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第八十六話 最後の預言

イエスの話にすっかり興味を無くし、人々がその場からいなくなってしまうと、イエスはもはや何も言わず、そのまま静かにエルサレム神殿を出て行った。


弟子達も、イエスの後を追うようにして神殿をすごすごと帰っていくしかなかった。

あれほど華やかにイエス一行を出迎えた人々も、さっきの出来事などまるでなかったかのように神殿の敷地を行き交い、決められた場所で、僧侶や教義によって教えられた通りの、いつもと変わらない祈りや供物を捧げていた。

そんなエルサレム神殿を見ている限り、どこも活気に満ち溢れ、今まさにその栄華を誇っていた。

それとは対照的に、誰からも相手にされず、寂しく惨めな様子で神殿を去って行くイエスを人々はもう振り返りもしなかった。


ただ、僧侶と戒律の教師達だけが、民衆の期待に反して墓穴を掘ったイエスの後ろ姿を溜飲が下がる思いで見送っていた。

そうして、自分達の手にイエスが落ちる日の近いことを彼らは確信したのだった。





来た時と同じように、イエスはシュシャン門(東門)をくぐって神殿の外に出ると、そのまままっすぐゲッセマネ庭へと歩いて行った。



ゲッセマネ庭は、オリーブ山のふもとに設けられた小さな果樹園で、そこは普段、僧侶達がエルサレム神殿に捧げるオリーブ油を搾るための聖域でもあった。


オリーブは、元々、人類史以前の2000~4000万年前に既に地中海沿岸地域に存在していたらしく、シリアやイスラエル、クレタ島などで栽培され、主に食用油としてエジプトなどに輸出されて巨万の富を築くこととなる世界最古の貿易品の一つだった。

そのため、農業を本格的な国家産業にし始めたメソポタミア文明(BC9000年頃)においては、シュメール人達が崇めていた月の女神インアンナ、アッシリアでは女神イシュタール、ギリシャ神話では女神アテネの“象徴シンボル”(現代で言えば、クリスマスにおけるサンタクロース関連グッズや日本のキャラクター商品のようなもの)として扱われ、古来より地中海沿岸に住む人々の間では、オリーブは“農耕の繁栄をもたらす聖母神”、“平和”、“栄光”、“勝利”、“権力”、“豊穣”、“知恵”、“清らかさ、(オリーブ油などの)純度の高さ”そのものを表すものとして考えられるようになった。


そうした経緯から、オリーブはこれまで食用油を始めとして、石鹸やバスオイル、ランプの燃料といった生活必需品として愛用されてきたが、“聖油”として王位を授ける者の頭に注いだり、死者を埋葬する際の防臭剤(エジプトのツタンカーメン王の墓からも出土している)などにも使われるようになり、次第に縁起物として宗教にも深く浸透するようにもなっていった。


恐らく、モーゼ自身もその影響を多大に受けていたせいか、彼が書き残したトーラ(モーゼ5書)には、“アーモンド”の木(オリーブと同じくメソポタミア文明の頃からの貿易品)を模して、1本の木から枝が3本、左右から伸びた形の7本芯のある黄金の燭台ランプスタンド(ヘブライ語ではメノーラー)を神殿の内側境内に飾ってこれに火をともし、毎朝、その燃料として新鮮なオリーブ油を芯のある受け皿に注ぐよう定められていた。(出エジプト記25章31節及び27章20節参照)

そこで、僧侶達はゲッセマネ庭を作ってオリーブの木々を栽培し、秋の収穫には実を石で挽いて油を採り、それを神殿まで運んでいたのである。

しかし、それ以外にこの庭を訪れる人はほとんどおらず、イエスは静かで人の少ないこの場所を特に気に入り、ユダ地方でイエス達が分散して活動を行う際はいつもこの庭を自分達の待ち合わせ場所に決めていた。


それに、ゲッセマネ庭はガリレー地方へ帰る道の途中にありながら都会エルサレムの人混みを避けられる唯一の場所というだけでなく、ここからだとエルサレム全体がよく見渡せるという点でもイエスはとても気に入っていた。



特に、今日のように晴れ上がった日だと、ゲッセマネ庭から見下ろすエルサレムの街はよりいっそう美しく見え、さらに爽やかな春の空気とオリーブの葉の芳醇ほうじゅんな香りが鼻をくすぐって、庭の中にいるだけで心が澄み渡っていくようだった。

しかし、今日のイエスはそんな気分になるどころか、さっきの出来事を思い返しては悔しさと悲しさで胸が押し潰れそうだった。




イエスもさすがに疲れ果てていた。


昨日から今日にかけて、これまで以上に様々な出来事や思いが錯綜し、ありとあらゆる苦しみが容赦なく彼の心と身体に襲いかかってくるようだった。

サンヘドリンから否応なしに突きつけられる殺意や憎悪、嘘で固めたような師弟関係、誰にも自分の気持ちを分かってもらえないもどかしさ、こういったことに加え、やはりどこか消し去れない“自分”という人間に対する迷いや不安、そして自分という存在が完全に消えてしまう死への恐怖。



自分では自分の使命というものをよく分かっていたつもりだったし、エプライム村を出る時には既に十分、覚悟は決めていたはずだったが、それでもこれらの全てを心に抱え込むのはやはり苦痛だった。

だから、自分の切ないまでの“想い”を訴えて、それがまったく無反応に終わった人々の冷たい態度に耐え切れず、イエスはその苦痛から逃れようとそのまままっすぐゲッセマネ庭を目指したのだった。

そして、庭の中の石段を登って高台までやって来ると、イエスは腰を下ろすのにちょうどいい岩の上に座り込んだ。

すると、彼の後を追いかけて来た弟子達がようやくイエスのところまで追いついた。



「はぁ、はぁ・・・、ラビ(先生)、大丈夫ですか?」

ペトロは息を切らせながら、イエスにそう尋ねた。

自分でも気が付かないほど、かなり早足でここまで登ってきていたらしい。

イエスはあまりにも自分が取り乱していたことに少し恥ずかしくなった。

「ああ、すまない。わざわざ追いかけて来てくれたのか?

どうにもここに来たくなったものだから、お前達を振り切ってつい走って来てしまった。心配するな、わたしは大丈夫だ。

こんなことは今日に始まったことじゃない。

今までだってわたしの説法を受け入れてもらえなかったことは何度もあった。

それを今更、くよくよしても仕方ないのにな。

だが、今日はつい人の多さにわたしは浮かれていたのかもしれない。

油断していたよ。

あまりの浮き沈みの激しさにどうにも自分では我慢できなくなったんだ」

そういって、イエスは自嘲気味にちょっと笑って見せた。


ペトロも弟子達も何とも言えない表情で突っ立っていた。


彼らの方も、神殿で集まっていた人々と同じようにさっきのイエスの話にどう応えていいのか分からなかった。


ただ、彼らの中では何かが確実に終わっていた。


それは、昨日のイエスとユダとのやり取りで感じたしこりのようなものが更に大きくなって、イエスに対して抱いてきた尊敬の念や憧れといった気持ちなどもうすっかり消え去っていた。

そして、この時、改めて自分達とイエスの間には遠からず決定的な別れが来ることを彼らは覚悟したのだった。

彼らの様子からそれに気づいたイエスは、さっき世間に向かって訴えたように、弟子達にも同じように自分の正直な考えをもう一度、話すことにした。


「ほら、ご覧。

ここからだとエルサレム神殿がよく見えるだろう?

確かにあれほど立派な建物はそうないだろうし、さっき神殿の僧侶が言っていたが、何十万、何百万と言う信者達があそこを目指してやって来るんだから、あの神殿はきっと永遠に残っていくものだと誰もが思うかもしれない。

だが、あそこにある柱はもとより、石ころの一つに至るまでもう地上ここに残ることはないだろう。

わたしは、これまで何度も彼らに話をしてきたし、さっきも彼らに警告してみたが、それでもまだ、彼らは自分達が一体、誰と争っているのかを全く気づこうとはしない。


だから、この先、この世代が一体、どうなっていくのか、わたしはお前達に話しておかないといけない。


そうして、お前達も気をつけるといい。

今日、大勢の人達が私達を出迎えてくれたが、彼らがなぜ、あれほどまでにわたしを歓迎するのかお前達にも大体、予想はつくだろう?


最近、エルサレムには不穏な空気が流れているし、治安もどんどん悪くなってきている。

今の政治に反発して、この国の多くの人達がいろいろと暴動を起こしているし、中にはその機運に乗じて戦争をしようという物騒な連中まで出没するようになった。

だから、そういった風潮やデマに押されて、そのうち、ちょっと名の知られた人物が出てくると、その人物をかつぎ出して民衆を間違った方向へと導こうとする人達もたくさん出てくるだろう。


今の世相を見る限り、悲しいことだが、決していい方向に向かっているとは思えない。


今日、わたしの話を聞いていた人々が、なぜわたしに背を向けたか、お前達は分かるだろうか?

それは、もう目の前にあるものだけが彼らにとって信じられる全てになってしまったからだ。

そこに存在するものの意味やその背景を深く考えずに、ただ何かが目につけば、特に何かが“数多く”存在していれば、その全てが正しいんだろうと思ってしまっている。

だから、神殿の立派さや信者の多さを見て、そこにある全てが正しいのだと信じ込んでいるんだ。

だが、実際はそうじゃない。


この世には善もあれば、悪もある。


人は、神のように完璧な善にはなれない。

つまり、“神”には決してなれないんだ。


だから、何が正しいか、何が間違っているのかを自分でちゃんと見極めていないと、どんな人だって迷うことはあるし、過ちを犯してしまうことだって時にはあるものだ。

だからこそ、人は心から神にすがって、自分が間違った方向に行かないようにと神に祈るのだ。

そうして、何が正しいかを自分の心に問い掛ければ、神は必ずその声に応えてくれる。

“神”は、どの道がその人自身にとって一番、いい道か、正しい道なのかをちゃんと一人一人、その心に教えてくれるのだ。


『その時、お前は来て、わたしに祈る。

 そして、わたしはお前の話を聞いてやろう。

 お前はわたしを求め、そしてお前が本当に心の底からわたしを求める時、

 わたしはお前によって見つけられるのだ』と神はおっしゃっている。

                        (エレミア29章12−14節)


だが、人が義を持って生きる道はそうそう平坦なものじゃない。

正直に言うなら、心ある人ほどいろいろな苦しみや悲しみが襲ってくるものなのかもしれない。

だが、人は困難から何かを学び取り、心の痛みというものを知るからこそ、他人の痛みにも優しくなれるし、強くも賢くもなれる。

だから、どんな困難が襲ってきても、どうかそれを怖れず、勇気と希望を持って立ち向かって行って欲しい。

それがお前達へのわたしの願いだ。


きっとこの先、もっとファリサイ派や戒律の教師達のような偽善者が増えてくるに違いない。

彼らは、現状を無視してデマやまやかしに走り、人の不安や憎悪を煽って喜ぶ。

そして、ただ目に見えている力や形、利益ばかりを追い求めて、心の底では本当は“神”をあなどっている。

だから、彼らは格好ばかりを気にして仰々しい衣装や偉そうな帽子を被り、市場や宴席で大勢の人達から『ラビ(先生)、ラビ』ともてはやされて、権力が使える高い地位につくことばかりこだわる。

そんな人達がこの先、幅を利かせるようになれば、お前達は彼らの言うことに従わなければならなくなるだろう。


確かに彼らの説法は聞こえの良いことばかりだ。

だが、彼らは、自分達で説いたことなどすっかり忘れ、さらにいろいろと指示を与えてくるが、そのくせ、自分達では指一本でさえまともに動かしてそれを実行しようとはしない。


だから、お前達は、彼らが説くことは実行しても、彼らが実際にやっていることは真似るんじゃない。

お前達は彼らのように、ラビ(先生)とも、父とも、主人とも呼ばれるべきじゃない。

私達は皆、兄弟であり、誰が上でも下でもなく、ただ、天におられる“お方”だけを御父とし、主であり、神であると仰いでいれば、それでいい。

自分を高く持ち上げたがる者ほど低く置かれ、その心に謙虚さを持つ者ほど高く置かれるようになるものだ。

だから、世間の波にさらわれないようお前達は気をつけるがいい。




そのうち、わたしの名を騙り、『わたしがキリスト(救い主)だ』とか『神の声を聞いた!わたしはキリストを見た』とか言って、多くの人達を誘うだろう。



それにそそのかされて、国が国に歯向かい、王国が王国を侵そうとする。

飢餓も起これば、様々なところで地震も起きるだろう。

こういったことは全て“産みの苦しみ”の始まりなのだ。

そうして、お前達は迫害を受けたり、死を突きつけられるかもしれない。


“わたしの言葉”を信じてくれたせいで、全ての国々から嫌われることもあるだろう。

その時は、もう多くの人達が信仰を捨て去っていて、お互いを裏切り、憎み合っている。


そして、もっと多くの偽預言者達が現れて、さらに多くの人々を騙すことだろう。

それほどまでに世界は悪意に満ち、ほとんどの人達の愛は冷め切ってしまう。



だが、それでも最後までしっかりと“神”(愛、正義、真実)を信じ続けた人には必ず救いがもたらされる。

そして、この“わたしの言葉”は全ての国々への真実の証言として世界中で話されることだろう。



その時、ようやく世界の“産みの苦しみ”に終わりがやって来る。




お前達が、この聖なる地で預言者ダニエルの口を通じて告げられた『荒廃を呼び起こす非道な行い』をその目で見る時、ユダ地方にいる者は山々へ逃げるといい。

家に戻って衣類やその他のものを取って来て逃げようなどとは思わないことだ。

妊娠中の女性も子供を連れた母親もその日々は恐ろしいものになる。

その日々が寒い冬の日やサバス(安息日)に起こらないよう祈ることだ。

だが、その日々が早く来なければ、誰も助かることはできない。

だから、その日々は神により選ばれた人達の為に早くやって来る。


その時に、もし誰かが『ほら、ここにキリスト(救い主)がおられる!』とか、『わたしはあそこでメシアを見た』とか言う人がいても、決して信じてはいけない。



だが、そうは言っても、偽メシアや偽預言者達はそれまでにすごい徴を示したり、奇跡のようなことでもして見せるだろう。

だから、他の多くの人達はもちろん、神により選ばれた人達でさえも彼らに騙されるかもしれない。

だから、『あの砂漠にキリストがおられる』とか、『ここだ。彼はわたしの部屋におられる』とか聞いても、その言葉を信じてついていかないことだ。

いいね?

わたしはお前達に前もってこれを言っておくからね」



イエスが強く念を押すようにそう話すと、誰もが言葉を失ってシンとしてしまった。

さっき神殿で聞いたイエスの話にも弟子達は少なからず驚いていたのだが、今の話は彼らをもっと困惑させていた。

彼らにはもう、イエスが一体、何の話をしているのかがさっぱり分からなくなっていた。

それでも、ペトロは、その今のイエスの話に何となく興味をそそられて、さらにその続きを聞こうと彼に尋ねた。

「ラビ、では、その恐ろしい日々とは一体、いつ起きると言うんでしょう?

預言者ダニエルが告げた、その『荒廃を呼び起こす非道な行い』とは一体、何のことなんでしょうか?」

すると、イエスはペトロをにらむように強い視線を向けてこう言った。


「誰にもその日、その時は分からない。

神の召使や神に選ばれた人でさえもそれを知らない。

ただ一人、天上におられる御父だけがその日、その時を知っておられる。

なぜなら、天と地(宇宙と地球)を統合して治めておられるのは、唯一、天におられる“神”だけだ。


だから、その“神”のお考えがお前達に分かる訳はない。


多くの人はその日を知ろうと、空の兆しや占いなどに頼ろうとするが、お前達はそういった偽預言者達の言葉に怯えてはいけない。

ノアの洪水が起きた時も同じだった。

誰もが歌い、喜び、結婚し、酒を飲んで騒いでいた、ノアがあの箱舟に入るまでは。


だから、彼らは何も知らず、ノアを馬鹿にして笑ったが、そうして、皆、そのまま消えて行った。

だから、神により遣わされた人の子が来る時は誰にも分からない。

実際にその日、その時が分からないからこそ、お前達は“神”から背かないよう、神の愛を裏切らないよう、いつも気をつけるといい。

そのうち、心を失い、信仰を捨て去った人々は、善良なる“神”を侮り、何でも赦されると思って何も知らない多くの人々や何かを不当に利用し、それらを犠牲にして捧げることだろう。

それが、預言者ダニエルの告げた『荒廃を呼び起こす非道な行い』ということだ。


だが、これが起きるのはもう避けられない。

ダニエルが預言した通り、しばらくすると、4頭の大きな獣達がこの地上に現れる。

彼らのうち、最後の獣がこの世界を支配する。

最初に現れる3頭の獣達も大いにこの世界を牛耳るが、最後の“一本角の山羊”が他の3頭達を踏み潰すだろう。

最初の3頭は“二本角の羊”のようなものだ。

その羊はペルシャとメディア(どちらもバビロニア文明から生まれた王国)から生み出されたもので、二本角のうち一本は短くて、もう一本は長くできている。

この長い角がますます大きくなり、そして、その羊の欲するがままこの世界を抑えるだろう。

だが、その羊からまた別の一本角の獣が生まれる。それが“一本角の山羊”だ。

この山羊はギリシャからやって来て、他の獣達よりももっと傲慢に振る舞い、聖なる人々を負かし、戦争をするよう人々をそそのかすだろう。


この一本角の山羊は、最も聖なる“お方”に逆らってものを言い、天から遣わされた人々を抑圧し、そして、それまでの時や法の内容を何とか変えようとする。

だが、必ず天から遣わされた人々の為にこの山羊にも裁きは下る。

それまではこの山羊がこの地上を制することだろう。


― 玉座はその場に置かれ、

  そして過ぎ去った遠い日々がその者の席を奪う。

  その者の着物は雪のように白く、

  その頭にある髪は綿のように白い。

  その者の玉座はまるで火で包まれて燃え立っている。

  そしてその車輪はすっかり火で覆われている。

  火の川は流れていく、

  その者の前からさらにその火を外へと流しながら。

  何千にさらに何千を加えた人々がその者に従う。

  何万にさらに何万を掛け合わせた人々がその者の前に立っている。

  そして裁きは始まり、本は開かれる。

                   (ダニエル7章9−10節)



これは必ず起きるだろう。


だが、ああ、わたしはこれを言わずにはいられない。

ああ、呪われてあれ、何も知らない多くの人々や小さな子供達に罪を犯すようそそのかす、心ない世間の人達よ!

ああ、呪われてあれ、自分達の思うがままに世間を導こうとする、ギリシャの山羊よ、ファリサイ派や戒律の教師達よ!

お前達は海を超え、陸を渡って、人々に偽りやまやかしを教え、改宗させてさらにその悪意を増幅させる。

人を寺に誓わせたと思ったら、すぐにまた金の寺にも誓わせ、さらに人の心よりも貢物や偶像の方を聖なるものと呼んで、これを敬う。


だが、お前達はそうやって形にばかりこだわり、香や供物を捧げて熱心に祈るよりも、人としてもっと大事なことを忘れてはならなかったのだ。




愛、正義、平等、真実。




“神”により授けられた人としての“心”を磨き、神がご自身の一部として与えたこれらの“精神(SPIRIT)”をきちんと実行してこそ初めて、香や供物を天に捧げて祈るべきだったのだ。



ところが、お前達はまるで白い墓か、べっとりと油がついた食器のようなものだ。

外見はきれいに洗われ、磨き上げられていても、その中身は人や何かの血と骨、不浄なものがどっさりと埋まっている。

それと同じように、表向きはいかにも誠実で、親切そうな振りをしているが、実際の心の中は妬みに恨み、悪意や憎悪、不道徳な考えで一杯になっている。

おお、エルサレム、エルサレム。

お前達は一体、何人の罪なき預言者達を石で追い払い、死へと追いやったのだ?


寺の角で、街の隅で、祭壇の裏で、お前達は何度、賢人達や心義ただしき人々の血をこの大地に流してきたのだ?

だが、神から授かったこの聖なる大地は、そういった罪もない人々の血で染めるために横たわっているんじゃない。




地上ここは、家を建て、畑を耕し、家畜を育て、結婚し、子孫を生み育て、そうやってそれぞれの生命を大切にし、互いを愛し合って、助け合って“生きる為に”、それぞれが幸せになれるようにと、“神”が与えてくれたものなのだ。




それでもお前達はそのことを理解しようとはしない。

その神の愛に気づこうともしなかった。

だから、必ずこれらの罪はこの世代に降り注ぐだろう。


見るがいい、豊かに木々が生い茂るこの地が、一瞬にしてどれほど荒れ果てた地になるかを!

お前達にもう一度、言っておく。

二度とわたしを見ることはないだろう、お前達が心から『主の御名で来られる人に祝福あれ』と言わない限りは!」



この時、イエスの常軌に逸したようなきつい言葉は、弟子達にとって衝撃的と言うよりも、彼が自分、ひとりの考えに酔いしれて狂ってきた兆候としてしか受け取られなかった。

そして、イエスに続きを促したペトロの方も、彼の預言の意味を深く考えず、何となくその言葉が持つ響きにゾクゾクとした戦慄せんりつのようなものを覚えて、面白がっていただけだった。


実際、ペトロがこの最後の預言の意味を真剣に振り返って考えるのは、これよりももっと後になってからのことだった。

そして、その時になってペトロがイエスの言った本当の意味に気づいたとしても、その時はもはや手遅れだった・・・。



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