第八十五話 最後の教え(2)
「・・・お言葉ですが、ラビ(先生)、わたしにはあなたのおっしゃっていることがよくわかりません。
そもそも、私達、ユダヤ人はこれまでずっと神の法を守ってきました。
私達は、ここに来て、ちゃんとお祈りもしていますし、供物も捧げています。
それに戒律だって一度も破ったことはありません。
なのに、どうして私達は神の法を守っていない、とあなたはおっしゃるのでしょう?
だったら、私達が守らなければならない、“一番、大切な神の法”とは一体、何だとあなたはおっしゃるんでしょう?」
そう言って、その少年は戸惑ったような、それでいて納得のいかない目をイエスに向けた。
むろん、イエスの話に首をひねり、怪訝そうな表情を浮かべるのは、その子だけではなかった。
そして、その場にいた誰もが少年の質問に頷き、イエスを真剣に見つめて、彼の答えをじっと待っていた。
イエスは彼らをゆっくりと見渡し、そしてそっと自分の胸に手を置いて答えた。
「それはちゃんと律法書のすべてに渡って最も大切な法として書かれています。
私達が守らなければならない、私達にとって最も大切な神の法とは、
『あなたの主である、あなたの“神”(良心)を、その心のすべてで、その魂のすべてで、その力のすべてで、あなた自身が愛することです。』
神(善)以外に神はいない。
人のように悪を知り、悪意を持ち、悪事を行う神などいない。
神(善)は、神(善)である。
神はこの天地(宇宙と地球)における唯一、究極の善であり、愛そのものです。
『だから聞くがいい、イスラエル人(世間と闘い、これを克服しようとする者達)よ。
主は唯一の存在である。
それゆえにその心のすべてで、その魂のすべてで、その力のすべてで神(善)を愛せ』
(申命記6章4節)
それはあなた方が捧げる供物や貢物などよりも、ずっとずっと大切な法です。
“神”はあなたの心の全てをご存知です。
あなたが何を思い、どう生きてきたのか、“神”はあなた以上に、あなたの全てを、あなたの心の奥の、奥の、奥底まですべてご存知なのです。
だからこそ、あなたの心のすべてで、その魂のすべてで、その力のすべてでもって
どこまでも“神”(善)を愛し、
どこまでも“神”(善)を敬い、
そして、いつ、いかなる時であろうとも真心で持って“神”(善)に従うことです。
そうすれば、あなたは必ず幸せになります。
どんな困難が襲いかかってこようと、あなたは決して負けません。
あなたはそうして生き抜いて行けるんです。
なぜなら、あなたの持つその“生命”(いのち)(良心)を授けてくださったのは、他の誰でもない、あなたの神様なのですから」
イエスがそう答えると、誰もがふぅっとため息をついた。
辺りは何とも言えない静寂が漂い、誰もが息を殺していた。
皆、何も言わず、何も話せず、ただ黙っていた。
どう、イエスに応えていいのかさえ分からないようだった。
しかし、「貢物や供物などよりも大切だ」というイエスの言葉に、耳をそばだてて聞いていた僧侶達がそのまま黙っている訳はなかった。
「何をふざけたことを言っているんだっ、インチキ預言者め!
そうやってうまいことを言っては人をたぶらかし、人を惑わして悪事に導いているのはお前の方じゃないか!
わたしは騙されないぞ。
お前に一体、何が分かると言うんだ?
お前は、どんな権威や知識で持って、私達に“教える”などということができるのだ?
一体、何様のつもりなんだ!
お前の説くその神が、このエルサレム神殿を、ここにいるだけでなく、世界中に散らばる何百万、何千万もの私達の信者達を何千年間にも渡って救ってきたとでも言うのか?
連綿と築き上げてきたこれまでの私達、祖先の歴史も、ありとあらゆる血脈も、神殿における様々な定義も、すべて間違っていた、嘘だったとでもお前はいけしゃあしゃあと言うつもりか?
笑わせるな、この嘘つきめっ!
律法書のすべてに渡って書いてあります、だと?
お前は何を読んでるんだ?
少なくともお前が読んでいるのは“私達の神”が授けた正当な律法書ではない。
神は私達にちゃんと供物や貢物をするよう指示なさったのだ、それがちゃんと書いてある。
そして、これはモーゼの頃よりちゃんと守られてきた神の法だ。
そのおかげで、エルサレム神殿はこのようにちゃんと建っているし、私達、僧侶達はこれまで多くの信者達をこの手で救って来たのだ。
それは誰の目にも明らかではないか。
この事実を知っている者なら、決してお前の言葉になど惑わされたりするものかっ!
お前の神はお前だけの神であって、私達、ユダヤ人が、世界中の信者達が信じ、救われてきた神ではない。
ここはお前のような穢れた者が立ち入る場所でもない。
私達の神が私達、ユダヤ人に授けた場所だ。
出ていけっ!」
僧侶の一人がイエスを指差しながら、そう言って激しく詰め寄った。
すると、さっきまでイエスの話に真剣に聞き入っていた群衆も、僧侶の言葉にハッと我に返り、そこで改めてイエスの姿をうさん臭く眺めだした。
確かに、一瞬はイエスの言葉にも一理あるような気はした。
だが、彼らにしてみれば、煙のようにどこからともなくわき出てきた、どこの馬の骨ともわからない男が、何百万人もの人々が集うこの広大なエルサレム神殿の境内のど真ん中で、これまで世界中のどの学者も、どの僧侶達も唱えてこなかったような神についての突拍子もない話を説いたところで、「アーメン(ヘブライ語で『はい、その通り』の意)」などと言ってイエスの話を信じるどころか、彼の説を賛同すらできるはずもなかった。
しかも、この当時、安易に彼に賛同してサンヘドリンからあらぬ嫌疑をかけられでもすれば、本当に命取りにもなりかねない。
それほど、神が与えたはずの人の命がこの国では粗末に扱われていた。
街の至る所で暴動が起き、熱心党やシカリといったテロリスト達が幅を利かせるようになり、洗礼者ヨハネのような何の罪もない普通の人が理不尽なリンチ(私法)によって処刑されてしまうほど、人の生命はまるで金や物よりもずっと軽んじられるようになっていた。
そして、この絢爛豪華たるエルサレム神殿に鎮座する僧侶達こそ、神(究極の善)であるかのようにその言葉と定義だけは誰も疑問を差しはさむことなど許されないことだった。
だから、いくらイエスが死者復活の奇跡を成し遂げたにせよ、この時、イエスの話を間近で聞いていた人々が最も恐れたのは、自分の心の中の真実(神)の声よりも、国教という名の国権でもって民衆を支配する僧侶達の言葉であり、まさかこの名もない男の到来によってこの壮麗にして堅固なエルサレム神殿と、自分の祖先によってこれまで何千年と教え伝えられてきたユダヤ教の教義そのものがもろくも崩れ去ることになるなどとは誰も想像だにしなかったのである。
そうして、それまでイエスを囲んで座っていた人達は、神の話や宗教的な説教より、自分達が期待していた死者復活の奇跡の顛末やローマ帝国への批判、過激な宣戦布告といった煽情的な話が聞けないことにがっかりし、一人、また一人と彼から段々と離れていった。
さっきまで熱狂的にイエスを出迎えた人々も気まずそうにイエスの傍から立ち去っていき、そんな彼らの態度を見て、イエスは思わず、叫んでいた。
「皆さん、わたしの話を信じるということは、ここにいるわたしだけを信じるということではないんです。
それは、わたしをこの世に送ってくれた“唯一の御方”を信じるということなんです。
あなた方がわたしを見る時、それはわたしだけを見るということではなくて、わたしと共におられ、わたしをこの地上に送った“唯一の御方”を見るということなんです。
わたしはこの世界に光をもたらす為にやって来ました。
だから、わたしの言葉を信じてくれた人は必ず自分の心に希望の光を見出すことでしょう。
でも、わたしの言っている言葉を聞いたとしてもそれがまったく耳に残らず、それを心に留められない人がいたとしても、わたしはその人のことをとやかく言うつもりもないし、ましてその人を裁くつもりもありません。
わたしは世間の人達を裁くためにこの世に生まれてきたわけではなく、あなた方を救いに生まれてきたんです。
でも、この言葉を受け入れず、わたしを嫌い、わたしを拒んだ人はまさにわたしが今まで話した言葉そのものが、最後の日のその人への裁きとなるでしょう。
わたしは、わたし自身の意思でここにきて、こうしてあなた方に話しているわけじゃない。
わたしは、わたしをこの世に送った“御父”に何を話して、どう言うべきかを指示されて話しているのです。
そして、“御父”が教えてくれた通り、わたしがあなた方にその(心の)言葉を伝えれば、その言葉(心)がわたしに永遠の生命を与えてくれることをわたしは知っている。
わたしは永遠にあなた方の心(命)に刻まれることになる。
だから、わたしが今、あなた方に話していることは、まさしく“天の御父”がこれを伝えなさいと、わたしに教えてくれた言葉なのです。」
だが、そう叫んだイエスの前から立ち去っていく人は後を絶たなかった。
もはや誰もイエスに関心すら持たなかった。
誰もイエスの言葉に耳を傾けようともしなかった。
外はぽかぽかと春らしい優しい風が吹いていたが、そこにいる人々の心は冬のように硬い氷に閉ざされ、冷たいままだった。
イエスは一人、ポツンとその場に残され、やり場のない切なさと悲しみを噛みしめるしかなかった。
こうなることは最初からイエスも重々、わかっていたつもりだった。
律法書の言葉が自分の心の中で芽生え、育っていくうち、イエスは自分の使命が何なのか見えてくるようになった。
自分が何の為に生まれ、何の役割を果たさなければならないのか?
それがイエスの場合、そのすべてが最初から律法書に書かれていた。
― 一体、誰が我々のこのメッセージを信じただろう?
これまで誰に主の御腕となる者が顕されただろうか?
その人は主の御前でたおやかな苗のごとく育った。
まるで乾ききった大地にありながら
それでもなお、伸びていく根のごとく育った。
だが、その人には私達を惹きつけるようなそんな美しさもなければ、
誰もがひれ伏すような威厳もない。
私達が望むようなそんな容姿にも恵まれていない。
だから、その人は人々に嫌われ、拒否され続けた。
悲しみを知り尽くし、苦しみに慣れ親しんだ独りぼっちの人。
人々はその顔を背けるようにして、
その人を忌み嫌い、その人に敬意を払うことなど一度もなかった。
確かにその人は私達の心の弱さを取り去ってくれた。
私達の心の悲しみを持ち去ってくれた。
だが、私達はその人こそ神によって天罰を与えられ、
苦難と不幸にまみれることになったのだと思ってきた。
なのに、その人は私達が神を裏切ったために
刺し突かれることになった。
その人は私達が我欲におぼれ、悪を信じたために
押しつぶされたのだ。
そして、私達に平和(神)を愛する心を教えたという罰が
その人に下された。
私達はその人の傷によって癒されることになる。
私達はまるで羊のようにあっちこっち好き勝手に
道から外れていき、
それぞれが自分のことしか考えなくなっていった。
だから、主は私達、人間すべてが悪を信じたという罰を
その人に下した。
その人はずっと抑圧され、苦難と不幸を味あわされてきた。
それでもその人は決してそのことを話すことはなかった。
まるで羊が屠殺場に送れるように
その人もそこへ送られ、
まるで羊が羊毛を刈る者達の前で鳴かないように
その人も沈黙したままだった。
不当に逮捕され、裁かれて彼は連れていかれた。
だが、一体、誰がこの後、この人に子孫がいたことを伝えるのだろう?
(イザヤ53章1~8節)