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第八十話  悪役

その頃、イエスがベサニー村に帰ってきたという噂はすぐに広まっていて、早速、それを聞きつけた村人達が死者復活の奇跡を起こしたイエスを見ようと、すぐさまラザルスの屋敷に大勢、詰めかけてきた。


誰もが興味津々で、イエスだけではなく、イエスが死者から復活させたというラザルスも一目、見ようと屋敷の周りにたくさんの人達が群がり、中を覗き込むために皆が押し合いへし合いしていた。



むろん、その騒ぎをサンヘドリンから遣わされたスパイ達が聞き逃すはずはなく、彼らの一人は早速、イエス達の帰還の情報を持って大僧正のカイアファとその義父のアンナス達の屋敷へと向かっていった。




「何っ?

イエスが帰ってきた? ついに姿を現したか。

やはり、奴はペサハ(過ぎ越しの祭り)までに帰ってきたのだな」

いつものごとく、カイアファの屋敷にたむろしていたサンヘドリンの幹部達はスパイからの報告を聞くと、まず、大僧正の義父アンナスにそれを告げた。


「ふむ。わたしが思った通りだったな。

奴は必ずエルサレムにやって来るだろう。

とにかく、今は奴を放っておくといい。

しかし、街に出て来た時は決して奴の行動から目を離すんじゃないぞ」

アンナスは横にいる大僧正のカイアファを振り返って目配せをし、そのスパイに強く指示を飛ばした。


「かしこまりました。

今のところ、わたしと一緒に派遣された者達がイエスのいる屋敷を見張っています。

ただ、あまりにもすごい人だかりでして。

さっきまでは村の者だけだったのですが、わたしがここに来るまでに近隣の村からも続々と人が集まってきているようでした。

どうやら、イエスだけでなく、そのイエスが死者からよみがえらせたという男も一緒に見ようと集まってきているようでして、なかなか屋敷の中の様子がつかめません。

でも、きっと明日になれば、アンナス様のおっしゃる通り、イエスも外に出て来ることでしょう。」


「何っ? 群衆は、その死者から復活したという男も一緒に見たがっているのか?」

アンナスは鋭くスパイに聞き返した。


「あ・・・、はい。

人々が話しているのを聞きましたところ、死者から復活した男だからきっと男も天の使いだろう。

だから、その男を見たり、身体なんかに触ったりすると、何らかのご利益にあずかれるかもしれない、などと言い出す不埒ふらちな輩も出てくる始末でして・・・」


スパイが冗談交じりにそう話したが、それを聞いていたアンナスとカイアファはすぐに顔をしかめた。

「困ったことになりましたね、お義父さん。

まさか、イエスだけではなく、死者復活したという男を信奉する連中まで出てくるとは・・・。

たとえイエスを排除しても、今度はその男をイエスの代役にして祭り上げ、街で暴れだす連中が出てこないとも限らない。

ついでにその男も早く始末をつけた方がいいのではないでしょうか?」

カイアファは独り言のようにアンナスにそう耳打ちすると、アンナスも厳しい表情を浮かべたままそれを黙って聞いていた。


「うむ。お前の言う通りかもしれんな。

そのラザルスという男もさっさと始末した方がいいだろう。

何せ、これまでああいった連中をしばらく放って置いたがゆえにこんな厄介な事になったのだから。

まだ、それほど人の口にその男の名前が上がっていないうちに、さっさと片づけてしまえば、そんな出来事があったことなど人々はすっかり忘れてしまうだろう。」

そう言って、アンナスもラザルスを始末することに同意した。



ちょうどその時、屋敷の召使が来客を告げに部屋に入ってきた。

「ただ今、屋敷の門前にユダ・イスカリオテと名乗る男がサンヘドリンのどなたかにお会いしたいとやって来ております」

「ユダ? 誰だ、それは?」

僧侶長が怪訝な顔をして聞いた。

「ご所望の男を捕らえるためのお手伝いに来た、と申しております」

召使は意味深なユダの言葉を繰り返した。


「なるほど。きっと、あの男の弟子の一人でしょう。

この前、わたしがべサニーに行って弟子の一人とあの男の逮捕の件で話をつけてきました。

その時、かなりわたしにびびっておりましたから、早速、その者が自分の仲間をこっちに寄越してきたんでしょう。

どうやらこれで上手く事が運びそうです。

早速、その男をここに通してもよろしいでしょうか?」

アンナス達の屋敷にたむろっていたサンヘドリンのメンバー達の中には、べサニー村までイエスの弟子であるペトロ達を訪ねに来たあの戒律の教師も当然、いた。

そのため、その教師がすぐにユダの正体に気づき、アンナス達にそう言って許可を求めた。



それを聞いたアンナスがコクンと頷くのを確認し、教師は召使に向かってユダをここに連れてくるよう手で合図した。





あの後、ユダは何も考えずにベサニー村を飛び出していた。


イエスとの口論にすっかり腹を立てていたユダは、それまで散々、悩んでいたことなどすっかり忘れ、ひたすらベサニー村から4km先にあるエルサレムのサンヘドリンに向かってまっしぐらに走ってきた。

もちろん、夜も遅いことから神殿はとっくの昔に閉まっていた。


だが、『どうしても今すぐ通報したい者がいる、サンヘドリンから手配されている者だ』と市街地エルサレムに入る門に立つ門番に言うと、すぐにアンナス達の屋敷のある上屋敷地区への道を教えてくれた。




市街地エルサレムに入ってからアンナス達の屋敷まで向かう途中、ユダはさっきまでのイエスとのやり取りを思い返していた。



自分は何も間違ったことなんて言ってない、とユダはもう一度、自分に言い聞かせた。



大体、あの女が寄付金を断る正当な理由など何もない。

あんな贅沢で高価な香油が買えるほどの大金持ちだぞ!


なのに、あの人はそんなケチで強欲な女をわざわざ皆の前でかばった。


わたしの娘の病気は治せなくても、あんな強欲でうなるほど金のある女の兄が病気だと聞いたら命を張ってでもエルサレムまでのこのこやってくる。



あの人が貧しい人や病気で苦しんでいる人を助ける救世主メシアだって?

笑わせるなっ!


実際のところ、あの人は何もしてはいない。

あの人は、ただ説法してただけだ。


そんなの救いでも何でもない。




あの人の言葉なんて何の意味もないっ!




もう迷うことなどあるものか。

あの人に義理立てする必要だってもう、ない。


そもそも、あんな男が救世主メシアであろうはずがないっ!

ちょっと女におだてられて、王様か貴族でしか買えないような贅沢な香油を塗られたら、すぐさま有頂天になって女をちやほやするような、あんな詐欺師が神の子なんて!!





ユダはすべての迷いをふっきるかのように心の中で強くイエスを非難すると、目の前のアンナス達の屋敷をにらみつけるようにして門前に突っ立っていた。



もはや、ユダの心にはひたすらイエスへの恨みと怒りしかなかった。



これまで自分がずっと抱え込んできた娘の病気への心配や不安、経済的な苦境、出来心で犯してしまった横領や、今まさにサンヘドリンに内通して宗派を外部から解体させようとする裏切り行為、それらすべての不幸の原因は自分にあるわけではなく、イエスのせいだとユダは理不尽にもそう思い込もうとしていた。



悪いのは自分じゃない。

あの人が自分をこんな風に不幸にしたんだっ!

ここまで自分を追い込んだんだ!

わたしのせいじゃない。

わたしが悪いんじゃないっ!


ユダはそう自分に何度も言い聞かせ、これからサンヘドリンの幹部達に会う前に心落ち着かせようとしていた。





「サンヘドリンの方々がお会いになるそうです」

召使がユダを呼びに来ると、ユダは生唾を飲み込んでからコクンと頷いて中に入った。


ユダが通された部屋には、サンヘドリンのメンバーである僧侶と戒律の教師達が数人、豪華なフレスコ画の前の長椅子でくつろぎながらユダを待っていて、既に大僧正のカイアファと義父のアンナスはその部屋から姿を消していた。

それでも、ユダにしてみればこれまでの人生で一度も縁のなさそうな、身なりのいい高位の僧侶達や見るからに頭の良さそうな教師達を目にすると、さすがにさっきまでの強い決意や威勢の良さはすっかり消え失せていた。


いかにも上品で洗練された雰囲気に気おされて、ユダはおどおどとして権威者達の前に歩み出ると、ベサニー村までやってきた教師の一人がユダを出迎えるために立ち上がった。


「あなたですか? 私共がお願いしていた方を引き渡してくださるのは?」

前置きなど一切、なかった。

すぐに本題に入るほど事務的で話しやすいものはない。

ここに来た理由を言えといったような、何か余計な説明をしなくてはならないのかと心配していたユダは、それで少し安心した。


それでも何も言わないわけにはいかない。


「あっ、はい。

あの、わたしはユダ・イスカリオテと申します。

わたしは、その・・・、えっと、つまり・・・、その・・・、ナザレのイエスを皆さんに捕まえていただきたくて・・・“あの人”はずっと嘘をついて人を騙してきましたし、救世主メシアだとか、神の子だと人から言われていい気になってて・・・。」

自分でも何をしゃべっているのか、ユダにもよく分からなかった。


ただ、ユダはしどろもどろになりながらも、イエスのことをもう“ラビ(先生)”とは呼べなかった。

わざと“あの人”と呼ぶことで、ユダはどうにか自分がこれからしようとすることの意味を深く考えないようにしていた。



だが、目の前にいる僧侶と教師の方は彼の話などまったく聞いていないようだった。

ギリシャ芝居の仮面ペルソナ(注1)でもつけているかのように無表情で、彼らが本当のところ、何を考えているのかユダにはまったくわからなかった。


彼らはただ、ユダがイエスの逮捕を願い出れば、それで十分だった。

それで告訴が成立する。

別にユダがどういった理由でイエスを告発する気になったのか?といった訴状の内容などどうでもよかった。



だから、ユダがイエスを逮捕してくれと言った時、彼らは全員、それで満足して頷いた。



「そうですか。よく決心なさいましたね。

あなたやお弟子さん達は確かに、神の御前でわたしと約束されたことを守られたのですね。それはとてもいいお心がけです」

ユダの前に立つ戒律の教師は、しどろもどろでイエスを告発する理由を話そうとするユダの言葉をそう言って遮った。



「それで、その・・・ラビ。

一体、これからどうなるんでしょう?

“あの人”が逮捕されたら・・・、わたしはどうすれば、わたしたちは・・・?

“あの人”は・・・?」

ユダがそう問いかける前に戒律の教師がすぐにまた、ユダよりも先に話しだした。


「何も心配することなどありませんよ、ユダ・イスカリオテさん。

わたしたちにすべて任せてくださればそれでいいのです。

あなた方、お弟子さん達の安全はわたしたちが保障します。

わたしたちの指示に従って、あなたが今、告訴なさった人物の居場所をわたしたちに知らせてくださったらそれでいいのです。

そうですね、被告の居場所はペサハの前日までにお知らせください。


できれば人目のつく場所や時間帯は避けていただきたい。


でなければ、今、あなたもよくご存知のようにいろいろと厄介なことになる。

何せ、あれだけ大勢の人々があなた方の周りに集まってきている。

おそらく誘惑もたくさんあることでしょう。

“この国の王にでもなって”暴れまくってほしいとか?」



その時、まるで獲物を狙う蛇のように戒律の教師の目が恐ろしいほど鋭くユダを見つめていた。

ぞっとするような目だった。


射すくめられたユダは震えあがって教師の目から逃れるようにすぐさまうつむいた。

そのうつむいたユダの姿を見て、戒律の教師は勝ち誇ったかのように声を高らかにして言った。


「そうですか。

あなたに同意していただけて大変、うれしいですよ。

あなたが今回、被告を告訴なさったのは大変、勇気ある素晴らしい行いです。

国の平和を願い、神の法を守る為に立ち上がってくださった。

その尊い行いにわたしたちは大いに感謝し、報いるつもりでおります。

ですが、何よりもまず、被告を何事もなく逮捕しなければなりません。

でなければ、あなたの功績に報いることができなくなってしまいます。


ここにあなたへの報酬として、銀貨30枚をご用意しております。


これを無事、あなたの手にお渡しできるよう、わたくし共一同、心よりあなたからの次のお知らせが来ることをお待ちしておりますよ、ユダ・イスカリオテさん」


そう言って、戒律の教師は小机の上に載せてあった銀貨の入った袋をユダの前で振って見せた。

ユダはその袋を見て確信した、自分はやっぱり間違っていなかった、と・・・。


―  そうして、全ての国々とわたしが交わしてきた契約を破棄したのだ。

  そしてその日、それが破棄された。


  だから、この群れの中で傷つき、苦しみ、

  わたしをじっと見てきた者なら知っている、

  これが主の言葉であることを。

  わたしは彼らにこう言ってやった。


  “もし、それが最もいいことだと思っているのなら、

  それなりのものをわたしに払ってくれ。だが、そうでないと思うのなら、

  それを払わなくてもいい。そのまま取って置け”と。

  すると、彼らはわたしに30枚の銀貨を支払った。

                   (ゼカリヤ11章10−12節)






(注1)ギリシャ芝居の仮面(ラテン語でペルソナ)

・・・ラテン語でペルソナとは、元々、BC8世紀頃に誕生した酒の神デュオニソス(ローマではバッカス)を祝う祭りの儀式で行われたギリシャ演劇において、役者が顔につけたお面がきっかけで生まれた言葉です。

古代ギリシャ演劇は大きな円形劇場で行われることから、それぞれ演じる役が広いステージ上から遠くの観客にもはっきり見分けがつくようにと、ギリシャの神々の顔や泣き顔、怒り顔、地位や身分、性別などの区別ができるいろいろな仮面ペルソナが作られるようになりました。

そこから、ペルソナの意味はいろいろな役割を演じる「人格」となり、ローマ時代では裁判において権利と義務を有し、いろいろな役割をする「人」という意味でも使われていました。

さらに古代ギリシャ演劇の仮面ペルソナはローマのみならず、日本にもシルクロードを通じて中国から奈良・飛鳥時代に伎楽ぎがくという演劇文化をもたらすこととなり、それが中世になると能面をつけて謡い踊る能楽に発展することとなります。

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