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第七十八話 マリアの献身 (1)

イエス達が帰ってくる日を、先にエプライムから戻った弟子のフィリポとトマスから知らされていたマーサとマリアは、その日は朝から随分と手の込んだ料理を作るためにかいがいしく働き、サロメも彼女達を手伝ってくれていた。

そのイエス達がようやく屋敷に帰ってくると、サロメが言った通り、既に夕食の用意は万全に整っていて、その美味しそうな匂いに部屋中が包まれていた。


こうして、その日の夕食会は、イエス、ラザルス、マーサ・マリア姉妹、ペトロを始めとするイエスの弟子達だけでなく、サロメとその他の女性信者達も交え、イエスとこれまで共に歩んできた人々が一堂に集まっていた。


マーサとマリアが作った美味しい料理に頬を緩ませ、ラザルスが無事に帰還できたことを祝福し、皆、すっかり打ち解けた様子で、和やかに談笑し合っていた。

今日までいろいろな出来事が重なってきて辛い事も多かったが、そんな束の間の和やかな賑わいを見ていると、イエスも何となく旅の疲れだけでなく、辛い現実をも忘れてしまえるような気がした。



そして、夕食が済んで皆、めいめい好きなようにくつろぎだし、イエスがカウチでラザルスと一緒にのんびり横になっていると、マリアが長年、ずっと戸棚に閉まって置いた、ある大事な品をイエスのところに持ってきた。


それは、マリアにとっては亡き父シモンの形見とも言えるものだった。


生前、シモンは息子ラザルスを伴って商売柄、いろいろなところに出かけていて、当然、その間、娘達は家で留守番をしていることの方が多かった。

そのため、シモンは、いつも寂しい思いをさせている娘達へのほんの償いの気持ちからか、旅先で珍しい品々を買い求めてはよくお土産として持って帰ってきていた。


そのシモンが、出先のガリア(主に現在のフランス・ベルギー地方)で急逝してしまい、彼が死ぬ直前にマリアのお土産として買って置いたのが、ナルドの香油だった。




“ナルド”とは、現代の欧米ではスパイクナード、日本などでは甘松かんしょうとも呼ばれるヒマラヤ原産のハーブ(薬草)の一種である。

ナルド、ミルラ(没薬)、シナモン、フランキンセンス(乳香)といった様々なハーブやスパイスは、古来よりギリシャやエジプト、インド、中国などの宮廷や富裕層の間で愛用され、味付けとして水やワイン、料理などに混ぜて使ったり、アロマセラピー(芳香療法)や軟膏のような医薬品、香油やエッセンシャルオイル(精油)といった化粧品、また、葬式や祈祷において焚かれるお香やミイラ製作時の防腐剤に使われるなど、まさに世界的に多種多様な需要があった。


もちろん、こういったハーブやスパイスの多くは、インドや中国近辺を原産とするものが多く、シルクロードを使って交易を行うアラビア商人達の手により地中海沿岸地域に広く出回るようになった。

そのため、遠く離れた原産地からの輸送が困難であることと、キャラバン(隊商)で砂漠を行き来するアラビア商人達がその交易の大半を独占していたため、ハーブやスパイスの価格は目の玉が飛び出るほど高かった。


しかし、この事業に進出すれば、ヘロデの元妻ファセリス姫の実家であるナバテア王朝が莫大な財を成し、王朝を築いたようにかなりの利益を生むことは確かだったため、商人であるシモンは早くからこれに目をつけていた。




ただし、彼としては、わざわざ危険な砂漠を越え、アラビア商人達が決して明かすことのない原産地を自分で探し出して商売をするつもりなど更々なかった。

その代わり、新しいハーブやスパイスを自分達の近辺から見つけ出し、それを商品として売ろうと考えついたのである。

そして、その中でも、高級品中の高級品であるナルドが、なんとヒマラヤ以外の場所でも見つかったのだった。




ナルドは本来、標高4000m付近のヒマラヤ山脈で採れる女郎花おみなえし科の高山植物なのだが、このヒマラヤ山脈と良く似た環境と言えば、ガリア(ヨーロッパ大陸)においてはあのアルプス山脈があり、ここにサリユンカ、もしくはケルト・ナルドと呼ばれる、まさにあのヒマラヤのナルドと同じ植物が自生していた。

(ちなみにケルト・ナルドとは、中央アジアからヨーロッパに渡来したケルト民族が広くガリアに住んでいたため、それにちなんで名づけられている)

さらに、都合のいいことに、このケルト・ナルドは、ガリアの中でも特にノリキュウム(現在のオーストリア・バイエルン地方)という、ちょうどイエスが生まれた頃ぐらいにローマの属州地となった国で豊富に見つかった。

このノリキュウムというところは、元々、金や塩、ノリキュス鉄と呼ばれる鉄鋼の採掘地としてもよく知られ、またローマ帝国に輸出する有名な鉄剣の生産地でもあったことから、シモンだけでなく、鉄やすずを主に扱うシモンの友人ヨセフ・アリマシアを始めとするユダヤ商人達にとってもなじみの深い場所だった。

そのため、シモンは、早速、このケルト・ナルドの商いのためにガリアに赴き、そこで悲しくもこの世を去ってしまったのだった。




そのシモン亡き後は、彼の息子のラザルスが父に代わって、このケルト・ナルドを商売にし始めたため、ナルドそのものはマリア達にとっては別に珍しくもさほど高価というものでもなかった。

その上、ナルドは、香油に留まらず、ハーブ(薬草)としてストレスや腹痛、アレルギーやハンセン病などの皮膚病にも良く効くと言われていたため、ラザルスも自分の病気を治す薬としていつも手元に置いていたほどだった。




だが、今、マリアが戸棚から取り出してイエスにわざわざ持ってきたものは、兄の商売でいつだって手に入れられるような代物ではない。



それは、新しい事業に夢と希望を抱き、ガリアで忙しく働いていた父シモンが、幼い娘達のことを忘れず、忙しい合間を見てそっと買っておいてくれた最後の品だった。

だから、物には不自由することなく育ってきたマリアにとって、香油などいつでも手に入るものではあったが、その香油だけは亡き父の思い出の品として何となく使わずに閉まっておいたのだった。




しかし、マリアは今日だけは特別だ、と思った。


兄ラザルスが死者復活を遂げたことで当面、社会から迫害される危機を脱し、それを手助けしてくれたイエスも無事に皆の元に帰って来てくれた。

それを記念しての大切な夜である。

それに、さっき見たイエスの悲しげな表情がマリアの心を強く揺さぶっていた。


今まで、あんな寂しそうなイエスをマリアは見たことがなかった。

それを思うと、ペトロや弟子達が影でやっている行為についてエプライムにいた兄に知らせたことがイエスの耳に入り、かえって彼を深く傷つけてしまったのではないか、とマリアは深く悔やんだ。

だから、この香油のかぐわしい香りが少しでもイエスの心労を和らげてくれたらと願い、マリアはずっと大切に閉まっておいた香油の封印を開けることにした。





そうして、マリアが薄紫がかったクリーム色の石に金褐色の縞目模様がある、アラバスタ(石花石膏)大理石の可憐な香油ビンを携えて部屋に入って来た時、真っ先にそれに気がついたのは、サロメを始めとする目敏い(めざとい)女性陣だった。


もちろん、彼女達はヒマラヤのナルドどころか、ケルト・ナルドでさえ今まで手にしたことはなかったが、それでもそのアラバスタ大理石の香油ビンに入っているのが、あの琥珀色の高価な液体であることを難なく見破った。

だから、サロメや女性達が、急に甲高い感嘆の声を上げた時、弟子達も何事が起こったのか、と一斉にマリアの方に目を向けた。


「素敵っ!あれってナルドの香油よっ!わたし、エルサレムのお店で見たもの」

「まぁ、あれがナルドの香油なの?

へぇ、すごいわねぇ。あれって私達の年収分ぐらいの値段はするんじゃないの?」


女性信者達が口々にそう話すのを聞いて、サロメはマリアが手に持っている香油ビンから目が離せなくなってしまった。


やっぱり、わたしの目に狂いはなかった、とサロメは思った。



死者復活の噂なんて嘘っぱちだって亭主は笑ってたけどさ。

ほら、ご覧よ。やっぱり奇跡のご利益はあったじゃないの。

この先、もっとイエス先生の評判が上がれば、あんな、普通じゃ、ちょっと買えないような物を信者達がどんどん持って来てくれるようになるんだよ、きっと。


だから、ここらであの子達が踏ん張って先生の右腕にでもなってくれたら、わたしももうちょっと楽な暮らしができるってもんだ。

とにかく、ここまで足を伸ばして来たからには、何としてでもあの子達を出世させてやらないと・・・。



サロメは、マリアがイエスの方へと歩いていく姿を目で追いながら、そうして、いつイエスにそのことを切り出そうかとその機会をじりじりしながら待っていた。





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