第七十七話 拠り所
ピラトが悪化した事態の修復を試みようと焦る傍らで、イエスは一人、もがいても這い出せそうにない深い絶望感と、それでもかすかに残る希望との間を行ったり来たりしていた。
わたしはこのまま死んでしまうのだろうか?
いや、絶対、死ぬものか。
自分の力だけではどうにも抗うことのできない運命への絶望感、それでも尚、「死にたくない!」と、どこかしら願う生への飽くなき欲求。
イエスは、これまでにも幾度となくこの狭間を、たった一人で彷徨ってきていた。
そんな孤独な闘いを何度も強いられ、何度も耐え忍んできたイエスだったが、今また、自分の処刑を求めて叫ぶ大勢の人々を目にしながら、この“生と死の狭間”で立ち尽くしていた。
思えば、この葛藤を何度、反芻してきたことだろう。
イエスはそう、心の中でつぶやいた。
時には、ふと、自分の一生を振り返り、そこには全く“何も無い”ようにも思えた。
家族、子供、友人、財産、地位、名誉、仕事、趣味と、人は誰でも、一生の間にそうしたものを自分の手でつかみとり、それらで持って自分の人生を織り上げていくものだ。
しかし、それも時が経てば、誰かの手に渡り、どこかに消え、誰のものだったかも分からなくなってしまう。
だが、たとえそうであっても、目に見えている間だけはそれらに関わった“その人”についての記憶は、誰かの脳裏にどこかしら留まってくれるものである。
そして、それが、その人の“生きてきた証”とも言える。
だが、わたしにはそれがない、とイエスは深くため息をついた。
これまでの不遇な日々を思い、不安も天への畏れもなく暮らしている平凡な人々を時にはうらやましく見つめることさえ、数え切れないくらいにあった。
考えて見れば、わたしは家族らしい家族に恵まれたとも言えない。
父や母には何となく疎まれ、弟や妹達からも嫌われて、妻や子も自分にはいなかった。
友はできた。
だが、その友も去った。
彼らには彼らの人生があり、愛する家族がいる。
わたしの居場所はそこにはない。
だから、自分と似たような人達が優しく受け入れてもらえるようにと、世間に自分の心を訴えてもみた。
そんな愛のない社会を嘆き、何度もそれを変えようともした。
だが、それもまた、虚しかった・・・。
そうして、わたしは一体、これまで何をしてきたんだろう?
こうして人々から「死ね!」と罵られ、簡単に命を奪われかねない瀬戸際に来て、自分に一体、何が残されていると言うのだろう?
たとえ死んだとしても、こんなわたしを一体、誰が覚えていてくれるのだろうか?
イエスという人間が、確かに“この世に存在していた”と、一体、誰がその記憶に留めておいてくれるだろうか?
― しかし、それでも、わたしは言った。
『わたしは確かに何の目的もなく、働いてきた。
わたしは虚しく無のために自分の力を費やしてきた。
だが、わたしがしてきたことは、全て主の御手に委ねられている。
なぜなら、わたしの報酬は、わたしの神と共にいることなのだから』
(イザヤ49章4節)
ああ、そうだ。確かに、わたしには“何も無い”のだろう。
この世の誰もが持てるような、そんな証など最初からどこにもなかったかもしれない。
だが、わたしには、何よりも捨て難いものが、まだこの心に残っている。
決して傷つけてはならない、わたしの命よりもずっと大切なものが、まだこの心には残っているのだ・・・。
人は、わたしを「馬鹿な奴だ」と笑うだろう。
何も無いのに、なぜ命を賭ける?
自分の心が読み取ったという、その“約束の言葉”だけを信じ、どうして自分の一生を無駄にしてしまえるのだ?と。
分からない。
わたしにだって分からない。
だが、どうしても賭けてみたくなったのだ。
どうしようもなく、あの“お方”を信じたかったのだ。
だって、“あの方”だけが、わたしに救いの手を差し伸べてくださったのだから。
“あの方”だけが、生まれてからずっと、この心が求めて止まなかった“愛の言葉”をわたしに掛けてくださったのだから。
何度もくじけそうになった。
何度もあきらめそうにもなった。
それでもその全ての時において、“あの方”の言葉がわたしの生を支えていてくれたのだ。
“あの方”の存在を、“あの方”の力を、“あの方”の御業を、“あの方”の情けをわたしはこの心でどうしようもなく感じるからこそ、これまで生きてこれたのだ。
だから、確かに神は、わたしの心に“愛”というものを授けてくださった・・・。
― 恐れることはない、わたしはお前を救ってきた。
わたしがお前をその名で呼んだのだ。だって、お前はわたしのもの。
お前が水を渡る時、わたしはお前と共にいる。
お前が火をくぐる時、お前が焼かれることはない。
なぜなら、わたしが主であり、お前の神である。
わたしこそが、イスラエル(神と格闘する者達)の中で最も聖なる、
ただ一人の神であり、そして、お前の救い主。
わたしの目には、お前はかけがえのない、可愛い子。
そして、わたしはお前を愛している。
だから、恐れることはない。わたしはお前と共にいる。
わたしの名を呼ぶ者は、皆、わたしの栄光のために、
わたしがこの手で創ったのだ。
わたしが型どり、わたしが形にした。
だから、主は、こうおっしゃる。
『お前はわたしの証人だ。そして、わたしが選んだ、わたしの召使。
だから、お前は知るだろう。そしてお前はわたしを信じる、
わたしが“神”であることを。
わたしの前には、どんな神をも創られはしなかった。
わたしの後にも、他に神はいない。
わたしだけ、わたし以外に、救い主はいない。
わたしは顕し、救い、そしてそれを全てに告げてきた。
お前はわたしの証人だ、わたしが神である、という。
そうだ、過ぎ去りし遠い日から、わたしだけが“神”なのだ。
誰もわたしの手からは逃れられない。
だから、わたしがそれを行う時、
一体、誰にそれがひっくり返せることだろう?』
(イザヤ43章1−13節)
イエスは、こうして一人、理不尽な処刑判決に対する怒りと悔しさ、絶望、神の救いへの希望を思い巡らせ、この苦しい葛藤をずっと繰り返していた。
だが、これまでにも何度か、この苦しい使命から逃げ出せるような機会がなかった訳ではない。
だが、イエスはどうにかここまで踏ん張ってきていた。
それはひとえに彼の心に消し去りがたい“神の言葉”があったからだった。
あのエプライム村での最後の夜、これから何が起こるかを全てわかったのも、やはり神の言葉からだった。
辛いことも、悲しいことも、うれしいことも、神は決して包み隠さず、何もかも自分に教えてくれた。
だから、イエスはその言葉を信じていた。
決して偽りのない、その“言葉”を・・・。
イエスが全てを胸に秘め、あの日、エプライム村からべサニーに戻ってきたのは、ペサハ(過ぎ越しの祭り)が始まるちょうど6日前のことだった。
もちろん、ラザルスもその日、イエスと一緒に帰ってきたのだが、そんな彼らの無事の帰還を誰よりも喜んだのは、ラザルスの妹であるマーサとマリアだった。
帰って来た兄の姿を見つけて彼女達は真っ先に駆け寄ると、すぐにうれしそうに兄に抱きついた。
ラザルスも代わる代わる妹達と抱擁を交わし、少し涙をにじませていた。
そんな彼らの様子を眺め、彼ら家族の愛情の深さを微笑ましく思いながら、イエスは少し一抹の寂しさも感じていた。
これで、もうラザルスは心配ない。
この先、どんな事が起こったとしても、きっと彼ら家族はお互い力を合わせ、強く生きていってくれるはずだ。
そして、わたしは・・・。
イエスはふと、これからの自分のことを考えると、口には出せないやるせなさが募ってきた。
そこへ、マーサとマリアに続き、ペトロや他の弟子達も戻ってきたイエス一行を出迎えにぞろぞろと家の中から出てきた。
イエスは、その弟子達の様子から、自分がべサニーを去った時とは違う雰囲気を感じ取っていた。
どうやら彼らはかなり自分と距離を置きだしたらしいとイエスはすでに気づいていた。
ペトロは相変わらず表向きは愛想良くイエスを出迎えていたが、どこかしら目を合わせようとはしなかったし、他の弟子達も同様で、彼らのよそよそしい態度は明らかだった。
ペトロとサンドリンの教師が話をした後に開かれた会合以来、弟子達同士が互いにイエスや宗派の今後について話し合うことはなかったし、ペトロから彼らに何かを改めて言ったわけでもなかったが、彼らの方はすでにそれぞれ、自分達なりに先の事を考え、イエスについていくことを少しずつあきらめ出していた。
それは当然かもしれなかった。
確かに口では皆、宗派に残ることに賛同していたし、ユダ・イスカリオテ以外はペトロの前で自分から宗派を辞めると宣言した者は誰もいなかった。
だが、ペトロの話を聞いてから弟子達の気持ちはかなり宗派を離脱することに傾いていた。
今後、イエスに何らかの危険が降りかかってくるのなら、これまでのことを考え合わせると、それはイエス自身の“身から出た錆”であって、自分達にはどうすることもできない。
だったら、自分達がイエスと深く関わっていなければ、きっとサンヘドリンも自分達には何の危害も加えてこないだろう。
弟子達はそれぞれ、内心ではそのような結論に至っていた。
だから、彼らとしては、今後のイエスの動向を伺い、時機を見てうまく宗派を抜けようと考えていた。
そして、そんな微妙なわだかまりが弟子達、それぞれの心にできていることを、イエスは否応なく感じていた。
本当に“その時”は来たな、とイエスは思った。
本当にもうそろそろ、わたしは彼らの前から去らねばならない。
彼らが一体、これから先、どうするのかわたしには分からないが、それでもわたしは最後の最後まで彼らのことをあきらめないでおこう。
それ以外にわたしができることはない。
ああ、それでも・・・できれば、少しでもわたしの心が彼らに伝っていればいいのだが・・・。
イエスは、それぞれの弟子達への愛着心が断ち切れず、人知れずその切なさにもがいていた。
その時、イエスのその悲しそうな様子に気がついたのか、マリアがイエスの方を心配そうに見ていた。
マリアと目が合ったイエスは、すぐにその表情を隠し、にっこりと彼女に笑って見せたが、マリアはそっとイエスに近寄るとその手を取って深々と頭を下げた。
「お帰りなさい、イエス先生。
私達はあなたのお帰りをずっと心待ちしていました。
今度のことで兄が随分とお世話になったこと、わたしも姉も心から感謝しています。
本当に有難うございました」
そのマリアの言葉を聞いて、ラザルスも、マーサもイエスに改めて深く頭を下げ、イエスに礼を述べた。
「いいえ、マリア。
あなたもよくわかっているように、これは神がこれまでのあなた方、ご家族の心を見て、ふさわしいと思って授けてくださった報いです。
わたしは神に導かれ、縁あってあなた方、ご家族の絆を強くする力添えの一端を担っただけのことです。
だから、わたしに礼など言う必要はありません。
むしろ、わたしの方があなた方に礼を言うべきでしょう。
こんな心豊かな人達と知り合え、いろんな意味でわたしも心救われた。
わたしはあなた方に出会えたことを神に感謝しています。
そして、マリア、あなたがいつもわたしを気遣ってくださるあなたの優しい心遣いにも深く礼を述べます」
イエスはそう言って、マリアが自分を慰めてくれていることを知り、しみじみと人の優しさを噛みしめながら、さっきまでの切ない思いを振り切ろうとした。
そこへ突然、明るい聞き覚えのある声が割って入った。
「さぁさぁ、イエス先生、こんなところで話し込んでいたら、日が暮れちまいますよ。
早く帰りましょう。
長旅でお疲れでしょうから早くサンダルを脱いで、ゆっくりくつろいでからお話しなさったらいいじゃありませんか。
夕飯の支度もすっかり整っていますし、お腹もすいてるでしょうから!
さぁ、早く帰って身体を休めてくださいな」
それはイエスの弟子ヤコブとヨハネ兄弟の母、サロメ・ゼベダイだった。
彼女は、他の女性信者達と一緒にエルサレムに巡礼がてらべサニーにやって来ていたのだが、相変わらず弟子達の世話に忙しなく動き回っているようだった。
彼女は、ラザルスの屋敷には滞在こそしなかったが、自分達の宿から毎日のようにやって来て、これまた、いつものごとく息子達への溺愛振りを他の弟子達の前で披露していた。
しかし、今回、彼女がべサニーまでわざわざやって来たのは、長く自分から離れている息子達を心配してと言うよりも、イエスの死者復活の噂を聞いて、世間でのイエスの評判が上がることをいち早く察知し、息子達の昇進をイエスに請うためにやって来たのだった。
だから、イエスとマリアが親しそうなのを見て的外れにも癪に障ったのか、サロメはイエスの関心を少しでも自分や息子達に引こうとすぐに割って入ってきた。
そのサロメがイエスを引っ張るようにして帰りを促すので、イエスは彼女の母親らしい強引さを苦笑しながらも、それで何となく重苦しい気持ちが消え、ようやく他の人々と一緒にべサニー村のラザルスの屋敷へと入って行った。