第六十七話 秘めた思い
こうして、自分の持つ使命とその未来についてラザルスとナサニエルの二人に語ったイエスだったが、実はもう一つ、彼らには話していない未来への不安が彼の心にまだ、残っていた。
それは、この国のことだった。
そして、この国の未来に大きく関わってくるのが、ペトロ、その人なのかもしれなかった。
そもそも、イエスは、ペトロと初めて会った時から彼がどういう人物で、どう自分の人生に関わってくるのか、何となく予感していた。
それは、彼が兄であるアンデレに誘われ、ヨハネの弟子から自分に鞍替えして来た時にすぐ気づいたことだった。
この男、口が上手すぎる。
それがペトロと出会った時に、イエスが初めに抱いた印象だった。
彼をペトロ(「岩」の意)と呼び始めたのも、彼自身をまさしく象徴する名前だったからだった。
頑固で、自分が決めた事には意地でも一直線に突き進もうとし、その為には手段を選ばない男、それがペトロだった。
もちろん彼は有能だったし、周りの受けも良い人気者だったが、そのくせ、嘘やおべんちゃらもへっちゃらで、そういった事をさり気なく口に出来る、かなり気障な男だった。
だが、そうと気づいていても、イエスはペトロを最初から嫌っていた訳ではない。
むしろ、イエス自身はペトロをうらやんでる部分も多々、あった。
元々、内向的で、しかも、育った環境や生い立ちが複雑なこともあり、両親や弟達との関係もままならず、人との関係につまづくことの多かったイエスにしてみれば、ペトロのような“人たらし”(注1)はある意味、羨望でもあった。
自分とは全く異なる世界を持ち、明るく陽気で愛嬌のあるペトロを嫌う人の方がむしろ少なかった。
だから、当初は、イエスもペトロの有能さを高く評価し、仲間同士の結束にはペトロの働きが欠かせないものと大いに信頼して、彼にリーダーを任せたぐらいだった。
だが、どうしても心が通じ合わないのだ。
イエスはペトロにそう感じざるを得なかった。
そして、その感情は日を追う毎に増すばかりだった。
だから、次第にイエスはペトロに対して、もどかしさしか感じなくなった。
なぜ、彼は自分から離れていかないんだろう?
かつてイエスはペトロと言う男を不思議に思ったことがあった。
お互い何となく心にへだたりがあり、ペトロの方も自分への不満が募っていくようだったし、彼ほど優秀な男であれば、誰だって喜んで彼を迎え入れてくれるだろうし、どこへでも独り立ちして生きていけるだろうとイエスは常々、思っていた。
なのに、ペトロはなぜかずっと、イエスのそばにとどまっていた。
それがなぜなのかイエスにはずっとわからなかった。
だが、最近になってイエスもようやく気付いたのだが、ペトロがあえてイエスから離れて行かなかった理由、それは意外にもペトロは自分に自信がなかったからだった。
実は、ペトロはイエスの一番弟子と言う二番手に甘んじることで、宗祖のイエスを世間の矢面に立たせながら、それでいて他の弟子や信者達からイエス以上の賞賛や尊敬を受けようとし、しかも、それを他の誰よりもイエスに見せつけることで、自分という存在に価値を見出していた。
つまり、イエスと自分とを常に見比べることで、周囲の評価が自分の方に軍配が上がれば、安心し、下がれば、もちろん不安になった。
だから、ペトロは誰よりも自信にあふれて強いように見えて、実は誰よりも自信がなくて弱い男だった。
そして、これを誰よりもよく知っていたのは、これまたペトロ自身でもあった。
優秀であること、力があること、金や名声があること、それらは常に生きる上で安心できるものではなくて、いつかは廃れたり、変わっていき、ちょっと油断しようものなら、すぐさま足をすくわれてどん底に蹴落とされてしまうこともあることを、頭のいいペトロは十分、心得ていた。
だからこそ、洗礼者ヨハネの行く末に不安を覚えた時、ペトロはすぐさまイエスへと乗り換えたぐらいだった。
ところが、ペトロが持つそんな常識を見事に覆し、世間的にはかなり弱い立場にいるはずなのに度胸と自信だけは満点だった男、それがイエスだった。
しかも、ヨハネ以上にその行動は無謀な上、危険極まりないにも関わらず、“なぜか奇跡的にいつも生き延びている。”
そんなイエスの存在そのものが、吹けば飛ぶような自信しか持てないペトロにとって、自分の価値観を根底から揺さぶる大いなる脅威だった。
誰よりも弱そうで大したものだって持ってないのに、どこか強そうで根拠のない自信にあふれているなんて、そういうでしゃばった態度が何となく許せない。
そんな風にペトロは内心、イエスのことを目障りだと思うようになったのだが、イエスの弟達とペトロが違ったのは、イエスの弟達は自分達の気持ちを正直に表してイエスという存在をはっきり否定し、彼との関わりを極力、避けるのに対し、逆にペトロは表面では自分の本音を上手く誤魔化しながら適度にイエスの存在を利用し、イエスの自信を揺さぶり続けることでそれなりに優越感を味わっていたことだった。
結局、自分の自我を満足させる最適な手段として、何となくイエスの元を離れようとしなかったのである。
そのため、イエスは当初、ペトロの意図を勘違いしていた。
もしかして、自分の気持ちをわかってくれるんじゃないかと淡い期待すら抱いたこともあった。
確かに、イエスはそれまでの経験から他人に対して過度な期待を抱いたりはしなかったが、それでも彼はやはり、ただの一人の人間だった。
だから、人の言動にまったく騙されないわけでもなかったし、何より“人の愛”そのものに餓えていたのはイエスの方だった。
だから、イエスはペトロに少なからず期待をかけて12弟子の一人に選んだのである。
イエスがペトロを選んだのは、他の12弟子達と同じ理由だった。
この地上に星の数ほどいる人々の中で、神の導きにより偶然、出会った人々と何がしかの“縁”ができ、そして、その人達が少しでも自分の話に興味を持ってくれた。
たった、それだけの理由だった。
だが、この時、イエスが選んだ12人はかなり的を得た人選だった。
つまり、イエスの話に興味を持つということは、どこかしら彼らの人生にそれが必要なことだと考えたからに違いなかった。
そして、そこから12人の弟子、一人一人がどのようにイエスの説法を“解釈”するかで、その後の彼らの生き方はそれぞれ変わってくる。
さらに、その彼らが別の誰かとまた、出会い、自分なりに解釈したイエスの話を伝えていけば、それによってその別の誰かの人生にもなにがしかの影響を与えることになる。
リーダーのペトロ、その兄のアンデレ、生真面目なナサニエル、その親友のフィリポ、母親の言いなりで入信したヤコブとヨハネ・ゼベダイ兄弟、変わり者のトマス、元徴税役人だったマタイ、イエスの親戚のヤコブとタダイ・アルファイ親子、過激派組織“熱心党”のシモン、金庫番のユダ・イスカリオテ、この12人がそれぞれの人生においてイエスの言葉から何を学び取り、何を“心のより所”にして今後、生きていくのか?
そして、それをどのようにして他の人に伝えていくのか・・・?
その彼らそれぞれの伝え方によって、その他の人々の人生も大きく変わっていくことになる。
たった12人、されど12人。
その12人の彼らから家族、地域、社会、国全体にイエスの話が伝わっていけば、もしかしてもしかしたら、 今のこの荒んだ社会を変えるきっかけになるかもしれない。
この地上(地球)をもっと愛にあふれた神の国に戻すことができるかもしれない。
― さぁ、主の元に戻ろう。
主は時には私達の心を粉々に砕くこともあるが、
主は必ず私達を癒してくださる。
主は時には私達に苦難を与え、心に傷を負わせるが、
主は必ずその傷をその愛の手で包み、治してくださる。
主はわずか二日で私達をよみがえらせ、
三日後には主は私達を世に復活させてくださる。
そうして、私達は主の御前で幸せに生きることができるようになる。
だから、主がいつもこの世におられることを認めよう。
二度と、この世に神はいないなどと言わないでおこう。
(ホセア6章1-3節)
それがイエスに与えられた使命の目的だった。
だからこそ、イエスはわかってほしかった、この世の金や権力、肩書きに頼るのではなく、愛と真実、人と人との縁や信頼の絆、これら“目に見えない心の宝物”を日々、人に与えてくれている神に頼ることこそ、人がこの地上で幸せに生きていける本当の道だということを。
だが、ペトロはイエスとは全く対極の位置にいる男だった。
本音と建て前をうまく使い分け、口先だけ「神はおわします、神を信じます」と言いながら、実際には神(良心)よりも金や権力に腐心(注2)し、自己保身のためなら手段をいとわず時には他人を蹴落とそうとする。
そんなペトロの生き方は、今の世の中の多くの人の生き方にも通ずるものだった。
だから、ペトロは世間の中で一番、理解されやすく、逆にイエスの考え方は世間からはなかなか理解され難い。
この二人がどうやってお互いの心を理解し合い、どうやって調和を図っていけるのか?
イエスとしてはかなり無謀な挑戦だったのかもしれない。
だが、人として、イエスはどこかあきらめきれない想いがあった。
誰にだって“心”というものがあるのだから、きっといつかは分かってくれるはず。
そうやってイエスは、自分がペトロを迎え入れたように、ペトロに少しでも自分を受け入れてもらいたかったのだが、イエスが愛情を込めて“真実”を伝えようとすればするほど、ペトロの心はどんどんイエスから離れていった。
そして、ペトロだけではなく、他の弟子達のほとんどがイエスの話を理解してくれることはまず、なかった。
それは、時代や政情もさることながら、彼らの心があまりにも世間擦れしてずる賢さや悪意をも賞賛する殺伐としたものがあり、もうそんなイエスの純粋な心をまともに信じられなくなっていたからだった。
そのうち、イエスも次第に、ペトロが自分から離れていかない本当の理由にも気づくようになった。
そうなると、イエスがいかにこうした厳しい現実やピリピリとした冷たい人間関係に慣れ親しんできたにしろ、やはり彼の挫折感は大きかったし、ペトロの底意地の悪い振る舞いにもかなり傷ついていたことも確かだった。
そのため、イエスは、せめてペトロがもっと彼自身の気持ちに正直になって、信頼はおろか、嫌っている自分からさっさと離れていってくれたらいいのに、といったそんなもどかしさを感じるようになっていたのだった。
(注1)人たらし・・・自分の利益のために甘言や優しい言葉などで多くの人を巧みにだましたり、誘惑すること、またはそうする人のこと。
(注2)腐心する・・・何かを成し遂げるためにいろいろと頭を悩ませ、考えること