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第八十一話 終りへの道

ラザルス、マーサ・マリア姉妹によって催された夕食会で、イエスとユダが寄付金を巡って対立し、ユダが怒ってイエスをサンヘドリンに売ったその翌日、そんな昨夜の出来事など何事もなかったかのように、空は青々と晴れ渡り、のどかな鳥達のさえずりが遠くで鳴り響いていた。


それでも、昨晩と変わらなかったのは、夜遅くでもイエスとラザルスを見ようと集まっていた見物人達が、やはり昨晩と同じようにして朝早くから大勢、ラザルスの屋敷に詰め掛けていた。


驚いたことに、彼らの中にはもはやべサニー村やその周辺の村々の人達だけでなく、ペサハ(過ぎ越しの祭り)のために国外からエルサレムに巡礼にやって来ていたユダヤ人やイエスの噂を偶然、聞きつけたという外国人までがいた。

そんな騒ぎの中、ついにイエスは弟子達を連れ立ってエルサレムへと巡礼に向かうことにした。




これがエルサレムでの最後の活動になるかもしれないな。




イエスは今、自分がまさしく生と死の狭間にいることを予感しながら、それでもなお、悪あがきではあっても最後まで自分の思いを人々に伝えることにした。



それが自分にとって最後の最後まで果たすべき勤めだとも思っていた。



たった一人でもいい。

わたしが神からもらった御言葉を聞いて、それがその人の心に届くなら、その御言葉でその心が開かれ、その人の生を支える力となるのなら、それがその人にとっての救いとなる。


そして、わたしもまた、生きて人の役に立ったのだという喜びや誇りを手にすることができる。





わたしが伝えた愛(=神)を、誰かが愛し、またそれを誰かに伝えてくれるのだ。



だから、わたしは最後まで心を込めて伝え続けよう。



生きている限り、神への希望を失わず、最後の最後までできるうる限り、力を尽くす。

それが“わたしの生き方”なのだから・・・。




イエスは、そうしてこれから自分にもたらされるだろう最後の大きな試練を前にし、やはりどこかで神(良心)を疑い、死んでしまうかもしれないという恐怖とすべての苦悩から逃げ出したくなる気持ちと闘いながら、何度も何度も自分に言い聞かせ、自分を励ましていた。



べサニーからエルサレムまでの4kmの道中は、まず、オリーブが豊かに実るハー・ハザイティム(ヘブライ語で「オリーブ山」の意)の山沿いの道を西に向かって下り、山と共に道を挟むようにして横たわるキドロン・ヴァレー(エルサレムの東側からユダ砂漠を抜けて死海にまで至る丘陵地帯)を左に見ながら抜けていき、さらに山のふもとにあるゲッセマネ庭(ヘブライ語で「オリーブ油搾り」の意。エルサレム神殿に捧げるオリーブ油を搾る儀式を行うために聖域として設けられた境内のこと)まで辿り着くと、そこでようやく神殿の境内から市街地エルサレムへと入って行ける“シュシャン門”が見えてくる。


“シュシャン”とは、ヘブライ語でスーサ、東方において栄華を誇ったバビロニア帝国(アケネメス朝ペルシャ時代)の首都スーサを意味し、また、かつてはユダヤ人達が二度に渡って捕囚され、預言者ダニエルやエゼキエルがこの世の終末を告げた地ともされている。

そのエゼキエルが伝えた終末説の中に、

『東から昇る太陽に向かって神殿が建てられ、土下座して太陽を拝む人々がいる。ユダの人々も含め、この世の人々は血と暴力で充満し、神に背いた礼拝儀式を行っている。

神はこれらの人々に裁きを与え、このような忌むべき行いのすべてをこの地上から払い去り、神に従う人々がこの地上のあらゆる国々に散らばっていたとしても、必ずや幸福の地へと導いてやろう。

そうして神の栄光は主の神殿の東側の門の上で輝いていた。』(エゼキエル書8章16-18節、10章18節、11章16-23節)という話があり、これにちなんで、エルサレム神殿は東方に向かって建てられいて、神の栄光が宿る場所として東側に門が置かれ、いつの日か、この世の終末においてこの東のシュシャン(スーサの)門から救世主メシアがやってくると信じられていた。

ちなみに、このシュシャン門はユダヤが滅亡した後、何度か取り壊されてその位置がはっきりしなくなり、これまたエゼキエル書の中に書かれた『この門を閉じよ、誰も入れてはならぬ。神を畏れず穢れた身と心を持つ異教徒達を中に入れてはならぬ。なぜなら、この門から神はやってくる』(エゼキエル書44章1-9節)という話にちなんだのか、AC(紀元後)1541年にオスマン帝国トルコが再建して閉門して以降、21世紀の今日に至るまでその門の扉は開けられていない。

なお、シュシャン門は現在、英語名ではゴールデンゲート(黄金門)、現代ヘブライ語ではシャールハラカミム(神の慈悲を請う門)とも呼ばれている。






イエス達一行は、東にあるべサニー村からこの道をぞろぞろと、まるでパレードのように大勢の人々を引き連れてゆっくりと西にあるエルサレムに向かって進んで行った。



その道中の間にも、べサニー村からついて来ていた人々に加え、その騒ぎを耳にした山沿いに住む人々も一目、死者復活の奇跡を起こしたというイエスを見ようと、家の中から通りへと出てきていた。

彼らは、ナツメヤシの枝葉で作ったリュラブと呼ばれる常緑樹の束(日本で言えば、お祓いなどで使われる玉串のようなもの)を手に持って、それを振りながら自分達の前を通っていくイエス達の一行を口々に歓迎した。



「ホザンナ!(ヘブライ語で「救いたまえ」という意味で、賛美する時に使う)」


「神の愛よ、永遠なれ!主が私達と共にありますように!」


「主の御名において来られる方に祝福を!主の家から来られた方々を私達は祝福します!」


「主の御言葉に従われ、主を心より求められる方々に祝福を!」


その歓声は人の数と共に次第に大きくなっていくようだった。


これには、イエスも弟子達も戸惑うばかりで、かつて経験したことのない人々の歓迎振りに気後れし、彼らに笑顔を見せることすらできなかった。

しかし、人々はそんな彼らの様子を気にすることなく、うれしそうにリュラブを大きく振って高らかにイエス達を賛美した。


この時、彼らがリュラブを振るにはこれまた、律法書の由来があった。


― おお、主よ、私達をお救いください。

  おお、主よ、私達に成功をお与えください。

  主の御名において来られる方に祝福を。

  主の家から来られたあなた方を私達は祝福します。


  主は神である。


  そして、神こそ私達にその光を照らしてくださるお方。

  この手に大枝リュラブの束を持って、

  祭壇の尖塔まで行く祝祭の行進に加わりましょう。

                 (詩篇118章25−27節)

と言う詩節を彼らは思い起こし、イエス達が行進する姿にそれを重ね合わせていたからである。




だが、このリュラブのような、常緑樹の束を振るという祭儀や慣習が生まれたのは、実のところ、ユダヤ教が発祥ではない。


と言うのも、常緑樹は、“常に緑の葉が繁る”、つまり“永遠の命を持つ”ということを意味しており、これをシンボル的に扱うのは、樹木そのものを神聖視する思想もしくは宗教に基づいた慣習だからである。

しかも、ナツメヤシは、ギリシャ語で別名“フェニックス”(不死鳥)とも呼ばれており、“戦いにおける勝利”の意味もあった。

(ちなみに日本においても、お祓いに玉串を振ったり、神棚にサカキを飾ったり、正月になると門松を置くことも全て“神木”として樹木を神聖視する思想に基づいたものである)

ところが、イエスやモーゼ達が唱えてきたユダヤ教では、本来、そういった自然物や天体を崇拝する概念は全くなく、むしろ、自然物や天体を拝むことを禁じてきた宗教だった。


― お前達は、偶像やその他どんな形のものであっても作ってはならない。

  女の形であれ、男の形であれ、地上に住むどんな動物であろうとも、

  この大地を這いまわるいかなる生物であっても、

  空を駆け巡る鳥であろうとも、

  水の中を泳ぐどんな魚であっても、

  形を作ってそれを敬ってはいけない。

  そして、空には太陽、月、星々があり、

  これら全ては天上を織りなすものではあるが、

  それでもこれらに向かって供物を捧げたり、頭を下げてもいけない。

  こういったものは全て、主であるお前達の神が

  天の下にあるあらゆる国々に分け与えたものであって、

  これらを崇拝してはならない。(申命記4章16−19節)


にも関わらず、トーラ(モーゼ5書)には、戒律としてリュラブのような小道具を祭儀に使うよう指示したり、「供物としてワインやオリーブ油、生贄いけにえとして羊などを捧げなければならない」といった記述がよく登場する。(申命記及びレビ記参照)




実は、こうした“宗教的慣習”もしくは“祭儀規則”のほとんどは神からの指示というより、既に土着信仰で行われていた慣習や祭儀などを見て、モーゼ自身か、あるいは後世のユダヤ人達が自分達の宗教に取り入れたものだった。



そして、最もユダヤ教が影響を受けた土着信仰として挙げられるのは、モーゼ達がエジプトから亡命してきて移り住む前に、既にその土地に長年、先住していたカナン人達が崇める“バール信仰”だった。


バールとは、死者から復活して永遠の命を持ったと言われる大地豊饒だいちほうじょうの男神のことで、先住民のカナン人達はこのバール神を主神にして土地の肥沃と田畑の豊作を祈り、農耕には欠かせない雨や雷、太陽、樹木といった自然物や天体をそれぞれ神に見立てて一緒に崇めていた。

この信仰において、樹木とは、バール神の母アシュラという女神のシンボルであり、カナン人達はこの女神を称えようと、森の木を彫ってアシュラ・ポールと呼ばれる女神の像を作り、これを出産、豊穣、命の源として崇めていたのである。



だからこそ、この信仰では、“偶像を作る”、“お香を焚く”、“供物を捧げる”といった宗教儀式が頻繁に行われており、中でも、火はカナン人達にとって最も神聖なものと思われていたことから捧げられた供物の大半は火にくべられていた。


しかも、彼らにとって最上級の供物というのが“人間”であり、人を火にくべて捧げる、つまり、“火あぶり”が最も神聖な儀式として公然と行われていたのである。




むろん、当初、モーゼやユダヤ人達は“仲間である人間の血を神に捧げて自分達の利益や繁栄を願う”、そういった非人道的な思想や慣習を持つ信仰に反発し、長年、バール信仰を敵視していた。

そのため、ユダヤ人達は、このバールという名前を敵の王の名前と掛け合わせ、敵の王を“ベルゼブブ”(「ハエの王」もしくは「悪魔の王子」の意)と呼んで皮肉っていたぐらいである。

しかし、時と共に、バール神を信仰する周辺の異民族に自分達の領土が度々、侵されるようになり、敵対していたはずの異民族達との交流が頻繁になってくると、中にはそうした異民族出身の人と結婚したり、お互いが同じ土地で暮らしていくこともあったりして、次第に人々は異民族達の思想や慣習に“感化され、流されて”、自然とバール信仰の教えや儀式が刷り込まれていき、ついにはモーゼ自身も蛇のブロンズ像を作ってこれを拝むようになってしまったのである。(2列王18章4節参照)




こうして、ユダヤ教は本来、目指していた物質や自然現象、天体などを信仰しないという教理から次第に外れて行き、俗悪野蛮と蔑んでいた教えや習慣を“文化として”取り込む形となってその戒律や教義を膨らましていくこととなった。



その後もユダヤ人達はこの誤りに気づくことなく、特にユダヤ教の僧侶や教師達はその刷り込まれた文化や思想でもって庶民を教育していくので、後世のユダヤ人達は、まさか自分達が既に“本来の一神教の教徒”ではなく、異教徒と化してしまっているとはまったく思わないまま、その結果、祖先が数千年前から守り続けてきた大切な宗教文化として、高らかにリュラブ(ご神木)を振ってイエス達一行を出迎えたのだった。



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