に分かっているのだろうか?
イエスは思わず、かすかなため息をついた。
“盲愛の母”とは、まさしくサロメ・ゼベダイのことを言うのかもしれない。
彼女は、古参の信者としてこれまで何かとイエスや弟子達の支援をしてくれ、宗派の事情にもよく通じていたが、イエスの教えはもとより、そもそもリーダーという役目をかなり“誤解”(自分では正しく良くわかっているつもりで、本当は間違って解釈)していた。
一般的に、リーダーというのは、彼女が考えているほど、ある意味、そんなにいい立場でも、楽な立場でもなかった。
それに何より、サロメは、自分の息子達が一体、どういう人間で、どういった個性や適性を持っているかということもあまり客観的に目を向けていないようだった。
と言うのも、イエスは、彼ら二人のことを“ボーアニュルジェズ”(アラム語で「雷の子達」の意)と呼んでいたほど、実はゼベダイ兄弟はかなりの癇癪持ち(ヒステリー気質(注1))だった。
恐らく、母親のサロメが大きな期待をかけすぎるのか、あれやこれやと子供にまで指示を飛ばして過干渉なだけでなく、両親、揃って過保護と言えるほど息子達を甘やかしてきた為なのだろうが、それを別にしても、彼らは元々、短気でせっかちな性格のようだった。
そのせいか、自分達の気に障るようなことがあったり、若い弟子達が何かに失敗すると、すぐに彼らは手を出すことがよくあった。
それを後輩への“愛の鞭”と呼ぶなら聞こえはいいが、一歩、間違えれば、単なる暴力でしかない。
そのため、弟子達の間でも、ゼベダイ兄弟を男らしく意思の堅い、剛毅な人物と考える者もいれば、逆にせっかちで、自分の感情を抑えられない、かなりの我がままと見る者もいて、そこが彼らに対する評価の分かれるところだった。
しかも、一つの組織に属していると、そこにいた年数によって先輩、後輩といった上下関係が成立し、それがある程度、権威というものを年長者に持たせることになる。
だから、後から入信してきた弟子達からすれば、そういった目に見えない権威を恐れて、表面上、ゼベダイ兄弟に付き従っていただけで、実は内心では常にそうした暴力や権威で持って相手を従わせようとする彼らのやり方に少なからず反発していたのだった。
そうとは気づかないサロメは、母としてつい自分の子供をひいき目に見てしまい、さらに上辺だけ他の弟子達がゼベダイ兄弟に従っているのを息子達の人望によるものだと勘違いして、彼らの昇進を願い出たようだった。
だが、イエスの目からだけでなく、誰の目から見ても、ゼベダイ兄弟が人を束ねる役に向いていないことは明らかだった。
本来、リーダーというのは、ある共通の“正しい目的”を叶えようと、自分以外の協力者の技能を的確に把握し、その人達に適切な役割分担をさせる為に自分に“与えられた権力”を上手く使いながら、総合的に全員の技能を目的に向かって調整するのが主な役目である。
だから、誰よりも優秀だからとか、一番、人に慕われているからという理由だけでリーダーとして向いているかと言えば、なかなかそうとは言えない。
例えて言うなら、オーケストラにおける指揮者のようなもので、権力が使えるからと言って好き勝手に指揮棒を振ったとしても、それでいいハーモニー(調和音)が奏でられるかと言ったら、そうしたことはまずと言っていいほど、“無い”。
だから、ゼベダイ兄弟の性格からして指揮者というよりも、彼らはソロで鮮やかにトランペットを吹いている方がよっぽど向いてそうだった。
要するに、彼らはスタンドプレー(個人芸)が似合っているのであって、誰かと協調して働くのに向いていないばかりか、周囲のことにもあまり興味はないようだった。
それとは逆に、ペトロは、誰かと一緒に働くのが好きなばかりか、周囲への気配りにも長け、この宗派ではイエスを含んだ誰よりもリーダーとしては向いているようだった。
だが、彼の場合、目的やその手段があまりにも打算的だった。
人や物事というのは、そうそう頭だけで編み出した計算通りには運ばないこともあるし、思いがけない難局が訪れた際には、お互いが利害を超えて協力しないといけないこともある。
だからこそ、人の“心”や“和”というものを大事にしないといけないのだが、ペトロは目先の利益を優先し、自分の目的において不要と考えたものは手段を選ばず、何でも切り捨てるタイプだった。
だから、イエスとしては、ペトロとゼベダイ兄弟がリーダーの座を競い合っていることは以前から何となく気づいていたが、どちらもイエスの目指そうとする目的からはずっと外れているばかりか、何よりその目的について全く振り返えろうとしない彼ら自身の性根や姿勢が根本からして間違っているとしか思っていなかった。
しかし、いくらイエスが彼らに向かって何度も言い聞かせ、教え諭そうとしても、イエスの言葉を右の耳で聞いて左から流している彼らが、真剣にそのことを考えるはずもなかった。
彼らと同じように、サロメもまた、リーダーという立場を概して他の人達よりもたくさん利益がもらえて楽で幸せなものだと思い込んでいるようだったが、実際、彼女がイエスの真の活動目的を知ったら、すぐにでも息子達を宗派から辞めさせたに違いない。
それほど、イエスがやろうとしていることは人の理解を簡単に得られるものではなかったし、また、人から手放しで喜ばれるものでもなかった。
それでも尚、あきらめず、くじけず、自分の利や幸福だけでなく、見ず知らずの他人の利や幸福をも一緒に考えながら働けるかどうかイエスもまた、ずっと“神”に問われていたのだった。
そして、それは“神”に愛されるだけでなく、イエス自身も“神”を愛する努力ができるかどうか、イエス自身が悪(人)に流されることなく“善(神)”を信じ切れるかどうかを、究極のところまで試されていることでもあった。
「・・・サロメさん。
あなたは何をわたしに求めておられるのかよく、わかっていらっしゃらないようですね。
お前達もだ、ボーアニュルジェズ(=雷の子達、ゼベダイ兄弟の愛称)。
お前達がどうしてもと言うのなら、お前達が本当にわたしの両隣に座れるかどうか、これからわたしが試験をしてあげよう。
では、お前達に聞く。
『これから、わたしが飲もうとしているコップをお前達も本当に飲んでくれるのか?』」
イエスは、そう言って彼らの母が望んだ“リーダー”とはどういうものか、その心構えを律法書の詩句を“暗に例えて”教え諭してみることにした。
彼らが今後、人々に律法書を教えて聞かせる“ローウェ”(=Roeh、ヘブライ語で「羊飼い」の意。人々(羊達)を守り育てる者の比喩として王、リーダー、宗教的な指導者、預言者を意味するようになり、後に英語のRoyal「王室の」やフランス語のRoi「王」の語源ともなる)の一人になるなら、当然、律法書の詩句の意味が分からなければ、人々を教え導くことはできない。
イエスがその時、ゼベダイ兄弟に用いた隠喩(=Metaphor、メタファー)(注2)はこれだった。
― おお、どうかお聞きください、
イスラエル(良心との葛藤に苦しむ人達)の大いなるローウェ(羊飼い)よ
(注:ここでのローウェは神のこと)
ヨセフ(心に義ある人々)を羊の群れのように率いるお方よ。
天使の間で玉座におわすお方よ、
また、わたし達の兄弟たちである
エプライムやベンジャミン、マナセの子孫達(=人類)の前にいて、
光り輝くお方よ、
あなたの力を呼び起こし、
すぐに来て、わたし達をお救いください
おお、神よ、
どうかわたし達を善なるあなたがおられる幸福の地に戻してほしい。
どうか善なるあなたの御顔が輝き、
その光をわたし達に充ててほしい。
そうなれば、正しいことがまかり通り、
誠実に努力した者が報われ、人々は希望に満ち、
わたし達は救われる。
おお、主よ、全知全能なる神よ、
いつまであなたのお怒りは続くのでしょう?
あなた(正義)を求める民達がこんなにもずっと祈り続けておりますのに。
でも、あなたはこれまでずっと涙のパンをわたし達に与え、
並々とあふれた涙のコップをわたし達に飲ませてこられました。
あなたはわたし達を隣人達にとっては争いの元とし、
わたし達の敵である意地悪な人々はわたし達を嘲笑います。
どうか、わたし達の正義を証明してください、
おお、全知全能なる神よ。
善なるあなたの御顔を輝かせ、
わたし達の善意が人々に通じるようにしてください。
そうなれば、わたし達の真心が人々にわかってもらえるようになり、
わたし達の心は救われます。
(詩編80章1~6節)
この詩句に書かれた通り、イエスがこれから飲もうとしているのは、主からもたらされる厳しい試練のコップだった。
苦難と困難の泥が入り混じり、あふれんばかりの涙のコップを飲み干さねばならない。
それがイエスに、イスラエル(良心と葛藤する人々)のローウェ(指導者)になる者なら誰もが必ず課せられる使命だった。
いや、どんなリーダーだったとしても、人々の上に立つことを志す者ほど誰よりも苦難や困難を自ら克服し、“心が強くならなければ”人々を守り、教え導くことなど到底できない。
大勢の人の意見に流されて振り回され、権力や暴力を恐れて一部の人々に媚びたり、立場の弱い者達を権力や暴力で蹂躙するような人間が強いリーダーとは決して言えないはずだ。
だからこそ、イエスはゼベダイ兄弟にもっと精神的に強くなってほしいともずっと願っていた。
たとえ、リーダーにならなくてもその心構えが彼らの人生を豊かに幸せにしていくはずだとイエスは親心にも似た思いで、ゼベダイ兄弟を教え諭してきたつもりだった。
だが、そのイエスの切なる師弟愛はどうにもゼベダイ兄弟に届くわけはなかった。
「もちろんです。ね、飲めるでしょ?」
イエスの問いに、サロメは深く考えることもなく、息子達に頷くように促した。
盲愛の母は我が子を呪縛する。
自分の掌から我が子が飛び出していかないよう、自分を忘れて遠くへ行ってしまわないよう、盲愛の母は甘く優しい言葉でもって、時には怒り狂い、時には我が子を責め立て、その支配下から逃れようとすれば嘆き悲しみ、試練や困難に向かって挑戦し、独り立ちしようとする我が子の前に立ちはだかって、そのやる気を萎えさせ、堕落させる。
盲愛の母にとって我が子は自分が腹を痛めて産んだ以上、どこまでも“自分の物”であり、子供と自分が別々の生命を持ち、お互い交差しているようでいて、実はまったく違う人生を歩んでいるとは想像すらできないようだった。
それゆえ、子供は滅多と言えるほど、盲愛の母から離れることはない。
そもそも親を捨てて独り立ちしないように育てているし、“いつかは子供自身が親を大きく超えて成長していかなければならない”のに、盲愛の母は決してそれを許すことはない。
子供が大人になってからも母たる自分の考えや価値観、そしてその存在を否定しないよう、自分をいついつまでも愛し続けてもらえるよう、あるいは自分の権威を脅かさないよう、あらゆる手段を使って子供を束縛する。
サロメはまさしくそういう類の母だった。
彼女を見てると、あの人(My Dear Woman、母マリアのこと。第11話『カナの奇跡』参照)を思い出す。
あの人もわたし以外の弟や妹達にとっては盲愛の母だった。
どれだけ弟や妹達が自堕落であったとしても、わたしへの扱いとは違って、あの人が彼らを叱ることは決してなかった。
それがますます彼らをつけあがらせ、自堕落にしていった。
甘やかし、好き勝手させ、ひたすら見た目と体裁(世間体)を取り繕うことばかりに翻弄され、あの人はいつも自分に忙殺されていた。
だからこそ、わたしはあの人や兄弟達のようにはならなかったかもしれない、と言うか、なれなかったのだ。
あの人や兄弟達から邪険に扱われれば扱われるほど、わたしはあの人達とはまったく違う考えや価値観を形成していかなくてはならなかった。
そうでなければ、自分という存在(命)を保っていられなかったからだ。
母であるあの人に自分(の存在)を否定される度に、わたしはこの世から自分を消し去りたくなる思いを何度も何度も味わってきた。
わたしへのあの人の眼差しが、態度が、わたしを憎んで止まない気がしてならなかった。
わたしが生きていることそのものが、あの人にとっては自分の恥だと言わんばかりだった。
ただ、あの人自身に人の愛や優しさが全くなかったわけじゃない。
それは弟や妹達への態度を見ていればわかることだ。
わたしがあの人と父との子であれば、あの人のわたしへの扱いは弟達と変わらなかったに違いない。
だが、わたしだけは父との子ではなかった。
わたしだけは父の血を受け継いだ子ではなかった。
それがあの人にとっては世間に対する最大の“恥”だったに違いない。
その自分の恥部を隠すようにしてわたしはあの人に厳しく育てられたおかげで、わたしは兄弟達とは違って、見た目や体裁、お金や身分を気にしなくても今なお、自由に生きられているし、時にそれらで自分の自由が縛られそうになったとしても、自分でどうにか知恵や力を絞り、乗り越えていける“強さ”も培ってこられた。
何より神(愛)の存在を心に実感し、神(愛)こそ、この世で最もかけがえなく尊いものだと知るようになれたのもあの人や兄弟達の存在(命)があったからこそだ。
そう悟る(理解できる)よう、神がわたしに様々な人の命(存在)と出会わせ、わたしの心を導いてくれたのだろう。
だから、分かってほしい、
人の命(存在)は金や身分で買えないことを。
神の愛は金や身分、権力では得られないことを。
自分が生きていく為の知恵や力、神(愛)の恩恵は金や身分、権力では決して得られないことを。
ラザルスのような莫大な富を持つ者でもその富だけでは消し去れないこの世の人の妬みや悪意があることを。
わたしの命をつけ狙うファリサイ派やサンヘドリン、エルサレム神殿の高僧達ですらも、その地位や権力だけではどうにもならない不安や恐怖、束縛があることを。
わかってほしい。
どん底の苦しみの中にも、慟哭する悲しみの中にも、神の愛があることを・・・。
それらに気づき、分かって(理解して)くれるのなら、その人は自由にも幸せにもなれる。
神の愛をその心で知り、その喜びに震え、自分の“命”を感じることができる。
だが、盲愛の母であるサロメにはそれが分かっていない。
彼女はただ、ラザルス達、一家の財力に目がくらみ、それこそが神のもたらした恩恵だと信じてやまない。
あるいは、病気や災いがもたらされることなく、試練や苦難に会うこともなく、世間の人々にそっぽを向かれ、指をさされることもない、自分のプライド(自尊心)がズタズタになるような出来事もなく、恥をかくわけでもなく、汗や涙を流して働く必要もない、それが神から愛されている唯一の証拠だと信じて疑わない。
母であるサロメに促されて、ゼベダイ兄弟は母の機嫌を損ねないよう、とりあえずコクンとイエスの前で頷いてみせた。
イエスはその様子を見て、再び、ふぅっとため息をついた。
「確かに、わたしの飲もうとするコップのものはあなた方にも飲もうと思えば、何でも飲めるでしょう。
でも、わたしの右と左に座るということは、わたし自身が決めるものではありません。
この席は、わたしの“御父”によって用意された人達だけが座れる場所なのです。」
イエスがそう言うと、その場に一緒にいた他の弟子達、特にペトロとその派閥の弟子達は自分達よりも先んじてリーダーの地位を無遠慮にねだろうとしたゼベダイ兄弟とその母サロメにいら立った。
イエスがいなくなった後、誰がこの宗派を受け継ぎ、誰が一番、上に立つか、その水面下での激しい権力闘争(内輪もめ)がサロメの軽率な行動によってちらっと垣間見えた瞬間でもあった。
つまり、彼女は無意識だったかもしれないが、今、生きていて働き盛りの年齢のイエスに自分の片腕となるような後継者を選べと迫ることは、ある意味、イエスがもはや不要だと言っているのに等しかった。
それが皆の本音だとイエスは痛いほどわかっていた。
だが、イエスはサロメやゼベダイ兄弟、その他の弟子達の様子を見て、再び、自分の言葉を付け加えた。
「あなた方は自分でよくわかっているはずです。
これまで多くのリーダー(頂点に立つ者)と呼ばれる王や高い身分の人々がどれほど高慢に振る舞い、彼らに取り入ろうとする取り巻き達もまた、どれほどその権威をかさに着てどう、世間の多くの人々を苦しめてきたか、あなた方は嫌というほどこれまで市井の人々の暮らしぶりを見てきてよく知っているはずでしょう?
なのに、なぜ、彼らと同じ真似をしようとするのです?
なぜ、彼らが間違った悪政をして自分達が苦しむことになったのに、どうしてまた、同じように彼らの犯した過ちを繰り返そうとするのです?
皆が豊かに幸せに暮らしていけるそんな社会を作っていくには、これまでのリーダー達の真似をしないことです。
あなた方は決して彼らと同じ過ちを犯さないことです。
あなた方が真に偉大になりたければ、辛くても悲しくてもそれに耐え、人を敬い、人に頭を垂れ、人に誠意でもって仕えなさい。
あなた方が誰よりも一番、上に立ちたければ、奴隷とも思えるほど惨めでプライドが打ち砕かれ、傷ついたとしてもそれを乗り越えて、良心でもって相手に尽くしなさい。
それは、神から遣わされた“人の子”もまた、そうして自分の一生(命)を費やし、多くの人々(人類)が犯した心の罪を償わなければならないのと同じです」
イエスがそう言うと、サロメはきょとんとしてそれ以上、何も言えなくなった。
彼女の息子達は、ゲッセマネ庭でのイエスの言動から既にイエスを狂っているとしか思えなくなっていたので、イエスの言葉の意味が分からなくてぼんやりしている母親をそれとなくなだめ、その場をそそくさと出て行った。
とは言え、イエスを狂人だと思っていたとしても、ゼベダイ兄弟はこの宗派のリーダーになることを全くあきらめた訳ではなかった。
彼らは彼らで、ペトロと同じように、しばらく前からイエスから独立して宗派を開くことも視野に入れていた。
そして、今日、人々がエルサレム神殿まで自分達一行を熱狂的に出迎えてくれたことや、イエスの話から人々がまさに自分達の宗派にこれまでの既存宗派とは違う、新しい“勢力”(=Power of People)というものを期待していることを知って、ますますその思いが強くなっていた。
しかし、その野望こそ、ゲッセマネ庭であれほどイエスが彼らを誤った道へと行かせないよう強く警告した、そのイエスの彼らに対する思いを大きく裏切るものだということを、彼らはこの時、全く考えようともしていなかった。
そして、母サロメも、母マリアも、その盲愛の果てに自分の子供達の行く末にどのような苛酷な結末が待ち受けているかこの時、想像すらできなかったのだった。
(注1)
ヒステリー気質(=hysteria)とは、それほど興奮したり、怒ったりする状況ではないにも関わらず、非常に興奮したり、激怒したりするなどして自分で自分の感情を抑制できず、社会における人間関係などに支障をきたす精神状態のことを言う。
“ヒステリー”とは古代ギリシャの“hysteria”(ヒステリア、子宮)という言葉から来ていて、元々は精神疾患(Mental deseace)とみられておらず、子宮の影響から来る目まいや軽い呼吸困難、不眠といった身体的疾患(Physical deseace)を治療し、婦人科医学の向上のために古代エジプトや古代ギリシャにおいて診断、研究されていたものだった。
要するに、現代でいう生理痛や生理的疾患、更年期障害といった女性特有の身体的疾患を意味していただけだったが、その後、中世における医学的研究の衰退と共に、性的な邪念からくる魔女憑きなどと呼ばれて宗教的ルールや儀式による緩和治療が中心となり、19世紀頃になると精神科医のフロイドが起こした性的精神医学ブームにより、女性が生理痛や生理に関係した体調不良でイライラしたり、感情的に興奮して怒ったり、泣いたりすることが多い行動特徴だけをとらえて精神疾患と診るようになったため、“ヒステリー”は女性を中心とした精神疾患(Mental deseace)と広く世間に認識されるようになった。
だが、男性も女性と同じように感情的に激怒したり、衝動的に無謀な行動を取らないわけではなく、たとえ子宮はなくても、男性としての身体発達の上で“血の気が盛んになる”時期や年齢はあることから、女性と似たような行動特徴をとらえて、今では男女関係なく、感情的に興奮および激怒しやすい人を多少、揶揄を込めた意味で“ヒステリー”と称するようになっている。
(注2)
隠喩(=Metapher、メタファー)とは、比喩の一種で、「~ようだ」「~みたい」といった直接的な比喩(=直喩)とは反対に、言葉の特徴を他の物で表現する方法のこと。
例えば、『雪のように白い肌』は直喩で、白いというイメージをはっきり雪に例えているが、逆に『雪の肌をした女』といえば、雪のイメージと女の肌のイメージを同時に想像することで意味がとらえられるようになっている。
隠喩の場合、雪と肌の両方についての知識やイメージを持っていないと想像しづらく、言葉の表現方法において隠喩が洗練されていると言われるのは、ある程度の教養がないと理解できないからだと言える。