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第八十七話 母の願い(1)

行きとは違い、イエス達がエルサレムからべサニーまで戻ってくるのに、それほど時間はかからなかった。




イエスが去っていくのを引き留める者などエルサレムにはもう、いなかった。


そして、エルサレムで起きた一連の出来事に弟子達はすっかり意気消沈し、帰りの道中でも誰も口を利こうとすらしなかった。




イエスの話など、もう、どうでもよかった。


その時、彼らの大半が考えていたのは、それまでなんとなく無視してきたサンヘドリンの大いなる国家権力であり、イエスの逮捕に伴う死だった。

そういった脅威がひたひたと押し寄せてくるように感じられ、その恐怖と不安から耐え切れず、それぞれ物思いに沈んだまま、とぼとぼとラザルスの屋敷まで戻って来た。




だが、そのラザルスの屋敷の前では、相変わらず大勢の人達がイエスの帰りを今か、今かと待ちわびていた。

彼らはまだ、エルサレムで起きた出来事はもちろん、イエスが一体、どんな人物なのかもよくわからず、ひたすら死者復活の奇跡の顛末てんまつについて聞こうと待ちかねていた。


そんなてんやわんやの騒ぎになっているラザルスの屋敷にイエス達が戻ってくると、彼らは帰ってきたイエスを一目見るなり、一斉に彼の方へと駆け寄ってきた。

しかし、サロメ・ゼベダイを中心とする女性信者達とエルサレム周辺に住むイエスの信者達は事前にそうした殺到する群衆を見越してか、イエス達がエルサレム神殿から帰宅するまで屋敷前で待機していたらしく、一斉にイエスに駆け寄ろうとした群衆よりも先にイエスの前で立ちはだかり、事故が起きないよう群衆をうまく抑えてくれた。


「ちょっと、あなた達、私達はあなた達よりもずっと前からイエス先生の信者なのよ。

だから、私達を差し置いて先生に話しかけるなんて無礼だわ。」と、女性信者の古参であるサロメ・ゼベダイは真っ先にそう言って群衆を遮った。

そうして、イエスの方に向き直ると、群衆を睨みつけていたきつい目を和らげてイエス達を出迎えた。



「まぁ、まぁ、ラボーニ(古代アラム語で「先生」の意。ラビの別称)!

こんなに早くお帰りになれてよかったこと!

今日は随分と遅くなるもんだと覚悟して待ってましたのよっ!

だって、あんだけ大勢の人に囲まれてお出かけだったんですもの。

きっと皆さん、なかなか先生を離したがらなかったんじゃないんですか?

ここですらこの騒ぎだもの。

ほんと、今朝からうるさくてかなやしません。

人がこれ以上、増えてきて何か起きても困るんで、他の信者さん達とも話し合い、先生の身をお守りしようと、さっきからずっとお屋敷の前でお帰りを待っていたんです。

何せ、お帰りになったらきっとこうなるだろうと思っていましたから。」

そう早口でまくしたてたサロメは一瞬、言葉を切り、顔をしかめて後ろの群衆を横目で冷たくにらみつけた。


だが、彼女の口が止まったのもその一瞬だけだった。


すぐに彼女の言葉はその後も矢継ぎ早に続いた。

「さぁ、さぁ、ラボーニ(先生)、中に入りましょう。

こんなところにいつまでもいたら、体が冷えますわ。それに随分とお疲れでしょう。

何せ、ものすごい人にもみくちゃにされながらエルサレムまで巡礼なさったんですから。

その上、神殿でも先生は引っ張りだこだったんでしょうし、お帰りになったらなったで、これだけの人が押し寄せてくるんだから、お気疲れもなさったことでしょう。

とにかく、先にサンダルをお脱ぎになってゆっくりなさってくださいな。

私達はお茶でも入れますから」

サロメは、押し寄せる群衆の前でいかにもイエスとの長年の付き合いを誇示するかのようにしてイエスに親しげに話しかけ、彼を屋敷の中へと促した。



しかし、群衆は、ずっとイエスを待っていただけに我慢しきれず自分達の悩みや願いを聞いてもらおうと、我も我もとイエスに詰め寄ってきた。

「イエス先生、私達はずっとあなたをお待ちしていたんですよ。

少しでも私達にお声を聴かせてください。

私達はあなたの奇跡を信じます。

どうか、私達に救いをお与えください」


「皆さん!

イエス先生はご覧の通り、聖なるエルサレム神殿からお帰りになったばかりなんですよ!

それに今日は散々、多くの方々とお話なさってきたところへまた、皆さんがこんなにたくさんいらっしゃったら先生のお身体が参ってしまいます。

それに、先生はこんなに大勢の人達と一遍にお会いするなんてとてもできません。

だから、皆さん方はまず、先生のお弟子さん達とよく相談なさって、先生がお会いできるようであれば、ちゃんとその日時を決め、それからもう一度、ここにお越しくださいな。じゃあ、後はよろしくお願いしますよ、ペトロさん」



一体、いつから自分と会うのに予約が必要になったのだろう、とイエスは苦笑した。


サロメ・ゼベダイの強引さは昔からよく知っていただけに、元々、彼女の世話を固辞するつもりもなかったが、改めて周囲を見回してみると確かにこれだけの人数の人々と会って話をする気力ももう、なかったので、彼女の今の言葉はとても有難かった。


とにかく、ペトロでさえも顔負けするぐらいの機転が利くサロメがそう言うと、どうやら群衆も含めて全員が納得せざるを得ないようだった。

そうして、彼女はいつものごとく手際よく差配を飛ばし、イエスを家の中へといざなった。





ベサニー村のラザルスの屋敷は、共和制ローマの時代から多くの富裕層が地方や属州地域に建てるラティフンディア(大農場)経営のための典型的な“ヴィラ・ラスティカ”(別荘、田舎邸宅)だった。


ヴィラ・ラスティカ(=Villa rustica、ルスティカとも言う)は、現代ではルスティカ建築と呼ばれる石造りの建物のことで、荒いごつごつとした石の表面をそのまま際立たせた外壁が特徴の、自然の力強さと何事にも動じないようなどっしりとした重厚感の漂う美しい造りになっていた。

共和制末期からローマの富裕層にとって不動産は欠かせない財産だったことから、このヴィラ・ラスティカは至る所で建築されており、中世においては農奴制(注1)や封建制(注2)を支える城や教会(修道院)へと変貌していき、このヴィラ・ラスティカに採り入れられたルスティカ建築もまた、中世ヨーロッパの城郭(要塞としての城)建築として、ルネサンス時代ではローマ文化を復興させようとするパラツィオ(=宮殿、ローマ皇帝の宮殿があったパラティーノの丘が語源となっている)建築に生かされていくことになる。

(ちなみに、日本でも旧居留地(安政の五か国条約に基づき、治外法権区域として大阪、横浜、長崎、神戸などにあった外国人居住地区)に数多く残る洋館や公舎の壁にルスティカ建築ヴィラ・ラスティカの面影を見ることができる)



そんなヴィラ・ラスティカの一つだったラザルスの屋敷は、四つのエリアに分かれており、一つは広大なオリーブやブドウ、大麦畑といったラティンフディア(農場)経営のために必要なオリーブ油やワイン用の圧搾場やパン工場、穀物倉庫や家畜小屋などが設置された家屋と、そうしたラティフンディアで働く住み込みの従業員や奴隷達が住まう家屋、さらに、住み込みの者達はもちろん、通いで働きに来る村人達が集うことのできる、ちょっとしたレストランも兼ね備えた居酒屋や理髪店(注3)、マッサージ店などが併設されたサウナ付きの公共浴場、そして最後にラザルス達、家族が住まう居住家屋といったルスティカ(石積み)造りの建物が広い敷地内に点在していた。


そのラザルス達が住まう家屋は3階建てで、地下にラザルス達の家族風呂と、馬小屋や敷地内にある各作業場につながる廊下が備えられ、二階(地上では1階)には台所や居間、食堂、トイレの他、3階の居住スペースを含めると大小合わせて30ほどの部屋が設けられていた。

前庭から玄関に入るまでは小さな階段を5段ほど昇り、石畳のこじんまりとした玄関ホールにたどり着くと、中庭まで突き抜ける造りになっている廊下のような部屋が2~3あって、それらはちょっとした接客室や来客の待合室に使われていた。

中庭は広々としたペリスタイル(=Peristyle,列柱回廊)様式で作られており、四角い庭を取り囲むように円形列柱が立ち並ぶ廊下から各部屋へと行くようになっていた。

田舎邸宅(別荘)とは言え、ラザルス一家はすでにここで余生を送ろうとしていたので、父の代から営んできたオリーブ事業を中心にベサニー村ではほぼ、自給自足が成り立っていて、ベサニー村はいわゆるラザルス一家が興した企業城下町(=Company Town)とも呼べるものだった。




そのため、ベサニー村の住人達にとってラザルスの客人は誰であろうと無下には扱えない大切な客人であり、おかげでイエスや弟子達はベサニー村で快適に過ごすことができ、サロメら女性信者達も、イエスの信者と言うだけでペサハが近づく時期にも関わらず近くの宿をすぐに確保することができたのである。




そうして、イエス達を家の中に入らせると早速、サロメら女性信者達とラザルスの屋敷の召使達は、一緒になって彼らの世話をかいがいしく行い、イエス達の外出用のサンダルを脱がせて足を洗ったり、お茶の準備に取り掛かった。

その後、若い弟子達を指示して群衆の応対の段取りをつけてきたペトロがようやく居間に入ってくる頃にはお茶の支度はすっかり整っていた。


彼女達がその日、用意していたお茶は“サーラブ”で、ラザルスの畑で採れた大麦と蜂蜜のケーキが一緒に添えられていた。



“サーラブ”(またはサレップ)と呼ばれる飲み物は、かつては中東やエジプト、古代ローマ、そして現代ではトルコの伝統的な冬の飲み物として愛飲されている、野生ランの球根を粉末状にして水やミルクで溶かした飲み物のことで、日本でいえば葛湯くずゆ(注4)のようなものである。


実はイエスの頃(AD1世紀)のサーラブは、滋養強壮の飲み物として世間には広く知られたものだった。


というのも、ランの球根は見た目が男性の睾丸こうがんによく似ているところから『これを煎じて飲めば精力絶倫になる』との謳い文句で、古代ローマではギリシャ神話に出てくるサテュロス(セックス好きの精霊)とかプリアポス(巨大な男根を持つ生殖と豊穣の神)とも呼ばれていた。

だが、実際のところ、サレップ(ランの球根の粉末)に含まれる主成分は、日本のコンニャクと同じグルコマンナンなので、便秘解消や血糖値、血中コレステロールを下げる効能はあるらしいが、おおよそ精力増進とは関係ない。

むしろ、滋養強壮の効能があるのはサレップを溶かす羊乳ミルクの方で、牛乳よりも羊乳はタンパク質が豊富で体の栄養を補って免疫力を高めてくれるため、貴重なタンパク源としてイエスが生きていた頃のユダヤでは生乳ミルクと言えば羊乳のことだった。

その羊乳にスプーン1~2杯ほどサレップを溶かして弱火で煮ながらかき混ぜ、香りづけにバラ水を少量入れて最後にシナモンを振って飲むという、ペサハが来たとは言え、まだほんの少し底冷えする季節にはぴったりの温かいお茶がイエス達の前に出されたのだった。


(ちなみに、このサーラブはその後、オスマン帝国トルコによって広められ、17~18世紀の欧米ではコーヒーや紅茶が普及する前はまさしくサーラブ(サレップ)が喫茶店カフェの人気メニューの一つだった。

さらに、イエスの頃のシナモンは、王族や神殿への供物の他、古代エジプト時代では死者を埋葬する際の芳香剤として、ローマではワインの香りづけなどにも用いられ、すでに世に広く知れ渡っていたが、この頃の香辛料はどれもかなりの貴重品で、特にシナモンは約300グラム程度で300デナリほどしていたらしいので、マリアがイエスの足に垂らしたナルドの香油と同じく、イエス達、庶民が働いて得る年収分に近いぐらいの値段はする高級品だったようである。

なので、むろん、イエス達は普段、シナモンを振ってサーラブを飲むことはない。)






お茶が済むと、どうやらサロメはさっきからイエスと落ち着いて話す機会を伺っていたのか、出されたお茶に入っているシナモンを見て周りとはしゃぎながらケーキを頬張っていた息子達を無理やり引っ張ってきて、イエスの足元にさっとひざまずいた。

「ラボーニ(先生)、どうかこの母の願いを聞いてはくれませんでしょうか?」

「何でしょう?」

突然、かしこまった様子のサロメの姿にイエスは戸惑いながら、そう尋ねた。


「どうか、わたしの息子達をあなた様がこれから興される王国の右手と左手に座らせてくださいまし。

私共、家族の信仰の厚さはあなた様もよくご存知のことでしょう。

何でもあなた様がおっしゃることは致します。

この息子達にあなた様が近い未来に築くであろう栄光へのお力添えをさせてくださいまし」そう言って、サロメはその少し老いた目を大きく見開き、子供にはできれば苦労することなく、楽に幸せになって行って欲しいと思いがちな母親らしい願いを必死でイエスに訴えようとしていた。


そのサロメの姿を見て、イエスは、ふと、クファノウムに置いてきた母マリアを思い出していた。



もし、わたしがサンヘドリンに捕まったら、あの人もこうやってわたしの為に嘆願してくれるだろうか?

わたしの命乞いをしようと、なり振り構わず、誰かに泣いてすがってくれるだろうか?

それとも、やはり、「変わったことばかりする馬鹿な息子だった」と嘆いてわたしを恥ずかしがるだろうか?

いずれにしろ、今、わたしがやっていることなど、大よそ、あの人には理解し難いものだろう。

大体、小さい頃から「お前は何を考えているのか分からない子だよ」と言っては、あの人はわたしのことをいつも嘆いていた。


だから、私達、家族は、まるで川を挟んだ両岸でいつも暮らしているようなものだった。


あの人と他の弟や妹達は向こう岸でいつも一緒にいて、わたしは反対側でそれをじっと眺めている。

そうして、あの人達にわたしの考えが分からないように、わたしもまた、あの母の気持ちがよく分からなかった。



わたしは、生まれてからずっと不思議に思っていた。


なぜ、あの人はわたしを産んだのだろう?

どうして、わざわざ父親の違う子を産む気になったのだろう?と。


そうして、何となく家族や他の人々に邪険にされ、生きるのが辛くなる度に、この世に生まれて来た自分を呪ったことも正直、何度かあった。

わたしも、かつては、どうにかして家族の絆や母親らしい愛情といったものをあの人達に求め、向こう岸に渡る努力を必死になってしていた。

だが、そうやって一方が愛情を求めて懸命に働きかけても、もう一方が全くそれに応える気がなければ、その努力はとても虚しい。


もしかしたら、あの人もわたしを妊娠した時は、少しは母性を感じて堕ろす(注5)気になれなかったのかもしれないが、それも一時だけの愛情だった。




それほど“人の愛”とは、本当は移ろいがちで、はかないものだ。


だから、子供を産んだ者なら誰しも母親の愛情を持っているとは限らない。

目的や手段はどうであれ、サロメのように子供の幸せや安全を一心に嘆願する母もいれば、自分のことに精一杯で、子供のことを気にかけている心の余裕のない母もいる。

自分で産んだ子を虐待する親もいれば、自分の子は産めなくても捨てられた子を懸命になって育てる親もいる。

そうして、人それぞれ、生まれてくる時や場所が違うように、神から与えられる使命や環境もまた、それぞれ違う。


わたしは、あの母や家族の中で育ったからこそ、自分を含め、“人の愛”とは元々変わりやすく、とてもはかないものだと気づかされた。

その後も、人がくれるほんの一時だけの愛の中には、たくさんの偽りやまがい物が混じっていることを嫌と言うほど思い知らされた。



だからこそ、わたしは真実の愛とは何かを“神”に直接、問いたくなったのだ。



あの家族がいて、いろいろな事を学べたからこそ、わたしはようやく、“神”が私達に与えてくれた“心”、そして“愛”というものの大切さを知った。

だから、今では別の意味であの家族にわたしは感謝している。




だが、そうは言っても、できれば、自分と同じような心の傷を負って生きなければならない子供は、もういなくなって欲しい。

だから、もし、多くの人達がまだ忘れているだけなら・・・。

まだ捨ててはいなくて、ただずっとその奥底に埋めてしまっただけなら、わたしは彼らのなかにある、その“愛”(=神から与えられた心、精神)を掘り起こしてみたい・・・。


― おお、神よ、わたしがどれほど馬鹿な奴か

  あなたは、きっとご存知のことでしょう。

  だって、わたしの罪はあなたの御目からは隠せないのですから。


  どうか、あなたに希望を持つ者達が

  わたしのせいで屈辱を味わいませんように。

  おお、主よ、全知全能の主よ。

  どうか、あなたを心から求める者達が

  わたしのせいで恥をかいたりもしませんように。


  おお、イスラエル(神と心で格闘する者達)の神よ。

  わたしはあなたの為に嘲りに耐え、

  恥はわたしの顔を覆っている。


  わたしは同じ土地に住む人間達にとっては変人であり、

  わたしの母が生んだ息子達にとっては異邦人である。



  あなたが住まう場所を求める熱意がわたしを覆い尽くす。

  だからこそ、あなたをあなどる者達の罵りがわたしの上に落ちてくる。

  わたしは嘆き、そして食することも出来ず、

  わたしは屈辱に耐えねばならない。

  わたしがぼろ布を羽織る時、人々はわたしをあざ笑う。

  門前に座る者達はわたしを馬鹿にし、

  そしてわたしは酔っ払いの歌になっている。


  だが、わたしはあなたに祈ります。おお、主よ。

  あなたが情けをかけてくださる時を信じて。

  あなたの偉大なる愛に賭けて、おお、神よ。

  どうか、あなたの確かな救いで持ってわたしにお応えください。


  どうか、わたしをこの底なしの沼からお救いください。

  人々の悪意の泥水をかぶせられ、この悪意の地獄に引きずり込まれそうな

  わたしをどうか、どうかお救いください。

  わたしを嫌う悪意ある人々に流され、振り回され、飲み込まれて

  彼らと同じように妬みや恨み、悪意に染まってしまいそうになる

  この弱い私をどうか、そうならないように救ってください。


  わたしにお応えください、おお、主よ、

  あなたの大いなる情けでもってあなたの愛の中の善意をわたしに

  お向けください。

  どうかあなたのしもべにその御顔を背けないでください。

  わたしは今、困難にあります。

  だから、どうか、今すぐにお応えください。


  ここに来て、わたしをお救いください。

  わたしをあの悪意と敵意を持つ人々から自由にしてください。



  あなたはご存じのはずです。

  いかにわたしがこれまで嘲られてきたかを。

  どれほどの恥と屈辱と汚名を着せられてきたかを。

  あなたに反する者達はすぐ目の前におります。



  嘲笑が私の心をずたずたにし、

  誰もわたしに味方する者はおりません。

  わたしは情けや共感を求めたけれど、

  誰からもそれはもらえませんでした。


  慰めも求めたけれど、それも見つからなかった。

  彼らは厚かましくわたしから搾取し、敵意や侮辱を投げつけ、

  悩みや争いにわたしを巻き込んで、

  まるでわたしの食事に胆汁を混ぜるように

  苦々しい思いを幾たびもなく味合わせ、

  そして、人の情けや愛を求めるわたしの渇きに応えるどころか

  まるでわたしの喉に酢をたらしこむように

  いっそう渇きを覚えさせる。


  彼らにも同じような屈辱を味合わせてやるといいのに

  自分達が罠を仕掛けたように

  彼らもまた、罠を仕掛けられて仕返しされてみるがいい

  神よ、あなたのお怒りを彼らに向けてください。

  彼らにあなたの本当の怒りがどういうものかを

  知らせてやってください。

  真っ暗闇に突き落とされて、絶望し、八方塞がりで

  誰からも相手にされないようになってみればいい

  彼らは散々、神の怒りに触れて傷ついた人々を罵り、

  責め立て、口さがなく噂して嘲笑ってきたのだから。

  幾度となくそうした罪に罪を重ねて悪びれもせずにきた

  そんな彼らがどうしてあなたの救いに値すると言うのです?

  どうか、この“生命いのちの本”から彼らを抹消してください。

  どうか、彼らを神であるあなたを心から信じる義ある人々と

  一緒に並べないでください。



  だから、わたしは神の御名をこの心で歌い、

  賞賛し続けることでしょう。

  これまでの深い感謝と共に神の栄光を称え続けることでしょう。

  それこそ神がどんな供物よりも一番、喜ばれることだと

  わたしは知っている。

  ここでわたしが神を賛美した詩は、今まさに絶望し、

  心くじけ、愛に欠乏した人々の目にきっと止まるだろう。

  そして、きっと神(が創る未来)に希望を見出し、

  心から喜びを覚えるだろう。

  神(明日)を求める人々よ、

  あなたの健やかな心が神(未来)において生き生きと輝きますように!



  さぁ、地上よ、宇宙そらよ、神を称えよう!

  海よ、すべての生きとし生けるもの達よ、

  神はきっとジオン(愛が宿る心)を救うのだ。

  そして、ユダの町々はもう一度、建て直される。

  神(愛)の宿る地に人々は住まい、人々はお互いの愛を得るのだ。

  神(愛)を信じるしもべ達の子々孫々こそ、

  これを受け継ぎ、

  さらに神(愛)の御名を心から愛する人々だけが

  その地に住まうことだろう。


                     (詩篇69章6節−14節)


(注1)

農奴制・・・土地を所有する地主にその生命・財産の保障をしてもらう代わりに、農民が地主の持つ田畑や鉱山、森林などで働いて隷属する制度のこと。


元はローマ時代に“コロヌス”と呼ばれる借地農民が、収穫した農作物やそれを販売した代金の一部を地主に支払うだけだった土地の賃貸契約を拡大解釈させ、様々な奉仕労働やその土地から離れないことを条件に、地主に借金や国への納税を肩代わりしてもらったり(ただし、地主への貢納は免除されない)、住居の提供や地主独自の武装による治安および警備保障といった生活全般の面倒を地主に見てもらう“人身賃貸契約”をも結んだことで、ローマ帝国内で内戦が頻発しだしたAD2世紀以降、次第に安全や経済的保障を求めて各地のラティフンディア(大農場)で定住するコロヌスが増えるようになった。

その後、18世紀に勃発した市民革命により絶対王政および専制君主制を崩壊させるまで、中世ヨーロッパの人々はほぼ、この農奴制に従って暮らしていた。

なお、共和制ローマ時代に戦争捕虜などで奴隷にされた人々とこの農奴コロヌスとの徹底的な違いは、元々はローマ市民権(政治への投票権)があったことである。

それゆえ、農奴コロヌス自身が国税を納税する義務があり、その国税が政治家同士の争いから始まる内戦での戦費の増大や経済政策の失敗による景気の悪化などで徐々に増税され、それによって生活を圧迫されるようになったことから、多くの一般市民が市民権(投票権)を行使して国政に頼るよりも軍事力や資金力のある地主に次第に隷属していくようになった。

一方、共和制から帝国初期にかけての奴隷は、市民権そのものがなかったため、何ら権利もなければ義務もなく、その人自身の能力や腕力そのものに価値があるとして売買され、まだ、景気が良くて民主主義を謳歌していたローマ帝国初期だと、ごく少数ではあるが、場合によっては奴隷でも実力次第で自分で市民権を買ったり、主人から与えられて自由になる機会もあった。

しかし、農奴制の場合は、最初から土地の賃貸契約の中に自分とその家族(子々孫々)の義務と権利の一切が含まれており、土地そのものの価値の中に自分達の労働力(生産能力、経済的価値)も必然的に組み込まれてしまうため、土地の売買によって地主が変わることはあっても、農奴とその家族がその土地から自由になることも、それぞれ人としての価値や権利が認められることはなく、むろん、職業選択の自由なども一切、なかった。

ただし、女子の場合は結婚して別の村(土地)で働く農夫と結婚することもあるが、その際は、(その土地で働いていた労働者を失うことになる)地主にその娘の親が慰謝料を払うことで土地を離れる自由を買い取っていたらしい。

なお、農奴制が中世で長く続けられたのは生まれた時から決められた土地にあるキリスト教教会で洗礼を受けることにより、出生届と共にその身分が登録され、その後、メンター(精神的な指導者、教育者)として教会が農奴制を支持してきたからだと言える。



(注2)

封建制ほうけんせい(=Feudalism)・・・広大な土地を所有もしくは争って獲得した者が資金力や武力を蓄積しながら王や君主として君臨し、その王や君主に特に武力でもって味方することを誓う(契約する)ことで、騎士や諸侯といった身分と共にそうした土地の一部を農奴も含めて譲渡または委託してもらう制度のこと。

なお、“封建制”という言葉は、紀元前11世紀頃に興り、中国文明の始まりとされる中国の周王朝が敷いていた「土地に農奴を“封”じ込めて諸侯が国を“建”てる制度」の略称である。また、英語のfeudalismも、“fief”=領土、封土から来ている。


ちなみに、周王朝のメンター(精神的指導者、国教=国家的な教育または宗教)は諸侯を束ねる王自身であり、天命を司る者とみなされ、エジプト王朝が王をラー神(太陽神)の生まれ変わり、日本では天皇を神の子としたように王族を神とする“神道”が農奴制及び封建制を支持していたと思われる。ただし、日本の場合は神道の他に仏教も混合される為、ヨーロッパのキリスト教、中近東のイスラム教のようにはっきりと統一されたメンターとは言い難いかもしれない。



(注3)

理髪店は、5000年前の古代エジプト時代から既に営んでおり、古代ギリシャからローマ時代になると、広場や通りなどで出店を開いたり、高級理髪店もあったようで、朝、理髪店に寄って他の客達と談笑し、その日のニュースやゴシップ(噂話)をするのが公共風呂に並んでローマ人達の日常の決まりだった。

なお、理髪店が抜歯や瀉血(血を抜く)といった医療行為を行うようになったのは、医学が廃れてしまった中世の頃からで、ローマ時代の理髪店はあくまで髪やひげを整えるだけのサービスしかしていない。


(注4)

葛湯くずゆ・・・マメ科のつる性植物である葛の根を粉末状にして水で溶いて砂糖を入れて鍋でかき混ぜながら作る飲み物のこと。

葛の根の主成分はでんぷんだが、微量とは言え、植物性エストロゲンが含まれており、これが血流を促進して体を温めたり、首や肩の凝り、更年期障害を緩和したりする効能がある。風邪の症状に効く薬として「葛根湯かっこんとう」がよく知られるが、これも葛の根の他に様々な薬効のある植物を混ぜて作った漢方薬として売られているものである。

なお、現在、日本で多く出回っている葛粉は作るのに手間暇がかかり、葛そのものの生産量が少ないため、そのほとんどがじゃがいもやサツマイモ、トウモロコシを混ぜて作られており、また、葛であっても中国産が多く、日本のヤマトクズではないことが多い。



(注5)

堕胎は、闇の中で行われることが多く、歴史的な起源を探ることは難しいが、それでもBC16世紀頃のエジプトで「エーベルスパピルス」(医学書)に記されていることから、妊婦自身がお腹を叩いたり、わざと重労働したり、飛んだりはねたりして自己流で堕胎術を施していただけでなく、医療においても既に堕胎は行われていたようである。

ただし、古代においても堕胎は禁忌タブーであり、法律上でも犯罪とされてきた。

何より、命の尊さや畏怖の念に加え、遺産相続の上で争いの種にもなるからである。

しかし、子供の出産そのものを希望しない為だけに堕胎があるわけではなく、出産を希望していても既に胎児がお腹の中で死んでいて産めない場合や、出産することで母体と胎児の両方に生命危機がある場合、堕胎の処置をしなければならないこともある。

そういった出産医療における様々な症例に対応すべく、医学が発展し、女医や産婆が存在していたギリシャやローマ時代、堕胎技術もいろいろと開発されるようになった。

ギリシャ時代は特にシルフィウムやヘンルーダ(またはコモンルー)の油といった植物ハーブを使った薬剤処置が主流で、医療道具が発展したローマ時代になるとメスを使って胎児を引き出す外科的な処置もされるようになった。

むろん、イエスが生まれるはるか昔からイスラエルでは当然、堕胎は宗教上でも法律上でも許されないことだったし、堕胎が見つかったら理由を問わず罰金が課され、妊婦を死なせたら即、死刑もしくは妊婦の傷害に応じて同じ体罰が加えられた。(出エジプト記21章22節)

だからと言って、闇で堕胎が行われなかった訳ではなく、『なぜ、わたしは生まれた時に消えなかったのか?なぜ、子宮から引き出して死なせなかったのか?』(ヨブ記3章11節)とあるように、紀元前からユダヤでは堕胎は行われていたようである。


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