第六十九話 共存
こうして、イエスがペトロの裏切りに気づき、自分を待ち受ける過酷な運命を予感したその夜、ペトロの元には、彼が待ち望んでいた“生贄のための第二の羊”がその胸にある決意を秘めて彼の部屋を訪れていた。
実は、ペトロは、ベサニー村に残った弟子達全員を集めて開いたあの会合以来、今後の進路について弟子達一人一人と話を進めていた。
だが、彼の予想に反し、本気で宗派を離れる決意を固めた者は意外にも少なかった。
むろん、どの弟子達も不満がなかったわけではない。
そもそも、弱小ゆえの肩身の狭さに加え、世間のイエスへの風当たりの強さに不満がないはずはなかった。
その上、イエスが起こした復活の奇跡が起きてからは様相が一変し、これまでとは比べ物にならないくらい大勢の人達が我も我もとやってきて、弟子達はかなり困惑していた。
確かに、自分達の宗派に多くの人の関心が集まり、注目されることは誇らしかったし、うれしくもあった。
だが、その一方で言い知れぬ不安は拭えなかった。
そうそう、うまくいくはずがない。
それでなくても散々、ファリサイ派やサドカイ派の連中には脅かされてきたし、いたぶられてきた。
世情や説法中のイエスの状況を見れば、いつイエスが捕まってもおかしくはなかったし、自分達にもお咎めがくるかもしれないという危機感もあった。
その上、ペトロからサンヘドリンの警告について会合で聞かされたため、弟子達の不安は頂点に達していた。
だが、その極度の不安がかえって彼らの思考を停止させていた。
それでなくても先行きのわからない者達ばかりが集まったような宗派だった。
今更、どこへ行こうと状況は変わらない。
だったら、このまま現状維持でいる方がいい。
そんな自棄っぱちな気持が彼らの心に蔓延していた。
それに、ペトロと違って、直接、サンヘドリンの教師と会って死を予感させる現実に直面した訳でもなかったので、いくらペトロがそうした話をしてもさほど実感は湧かないようだった。
その上、アンデレなど一部の弟子達の間では、いまだ現実離れしたイエスの奇跡を本気で信じている者達もいた。
まして、死者復活の奇跡が起きてからはもしかしたら、本当にイエスは奇跡を起こせるかもしれないなどと妄想する始末で、そんな弟子達に今後の進路など話し合えるはずもなかった。
また、何を勘違いしているのか、会合での感情的な雰囲気に押し流され、若い弟子達の中には、「イエス先生やペトロさんが殉教されるおつもりなら、わたしもお供いたします」などと劇場的な大見栄を切り、ここぞとばかりに自分を高く売り込もうとする者さえ何人かいた。
果たして、彼らが本気かどうかは別として、ペトロは鼻からそんな若い弟子達には何の期待もしていなかった。
ペトロとしては、彼らが宗派に残って殉教しようと、自分達から離れてどこかへ行こうとそんなことはどうでもよかった。
まして、彼らにイエスをどうこうしてもらうつもりも毛頭、なかった。
あいつらの決意なんて霞みたいなもんだ。
真面目に聞くだけ馬鹿らしい。
「殉教して見せます!」などと今、神に誓ったかと思ったら、次の瞬間には「明日はいいことが起こりますように」などとのんきに主に向かって祈りだす。
仲間と一緒になって「今が最高!」などと叫んでいても、日が暮れれば「死にたい」と暗く落ち込んで泣き出してしまう。
まぁ、若いってのは誰だって気持ちが変わりやすく情緒不安定なのかもしれないが、それにしても最近のやつらは特に意思が弱くてコロコロと変りやすい。
心のどこかで自分は常に安全で、明日はいつだって変わらず訪れるものと決めてかかり、何の変化もない日常が退屈で退屈で仕方がない。
だから、劇的な変化を求め、あっちを彷徨い、こっちで待ち呆け、そのうちしびれを切らすと、何か突発的な行動を考えもなしに起こそうとする・・・。
そんなやつらが自分達の将来を語ったところで、何一つ具体的なものなんてのはありはしない。
いずれにしろ、年若いうちは皆、周囲の状況に流されがちで自分の意見などあるようでないし、こういった危機に対処するどころか、それに直面しても他人任せで頼りないだけだ。
まぁ、わたしだって、彼らの年の頃はそうだったのだから、それほど偉そうなことを言えたもんでもないが・・・。
とにかく、彼らの決意がどうであれ、こんな大事な仕事を奴らに任せる訳にはいかない。
私達、全員の命を預け、間違いなくあの人をサンヘドリンに引き渡せるのは、もっと年を重ね、口も堅い、信頼できる物の分かった人物でないと・・・。
しかし、そうは言っても、古参の弟子達ですらどうもはっきりしないしな・・・、
一体、誰が一番、適任か?
ペトロはそうして若い弟子達についてぼやきながら、自分が進めようとする計画をどうやって成し遂げようかと頭を抱えた。
そこへ、部屋のドアを誰かがノックする音が聞こえてきた。
「お入り」
ペトロが声を掛けると、夜更けの静けさを気遣い、ユダがそっとドアを開けて中に入ってきた。
「まだ、お仕事ですか?」
と、ユダは真っ先にペトロの様子を見てそう尋ねた。
「ああ、いつものことだけどね。
若い弟子ってのは、説法の仕方を知らんし、多少、どういった内容の話をしたらいいのかぐらいは、わたしが手伝ってやらないと・・・」
そう言って、ペトロは机に散らばった書類を横に押しのけた。
「今、ちょっとよろしいでしょうか?」
ユダはいつも通り、礼儀正しくペトロに聞いた。
「ああ、もちろん。まぁ、そこに掛けたら?」
ペトロがユダと話す時は、いつも少し他人行儀だった。
12弟子の一人として数え上げられながら二人がそれほど親しくならなかったのは、ユダがペトロよりも後に入信したというだけでなく、何よりその、ユダが持つ何とも打ち解けない雰囲気のせいでもあった。
ユダは、誰の目から見てもまさしく生真面目を絵に描いたように見える男だった。
だからと言って、いつも四角四面と言う訳でもなさそうだったが、それでも他の者と比べれば、ユダがほとんど無口な男であることは確かだった。
そのせいか、仲間の中でも浮いた存在になっていて、ユダ・イスカリオテと言えば、影の薄い、一人で黙々と仕事をしている印象しかペトロにはなかった。
ただ、寄付金の件についてペトロがユダに経理の相談を持ちかけた際、彼がすぐさまペトロの要望を汲んだことで、ペトロはユダへの印象を大きく変えることとなった。
この男、使えるな。
ペトロは、ユダの性根にあった「金に弱い」という弱点をすぐさま見破った。
そして、寄付金についての裏帳簿の件がすんなりまとまったこともあって、金に関しては話の分かる男だ、とペトロはそこでユダを見直したのだった。
それ以来、金庫に関しては、ペトロはユダに絶大な信頼を置くようになったのである。
だから、帳簿の管理も、金銭の扱いもユダ“一人だけ”に任せていた。
もちろん、そうすることで、ペトロとその配下の弟子達だけが“皆で稼いできた宗派全体の金”を裏で好き勝手に使えるようにするためだったが、その隠蔽においてもユダが何も言わず上手く処理してくれていたので、ペトロとしてはユダに文句のつけようがなかった。
そのため、自分達と同じようにユダが組織の金をくすねて(横領して)いたとしても、ペトロ自身がそのことでユダを追及したり、責めることなど到底、できるわけはなかった。
ところが、不思議なことに、ユダの方は自分がペトロに利用され、共犯として巻き込まれていることにまったく気づいていなかった。
さすがに裏帳簿の存在そのものは多少、おかしいと思っていたようだったが、それもイエスが組織の長としてからっきし実務に才能がなく、ペトロはそんなイエスを支えるため、そういう裏の仕事にも手を染めているんだなどと勝手に勘違いしていた。
それに、ユダはペトロをとても敬愛していた。
というのも、ユダ自身、自分が横領(泥棒)という犯罪に手を染めていることへの後ろめたさもあり、それを何となく見て見ぬふりをしてくれているペトロの物わかりの良さや融通の利くところが何よりも有り難かったからだった。
しかし、それこそがペトロの“人たらし”と呼ばれる所以であり、また、ペトロはこの時代の世情をかなり熟知していたため、ユダを泳がしてる方が得に思えたからだった。
実は、ペトロ達の闇金業は当時のユダヤ社会でも許されることではない。
ユダヤ人同士の金銭の貸し借りはイスラエル建国以来、利息を取ってはならない決まりだった。(出エジプト記22章25-27節、申命記23章19-20節参照)
モーゼの時代から借金苦によりエジプトで奴隷として過酷な労働を強いられてきたユダヤ人達にとって、イスラエルは借金苦から庶民を解放することを目的に生まれた国でもあった。
民主的で自由、豊かで平等な国を目指そう!
それがイスラエルの“建国理念”だった。
だが、地球上のどの国でも似たような理念を掲げながら、必ず誰かがその理念に基づいたルール(法律)を破ろうとする。
十戒にしろ、ローマ法にしろ、どの国の法律においても、その抜け道や自分勝手な解釈、前記と矛盾した追記などで、いつの間にやら本来の法の理念をうやむやにし、壊してしまうことがある。
むろん、ユダヤ法における金銭の貸借法もその例外ではなかった。
というのも、ユダヤ法では外国人を差別して搾取してはならない条項(申命記21章14-17節)があるにも関わらず、なぜか金銭の貸借においては外国人(外国との貿易・取引)だけ利息を取っていい決まりになっていた。(申命記23章20節)
それは当初、ユダヤ教以外の異教徒を排除するための一環だったのかもしれないが、それがペトロのような闇金業に携る者達の抜け穴となっていたのである。
つまり、ペトロがユダヤ人に金を貸す時は必ず外国人や外国取引に関する物を介して行えば、簡単に利息が取れるのである。
そして、この時代、ユダヤ人にとって外国人や外国取引に関する最も都合のいい物といえば、ローマ帝国が発行しているローマ硬貨そのものだった。
ローマ硬貨とは、アウレウス(金貨)、デナリウス(銀貨)、セステルティウス(青銅貨)、デュポンディウス(またはオリカルクム、黄銅貨)、アス(銅貨)から成る硬貨のことで、文字通り、この時代の世界経済における基軸通貨(注1)だった。
むろん、イスラエルではこのローマ硬貨に加え、独自の貨幣システムがあり、金貨、銀貨、銅貨といろいろ鋳造されていたが、その貨幣価値は金属の種類ではなく、それぞれの硬貨の重量によって決められており、高いものから順にタレント(約34.2kg)、ミナ(約570g)、シェケル(約11.4g)、ベカ(約5.7g)、ゲラ(約0.57g)に分かれていた。
だが、ローマよりも前から地中海貿易を牛耳っていたギリシャのドラクマ銀貨も地中海周辺地域では広く使われており、それ以外にもエジプトなどの外国の通貨もいろいろと入ってきて、この当時、イスラエル独自の通貨で主に流通していたのは、シェケルとミナ、それにプルタと呼ばれる最小単位の銅貨ぐらいだった。
中でも、シェケル銀貨はローマのデナリウス銀貨、ギリシャのドラクマ銀貨と肩を並べる国の通貨単位であり、現代の貨幣市場に例えると、アメリカのドル、イギリスのポンド、日本の円のようなものである。
そして、この当時の為替レートとしては、1デナリウス銀貨=1ドラクマ銀貨=1/4シェケル銀貨と推測され、現代の価値に換算すると大体、1デナリウス銀貨がUS$20(約2000円)ぐらいだった。
ローマの属州国家のイスラエルでは、このローマ硬貨と自国のユダヤ硬貨、さらにギリシャ硬貨などが巷の市場でごく自然に行き交っており、誰もが自分の財布に外貨と自国の通貨を併せ持っているのが当たり前だった。
例えば、畑で一日、日雇いで働いたら日給が1デナリ(ローマ銀貨、マタイ20章2節参照)、
パン一斤が2アス(ローマ銅貨、1アス≒1/16デナリ)または8プルタ(ユダヤ銅貨)、
テーブルワイン500mlが1~5アスまたは4~20プルタ、
高価なワイン500mlだと1~2デナリまたは1~2ドラクマ(ギリシャ銀貨)
安食堂の料理一品が1アスまたは4プルタ、
安いチュニック(服)一枚が15セステルティ(ローマ青銅貨、1セステルティ≒1/4デナリ)または1シェケル(ユダヤ銀貨、1シェケル≒4デナリ)、
公共風呂の入場料金が一回、1プルタ(ユダヤ銅貨)、
シングルルームの狭いインスラ(ローマ時代のアパート)の家賃が4デナリ~7デナリまたは1~2シェケル、
これに、神殿や寺院に支払う10分の1税と寺院税が毎年、所得の10%と2ドラクマ課税され、その上、さらにローマ帝国への市民税が課せられるのだが、ローマ帝国内では所得の1%程度の税率が、ユダヤでは税取り立てをオークションで落札し、その手数料を上乗せして徴収されるので、落札される度に税率が変わり、しかもかなり割り増しされる。
だが、ユダヤ人がユダヤ人から税金を取り立てるのになぜ、割り増し(利息)が許されるのかというと、ローマへの税金の支払いはすべてローマ硬貨で行われていたからだった。
つまり、税金の支払いが“外貨”(外国のお金)で行われている以上、そこに利息や手数料を加算しても許される決まりになっていた。
しかも、イスラエルでは神殿や寺院に支払う税金は逆に必ずユダヤ硬貨か、ドラクマ銀貨でないと許されない。
というのも、ローマ硬貨には必ず皇帝の絵柄が刻印されていたため(マタイ22章20-21節参照)、むろん、ユダヤ教にとっては“穢れたもの”として納めることができない。
だったら、収入がすべてデナリ(ローマ硬貨)で支払われているとしたらどうなるのか?
そこで登場するのが両替商、つまり、後の銀行もしくは金融業者である。
両替商は通常、秤でもって硬貨に含まれる金属の重量を調べ、それによって同等の価値のある硬貨に変えてくれるのが主な仕事だが、同じように外貨も同等の自国の通貨に換えたり、あるいは逆に自国の通貨を外貨に換えてくれる。
だが、日々、為替レートが刻々と変わる現代と同じく、イエスの生きていた時代もローマから果ては中国、日本とシルクロードでつながるグローバル(地球規模)貿易だったので、各属州地域の市場で流通している様々なお金は日々、商取引の量や人々の信用度によって売買される値段もどんどん変わっていく。
ゆえに、単純に金属の重量が同じだからと似たような硬貨を交換されるはずはなく、こうした複雑な金融市場を知り尽くし、外貨や通貨、貴金属の交換を専門とする業者が古くは5000年以上前から存在していた。
しかし、両替商が今の銀行に近い仕事をするようになったのは、古代ギリシャ時代(BC5世紀頃)からで、アテネのトラピジタイ(両替商、ギリシャ語で4脚テーブルもしくはベンチを意味するトラピーザに座り、そこでお金を交換することからそう呼ばれるようになった)は、外貨両替、預金、貯蓄、質業まで営むようになった。
その後、ローマ時代になるとさらに金融業者の種類は増え、政府系金融機関のメンザーリ、民間系金融機関や貸金業のアルジェンテーリ、そして外貨両替を主に行うコルビステスと呼ばれる業者が広く街中で商売するようになっていったのである。
そして、イエスの住むイスラエルでは、このコルビステス(外貨両替屋)こそ、神殿や寺院の広場でテーブル(トラピーザ)やベンチ(ラテン語でbanco、後に英語のbankになる)を置いて、世界各地からエルサレム神殿にやってくる参拝客達の持ち込んだ外貨や、収入がデナリやセステルティで支払われている地元のユダヤ人達のローマ硬貨を、神殿への賽銭のためだけに鋳造されていた“テュルスシェケル銀貨”や地元のユダヤ硬貨に交換してくれる業者として数多く存在していた。(ヨハネ12章14-15節もしくは第13話「迷い」参照のこと。イエスが神殿内で外貨交換のテーブルをひっくり返した事件が記されている)
このテュルスシェケル銀貨とは、元々、ユダヤの北方に位置するレバノンの都市テュルスに貨幣鋳造所(造幣局)があったことから、“テュルスシェケル”と呼ばれるようになったのだが、エルサレム神殿が完成してからはその造幣局も首都エルサレムに移されていた。
元々、神殿や寺院に支払う税金は、モーゼの時代から半シェケル銀貨(=2ドラクマ銀貨)と戒律で決められており、その戒律を守り続けるために作られたのがテュルスシェケル銀貨である。
何度か国家が崩壊し、外貨使用を余儀なくされてきたユダヤの歴史と共に、テュルスシェケル銀貨には市場価値(世界貿易における売買取引力)はもはや存在しなくなっていたが、イスラエル国内、特にエルサレム神殿内でだけはそれは世界中の金銀にも勝るくらいの高い価値を誇っていた。
しかし、それは見せかけだけであって、実際のところ、エルサレム神殿を訪れる人々から半ば強制的に安い値段で外貨を買い取り、そのテュルスシェケル銀貨に交換させることによって、そこで発生する為替差額や為替手数料をせしめることだけが目的の硬貨だった。
しかも、テュルスシェケル銀貨はイスラエル国外では使われることはない。
あくまで神殿の賽銭用であり、例えれば、日本の寺や神社で願い事を書いて納めるお札のようなものである。
神殿に納められるだけなので、あくまでお金(通貨)としての価値はまったくない。
にもかかわらず、その為替差額や手数料はひどいもので、両替屋によっては、たとえ自国のユダヤ硬貨を持っていても、テュルスシェケル銀貨は純度の高い聖なる銀貨だからという理由だけで、1シェケル銀貨(=256プルタ銅貨)でもって交換させられたり、あるいは多少、安くても為替手数料として半シェケル分(128プルタ銅貨)に5~10%ほど上乗せした金額を取られて交換することが当たり前だった。
その上、そうしてテュルスシェケル銀貨と交換された外貨や地元のユダヤ硬貨のほとんどは、当然、ロイヤルティー(=Royalty、神殿の知的財産権などの使用許可料)として神殿の僧侶達に渡さなければならないことから、外貨両替屋は神殿を差配するサドカイ派の許可を得た者でしか神殿内では営業できない決まりにもなっていた。
つまり、神殿外であればこの両替商はいくらでも闇に存在することができる。
これがペトロ達の行う闇金業の始まりでもあった。
別に神殿公認のテュルスシェケル銀貨の交換でなくとも、単なる外貨交換だけでも十分、利息は取れるのである
しかも、それが借金の申し出ならば、外貨である以上、相手がユダヤ人であってもいくらでも利息は吹っかけられる。
そのため、ローマ帝国内ではこの当時、平均利息が4~12%だったにも関わらず、闇金だと15~16%、もっとひどい場合は、24%や48%といった暴利を貪る輩もいて、文字通り、小金さえ持っていれば誰でもコルビステス(両替屋)を始められ、その上、ほとんど誰からも咎められることのない無法状態だった。
こうして、表向きは同じ国の仲間同士からは決して利息を取ってはいけない戒律であるにも関わらず、闇金業がイスラエル国内で横行しても何らおかしくなかったのである。
余談だが、このユダヤ人による闇金業は、中世になるとシェークスピアの劇作品「ベニスの商人」でも紹介されるようにますます盛んに行われるようになるのだが、それもこれもペトロ達のようなコルビステス(両替屋)がはびこったことでユダヤ国家が滅亡し、キリスト教の台頭によりユダヤ人そのものがヨーロッパ社会で迫害を受けるようになると、闇金業以外の職業になかなか就けなくなって、結局のところ、ユダヤ民族への他民族の憎悪や嫌悪がますます高まるといった悪循環を生むことになる。
まさしく自分達、人間の“強欲さ”から自分達(人間)の首を絞めることになるのだが、この時のペトロ達にはその未来を知る由もない。
日々の目先の小銭に目がくらみ、それで“未来の安心が買えるものと神(心)よりも金の力を信じて疑わず”、ユダヤ人同士がお互いの血と肉を貪り合うことに必死だった。
とは言え、ずる賢いペトロがあからさまにそんな“拝金信仰”を周囲はもちろん、宗派内でも喧伝していたわけではない。
あくまで彼の闇金業は、表向きでは貧しい人達に外貨を貸し与える“慈善事業”ということになっていた。
そしてその見返りとして、地元の“聖なる”ユダヤ硬貨でもって返納すればその罪が拭われるといった体を装っていたのである。
何度も言うが、この当時の為替レートは、ローマの1デナリウス銀貨に対してユダヤのシェケル銀貨は4分の1で、ユダヤ硬貨の方が価値は高い。
つまり、極端に例えるなら、ペトロ達は1デナリ銀貨を貸し与えながら、為替換算すると1/4シェケル銀貨で返済すれば済むところを、同額返済だとしてなぜか1シェケル銀貨で返納させるのである。
こうすると、ペトロ達はあくまで利息を取ってはいけない戒律を守った上での慈善事業をしていることになり、数字が膨らめば、元々の為替差額に加えてどれだけの利息がその返済総額に加算されていようとも、外貨である以上、その両替換算に疎い庶民から非難されることもなければ、貸与契約の詳細を言わずに返済された金額から不当な加算分をくすねてしまえば金庫を扱う専門職であるユダからも疑われることはなかった。
実のところ、そのくすねた金を裏帳簿で管理していたのだが、それも善意による寄付金だとユダには言っていた。
そのため、ユダ自身、まさかペトロ達が自分と同じように横領しているとは全く気づかないまま、自分だけが悪い事をしているのだと思い込んで、真面目に寄付金や供物をせっせと運んで来る彼らに対し、罪の意識を感じていたのだった。
だが、ユダはどうしても横領を止める訳にもいかなかった。
一度、手をつけてしまってからはなぜか病みつきになってしまい、誰にも不審に思われることなく、しかも誰からも何も言われないとなると、まるで自分の財布のように金庫から金をくすねることが当たり前になってしまっていた。
最初の頃と比べれば、その罪悪感はどんどん薄れていき、仕事にやる気を失った今では悪いことをしているという意識もほとんどなくなっていた。
その一方で、自分が帳簿を管理している以上、くすねた金が金庫から減った分、その日、その日の出入金の記録において日々、帳尻を合わさないといけない。
だから、ペトロ達が新設してくれた慈善貸付の為に外貨を仕入れる際、よその両替屋に支払う“外貨為替手数料(経費)”が帳簿上では都合のいい名目になっていた。
つまり、ユダもまた、この為替手数料に自分の横領分の金額を加算していたのだった。
(ちなみに、この当時、簿記や監査業務はエジプト全盛期よりもさらに発展していて、現代において使われている借方と貸方で出入金を記録する複式簿記もこの頃、考案されたとさえ言われている)
そうして、そんな不明瞭な経費がおかしなほど頻繁に帳簿上では発生していたのだが、全てを任されているユダが何も言わずに黙って処理するので、ペトロの方も、ユダの不正を疑うことなく安心して任せていたのだった。
かくして、ペトロとユダの間にはそんな奇妙な共存関係が成り立っていた。
(注1)基軸通貨・・・
世界経済において基準もしくは中心となる通貨(単位)のこと。
世界においてその価値が下落しない、使えなくなるといった心配がない、
”信頼できるお金”なので、国際貿易や金融取引の上では使われやすい。
この基軸通貨国となるには、国家として世界的に繁栄していて、つぶれにくいという信頼性が最も必要となる。
ゆえに、国家がつぶれないという世界的な信頼を得るために軍事面を強化したり、産業整備や市場購買数を増やしたりといった人為的な操作がなされることもある。