第六十六話 奇跡の真実
「すみません、ラビ(先生)。
お仲間同士、疑心暗鬼にさせるようなことを申し上げてしまって・・・。
何より、ラビのお心を傷つけるつもりはなかったんですが、わたしがもう少し、時と言葉を選んでお話しするべきでした。
いろいろとご懸念の多いこんな時にこのような話をうかつにしてしまい、余計にお心を煩わせてしまって、本当に申し訳ありません。
ただ、妹達もわたしも、先生の信頼を陰で裏切っているお弟子さん達がとても許せなくて、つい、お話してしまいました。」
ナサニエルに貸し付け事業のことを質問したイエスの意図をラザルスは誤解し、そう言ってイエスとナサニエルの気まずい沈黙をとりなそうとした。
それに気づいて、イエスは静かに頭を横に振った。
「いいえ、ラザルス。
そうではありません。わたしはペトロ達のことはずっと前からわかっていました。
ナサニエルに今の話を知っているかどうか聞いたのは、ペトロが意図してわたしを裏切っているかどうか知りたかったからです。
わたしはナサニエルを深く信頼しています。
彼は人を、まして神を裏切るような人間ではありません。
その彼が知らないのは当然ですし、あのペトロがナサニエルに易々と知られるようなヘマはしないでしょう。
だから、あなたが気にすることは何もありません。
それに、わたしは、あなたやあなたの妹さん達の心遣いにとても感謝しています。
ただ、わたしはいつかペトロ達に裏切られることがわかってはいても、どうしてもあきらめきれなかったのです。
わたしの気持ちがペトロ達にもわかってもらえるんじゃないかと、人としてお互い信頼しあえる関係が築けるんじゃないかとわたしはずっと願ってきました。
でも、これはもう、仕方がないことなのかもしれません。
わたしができることはすべてやり尽しました。
でも、彼らはわたしの言葉には一度も耳を傾けようとはしなかった。
戻る道は何度も用意されていたし、わたしは幾度となく彼らに言い聞かせてきたつもりです。
それでも彼らは決して“神の道”に戻ろうとはしなかった。
だから、これは彼らが選んだ“道”です。
彼ら自らが良かれと思い、それが“自分達の生きる道”だと信じて選び取った道です・・・。
彼らがその過ちに気づかない限り、わたしに彼らを救うことはできません。
このことは、いつか彼らにも分かる時が来るでしょう」
そのイエスの言葉に、ラザルスはますますイエスの話が分からなくなった。
「ずっと前から分かっていたって・・・。
ですが、先生、わたしがお話しした件をご存知なかったのに、どうしてペトロさんにいつか裏切られるって思われたんですか?」
「ラザルス、あなたはもう気づいているはずです。
ペトロは、わたしよりもずっと前を歩きたがる男です。
誰よりも先に抜きん出たがる男です。
ペトロとはそういう男です。
わたしは彼をずっと傍で見てきました。
だから、あなたがサンヘドリンから客が来たという話をし出した時、わたしはペトロがどうするかぐらい、あらかた見当がつきました。
恐らくその客はわたしの件でペトロ達にいろいろと圧力をかけてきたのでしょう。
奇跡の証を見せろ、とか何とかと言って。
だったら、ペトロのことだからすぐにわたしを切り捨てようとするはずです。
彼ならきっと、神の御前でわたしではなく、真っ先に世間の人々を選ぶでしょう。
それがリーダーとしてのペトロの判断です。
心あるリーダーというのは、人をどうにかして生かしてやろう、そこからお互い利益を得ようと知恵や力を極限まで絞ろうとするものですが、そういう努力を一切せず、最初から利害の為だとか、皆の為だとか言って自分達よりも立場の弱い人間を不当に切り捨てようとするのは、心ないリーダーがよくすることです。
確かに、一瞬はそれでうまくしのげることもあるでしょう。
でも、そうやって人を無げに切り捨てていけば、いつかは誰からも信用してもらえなくなることにペトロはまだ気づいていません。
信用がなくなるとは、互いに信じる心がなくなる。
つまり、自分の中にも他人の中にも、信じるべき神(=心)がいなくなるということです。
それこそ、自ら神を捨てるということです。
ペトロはそれにまったく気づいていません。
いえ、ペトロだけではないかもしれない。
これまで地上に住む、私達一人一人がそれに気づこうとしませんでした。
信じあうこと、“信頼”、それがこの地上のすべてを成り立たせている。
目や耳にはっきり見えずとも、互いに信頼し合い、互いに支え合っているからこそ、お互いの仕事や生活、地域、社会、そして国が成り立っているのです。
人を生かし合うこと。
それこそが最も、自分も相手も成功し、幸せになっていける正しい道なのです。
その正しい道を歩めるよう、人はこの世に生まれる時に、神の一部である“心”、“精神”というものを神から授かった。
肉体は塵でできたただの入れ物ですが、そこに神の一部である“心”を宿すからこそ、人は人なのです。
互いに愛し合い、信頼しあって“幸せに生きていってほしい”、と神は私達、すべての人の命に惜しみなく、その限りなく偉大な愛を注ぐために、人に御自分の一部を与えた。
それが人の体に宿る“心”、“精神”なのです。
その心を捨ててしまったら、人は“人”でなくなります。
正直に言うなら、わたしはペトロに出会った時から彼がいつかわたしを裏切るだろうと思っていました。
だからこそ、わたしは彼を12弟子の一人として選んだのです。
ですが、わたしも人間です。
だからこそ、わたしも一時は、彼が少しでもわたしの言葉に気づいて自分自身を振り返り、神(心)に戻ってきてくれたら、あるいは“神の声”(=良心の呵責)に自ら気づいて改心し、その行いを改めてくれたら、とも思いました。
しかしそれは所詮、はかない夢、人たるわたしの浅はかな考えに過ぎなかったのかもしれません。
そして、彼らがわたしをサンヘドリンに手渡すというのなら、それはわたしに、わたしだけに神が定めておられた使命なのです。
そう言うと、あなたはまた、私の言うことに混乱されるかもしれません。
ですが、少なくともわたしは、これまでの自分の人生を振り返ってみて、自分という人間は恐らく、人々の間にある境目をもたらすために生まれてきたのだと思っています。
境目とは、“心”というものを信じる人と、その“心”を捨てようとする人。
愛や正義、真実、自らの良心を信じる人と、それを信じない人。
つまり、“神”を信じる人と“神”を捨てようとする人。
この境目を人々の間にはっきりと置く者こそ、このイエスと言うわたしなのです。
そうして、彼らが人の心を捨て去り、自分達の我欲の罪から逃れようとわたしの血を世間の人々に捧げようとするなら、わたしは、ヨハネがそうだったように、これ以上、罪のない人や立場の弱い人が犠牲となってその血を流すことのないよう、わたしの心の剣で持ってこれを食い止めねばなりません。
彼らが今、行っている事、言っている事の方こそ間違っているのだ、とこの身で持ってそれを証明せねばなりません。
“人と人との信頼関係こそが、この地上(地球)を救う唯一の正しい道”であり、戒律や宗教上の掟などよりも、神が私達、人間に唯一、伝えたかった“真の掟”なのだということをこの世の人々に伝えねばなりません。
だから、最後の最後までわたしはこの“真実”に命を賭けようと思っています。
たとえ、他の多くの人達にはこの真実がはっきり分からなくても、わたしだけは最後の最後までこの“真実”に命を賭けるつもりです。
だから、わたしの言葉を、わたし自身を、あなた方が心から信じてくれるなら、あなた方は今後、決してわたしの真似をして自分の命を投げ出したり、粗末にしたりしないでください。
これは“わたしの使命”です。
これは“わたしだけに与えられた、ただ一つの特権”なのです。
わたしだけが自分の命を御父に託し、そしてその生(存在)を必ず元に戻してもらえるよう、わたしは御父と生まれた時から約束を交わしているのです。
だから、これはわたしだけが神と交わした“永遠の約束”なのです」
イエスのこの話に、ラザルスは身を震わした。
そして、ふいに聖句である、あの預言者イザヤの言葉が彼の心に浮かんできた。
― そして、主はその人の命を贖罪の捧げものにするが、・・・
(イザヤ53章10節)
その預言が頭に浮かんだ瞬間、ラザルスはようやく確信した。
ああ、そうか。そうだったのか!
やはりこの人は神の子なのだ。
あの預言の言葉通り、この人は神から遣わされてこの世にやって来た“人”なのだ。
まさにあの、律法書に書かれてあった“その人”だったのだ!
― 誰が私達のこのメッセージを信じ、
誰に主の御腕によってなされる業が顕わされるのだろう?
その人は、神の御前にたおやかな苗のごとく、
乾ききった地面に生える根のごとく育った。
私達を惹きつけるような美しさもなければ、威厳もない。
私達が求めるような姿形も持ち合わせていない。
ただ、人々に嫌われ、人々に拒否されただけ。
悲しみの人、苦しみに慣れ親しんだ人。
まるで人がその顔を背けるようにその人は嫌われ、
そして敬われることなどなかった。
確かにその人は私達の心の弱さと悲しみを取り去ってくれた。
だが、私達はその人自身が間違った生き方をして神がお怒りになり、
神によってその人は打ちひしがれ、泥をかぶされ、
そして辛苦や不幸を強いられたのだと思っていた。
だが、その人は私達の行き過ぎた罪ゆえに刺し貫かれたのだ。
その人は私達の心の弱さゆえに押しつぶされたのだ。
私達に平和をもたらしたという罰が、なぜかその人の上に落ちた。
そして、その人の傷により私達は癒される。
私達は皆、羊のごとく、好き勝手な方向へと走っていった。
私達、一人一人が勝手な道へと突き進んでいった。
そして、主はその人の上に私達、皆の心の弱さを押し付けた。
その人は抑圧され、傷つき、苦しめられた。
だが、決して自らの口を開こうとはしなかった。
まるで一頭の羊のごとく、その人は屠殺する者のところへと引かれて行き、
自分の毛を刈る者の前で羊が沈黙するように、
その人もまた、自分の口を開くことはなかった。
不当に逮捕され、裁かれて彼は連れ去られた。
そして、一体、誰がこの後、この人に子孫がいたことを伝えるのだろう?
この後、彼はずっと生きている者達の住む地上から
切り離されていくのだから。
私達、人間の間違った生き方のためにその人は打ち据えられてしまった。
その人は悪意を持っているからだとされ、
さらに、不当な金銭授受を行っていたとして
墓場行きを課せられた。
だが、その人自身は何の暴力を働いたわけでもなければ、
その口には何の偽りすらもなかったのに。
それでも、主のご意思ゆえ、その人は潰され、
苦しみを舐めることになった。
そして、主はその人の命を贖罪の捧げものにするが、
その人は自分の子孫をその目で見、その日々を生き長らえることだろう。
何より、主のご意思は主の手の中で豊かに幸せにさせていくことである。
その魂が苦しみぬいた後、その人は“生”の光を見、
そしてその人生に満足することだろう。
神はおっしゃっている、
その知識で持って、わたしの心義しき召使は
多くの人々に何が真実で、何が正しい事なのかを示し、
そして、彼らが犯した罪にも耐えることだろう。
それゆえ、わたしは人々の中でも特別にその者にわたしの遺産を与え、
そして、その者は心強き者達と共にその遺産を分けあうことだろう。
なぜなら、その者は自らの命を死の上に注ぎ込み、
不当にも神に背いた者達と共にその名を連ねられたのだから。
そうして、その人は多くの人々の罪に耐え、
神の心を知らず神に背く人間達の為に神への仲裁を行なった。
(イザヤ53章1−12節)
イザヤの全ての詩句がラザルスの頭の中で鮮やかに思い出された。
確かにこの人は、わたしを癒してくれた、とラザルスは思った。
わたしは、自分はずっと神から見捨てられたんだ、と思っていた。
もう、誰も助けてはくれないだろう、と悲観していた。
けれど、あの時、わたしが病気になって腐っていた時、そして、この世の何もかもが嫌になって絶望していた時、この人の心が、この人の言葉というものがわたしの心を、わたしの人生そのものを支えてくれた。
あの時、この人が助けてくれなければ、今のわたしはなかっただろう。
この人に出会っていなければ、今、わたしはこうして生きていたかどうかもわからない。
絶望して、自分から生きることをあきらめてしまっていたかもしれない。
けれど、わたしはこうして生きている。
そして、ラザルスはしみじみと思った。
神は、わたしを見捨ててはいなかった、と。
神はわたしを見捨ててはいなかったからこそ、わたしにこの人を出会わせてくださったんだ。
この人に出会えたおかげで、わたしの人生は大きく変わり、生きる喜びというものを知ることができた。
この人の言葉のおかげでわたしにも生きていく勇気というものが湧いて来たんだ。
だから、この人が本当に神から遣わされて来た人なら、今度はわたしの方がこの人にお返しをしなくてはならない。
この人が“真実”に命を賭けようとするのなら、わたしもこの人とは別の形で“真実”に命を賭けよう!
神は決して私達を見捨てたりはしない。
だから、あの預言通り、この人は死なない!
死なせてなるものか!
ラザルスはそう考えると、心の中で神に誓った。
そして、イエスがこれから決死の覚悟で挑もうとすることに、何か自分でも手伝えることはないだろうか、と真剣に模索し始めたのだった。
一方、ラザルスと同じように、ナサニエルもイエスという人の正体が分かりかけてきた。
自分の目の前にいる、何の権力も魅力もないこの普通の人が、この一粒の小石のような人が、主の選んだ、ただ一人の“人”なのだ、と。
ああ、そうだったのか。
だから、ヨハネ先生はこの人を“神の羊”と呼んだのだ。
この人の心には神がもたらした“精神”というものが宿っている、とヨハネ先生は誰よりも先に気づいておられたんだ。
― 主の精神がその人の上に宿っている。
智恵と理解の精神が、
正しい事を教え、力をみなぎらせる精神が、
知識と主を畏れる精神が、その人の上に宿っている。
そして、主を畏れることにその人は何よりも喜びを感じる。
(イザヤ11章2−3節)
確かにこの人を死なせてはいけない。
このままだと、血に血を重ねてますます犠牲が増えていくだけだ。
この人の言う通り、もうヨハネ先生のようにこの世の為に働きながらなぜか不当になぶり殺されてしまうような、そんな悲しい犠牲者を増やさない為にも、この人を生かしてあげる方法をわたしもどうにか見つけ出せないものだろうか?
そして、主がそんな私達に情けをかけて救ってくださる奇跡をわたしも心から信じたい。
こうして、ナサニエルもまた、イエスがその命を賭けようとする“真実”に自分の力を尽くそうと考え始めた。
二人はこの時、ようやく“イエスが語る奇跡の真実”とは何かを知った。
そして、その真実を明らかにする為にも、自分達で何とか力を合わせて“奇跡”を起そうと、それぞれがそれぞれの意思で持って、イエスと共に立ち上がったのだった・・・。
この作品の中で使用されている聖書の句は全て
HOLY BIBLE New International Version(聖書の英語版)から
引用し、著者が翻訳したものを使用しています。