第七十二話 疑心
とは言うものの、“言うは易く、行なうは難し”。
人前でいくら「やってみせる!」と大胆な行動を豪語したとしても、実際に“やる”となるとこれまた別の話である。
その場の雰囲気に押され、勢いに任せてペトロに「わたしにやらせてくださいっ!」と、強く自分からイエスの引き渡しを買って出たユダも似たようなもので、いざ、実行するとなるといささか気後れしていた。
果たして、わたしにそんな度胸があるんだろうか?
ペトロと話を終えて自室に戻ってきたユダは、改めてそう思った。
確かに、自分から申し出たけれど、本当にこれで良かったんだろうか?
本当にイエス先生をサンヘドリンに引き渡したら、皆が助かるんだろうか?
これが本当に一番、“良い”方法だったんだろうか?
そう考えると、ユダは激しく不安になってきた。
何か、大きくて真っ黒い得体のしれないものが自分の全身にのしかかってきているみたいに心が重い・・・。
何なのだろう、この不安は?
分からない。
どうしてこんなにもやもやするんだろう?
なぜ、こんなにまで胸が締め付けられるんだろう?
あの人さえいなくなれば、すべては丸く収まるはずだ。
皆の命も助かり、わたしもこれで赦されるはずだ。
だって、世の中の、国の戒律(法律)に従ってあの人を通報するだけなんだから。
なのに、もう心配することなんて何もないのに、何だかさっきよりもずっと胸が痛い。
ユダは寝床の上に座り込み、ずっとそのことを考え続けた。
しかし、彼の心には何の答えも浮かんでこなかった。
それどころか、そのうち疲れて眠気まで襲ってきて、ユダはそれ以上、考えることすら嫌になった。
朝、・・・とにかく明日また、考えればいいさ。
きっと考え過ぎでイライラしているんだ。
誰だってずっと嫌なことばっかり考えていたら、そのうち段々、不安になってくるってもんだ。
だから、とりあえず嫌なことは全部、忘れて、頭をすっきりさせてから朝、また考えることにしよう。
そうしたら、また、いい考えだって頭にすぐに浮かんでくるもんだ。
そう考えると、ユダはあくびをし、そのまま寝床に倒れ込んだ。
興奮しながらペトロと話し込んでいたせいか、ユダはかなり疲れきっていた。
だから、彼が寝床に横たわった途端、すぐにスースーと安らかな寝息を立て始めた。
そうして、ユダが何もかも忘れて死んだように寝入ってしまうと、さっきまでうっすらと部屋に差し込んでいた月の光が徐々に消えていき、その代わり、一寸先さえも見えないような、そんな深くて濃い漆黒の闇がゆっくりと彼の身体を包み込んでいった・・・。
「どうだ?この男、見たことがあるか?」
わたしは疲れきった様子でうつむいている紫のローブ姿の男を指差しながら、部屋に呼ばれてやって来たばかりのクファノウム駐在の百人隊長ガイウス・カシウスに尋ねた。
わたしはカシウスが来てくれて、ようやくほっと息をついた。
何せ、朝っぱらからずっとユダヤ人達にせっつかれ、仕方なしにこの男の審議を引き受けたものの、どう裁いたらいいかもはや八方塞がりだったため、この男が住む土地を管轄するカシウスの存在に気づき、どうにか解決の道筋になってくれればと思っていた。
尋問することも段々なくなってきているのに、これ以上、さっきから暗く沈んだままの男とずっと向き合っているのもかなり苦痛だった。
だから、同じ国の人間で、しかも自分の配下にあるカシウスが来てくれたことで、気兼ねなく話せるかと思うと、彼の顔を見た途端、救われたような気分にもなった。
あのいまいましいユダヤの偏屈坊主共に訳の分からん男を押し付けられて、一日中、顔つき合わし、時間をつぶされるのも真っ平ごめんだからな。
カシウスに話を聞いてさっさと蹴りがつけられるんなら、それに越したことはない。
まぁ、カシウスなら裏のない男だし、嘘は言わんだろう。
わたしはそう思って、カシウスの答えを期待していた。
「はい。一度、会ったことがあります。クファノウム在住の男です」
カシウスは、はっきりとそう答えた。
「ほぅ、会ったことがあるのか。で?どういう男だ?」
単刀直入に聞いてみて期待を超える答えが返ってきたことで、わたしは嬉々として思わず身を乗り出した。
「彼は、ユダヤ教のラビ(教師)をしている男です。
わたしが以前、クファノウムに設立しましたシナゴーグ(集会所)で一度、ユダヤ住民の為に説法をしてくれるよう、この男に依頼したことがあります。
何せ、彼はクファノウムだけでなく、ガリレー地方では随分と名の知られている男ですので」
カシウスは淡々とそう答えた。
一方、そう言われて紫のローブの男の方を見たが、男はまだ下を向いて突っ立っているだけで、どこをどう見てもとても有名人という威厳も雰囲気もまるでなかった。
もっと言うと、男はカシウスを見ようともせず、二人はさほど親しい間柄にも見えなかった。
「ふーん。そんなに名の知れた男なのか・・・。
しかし、なぜ、あれほどまでに同じユダヤ教の僧侶共から嫌われている?
宗派争いか? どうも、よく分からんが・・・。
まぁ、それはともかく、お前はこの男の事で他に何か聞いたか?」
「何か、と言いますと?」
カシウスは生真面目にわたしの質問の意図を正確に把握するよう、慎重にわたしの質問を繰り返した。
「うむ。本当かどうか知らんが、どうもユダヤの僧侶達が言ってきたのは、ガリレーのヘロデ知事の情報によると、この男はどうやら我が軍から手配されているお尋ね者をかくまっているらしい。
それについてお前は何か聞いていないか?」
今度はわたしの方が、カシウスの本心を探ろうと彼の目を見据えた。
それにまっすぐ答えるように、カシウスはわたしの視線をしっかりと受け止め、それからさらに隣でうつむいたままの紫のローブ姿の男を一瞥すると、また、すぐにわたしにその目を戻した。
「はい、聞いております。
この男が“故意に”手配中の男をかくまっているかまでは、まだ、分かっておりませんが、間違いなく我が軍はこの男の弟子の一人を追っております。
ただ、率直に申しあげれば、“故意に”かくまっていると言うのなら、それはこの男よりもその情報をもたらしたヘロデ知事の方でしょう」
「どういう事だ?」
話がはっきりつかめず、わたしは顔をしかめた。
「手配している男の名は、シモン・ガリレーと言いまして、30年ぐらい前にサフォリス(ナザレから7kmほど離れた都市)にあった我が軍の基地を襲撃したかどで処刑された、あのユダ・ガリレーの息子です。
ご存知かと思いますが、父親は反ローマの武装集団である“熱心党”を作り上げた男で、ガリレー地方では度々、暴動を煽るなどの反政府活動をしていただけでなく、時には商家や貴族の屋敷を狙っては金品を強奪するような違法行為にも手を染めていたようです。
その父親が処刑されて一時は仲間も分散したようなのですが、ガリレー地方で似たような活動をしている連中に混じり、生き残ったユダの家族がいるらしい、との情報を得ました。
そこで、その情報が本当かどうかを確かめようと一応、警戒しておりましたところ、たまたま暴行の容疑でそのユダの息子であるシモンの名が浮上しまして、早速、取り調べようと手配いたしました。
ただ、彼らの党は民衆に略奪品を配って歩くエセ慈善家集団ですので、我が軍が捜査をしようとしても、民衆の方は協力するどころか、シモンの居所について簡単には口を割りません。
ですので、ユダヤ人側への懐柔策としてヘロデ知事に捜査の協力をお願いしました。
ところが、知事からの返事はなしのつぶてでして、逆に知事の手の者と思われる連中がこちらの捜査を妨害してきたと、わたしは部下から報告を受けております。
その後すぐにシモンの居所は割れたのですが、ヘロデ知事の妨害の件からしてそれほどヘロデ知事が民衆を気遣ってシモンを隠したがっているのなら、シモンはよほどの大物だろうと思いましたので、すぐにシモンだけを取り押さえるよりも彼とその仲間の一味をきちんと見極めてから一網打尽にしようと、今しばらくシモンを泳がせておりました」
さすがはカシウスだ、とわたしは思った。
内情を把握するためにはじっと相手の動きを見定める。
この男の眼識には前々から感心していたが、派手で目立った働きはせずとも確実に仕事をこなしてくる。
しかも、その判断は的確で行動も早い。
鷹のような男だ、と以前、誰かがそう評していたが、案外、当たっているかも知れんな。
そっと爪を隠しながら鋭い目を四方に巡らせ、獲物を見つけたらすぐさま羽ばたいて、隠していた鋭い切っ先で鮮やかに獲物を切り裂く。
一見、非情なようだが、一度、心許した相手は決して裏切らない。
ヘロデの件にしても、この男がそう言うんだから間違いはないだろう。
まして、あのヘロデのことだ。
カシウスの邪魔をするのも、せいぜい、わたしへの当てこすりが目的に決まっている。
庶民感情を逆撫でしたくないために自分から派手な摘発を避けたいのかもしれんが、それよりもそういった過激な連中を適当にのさばらせておいて、後で何か問題が起きた時にすぐさまわたしのせいにしてティベリウス皇帝に告げ口すれば、自分に王冠が転がってくるものと計算しているんだろう。
全く、ちょこちょこと小賢しい真似をしやがって!
あいつの顔を思い出すだけでも胸糞悪くなる。
「それで?この男も熱心党に所属しているのか?」
わたしはヘロデの、あの高飛車で嫌味な目つきを思い出し、それを頭から振り払おうと唐突に別の質問をカシウスにぶつけた。
カシウスはその質問をされて、少し戸惑ったような表情を浮かべた。