第八十四話 最後の教え(1)
一方、そんな騒ぎの中、誰もがイエスを手放しで歓迎していたわけではない。
ファリサイ派やサドカイ派のようなあからさまなイエスの宿敵はもちろんのこと、その場にたまたま出くわした巡礼客や外国人観光客、地元のユダヤ人達の中にもイエス達一行をそれほど快く思わない者も少なからずいた。
イエスを歓迎して喜ぶ人々は、彼を見ようと我先に前へ出ようとする。
その度に隣同士が押し合い圧し合いするのだが、彼らはその行列の波に呑まれながらあまりの人の多さに圧倒されていた。
そして、その異様な光景はイエスを敵視してきた人々はもちろん、まったくイエスに興味のない人々にとっては言い知れぬ嫌悪を感じさせた。
「この様子だと、エルサレム神殿までこの調子で進むことになるのかな?」
群衆の後ろの方で、ちょうど神殿に出かけようと道に出て来た一人の男が横にいる友人にそう愚痴った。
「ああ、そうみたいだな。それにしても凄い人だな。
どこにも逃げる場所がないんだから、これじゃあ、皆、あいつの後ろをついて行く羽目になる。
まさしくあいつはロバに乗ったユダヤの王様だな」
「よせよ。滅多なことを言うもんじゃないぜ。
それでなくても、敵も味方もひっくるめていろんな連中があいつに目をつけてるって噂だ。
ここで変な事でも言ってみろ、それこそ無関係な俺達まで余計な悶着に巻き込まれかねないぜ。
あっ、やめろ、押すなよっ!」
男は、人の波に押されて自分の身体を突き飛ばしてきた群衆の一人を押し返しながら友人と話を続けた。
「あいつ、エルサレム神殿で何をするつもりなんだろう?
奇跡でも起こすつもりなんだろうか?」
ふと、友人がもらした言葉を聞いて、男は皮肉っぽい笑みを口元に浮かべて声を潜めた。
「だったら、見物だな。
まぁ、あいつがローマを何とかしてくれたら、俺もあいつを信じてやるよ。
だが、あいつはきっと何もできないだろうよ。
せいぜい今だけさ、あいつの人気も。
そのうち、すぐに消えていなくなるさ」
彼がこっそりそう言うと、男の友人も声を低くして言った。
「そうだといいが・・・。
どうも俺は嫌な予感がする。
あの男、もしかして飛んでもない厄介事を運んできたんじゃないだろうか?」
「そうかな?
まぁ、この人混みを見りゃあ、確かに今は“厄介事を運んでいる”ようだが。
それでも、あいつのインチキまがいの奇跡なんて、皆、すぐに飽きるもんさ。
だから、どうせ何も起きやしないって。
大体、どこの馬の骨だか分からん、あんなガリレーの田舎男にローマはもちろん、この世の中を変えられるなんて、誰も“まともには”信じちゃいないよ」
男が友人の懸念を一笑に付すと、友人の方もそれで納得したらしくそのまま何も言わず、再び行列の波に揉まれながらエルサレム神殿へと向かって行った。
そうして、様々な人々の思惑と期待を一身に受けながら、イエス達一行はようやくエルサレムの街が見渡せるゲッセマネ庭の前を通り過ぎ、そこからほんの少し先にある神殿と街への入り口にもなっているシュシャン門(=東門。第81話参照のこと)に到着した。
その門の辺りにも、既に行列の噂を聞いたエルサレムの街の人々がイエス達を待ち構えていた。
「ホザンナ(救いたまえ)!ダビデ王の子よ!」
「ホザンナ!主の御名において来られるお方」
さっき道で叫んでいた人々と同じように、彼らはイエスを熱狂的に出迎えた。
当然、サンヘドリンやファリサイ派の幹部達の耳にこの騒ぎが伝わっていないはずもなく、僧侶長や戒律の教師達もエルサレムに姿を現したというイエスをとりあえず確認しようとすぐそこまで出て来ていた。
むろん、彼らは大僧正カイアファやサンヘドリンの幹部達から、「しかるべき時が来るまでイエスには手を出さないように」と釘を刺されていたため、今は手荒な真似をするつもりはなかった。
それに、目の前の状況からしてそんなことをしようものなら、それこそ民衆から非難の矢を浴びせられ、自分達が不利になることは明らかだった。
とは言え、すぐ目と鼻の先にいるイエスが憎いのに変わりはない。
だから、のんびりとロバに揺られて自分達の前を通っていくイエスの姿を、彼らは歯軋りしながらじっと見つめていた。
シュシャン門(東門)をくぐると、そこはすでに神殿の外側境内となっていた。
そもそも、イエスの時代に建てられていたエルサレム神殿は、元はソロモン王の時代に建てられていた神殿の跡地を、さらに丘陵地帯の斜面を持ち上げる形でローマ式のアーチ型回廊でもって4階建てにし、地上からの高さは約30m(10階建て高層マンション相当。ただし、地下からの高さは約50m)、総面積が約14万平方メートルと、現代のサッカー場が優に20個入るぐらいの広さにまで拡張され、その最上階の部分に境内と神殿本体を設けたもので、イエスが生きていた時代ですでに46年もの歳月がその拡張工事に費やされてきていたが、その後も工事は続けられ、AD64年、ローマ帝国によって破壊されるわずか6年前にようやく完成することとなる。
そんな壮大なエルサレム神殿の境内は、内側と外側、二つの境内に分かれており、まず、内側境内は四方を高い壁で取り囲まれていて、中にある本殿を守ると共に、ユダヤ人以外の人間が決して中には入れないようにもなっていた。
さらに内側境内も細かく仕切られていて、中に入ってすぐの広場はユダヤ人女性(ただし、生理中の場合は入れない)が参拝できる最後の場所であり、ここから先は女人禁制の区域となっていた。
そして、この女性参拝者のための広場を囲むようにして四隅に建物がそれぞれ建てられていて、それぞれが供物として捧げられるためのオリーブや木材の倉庫だったり、あるいは“ナザレの誓い”(民数記6章参照)と呼ばれる断酒や剃刀断ちをして願掛けをするための特別礼拝堂や、さらにはライ病などの病人や障碍者のための清めの儀式を行う礼拝堂などが設けられていた。
そして、その広場から半円形の階段を上がると、ユダヤ人男性のための参拝場所があり、そこから先の境内と本殿へは僧侶以外の者が足を踏み入れてはいけない聖域となっていた。
一方、イエスが東門から入った外側境内は、神殿の敷地そのものを囲む外壁に沿って“ソロモン王の柱廊”と呼ばれる2本柱のアーケード式回廊が作られていて、そこから内側境内を囲んだ壁までは、それこそ数百万人もの参拝客達を十分、収容できるぐらいの広さを持った石畳の広場が拡がっていた。
実際、この頃のエルサレムへの巡礼客達は、祭りや行事がある毎に100万人を超えていて、毎年400万人近い観光客が神殿を訪れるという、まさしく世界でも名だたる観光スポットにもなっていた。
(ちなみに、現在のエルサレムの観光客数も毎年300万人程度である)
そのため、エルサレム周辺で宿の確保ができなかった巡礼客や外国人観光客達などがこの外側境内の広場で野宿していることもよくあることで、毎年、祭りになるとそこはまるで人種のるつぼと化し、様々な人達で広場もソロモン王の柱廊も埋め尽くされていた。
中でも、神殿南側にある回廊は、“ストア・バシレイオス”(ギリシャ語で王の列柱廊)と呼ばれるギリシャ風コリント様式の巨大な商業施設が建てられていて、屈強な男達が3人、手をつないでようやく囲めるぐらいの大きな柱が162本、中央アーケード(建物の真ん中の大通り)の幅が13.5m、高さが約33m、その高い天井から日の光が降り注ぐよう、中央アーケードの屋根を支える壁面に採光窓がずらっと並んで設けられ、そしてさらに、その中央アーケードの両脇にあるアーケードもまた、幅が9m、高さが約17mとかなり幅広く、現代の商業施設と比べてもそれほどそん色のない、ずいぶんと豪勢なレジャー施設だった。
ストア・バシレイオス(王の列柱廊)とは、元々、BC6世紀頃の古代ギリシャのアテネで作られていた、主に宗教的事案を協議したり、政治的な会議を行う公共施設のことだったが、時代と共に人々が集まって投票や政治演説をしたり、哲学を語り合ったり、法律相談の場だったり、自作のアート作品を展示したり、売買取引を行ったりと、次第に政治や宗教的な意味合いは薄れ、単なる公共スペースとしてローマ帝国時代の人々にも利用されていた。
(ちなみに、ストイック(禁欲および克己主義)という言葉が生まれたのも、BC3世紀頃に退廃的な欲に溺れた生き方よりも美徳にあふれた自然な生き方こそ人は幸せになりやすいという哲学を生み出した哲学者キティオンのゼノンが教えを説いたのがストア・ポイキレ(ポイキレ柱廊)だったため、彼らの哲学思想はストア学派と呼ばれ、そこからストイック(禁欲主義)という言葉になっていったようである。)
その後、ストア・バシレイオスは、ローマ時代になると“バシリカ”と呼ばれるようになり、細長い中央の廊下と、柱で区切った側廊が両脇にあって、その奥には半ドームの屋根を設けた祭壇があり、天井から壁面にかけてステンドグラスなどで覆われた採光窓のあるバシリカ式のキリスト教教会建築へと移り変わり、中世から現代にかけて今なお、多くの人々に利用され続けている。
そんなストア・バシレイオスがエルサレム神殿の境内にも設けられていたため、そこだけは外国人参拝客達も自由に出入りすることが許されており、神殿の南側の外側境内は市街地の中でも最も人でにぎわう場所だった。
とはいえ、そもそも神殿や寺院というのは、人が何らかの思いをもって神に祈りを捧げる場所として作られたはずだったのだろうが、そんな本来の意味(心)などすっかり忘れ去られ、エルサレム神殿もまた、好き勝手にフレスコ画などの壁画を描いて見せていたり、巷で流行っている楽曲を若者達があちこちで奏でていたり、有象無象の物売り達や詐欺師まがいに人に声をかけて金品をねだる物乞い、怪しげな屋台や出店などが横行し、それを誰も咎めるどころか、僧侶達でさえ気にもかけていなかった。
そんな世俗と変わらず、利だけを追い求める神殿の姿に失望し、かつてイエスが怒って出店をひっくり返してしまったのも、まさにこの場所だったのである。
あれから随分と月日が流れ、今はあの時とは全く違った状況でエルサレム神殿へとやって来たイエスは、さっきまで乗っていたロバから降りて回廊を渡り、再びあの広場へと向かっていた。
イエスがあの場所を目指したのは、どこよりもあそこが一番、多種多様な人々で溢れかえっているからだった。
あの広場には、ユダヤ人のみならず、ローマやギリシャからの外国人達もいる。
彼らを目当てに商売しようとする人達、その懐を狙うスリや物乞い、子供や大人、男に女。さらにイエス達の行列を見て、彼に過剰な期待を寄せて集まってくる人達や、逆に彼を敵視し、強い反発心を抱いている人達、それとはまた別に、そういったことに興味もなければ、イエスの名前さえ知らないような人達、また、彼に興味はあってもどこか胡散臭く思っている人達、等々・・・。
あそこには、ありとあらゆる人々の欲と、憎悪と、希望と、憧れ、そしてどうにも形容し難い人の思いというものが一塊になって集まっている。
それこそ、“世間”そのものがそこに凝縮されていた。
だから、イエスはその場所で自分の切なる最後の思いを訴えようとしていた。
そして、彼は、回廊の脇に重なって立ち並ぶ美しいギリシャ風の列柱を通り抜け、広場に出てくると、自分の方に集まって来る人々の輪のど真ん中に立った。
「エルサレム神殿にお集まりの皆さん!
今、偶然にもここに集い、ここにいるわたしを見知った方々!
どうか、わたしの話を聞いてください。
これまでにもわたしは何度かここでお話させて頂いて参りましたが、今一度、どうしてもわたしの知っている“真実”を皆さんに聞いていただきたいのです。
わたしがここで皆さんに何よりもお聞かせしたいのは、神様のことです。
私達、人間がこの世に生まれ、この世で育ち、この世で死んでいくその短い生涯に決して離れることのない、決して忘れられない、決して逃れたりもできない大いなる存在、その神様のことについてわたしはどうしても皆さんにお話ししなければなりません。
私達の“主”であり、私達の“神”、この天上(宇宙)におわす“お方”は、ただ、お一人だけなのです。
私達、人間のみならず、この地上におけるありとあらゆる生物の神様は、この天地(宇宙と地球)において、ただ一人、ただ一つ、この方以外に誰もいらっしゃらないのです。
この天上からいつも地上(地球)にいる私達、全ての生物を見下ろし、遠い過去から未来永劫、時代を超えて永遠に存在し続ける大いなる存在、それが私達の神様なのです。
だから、その方以外に“神”はいなかったし、これからもその方以外に“神”はおられません。
もし、ここにおられる方々の中でこれをお疑いでしたら、その方こそどうしてこの地上に“存在”しているのでしょう?
わたしは、何も難しいことを言っているのではありません。
神の存在を知るには、天上(宇宙)まで行って何かをしないといけない訳ではありません。
地の果てまで行って苦しい修行をする必要もないんです。
ただ、こう考えれば、とても簡単なことなのです。
どうして、わたしという人間がこの地上に生まれたのか?
どうして、この地上そのものがあるのか?
なぜ、雨が降り、陽が照って毎年、私達の口に入るよう穀物や木の実がなってくれるのか?
どうか、このことをよく考えてみてください。
水が流れ、草や木が繁り、海が波立ち、月や太陽が昇って沈む。
当たり前のようにも思えますが、これら全ての“生命”は、毎日、毎月、毎年、完璧なまでに“廻ってくれている”のです。
そのどれかが欠けてしまったり、そのどれかが突然、止んでしまったら、私達の生活は、地上にいる全ての生命はたちまち成り立たなくなってしまいます。
ただ、“いつもそこにあるだけ”のようにも思えますが、決してそうではないんです。
全てはとても大切なものなのです。
なくてはならないものなのです。
だから、こういったもの全てが何の分け隔てもなく、絶え間なく動いて私達の生を支えてくれているのです。
では、これら全ての生命を、私達、人間が一体、いつ創ったと言うのでしょう?
私達、人間が、自然にあるそれぞれの生命を毎日、毎日、完璧に巡らすことなどできるでしょうか?
私達が生まれるずっとずっと前から、それら全てはちゃんと“あった”んです。
この天も地も、太陽も、月も、星も、山や森、川や海、そして魚、鳥、動物達も、皆、私達が生まれる前からちゃんと揃っていて、しかも、滞りなく様々な生命が、遠い過去から今日に至るまでずっと巡ってきてくれたのです。
なのに、私達、人間は一体、あの“お方”に何をして上げたのでしょう?
これほどまでに完璧な世界を創り上げ、これほどまでに美しい地上(地球)を私達に与えてくださった、天におられるあの“お方”に、私達は一体、何をお返ししたと言うのでしょう?
私達、人間はただ、この地上における互いの利害の為だけに暮らし、それぞれの人生を潤わす為だけに生かしてもらっているのに、それに飽き足らず、時に誰かや何かを憎み、時に誰かや何かを侵し、時に誰かや何かを傷つける。
そうやって、互いを憎しみ、互いを殺し合って、それでも尚、天に向かって願をかけ、愚痴を言うのです。
そんな私達、人間を“あの方”はじっと我慢し、ただ黙って毎日、光を注ぎ、雨を降らせ、地上にあるどの生命も公平に優しく育んでくれているのです。
それでもまだ、わたしの話が信じられませんか?
だったら、どうか、あなた方、お一人お一人の人生をよく振り返って見てください。
決して苦しいこと、辛いことばかりではないはずです。
“神”は、どの生命にもそれぞれの人生を与え、それぞれの役割を担わせて生かしてくれているんです。
“神”は、まるで空気のように存在し、私達の幸せを願って、絶え間なく、私達それぞれに必要なものを、それぞれに合わせて与えてくれているのです。
それほど“神の愛”は決して押し付けがましいものではなく、そっと天から私達を見下ろし、地上にいる全ての生き物達を愛してくださっているのです。
ですが、その愛に甘え、“神”に愛されていることにうぬぼれて、私達、人間は今、何でも赦されるとばかりに傲慢になっていないでしょうか?
私達、人間は神の愛を疑い、神の教えに背いていないでしょうか?
私達は、神の声をないがしろにし、己の欲につき従ってお互いを傷つけあってはいないでしょうか?
わたしは、私達の“神様”についての真実を話すと共に、皆さんのこれからについて忠告しに参りました。
かつて預言者エレミアが、こう言いました。
『ああ、天上を統べる主よ、
あなたはその大いなる力で持って、その伸ばされた腕で持って、
この天と地をお創りになられました。
そんなあなたに何事も難しすぎるなどということはありません。
あなたは何千世代にも渡ってその愛を示されますが、
祖先達の罪に対し、その後、その子孫達の膝にもその罰をもたらします。
おお、大いなる力強い神よ。その御名は全知全能の主である。
大いなることがあなたの目的、
そして、全知全能であることがあなたの所業。
あなたの御目は人々の全ての道に開かれている。
あなたはその行いに合わせて報酬を授け、
そしてそれはその人の人格に見合ったものである。
あなたはエジプトで奇跡的な徴を行い、驚くべきことを成し遂げてくださった。
そして、今日まで彼らを生かし続けてくださった。
それはイスラエル人だけでなく、全ての人類もまた、
同じようにあなたは生かし続けてくださった。
だから、あの時の名声は、もちろん今もあなたのもの。
あなたは様々な徴と驚くべき行いで持って、
その全知全能の手と地上にまで伸ばしてくださった腕で持って、
さらに、その大いなる恐怖で持って、
あなたの民達であるイスラエル人達をあのエジプトから連れ出してくださったのだ。
だから、あなたは彼らの祖先達と約束したこの土地を、
ミルクと蜂蜜が流れるこの土地をちゃんと彼らに与えてくださった。
だが、彼らはここに来てその土地を自分達の物にはしたけれど、
彼らはあなたに従いもしなかったし、あなたの法も守ろうとはしなかった。
あなたが彼らの為にすべきことを指示してくださったのに、
それでも彼らはそれを守らなかった。
だから、あなたは彼らに全ての災難をもたらした。
ほら、見よ。
いかに砦の橋がこの街に渡れるように築き上げられていくかを。
剣に飢餓、そして疫病で、この街は襲ってくるバビロニア人達に手渡されるだろう。
あなたがおっしゃった通りのことが起こったのだ。
あなたが今、ご覧になっているように。』
(エレミア32章17−24節)
あなた方はよくご存知のはずでしょう?
かつてエレミアがこの預言を告げ、私達の祖先が一体、何をしてしまったのかを?
そして、この国は確かにバビロニア人達の手に落ち、虜囚の辱めを受けました。
何百年にも渡って、何百人、何千人もの人々の命が奪われ、傷つき、その生涯を悲しみと苦しみで覆うことになった。
その記憶を決して、決して私達は忘れてはならないのです。
あの時、エレミアがこうして神の言葉を教えてくれたのに、神様からの警告をきちんと私達に伝えてくれたのに、それでもなお、私達はずっと神の愛を裏切り続けて来たのです。
そうやって、何度も何度も、“私達、人間は神を失望させて来た”のです。
どうか、皆さん、わかってください、神様の気持ちを!
“神”は決して私達、人間をどうしようもなく傷つけ、苦しませ、悲しませたくて、この地上に送った訳ではないのだと。
私達の主は、私達の“神様”は、私達、人間がこの地上で平和に、幸せに、お互いを愛し合って生きていって欲しいとその大いなる神の愛を込めて、私達に善なる魂を、愛と情けを知る人らしい“心”(精神、Spirit)をその肉体に吹き込み、私達、一人一人をこの世に送ったことをどうか忘れないで欲しいのです。
だから、私達は、祖先達が犯してきた同じ過ちを繰り返さないよう、今度こそ神が私達、人間に授けてくれた神の法を守っていかなくてはなりません。」
イエスが長々とそこまで話した時、彼を囲むようにして座って話を聞いていた群衆の中から、一人の男の子がおずおずと立ち上がってイエスに尋ねた。