第七十話 悪魔(サタン)の罠
「あの、・・・先日のお話を受けまして、わたしも自分なりに考えがまとまったので聞いて頂こうかと・・・」
ユダは椅子に座ると思い切って話をすぐに切り出した。
そうか!ユダか。
この男なら、申し分ないな。
自分の前に座っているユダの思いつめた表情を見たペトロは、まさに自分が待ち受けていた適任者が目の前に現れたので、内心、にんまりした。
「そうか、ようやく気持ちが決まったんだね。それで?」
ペトロはユダを安心させようと優しく微笑んで見せた。
そして、ユダの次の言葉を待ち受けて彼の唇をじっと見つめた。
「実は、サロメさん達が先日、ここに来られた際、クファノウムに残してきた娘の様態が分かったんです。
どうもあの子の病状があまり芳しくないようでして・・・。
できれば娘の面倒を見てやりたいですし、それにあの子にはもうわたししか親はいません。ですから、もし、万一、わたしの身に何かあったら、幼いあの子までむざむざ殺すようなもんです。
それだけは、やっぱり・・・やっぱりわたしにはできそうにありません。
だから、先生にも皆さんにも悪いとは思ったんですが、やはり、宗派を辞めさせて頂きたいと・・・」
そう勇気を込めてペトロに訴えたユダは、かつて熱心党を抜ける時にも娘の病気を理由に離党したのだが、前回の時と同様、今回も嘘ではなかった。
ユダの話の通り、つい最近、ペトロとリーダーの座を巡って競り合うヨハネとヤコブ兄弟の母、サロメ・ゼベダイが偶然にもこのべサニーを訪れていた。
彼女達がべサニーにまで押しかけて来たのは、もちろんイエスの奇跡を聞きつけたからだった。
死者復活の噂はユダ地方だけでなく、周辺に住む人々の口から口へと伝えられ、さらに国内外にまで拡がって、当然、ガリレー地方の、クファノウムの町にもその噂は届いていた。
この噂を聞きつけたサロメは、いち早く、自分と仲のいい熱心な女性信者を2〜3人ほど誘って、エルサレムの見物がてらべサニーへと乗り込んで来たのだった。
そして、そのついでに弟子達それぞれに当てた家族からのパピリ(パピルス紙に書かれた手紙のこと)なども一緒に運んできてくれたのだが、ユダもその時、娘を預けている親戚から一通のパピリを受け取った。
そこには、確かにエスターの病状がかなり悪化していることが書かれてあった。
(ちなみに、パピルス紙は、カビずに1000年も保管できるという羊皮紙と比べればずっと安価だったため、エジプトの頃から手紙はもちろん、行政書簡や外交文書、契約書に領収書と、果てはメモ用紙や包装紙に至るまで幅広く使われ、罫線つきの高級純白紙から再生紙といったものまで種類もいろいろと豊富にあった。
後に「バイブル」の語源とされている“ビブロス”も、元はこのパピルス紙をギリシャに向けて輸出していた港の名前であり、“パピルス紙に書かれた聖なる巻物”という意味合いから「バイブル」という言葉が生まれたと言われている)
そのパピリを読んだユダは、当然、焦った。
ユダは自分が商人をしていた頃からそうだったが、今の仕事に変ってからもしょっちゅう旅に出たり、外出することが多くて、どうしても病気がちだった妻や娘の面倒を親戚や近所の人に頼ることが多かった。
しかも、妻にまで死なれてしまうと、男手一つで娘を育てるのはそれほど容易なことではない。
まして、その娘が病気ともなれば、生活費を稼ぎながら娘の看病をするのはなかなか大変だった。
それを不憫に思ったのか、亡き妻の義兄夫婦がユダの家の近所に住んでくれるようになり、彼が仕事で家を留守にする時は、そこの夫婦が娘エスターを看てくれるようになったのだった。
幸い、義兄夫婦にはたまたま子供もいないせいもあってエスターを我が子のようにとても可愛がってくれ、しかもエスターの方も母恋しさが手伝って、義兄嫁のサラにはことさらなついていた。
おかげでユダも少しは安心して旅に出られるようになったのだが、それでも娘の病状はやはり気にはなっていた。
そのため、今回、思ったよりも長くべサニーに滞在することになってユダがじりじりしていた矢先、こんな知らせが舞い込んで来て、ユダとしては居ても立ってもいられなくなったのだった。
正直なところ、12弟子という、イエスの弟子や信者達の中でも最古参の弟子達の一人として名を連ねる自分が、宗派を真っ先に辞めるのはかなり気が引けることだったが、それでも以前から辞めたいと考えていたユダにとって、この前のペトロの話はまさに願ったり叶ったりの話だった。
そこで、ペトロが夜遅くまで仕事をしているところを見計らい、誰もいない時にこっそり話をつけようと、ユダは彼の元へと忍んで来たのである。
「・・・そうか。そりゃあ、仕方ないだろうね。
わたしから見れば、あなたの選択は決して間違っちゃいないと思うよ。
だって、あなたの娘さんのことは再三、話には聞いていたし、わたしとしてもあなたに残ってもらうのは却って気の毒だしね」
ペトロは一応、仲間を失って寂しそうな、それでいて辞めていこうとするユダを気遣うように、にっこりと笑って見せた。
しかし、実際には、ペトロの心の底では悲しいどころか、思った通り、ユダが自分から辞めると言い出してくれたおかげで、小躍りしたいような気分だった。
「えっ?いいんですか?・・・本当に?」
宗派を離れることをいともあっさりペトロが許してくれたので、ユダは少し驚いて彼の言葉を確かめるように聞き返した。
「もちろん。どうしてわたしにあなたが止められるって言うんだい?
この前も言ったじゃないか。わたし個人としては、皆をあえて危険にはさらしたくないんだ。本音を言うなら、早く辞めてもらった方がいいとさえ思っている。
年の若い連中なんか特にそうだ。
彼らは死というものを軽く考えて、何でもすぐ命を投げ出そうとする。
そんなのは殉教でも何でもない。
却って“犬死”するだけだ。
わたしはリーダーとして彼らにそんな真似をさせる訳にはいかない。
それに、そんな事をさせて彼らの家族から逆に恨まれたくもないしね。
もちろん、あなたの娘さんを見殺しにだってできない。
あなたの娘さんが病気なのを知っていて、わざわざ私達のところに残ってくれ、と言う方がよっぽど罪作りじゃないか。
主はあなたに娘さんを与えた。
だったら、娘さんを先に守ってやることこそ、あなたが一番にすべきことなんじゃないのか?」
ペトロはそう言って、再びユダを安心させるように微笑んで見せた。
それを見て、ユダはもっと後ろめたい気分になった。
「でも・・・あなたは?あなたは一体、どうなさるんです?」
「わたしか?わたしは、イエス先生に従うだけだ。
だって、わたしは先生の一番弟子だ。
それにわたしはこの組織のリーダーでもある。
だから、わたしにはその責任があるし、先生が『ついて来い』と言えば、わたしはついて行くしかないじゃないか。
たとえ、“地獄の果て”であってもね」
ペトロが口を歪めてあきらめきったように言った。
その言葉にユダはどうしても腑に落ちず、自分が今、宗派を辞めようとしていることも忘れて思わず反論した。
「でも、あなたにだってご家族がいるじゃありませんか。
奥さんやお義母さんは一体、どうなさるんです?
なのに、あなただけは他の人達と別だなんて、そんなのおかしいですよ。
あなたのような人をむざむざ見捨てていくなんて、そんなの、誰だって出来ません」
「そりゃあ、そう言ってくれるのは嬉しいが、こればっかりはわたしがどうこう言えないだろう?
以前、イエス先生がおっしゃっていたことを考えれば、先生は既に覚悟を決めておられるようだし、これが主の道ならどうにも避けられない運命なのだ、と最初から予知されていらっしゃっるのかもしれない。
先生がその道を歩まれる以上、わたしは一番弟子として黙ってついていくしかないじゃないか。
しかし、その一方で、わたしはこの組織のリーダーとして、先生のお考えが行き届かない細かい部分を補うつもりで、せめて皆の行く末を考えてやらないといけない、と思っただけだ。それに、先生は前々から何度も私達に仰っていただろう?
『わたしに必要なのは、その命を捨ててでもついて来てくれる人だ。
この世の幸せを捨てて十字架を担いででもわたしについて来てくれる人だ。
自分の命を救いたがる人はいつか死ぬ。
だが、自分の命をわたしのために捨ててくれる人は必ずその“生命”を再び見つける。
確かにその人はすべてを失ったと思うだろう。
だが、それは必ず、再び手に入る』とね?
だから、わたしはこう考えたんだ。
イエス先生に従うというのは、わたしが一度、自分の命を他の人達の為に捧げる、つまり、わたしが皆の為に自分の命を捨てたとしても、それはそれで皆の中でわたしの命が生きる、と言うことになるんじゃないだろうか、とね。
だから、今ここで、イエス先生と一緒にわたしが贖罪の捧げ物として他の弟子達の免罪を請うために身を捧げるなら、皆を道連れにして一緒になって死ぬよりも、私達の命だけで他の多くの弟子達の命が救われるんじゃないだろうか?
そして、彼らだけでも生き延びてくれれば、いつかどこかでもう一度、イエス先生の福音をより多くの人達に知らせてくれるのではないだろうか?
だったら、余計、弟子達のリーダーとしてこのわたしがイエス先生と共に主の元に召されることは、わたしにとってとても名誉なことになるんだろうと、わたしはそう考えることにしたんだ」
そこで、ペトロは涙をうっすらと浮かべて見せた。
その涙は、ユダの心をぐさっと突き刺すようにきついものだった。
ユダの目から見ると、ペトロはイエス以上によく出来たリーダーだった。
優しく親切で、自信に満ち溢れ、信者や他の弟子達からもすこぶる評判の良い働き者、これがユダの知るペトロの姿だった。
そんな素晴らしいリーダーであるペトロが、イエスと共に殉教を覚悟し、苦難を耐え忍んで宗派に残ろうとしているのに、自分だけが個人的な理由で抜けようとすることは、かなり我がままで自分勝手な行為だと暗に責められているような気がして、ユダは深く自分を恥じ入るばかりだった。
しかも、そのペトロの知らないところで自分がもっと後ろ暗いことをしているだけに、ユダの胸はいっそう罪悪感で一杯になり、まるで心臓をぎゅっと手づかみで捕まれたように痛くなった。
「・・・でも、それじゃもっと、ペトロさんまで先生と一緒に死ぬ必要なんてないんじゃないですか?」
ユダは、その良心の痛みから逃れようと、つい、口を滑らしてしまった。
しかし、それは決して言ってはならない言葉だった。
それこそペトロの仕掛けた罠にユダは自ら片足を突っ込んだことを意味する言葉だった。
むろん、その言葉を待ち構えていたペトロは、すかさず、
「えっ?」と、とぼけてユダに聞き返した。