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第六十二話 呵責

「どうすんだよ?!」

教師が帰った後、今度はアンデレがペトロに強く迫ってきた。



「どうするって、何が?」

ペトロはうざったそうにアンデレに背を向けた。

「だって、お前、自分が何を言ったのか本当に分かってるのか?

お前、一体、イエス先生をどうするつもりなんだよぉっ?」

アンデレは真っ青な顔をしてペトロの肩を大きく揺さぶった。


ペトロは、アンデレに揺さぶられるままブスっとしていたが、すぐに突き刺すような鋭い目で兄を見つめ返した。

「じゃあ、兄さんだったらどうするって言うんだい?

イエス先生と一緒に皆、死のうって言えるのか?

俺は言えないね。これは俺達だけの問題じゃない。

若い弟子達のことだってよく考えてみろよ。彼らにだって将来はある。

家族や兄弟もいるんだ。

俺は、今まで散々、イエス先生には危険な説法はしないでくれってお願いしてきた。

でも、先生はちっとも聞かなかった。

そのために若い弟子達の命まで狙われてきているんだ。

兄さんだって気づいているだろう?

あんだけの人がわんさか群がって来られたら、何が起こるか分かったもんじゃない。

これまでの騒ぎとは訳が違う。

だから、サンヘドリンもそれを怖れて俺達を本気で潰しにかかって来ているんだ。

これはもう、イエス先生だけの問題じゃない。

俺達、全員の命がかかっているんだっ!」



ペトロはそう叫ぶと、立ち上がってアンデレの腕を振りほどいた。

その勢いに怖気づいて、アンデレは一瞬、押し黙ったが、それでもやはり気になるのか、恐る恐る自分の疑問を口にした。


「・・・でっ、でも、それじゃあ、イエス先生はどうなるんだよ?」

「さっき言っただろ?俺は何度もイエス先生に頼んだ。

説法ももう少し穏やかなものにしてくれとも言ったし、サンヘドリンやファリサイ派の人達とも少しは歩み寄ってくれとも言った。

それに、今回のべサニー行きだって、俺だけじゃない、皆が止めたんだ。

でも、先生は聞かなかった」

ペトロは、それまでずっと心にわだかまっていた怒りを露わにし、吐き捨てるようにそう言い放った。


「だけど、先生は、ラザルスさんを助ける為にはどうしてもべサニーに来なくちゃならなかったんだ。

でないと、あの人は死人のままだったろうし・・・」

ペトロの強い口調に押され気味ながらも、どうにかアンデレはぼそぼそと反論した。


「へぇ。兄さんは信じているのか?

あのラザルスって男が本当に死者から復活したって?」

ペトロはせせら笑うようにして言った。

「お前は信じていないのか?イエス先生が奇跡を起こしたのを?」

アンデレは驚いたように急にその顔を上げた。


アンデレはなぜか信じていた。

ヨハネがかつてイエスのことを褒めて話していたことも、イエスが自分に直接、聞かせてくれた話も、弟子達がイエスの奇跡について話していたことも全部、信じていた。

その他、人々がする噂話のほとんどをアンデレはそのまま受け入れてきた。

だから、「よく分からないけど、それでも死者復活だってありうるかもしれない」と、どうにか自分を納得させていたのだった。

そうして、アンデレはイエスの奇跡に関してそれ自体を疑ったり、深く考えないようにしてきた。


だから、ペトロがあの死者復活の奇跡を嘲笑うようにして口にした時、それを信じている自分が馬鹿にされたと思って、アンデレは少しムッとした。

そのアンデレの怒った表情を見て、ペトロはふっと吐息をもらし、頭を小さく振った。


「兄さん。向こうだってその奇跡が本物かどうか知りたがっているんだ。

だったら、尚更、その奇跡の徴ってものを向こうに示してやれば、何も問題はないだろ?

イエス先生が本当に死者復活の奇跡ができるんだったら、イエス先生は大丈夫さ。

だから、兄さんが本当にイエス先生の奇跡を信じているんなら、むしろこの機会を喜ぶべきさ。

だって、ようやく世間の人達に向けてはっきりと、イエス先生が持つ奇跡の徴ってものを見せつけてやれるんだから!」

ペトロは子供を諭すように、一語一語、噛み砕きながらゆっくりとアンデレに言った。



確かにそうかもしれない。

と、アンデレは思った。


ペトロの言葉は腹が立つが、確かに彼の言う通り、イエスに復活の奇跡が起こせるのならイエスは死なないかもしれない。

だが、自分がイエスと一緒にその奇跡に命を賭けるとなると、それはとてもできそうになかった。


俺にはそんな勇気もなければ、度胸だってない。


アンデレは自嘲気味に心の中でそうつぶやいた。


やっぱり、誰だって死にたくはない。


それはアンデレにもはっきりしている結論だった。



「で・・・でもっ、もし、イエス先生が大丈夫じゃなかったら?」

アンデレは、やはり自分の心から除くことのできない疑問を口に出さずにはいられなかった。


その疑問を受けて、ペトロも眉間にしわを寄せた。

「・・・兄さん、俺だって本当は怖いんだ。

イエス先生をむざむざ殺されたくはないし、かと言って、さっきのような人が頻繁に来るようになって、他の弟子達が連れて行かれることにでもなったら、俺は一体、どうしたらいいって言うんだ?

俺はこの組織のリーダーだ。

だから、リーダーとしての責任がある。

イエス先生は・・・イエス先生はそういったことを丸っきり考えてはおられない。

考えられるようなお人でもない。

それは兄さんにだって分かるだろ?

それに、イエス先生自身、以前、皆の前で宣言されておられた。

恐らくいつかはサンヘドリンに連行されることになるだろう、って。

兄さんだって覚えてるだろ?

だから、先生はもう既に覚悟しておられるのかもしれない。

だけど、だからと言って、別に俺が先頭切ってイエス先生を引き出したいと考えている訳じゃない。

俺だって人の心ぐらいはあるさ。

だからこそ、他の皆にだって一緒に死んでくれ、なんてことも俺には言えないんだ。

さっきサンヘドリンの人と話していた時だって、俺はずっと悩んでいた。

確かに成り行きでああは約束したものの、本当にそんなことするつもりなんて俺にはとても考えられないんだ。


俺にはやっぱり出来そうにない。


確かにあんな約束を口にした俺は、意気地なしかもしれないが・・・。

でも、皆の命のことを考えたら、一体、どうしたらいいのか、俺にだって分からない・・・」


そう言ってペトロは苦痛に顔を歪め、泣きそうな声を出した。



確かにペトロはまだ、迷っていた。


イエスを組織から排斥したいとは常々から思っていたが、イエスに対する殺意がペトロにある訳ではなかった。

ただ、それでもサンヘドリンの教師からイエスの自首をほのめかされた時、ペトロの心がその話に大きくそそられたことも事実だった。



だが、ペトロにはよく分かっていた。

イエス自身がどんな奇跡をも起こせないことも。

そして、そのためにサンヘドリンが確実にイエスを有罪にして死刑を言い渡すだろう、ということも。



これはどうにも仕方ないことなんだ。

と、ペトロはずっとそう自分に言い聞かせていた。


ここでとりあえずイエスを引き渡すことに同意しておけば、皆の命が少しでも保証されることになる。



たった一人が大勢の為に身を投げてくれれば、それで皆が助かる。



だとしたら、やはりその場は教師の要求に同意した方が、ペトロには得策のような気がした。

しかし、そうは言っても自分からそれをイエスに懇願するつもりは全くなかった。

あの穏やかな目に向かって、そんな話を切り出す自分の姿などペトロは想像すら出来なかった。


そんなこと言えるはずないじゃないか。

何をしでかした訳でもないあの人に向かって、

「サンヘドリンに自首してくれないか?」なんて。


その時、ペトロの心の奥底で忘れかけていた“良心”というものにチクッと針が刺さったような痛みが走った。

それは、こうなった責任の一端が自分にもあるということを突然、ペトロは気づいたからだった。



信者を獲得しようと、人々に向けてあれほど自分が奇跡話を吹聴しなければ、あの人はあそこまでファリサイ派やその他の宗派の連中に妬まれなかったかもしれない。

組織を少しでも早く拡大させようと、悪魔祓い料やその他の寄付金を自分がやたら徴収しようとしなければ、サンヘドリンが本気でイエスに目をつけることもなかったかもしれない。

そう考えると、ペトロは自分の胸がますます締め付けられるようだった。



いいや、違う。

それは、わたしのせいじゃない。


わたしはこの組織の為を思って働いてきたんだ。

わたしは皆の為に良かれと思ってそれをしてきただけだ。


そうして、わたしは死ぬほどこの宗派のために働いてきた。

それこそ身を粉にして働いてきたんだ。


だから、感謝や報酬をもらいこそすれ、わたしのやり方を非難される覚えなどない。


わたしは悪いことをしたんじゃない。


こうなったのは、元はと言えばあの人自身が起こしたことで、わたしの責任せいなんかじゃない!


そんな良心の呵責と、自分自身を最後まで正当化しようとする保身とが、ペトロの心の中で激しく葛藤していた。

そうやって自分で考えれば考えるほど、ペトロの心にはただ、ただ苦々しさと後悔だけが果てしなく募っていった。



それにもう、遅いんだ。

と、ペトロはその苦しい思いをどうにか断ち切ろうとした。



ペトロには、はっきりとした予測が既に頭にあった。


このままずっと逃げ隠れしたとしても、いずれにしろ、遅かれ早かれサンヘドリンに捕まって断罪に処せられるだろう。

それに万一、あの人の奇跡が嘘だとばれたら、民衆の方が怒って先に自分達に襲いかかって来るかもしれない。


嘘は、いつかばれる。

あの人の化けの皮が剥がれる時がそろそろやって来たのかもしれない。


これまで、わたしはいつも周囲の動きに敏感なつもりだった。

だが、いつの間にやら自分でも夢を見ていたんだ。

この組織がこのままずっと続いていくような、そして、あの人の奇跡もばれずにずっともてはやされていくんじゃないか、と。



実際、あの戒律の教師が現れるまで、ペトロは自分が宗派のリーダーに納まり、これまで以上に拡大していく宗派の未来をその心に描いていた。

弟子や信者に囲まれ、自分がエルサレムに君臨している姿さえ夢見ていた。


いや、たとえそこまで大それたものじゃなくても、小さいながらもそれなりに拡大して人々から支持され、一目置かれるような安定した存在になっていてもおかしくないとペトロは自信を持っていた。



だが、そんな夢も自信も、戒律の教師に現実を突きつけられたことで、ペトロはまるで冷や水を顔に浴びせられたような、そんな後味の悪さを味わっていた。

ペトロは、今回の戒律の教師の訪問で改めて自分がどれほど世間知らずで、どれほど自分を過信してきたかを思い知らされた。

上には上がいるもので、氏も立派な都会エルサレム育ち、加えてサンヘドリンのメンバーというこの世の権力を欲しいままにしているあの戒律の教師と、田舎町から成り上がって有頂天になっていた元漁師の自分とでは、持っている雰囲気からしてやはり雲泥の差だった。



そうか、夢か・・・。


ふと、ペトロの心にそれまでずっと疑問だったイエスと自分との違いについて、思わず謎が解けた。


イエスという、あの人が私達をどうしても惹きつけて止まないもの。


それは、私達の“夢”なんだ。

私達、それぞれがその心に抱いている“夢”を、

「もしかしたらあの人が叶えてくれるんじゃないか?」、

「きっとあの人が叶えてくれるはず」、

そんな一人一人の“希望”があの人へと私達を引っ張っていっている。


誰もがその心に描いている、自分の力ではどうにも叶えられそうにない、そんな“夢”をあの人に託そうとしているんだ。

でも、現実はやっぱりそんな甘いもんじゃない。

だって、奇跡なんて絶対、起こりっこないんだから!


ペトロはその苦々しい思いを噛みしめるように両こぶしをぐっと握り締め、自分の唇を強く噛んだ。


「兄さん、すぐに皆をここに集めてもらえないか?」

そのペトロの険しい表情に、アンデレは転がるようにして、すぐに部屋から出て行った。


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