第七十六話 群衆
カシウスから差配を受けた護衛兵はすぐに獄からバラバを引き出してきた。
バラバは絵にかいた通りの悪党らしい不敵な笑みを浮かべたふてぶてしい男だった。
それとは対照的に、薄汚れた紫のローブをひっかけてうつむいたままの惨めったらしい男がそのバラバと並んで立つと、その両者の違いはいっそう際立つようだった。
わたしはその様を見て満足し、きびすを返すと、護衛兵に引き立てられて歩く二人の男達を従えてユダヤ人達が待つ玄関へと再度、向かった。
だが、先ほどとは違って今度は直接、玄関先から顔を出さず、二つの小さな塔に挟まれた城門の上に立ち、ユダヤ人達の目の前に掲げるようにして、連れてきたこの二人の被告人達を自分の両脇に立たせた。
「おい、ユダの市民達よ、よく聞くがいいっ!
先ほど、お前達が起訴してきたこのナザレのイエスの再審議を執り行った。
しかし、起訴理由が明確でない以上、やはりこの男の罪状は何も見当たらなかった。
だが、お前達がどうしてもこの男を起訴したいという強い希望を考慮し、ここでお前達と共にこの男についての判決を行うこととする。
そこでだっ!
その前に、お前達に一つ、確認したいことがある。
これまで“お前達、ユダヤ人によって”起訴された者の中で、今、ここに二人の男がいる。
どちらの男にも処罰としてそれぞれ、磔刑が求められている。
一人は、殺人及び暴動の罪で“有罪となった”サマリア出身のバラバ。
もう一人は、神の子やユダヤの王であるとの出自、経歴の詐称、及び、手配中の容疑者を隠蔽したかどで“嫌疑に問われている”ナザレ出身のイエス。
このどちらもお前達、ユダヤ人は磔刑を望んでいるが、間違いはないか?」
わたしは城門の上から屋敷に詰め掛けたユダヤ人達に向かって大声でそう尋ねた。
どうやら日が昇ってきて通りに行きかう人の数が増え、屋敷の前に集まる僧侶達に興味をそそられたのか、いつの間にやら人だかりができていて、今では子供まで屋敷の前に続々と集まって来ていた。
そういう無関係な人達だからこそ、ピラトの呼びかけにも当然、無責任だった。
「そうだっ、間違いないぞっ!そんな奴らはさっさと十字架送りにしろぉ!」
面白がって僧侶達ではない野次馬の一人がそう叫んで、多くの人々を煽る。
すると、それに同調して他のユダヤ人達も一斉に怒号を上げた。
「そうだ、そうだ!早く殺せっ!」
「殺せっ!殺せっ!」
裁判の経緯もその詳細など何も知らない、にもかかわらず、他人を処刑することに何のためらいもなく人々は大声でそう叫んだ。
誰か一人がけし掛け、それが大勢の声になると誰もがその声に流されて、人一人の命など何とも思わなくなり、多勢の雰囲気に飲まれてますます高揚していくようだった。
彼らはお祭り気分で楽しそうに城門を見上げ、二人の男達を交互に眺めてはそれぞれに野次を飛ばして処刑を促した。
その野次を聞いた子供達も大人達の様子を面白がり、“それに感化されて”、わざわざ道端の石を拾って上にいる囚人達に向かってそれを投げつけてきた。
さすがにその投石がピラトに当たることを恐れた門兵達が慌ててその子供達を咎めだし、わたしはその騒ぎが落ち着くのを見計らってから再び、ユダヤ人達に向かって大声で言った。
「よしっ。では、ここでお前達が今朝、連れて来た男についての判決を行いたいと思う。
ただ、先ほども申し述べたように、ナザレのイエスの罪状については何もないのでローマ法において裁くことはできない。
そこでわたしから一つ、提案がある。
お前達も知っての通り、毎年、わたしは、お前達の祭儀であるペサハ(過ぎ越しの祭り)に対して敬意を払い、お前達の神への捧げものとして、“温情を持って”極刑を下された者達のうち一人だけに恩赦を与えることにしている。
だから、ここにいる二人のうち、どちらかにこの恩赦を授けてやろうと思うが、その者を今回は、お前達に選ばせてやろう。
それがここにいる二人への“最後の裁き”となる。
では、もう一度、尋ねるっ!
死罰を与えるべきはどちらだ?
エルサレムの街を荒らし、人を殺めたサマリアのバラバか、それとも、自分はユダヤの王、神の子だと嘘をついたナザレのイエスか?」
これでユダヤ人達も納得するだろう、とわたしは思った。
一応、僧侶達の顔が立つよう、彼らの起訴を真面目に取り上げてやったし、判決に対する彼らの意見も聞いてやった。
そうまでしてユダヤ人達の機嫌を取ってやったのだから、これで僧侶や教師達の怒りも治まるだろう。
そして、有罪とはっきり決まっている大悪党と、大した罪も害もなさそうな夢見る羊とを見比べれば、いくらあの頭の固い偏屈僧侶共でも憐れみぐらいは感じて、すぐに愚かにも権力に抗って粋がっているだけの罪もない羊を許すだろう、わたしはそう思っていた。
だが、そんな思惑は一瞬にして打ち砕かれた。
「バラバだっ!バラバを返せ!」
わたしの問いかけに、群衆の中から一人の男がすぐに声を上げた。
それは僧侶でも教師でもなかった。
目つきの鋭い小男で、わたしの隣に立つ紫のローブの男がその小男に気づき、いくらか動揺したかのように体を震わせた。
その後すぐに、その小男の横にいる屈強そうな身体をした別の男が続けて叫んだ。
「皆、バラバはここいるシモンや俺達、熱心党の仲間だっ!
バラバはイスラエルの為に命を張って戦い、皆の暮らしぶりをよくしようと大いに活躍してきた。
それを妬まれて、罪を着せられ、間違って逮捕されたのだ。
だから、バラバは無実だ!」
シモンと呼ばれた小男とその仲間の男は群衆に向かってそう呼びかけ、バラバを援護した。
「そうだっ!バラバは無実だ!」
すると、再び、どこからともなくまた別の男がその声に合わせて言った。
「いいかっ、皆、騙されるんじゃないっ!
彼が逮捕されたのは罠だ。
これは、勇敢にも神に命を捧げて戦ってきたバラバを陥れようとする罠なんだ!
思い出せ。貧しい民達にいつも施しをしてきたのは誰だっ?」
屈強そうな男は、群衆に再び大声で話し掛けた。
「熱心党のバラバだっ!」
すぐに仲間らしき男達がこぶしを挙げてそれに答えた。
「お前達をいつも神へと導いてきたのは誰だっ?」
男がまた叫ぶ。
「熱心党のバラバだっ!」
男の掛け声に飲まれた群衆がすぐにそれに答える。
「預言者モーゼの生まれ変わり、神の使いとは一体、誰だっ?」
「熱心党のバラバだっ!」
「そうだ!だから、バラバを魔の手から奪い返すんだ!
神の使いであるバラバの命を私達の手で救おうっ!」
群衆に呼びかける男が最後の決め台詞を吐くと、途端に群衆も口々に声を上げ始めた。
「そうだっ!バラバを返せ!」
「バラバを助けろぉっ!」
「私達のバラバを救ってぇっ!」
「バラバ!バラバ!バラバッ!バラバッ!・・・」
あっという間に群衆は男に煽られ、その名を連呼し始めた。
意気高揚した人々の中には、もちろん僧侶や教師達もいた。
事の成り行きからして、どうやらバラバを助けようとする過激派の仲間が数人、群衆の中に紛れ込んでいるようだった。
しかし、あまりにも予想外の展開にわたしは呆気に取られるばかりで、自分ではどうにも収拾がつけられず焦っていた。
こんなはずではなかった。
そもそも、事の起こりはそれほど厄介な話じゃない。
単に高慢ちきな僧侶達のプライドを傷つけるようなことをこの紫のローブの男が生意気に言っただけのことだろう。
それで両者とも引っ込みがつかなくなり、ケンカになっただけのことだ。
だから、僧侶達の面目が立つようにお膳立てをしてやったし、僧侶達もそれで気が済めば、お互い丸く収まったはずだ。
それが、なぜこんなことになってしまう?
自分達の街の治安からしても、釈放するのはバラバよりイエスの方がいいに決まっている。
それでも、群衆というのはおかしなもので、とかく目立った方の肩を持ちたがるものらしい。
たとえ、そいつが大罪人や大悪党であっても、そんなことはもうどうだっていい。
そして、その結果、目立たなかった者の無実や真実など隅っこに押しやられてしまう。
とは言え、大した罪を犯していない者を死に追いやるほど後味の悪いものはない。
戦であれば、こっちも命懸けなら向こうも死ぬ気でかかって来る。
殺しても殺されてもお互い様だ。
しかし、全く無抵抗の、罪のない者を刃にかけるなど、わたしの軍人としての誇りが許せん。
そんな卑怯な真似がわたしにできるかっ!
そんな憤懣やる方ない思いをどうにか静め、自分が招いた最悪の事態を収めようとわたしは頭をひねったが、まだ動揺しているのかその頭にはちっとも何も浮かんでこなかった。
その時、わたしはちらっと自分の横にいる紫のローブ姿の男に目をやった。
さっきは熱心党を名乗る小男を見て、いくらか動揺したかのように見えた紫のローブの男は、今では気持ちが落ち着いたのか、相変わらず遠くを見るような目つきで群衆を見下ろしていた。
自分が“理由もなく処刑されそうになっている”のになぜ、こうも落ち着いていられるんだ?
何を考えているのかもはっきりしない、どこか虚ろで沈んだ目をして、無情にも自分の処刑を求めて叫ぶ人々をまるで他人事のように眺めていた。
こいつ、一体、何者なんだ?
さっきと同じ疑問が心に浮かんだ。
なぜ、反論しない?
なぜ「自分は何もしていないんだっ!」と群衆に向かって訴え、命乞いをしない?
そして、なぜ、一人もこいつを擁護する者がいないんだ?
一方、バラバはと言うと、自分の釈放を叫ぶ人々の様子にすっかり満足し、引き出されてきた時よりもいっそう不敵な笑みをたたえていた。
冗談じゃない。
悪党のバラバなんかを外に放り出せば、それこそ街中、血の海だ。
こいつに改心する気持ちなんて更々ないのだから、命が助かってもすぐ調子に乗って仲間と一緒に暴れだすだろう。
まさに血に飢え、檻の中でむしゃくしゃしていた獰猛な獣を外に向けて放つようなもんだ。
他のユダヤ住民のこともあるからと、これまでは多少、手加減してきたつもりだったが、こうなれば、こちらも本気で軍の配備をしないといけなくなる。
だったら、ここはもう戦場と同じだ。
だが、できることならそれだけは避けたい。
少なくともわたしがここの総督である限りは・・・。
ああ、だが、一体、どうすればいいものか?
どうすればこの場を上手く収められるだろう?
わたしはどうにもいい案が思い浮かばず、焦る気持ちからか、まさに“神”にでも祈りたくなった。
それこそ、生まれて初めて“神”というものに、わたしは心からすがりたくなった。