第七十四話 法の行方(2)
この時、ピラトにバルバロイ(野蛮人)法だの、非文明だのと散々、こき下ろされたユダヤ教の律法は、実はローマ法の基礎理念にも組み込まれているぐらい、元々はとても民主的で公明正大な律法だった。
確かにこの時、ピラトが自負する通り、ローマは超大国として政治、経済、軍事、司法においてさらなる躍進を遂げようとしていた。
それまでの共和制時代における制度だけでは、海外領土を含めて強大となってきた帝国の維持は不可能であり、初代皇帝アウグストゥスの頃より本格的な帝政時代に突入すると、世界でも稀に見ないほど、実に緻密で精巧な政治大国がローマに誕生することとなる。
初めは小さな都市国家でしかなかったローマも、同じような都市国家体制だったヘレニズム(ギリシャ政治・文化・教育)の影響を大いに受け、建国からわずか200年ほどで王制を廃止し、直接民主に近い共和制を導入した。
しかし、実際にはパトリキ(貴族)達が300名ほどで構成する元老院の支配が根強く、プレブス(平民)達やローマ市民権のない人々が、以後は社会における平等な権利を求めて長くパトリキ達と闘争するようになった。
その間、元老院から選出されるパトリキ(貴族)上がりのコンスル(執政官)に反発し、プレブス(平民)からトリブヌス・プレビス(護民官)を選出して決議の拒否権を求めるなど、そういった反乱と妥協を繰り返した結果、ついにはプレブス(平民)からも平等にコンスル(執政官)が選出されるようにもなっていった。
その他、国家非常時に独裁的に政権が握れるディクタトル(独裁官)や、法を司るプラエトル(法務官)といった官職もいろいろと置かれるようになり、試行錯誤しながらも、ローマの社会制度はそれなりに発展していったのである。
しかし、その後、時代の変遷と共にノビレス(今で言うセレブ)と呼ばれる富裕平民や新興貴族が幅を利かせ、武力や金権政治が台頭してくると、共和政権下での民主的な情熱も次第に形だけになっていき、その中でそういった武力と金権政治の申し子とも言えるジュリアス・シーザーが終身独裁官に就任したことでローマは実質的には君主制に戻ってしまった。
しかし、そのことが災いし、独裁政権を疑われたシーザーが暗殺されると、今度は身の安全を考えた義理の息子のアウグストゥスが、自身を“プリンケプス・セナトゥス”(第一市民にして第一元首)と称し、一応、建前上では共和制(=民主主義)を尊重する形を採るようになった。
そうして、本音ではアウグストゥス自身もシーザーと同じように、抜け目なくローマ帝国の元首(=皇帝)としての地位を終身かつ子孫継承できるよう元老院に認めさせてはいたが、それまでに共和制(民主主義)を尊重する考えは長く、ローマ帝国の伝統だったため、“実態は明らかにそうでなくても”、ピラトのような政治の裏の裏まで探る必要のない下級貴族階級の“一般ローマ市民”ならば、自国をどの国よりも民主的で公平な国だと信じるのは当然のことなのかもしれなかった。
ちなみに投票権も女性と奴隷を除けば、ローマ市民権を持つ者なら全員に与えられていたし、また、属州地域の外国人も税負担をしていることから、部分的な市民権が認められており、もちろん完全な市民権を取得することも可能だった。
それに、ローマはユダヤと比べればはるかに自由で発展的な社会でもあった。
属州地域よりやって来る多種多様な移民や商人、物資や奴隷だけでなく、文化や思想、言語、宗教といったものも比較的寛容に受け入れ、そういったものが混合されて出来上がったまさに人種のるつぼとも言える社会になりつつあった。
そういった社会的背景から宗教も次第に個人の自由となり、ジュリアス・シーザー以降、皇帝がポンティフェックス・マキシマス(最高神祇官。現代ではローマ法皇の位である)を兼ね、歴代皇帝やジュピター(ローマ神話の最高神。ギリシャ神話のゼウスに相当する)を主神とする国教も“信仰する”というより、お祭りや儀式、年間行事といった社会的な権威としての役割を果たすだけとなった。
また、民衆の方も、反社会的でなければどの宗教も許されていたので、国教の他にも、イシス神(エジプトの女神)やデュオニソス神(ギリシャ神話の酒の神)といった迷信的なカルトやオリエント宗教を信仰したり、各家庭では縁起を担ぐために様々な祭壇が設けられるなど、流行として外国の神でも簡単に受け入れてしまうような多神教社会だった。
そういった雰囲気の中で、(ギリシャ時代にも既にいたのだが)神の存在を否定する無神論者や、ピラトのように宗教に関心のない人々も徐々に増え、“何らかの(宗教の)神を信仰しない”ことも許される社会となっていたのである。
だから、ピラトにとって宗教とは、単なる文化や趣味、娯楽のようなものでしかなく、ユダヤのように一神教であることが全てにおいて原則とされる社会など到底、彼には理解し難いものであって、それこそまさしくカルチャーショックとも言うべきものだった。
このように様々な情報において広く開かれた社会であったローマは、中でも特に法律に関して世界のどこよりも最先端を走っていた。
“12表法”と呼ばれる市民法は、元はユダヤと同じように宗教の流れから作られたものだったが、それも早い時期から僧侶達だけでなく一般に向けて条文の開示がなされていたため、プレブス(平民)達の間でも法案の議論は随分と前から積極的に行われていた。
だからこそ、社会での平等な権利を求めてプレブス達が激しく抵抗する度に、法改正が推し進められ、国の法として平民集会での決議が元老院よりも優先されるなど、時代を経る毎にローマ法は洗練されていったのである。
その後、海外に領土が拡がってくると外国人との訴訟が増え、今度はどこの国でも適用できる法が必要となったことから、プラエトル(法務官)や法学者達は、征服した領土の法律や慣習、ギリシャ哲学なども自分達の法に柔軟に取り入れていき、ますます法の研究と工夫が重ねられていった。
こうして、アウグストゥス皇帝の時代になると、海外においても活躍できる弁護士を育成しようと今でいう国際弁護士のための司法学校が設立されるなど、ローマ法はまさに世界の万民に通用する法律へと変貌を遂げていったのである。
その後もローマ人達はたゆまぬ研究と努力を積み重ね、AD(紀元後)529年にはユスティニアヌス1世が建国以来1200年間培ってきたローマ法の編纂を行い、これを“ローマ法大全”(または市民法大全)と呼んで基本法に定めたため、以後、ローマ法は18世紀末に至るまでヨーロッパ大陸の司法において多大な影響を与えることとなった。
(ちなみに、かなり間接的ではあるが、現代の日本やアフリカの法律においてもローマ法の影響は多少残っていて、こういった点からローマ法は、今なお法学においてユニバーサルに注目され、研究されている学問でもある)
このような事情から考えて、ピラトが自国のローマ法をどの国よりも洗練された文明的な産物として高く評価し、それと比べ、ユダヤ人達の律法がかなり時代遅れで非文明的なものと見るのは仕方ないことかもしれなかった。
しかし、今はそうであっても、ピラトが考えるほど、別に元々、ユダヤの律法が丸っきり非文明だった訳でも、全く教養のない代物という訳でもなかった。
むしろ、ピラト自身が気づかなくても、世界において一番、進んでいるとされているローマ法でさえ、実は、ピラトの頃から約1000年も2000年も前に作られていた古代バビロニアのハムラビ法典やユダヤのトーラ(モーセ5書)といった、古代オリエント(東洋)のバルバロイ達(旧世界公用語のギリシャ語やラテン語を話さない人々)の法律に少なからず影響を受けていたのである。
だから、ローマ法にある“進んだ考え”の全てが、必ずしもローマ帝国だけのものとは言えないはずだった。
そしてそれは、どこの国の、どの時代の、どの法律においても同じだった。
例えば、歴史を紐解いてみれば分かるように、ギリシャ、エジプト、中国、インド、メソポタミアと、この地球上のどこかで何がしかの文明が起きる度に、誰かの知恵や思想が生まれ、誰かの口にのぼり、それが誰かに伝わって、そしてそれは誰かに受け継がれていく。
そこには国境、性別、人種、時代、そういった隔たりなど最初は何もなくて、ただ“お互いの意思”が通じて自分に利があると“分かれば”、どこの誰の、どんな考えや知恵だろうと、人はそれを自然と受け入れ、そしてそれを子孫に伝承していくものである。
ところが、時と共にそれが一定の場所に定着してくると、いつの間にか、それはまるでそこだけで編み出された文化や思想だと言い出し、伝えられた子孫の方もいつしか自分達の先祖だけが考えついた独自のものだと勘違いするようになるのである。
しかも、さらに時が経って国境や人種という隔たりがはっきりとでき、今度は自分とは全く音や形の違う言語を話す人に出会うと、人はなぜか、天地ほども自分とは考え方が違うだろうから同じようなことを思いつきはしないだろう、とつい相手を誤解してしまうようだった。
それと同じように、ピラトが外国人としてユダヤ人達の考えがあまり理解できないのも、多少、自分の中にそういった“こだわり”や“わだかまり”のようなものがあるからだった。
そして、それだけでなく、ローマ人のピラトがいくらイエスやその他のユダヤ人達に向かって「ローマ法は世界のどの国の法よりも民主的で優れているのだ」と自慢したとしても、所詮、それは様々な国の、様々な時代の、様々な個人の考えが“上手い偶然で”合わさって一つの種となり、たまたまローマという土地の、ローマ人達の手でその種が育てられ、そして幸運にもそれが見事な花を咲かせただけであって、そこにある優れた知恵や思想の全てが決してローマ帝国だけで生みだされたものではないはずだった。
そして何よりも大切なことは、法そのものを完璧にすることが素晴らしいのではない。
たとえどれほど法そのものを磨きに磨き、精巧に作り上げていったとしても、それによって健全で公平な裁きがいつも生まれるようになるかと言うと、必ずしもそうではない。
むしろ、法制度が複雑になればなるほど、人はその形態ばかりに気を取られ、結局、そこに心(意思)を入れなくなってしまうのである。
そして、それこそピラトが今、自分で目にし、“時代遅れだ”と評価する、ユダヤ教の法の姿だった。
確かにローマ法は、ユダヤ法のような人と情報が閉じられた社会で作られた法からすれば、常に世界に向かって開かれた社会の利点が大いに生かされた、はるかに優れた法だと言えるかもしれない。
しかし、それだけが“法の精神”そのものを培っていくかと言うと、決してそうとは言えない。
それに、“法の精神”とは、常に変わらず、どこの国の、どの時代の、どんな法律であろうとも普遍的に“存在する”ものである。
― 正義、公平、慈悲、真実。
これらの“法の精神”(=神の心、神の精神)がその法に備わっていると信じるからこそ、人はその法に自分の裁きを安心して委ねるのである。
最初の頃に預言者モーゼが編み出したユダヤの律法は、まさにそういった精神に満ち溢れたものだった。
それは元々、彼らヘブライ(古代ユダヤ)人達がエジプトで外国人として、奴隷として、数々の不公平な扱いと差別を受け、命からがら亡命し、あの時の苦しみや悲しみを二度と繰り返さないよう、新しい土地で一人一人が力を合わせ、皆で公平で豊かな社会を築こうと願って編み出された法だったからである。
だから、本来、ユダヤの法律とはそんな“民主的な意図”から作られたものであって、もちろん、その当時としては、とても革新的なものだった。
だからこそ、21世紀の現代に至るまでその民主的な精神と行動が尊ばれ、モーゼの名は生き続けてきたのである。
だが、時が流れ、国が安定し、人々の生活も豊かになってくると、かつての苦労や多くの人達が命からがら負ってきた深い心の傷を知らず、法の精神の恩恵を当たり前のように与えられ、“それ”に慣れて、人々は次第に傲慢になっていった。
すると、人々の間からそんな“法の精神”(=神の心、神の精神)などいつの間にか忘れ去られるようにもなり、そのうち、一部の人達だけに都合のいいような特権を編み出したり、勿体をつけるためにわざと複雑な条文を作ったり、勝手に本来の正しい法を捻じ曲げて解釈するようにもなっていった。
そうなると、“法の精神”に基づいた正しい法との間にあちこち矛盾ができるようになるのだが、それも伝統と権威で持って真実を封じ込め、ますます現実離れした法がまかり通るようになってしまったのだった。
その後も、ユダヤ人達は自分達の過ちに気づくことも改めることもなく、“法の精神”よりも“法の形態”ばかりにこだわった結果、かつては民主的で文明的だったユダヤ教の法は、今ではピラトから「時代遅れで非文明的」とまで蔑まれ、当のユダヤの民衆からも暮らしにくく不便な法律だと思われていたり、あるいは自分の命や生活を脅かすものとして恐れられていたり、多くが内心では理不尽で納得のいかない法だとすら思われるようにもなっていたのである。