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第六十一話 交渉

「なるほど。

皆さんとしては、あの方の“真実の姿”を今、一生懸命、模索しておられる最中だと、いうことですかな?

あの方が本当に神に仕えている身なのか、それとも、全く逆の、忌まわしき者にその身を捧げているのか?」


戒律の教師は、特に最後の部分を強調しながらペトロに意地悪くそう言った。

その、訛りらしい訛りもない、上品な抑揚のある彼の話し方に、ペトロは何となく自分のガリレー訛りが恥ずかしくなった。

と同時に、その話し方があまりにも上品過ぎて却って冷たく聞え、彼の話す一言一言が、まるで尖ったナイフの先を自分の前でちらつかされているような、そんな気分になった。

だから、これ以上、教師の機嫌を損ねないまいと彼の話に同意するように、ぺトロは小さくコクンと教師に頷いて見せた。


ペトロにとってそれは魔の時間とも言えた。


表面は穏やかに見えて、言葉の端々に殺気を漂わせている教師を前に、ペトロ達は今まさにサンヘドリンの手が自分達、一人一人にまで及んでくるかどうかの瀬戸際に立たされていた。


そして、自分が口にする些細な言葉のアヤが、相手の一存によっては最悪の事態をも招きかねないと気づいて、恐ろしさでペトロの全身はじっとりと汗ばんできた。


まさしく死神と魂の取引をしているようなものかもしれない・・・。


緊迫感からか、ペトロの頭にそんな皮肉がふとよぎった。

ついさっきまでペトロとしては、イエスさえいなくなれば、サンヘドリンも多少は目をつぶってこのまま宗派の存続を見逃してくれるんじゃないか、と安易に考えていた。

だが、どうも目の前にいる教師の態度からして相手はもうそんな悠長なことはいっていられないという雰囲気だった。



下手をすると、これは宗派どころか私達、全員が処刑されかねない。



そう思うと、ペトロは改めてそのサンヘドリンの並々ならぬ強い意志と、ファリサイ派がイエスに対して抱いている理不尽なまでの底知れぬ憎悪というものを感じずにはいられなかった。

そして、このことはその場でペトロと一緒に教師の話を聞いていたアンデレにも十分、伝わっていた。



弟ペトロとは全く異なる性格を持つアンデレは、どちらかと言えば世の中の動きには疎い方で、つい最近まではサンヘドリンやファリサイ派からの脅威を深く考えることがあまりなかった。

と言うのも、たとえ自分達の宗派を攻撃する連中がやって来ても、イエスがいつも傍にいて、そういったことのほとんどを彼がちゃんと処理してくれたからだった。

そのため、これはアンデレだけでなく他の弟子達も同様で、彼らが実際的に自分達の身辺にまで強く懸念することが少なかったのである。


ところが、今回の復活騒ぎはこれまでとは全く違った様相を呈していた。

それは、今まで奇跡騒ぎがあってもイエスの弟子達が受ける被害と言えば、単なる中傷やちょっとした嫌がらせ程度だったし、別にそれほど周囲に人が群がってくることなどあまりなかった。

しかし、今回は凄まじいまでに人々が熱狂して彼ら弟子達の周りにも押し寄せてきて、その上、いつも一緒にいてくれたイエスが長期間、自分達の傍から離れることになってしまった。

そうなると心もとなさを感じてか、自然と自分達の身辺にも不安を感じるようになり、弟子達はそれぞれ、自分達の将来を強く心配するようになったのだった。



それは、今回のイエスの不在が、ある意味、居残り組の弟子達の心を強く揺さぶり、今後を予見させる何かきっかけのようなものをもたらしていたのである。



そして、アンデレもまた、近頃では何となく将来への不安をその胸に抱いていた。

だが、彼はまだ、真剣にそれを考えようとはしなかった。

と言うのも、アンデレは今のままでかなり居心地が良かったし、「多少、危険なことがあってもイエス先生が何とかしてくれるだろう」といった、そんな無責任な気持ちがまだどこかにあったからだった。

ところが、さっきからペトロと教師のやり取りを聞いていると、その胸に漠然と抱いていた不安がにわかに現実を帯びたものになってきて、しかも傍らでいつも見守ってくれていたイエスに頼ることもできず、アンデレはたった今、死刑を宣告されたような、そんな絶望的な気持ちなった。

すると、ペトロはもちろん、そのアンデレの気持ちを見透かしたのか、すぐさま戒律の教師が穏やかな口調でその緊迫した二人の心を撫でるようにこう切り出してきた。


「分かりました。

それならば、皆さんの疑問を解く良い方法があります。


それは、主に直接、聞けばいいのです。


主がもし、本当にあなた方のラビを認めておられるなら、その“奇跡の徴”を私達の目の前にちゃんと示してくださるはずでしょう。

あなた方のラビが本物のメシア(救世主)であるなら、本当に神からこの世に使わされてきているなら、私達の尋問にもちゃんと耐えうるはずです。

私共も同じく主に仕える身。真実を知りたいのは山々です。

ですから、今のようにあの方が逃げ隠れなさっていては、真実はいつまでも闇の中です。

このままでは、あなた方ご自身の潔白も疑われかねません。

だからこそ、“真実”を明らかにするためにも、あなた方のラビには私達の前に一度、出てきて頂かねば・・・」

そう言って、さらに嫌味たっぷりに教師はペトロ達に押し迫ってきた。


要するに、「イエスを自分達に差し出せ」と教師が暗にほのめかしていることは明らかだった。

だが、教師に従ってイエスをサンヘドリンに差し出したところで、宗派はもちろん、自分達の身の安全が必ずしも保証されている訳でもなかった。

だから、ペトロとしてはここで弱気になって、戒律の教師の言われるがまま、そう簡単に彼の要求に応える訳にはいかなかった。


どうせチンケなインチキ宗派の弟子だから、とサンヘドリンに見くびられでもしたら、あの人の命どころか、こっちの命まで一緒に消されかねない。


あの人を差し出すにしても、それなりにこっちの命も保証しておいてもらわないと・・・。



どこかに自分達が助かる道はないものかと、ペトロの頭は急に忙しく廻りだした。

何とかこの場を切り抜けようと、ありとあらゆる知恵と言い訳がその頭を駆け巡っていった。

そして、ようやくそれに見合った言葉を見つけ出したペトロは、少しでも落ち着きを取り戻そうと、深くすぅっと静かに息を吸い込んだ。


「先ほど申しあげました通り、私達は、これまでイエス先生の下で主の道を真直ぐに歩いている、と心から信じて参りました。

ですから、私達はこれまでイエス先生の教えを疑ったことはありません。

ましてや自分達が主に罪を犯しているつもりなど毛頭ございません。

しかし、こうやってこの身を信仰に捧げてきた私達であっても、・・・エルサレム神殿の方々が私達にも罪がある、と判決されるのでしたら、もしかして私達は“知らず知らずのうちに”罪を犯していたのかもしれません。

それならば、トーラ(モーゼ5書)に従いまして、私達としては、“贖罪の捧げ物”として自分達の中で“一番、価値のある、一つの傷もない羊”を喜んで差し出すつもりです。

そうすれば、エルサレム神殿の方々もきっと私達を許してくださるはずでしょう」

心臓が今にも飛び出てくるのではないかと思うくらいペトロの胸の鼓動は激しく鳴っていた。


それでもペトロは、先ほどの教師の口調に合わせて、最後の文言を強調しながら自分達の免罪をどうにか訴えた。

そしてこの時、ペトロが戒律の教師に何よりも訴えたかったのは、戒律における“贖罪の捧げ物”の条項のところだった。(レビ記5章14節参照)



贖罪の捧げ物とは、モーゼが制定した様々な法律の一つであり、戒律やその他、神聖なる何かを過失により(つまり、知らず知らずのうちに)侵害もしくは傷つけた者は、その罪の贖いとして、自分の群れの中で全く傷のない一番いい雄羊一頭と、賽銭としてある程度の銀貨を神殿や寺院に供えるよう定められていた。

そして、この捧げられた羊は当然、屠殺されて、その血は神殿の祭壇に振り掛けられ、内臓その他は肉と一緒に神殿の僧侶達とその家族のみ食することになっていた。

こうして、過失罪に問われた者は、“これらの供物を献上することで罪を償ったものとして”僧侶達から許されることになっていたのである。



弟子として、イエスと共に人々を扇動したという連帯責任を問われたペトロは、とっさにその“贖罪の捧げ物”の条項を引っ張り出してきて、

「イエスを“贖罪の羊”として差し出す代わりに、自分達の罪を許してくれ」

と、暗に交換条件をほのめかしたのだった。

もちろん、戒律の裏の裏まで知り尽くしている教師は、そのペトロの鮮やかな交渉術に感心したのか、ニヤッと笑みをもらした。


「もちろん、罪を悔やみ、自らその償いをしようという人を神はお見捨てにはなりませんよ。

ですから、そういったお気持ちがあるのなら、私達もあなた方の罪を許すつもりでいます」

「分かりました。でしたら、もう少し、私達にもお時間を頂けないでしょうか?

この話を一度、他の弟子達にも伝えねばなりません。

それに、弟子のほとんどはまだ自分が罪を犯しているなどとは露ほども思っていません。

ですから、まずはわたしから彼らにこのことを話す必要があります。

その上で、時期が来たら皆さんの方にその供物を届けようと思います」

ペトロは、自分の意図したことが相手にちゃんと伝わってほっと胸を撫で下ろす一方、この後再び、教師が何を言い出してくるのか分からないだけに油断はできなかった。


ペトロは顔を強張らせたまま教師と向き合っていた。

アンデレは固唾かたずを呑んで二人のやり取りを聞いていた。


戒律の教師は、ペトロ達のその様子に満足したように両手を組んで余裕のある微笑を口元に浮かべた。

「では、その時期というのはいつぐらいになりますかな?」


教師にそう言われて、ペトロ達は再びお互いの顔を見合わせた。

イエス達が帰ってくるのはペサハ(過ぎ越しの祭り)が始まる辺りだろうが、それももうすぐやって来る。

そんなに急に自分達の心の準備が整うのか、ペトロには自信がなかった。

この短期間のうちに弟子達全員を説き伏せ、イエスをサンヘドリンまで引き出すなんてことが、果たして自分に出来るんだろうか?


実際、ペトロとてそれほど度胸のある方でもなかった。

確かに、近頃はイエスに強い反感を抱いていたが、ペトロとしてはそろそろイエスから離れて独立していきたかっただけで、彼の命をどうこうするつもりは全くなかった。


そうまでして彼を裏切ろうなどとはついぞ考えたことはなかった。


だが、イエスの命一つで、自分達全員の命が助かるとなれば話は別だった。

それに、元はと言えば、イエス自らがこんな危険を招いたのであって、それさえなければイエスも弟子達もこんな目に会わずに済んだのだ、とペトロは今、自分に言い聞かせていた。

だから、自分が率先して奇跡の徴やメシア(救世主)の話を広めてきたことも、「他の宗派よりも自分達の宗派の方がずっと優れている」と人々に吹聴して廻ったこともすっかり忘れ、それがファリサイ派やその他の宗派の嫉妬を招いたとも考えず、今はただ、ただ、イエスのことが恨めしかった。


自分達をこんな危険な状況にまで追い詰めたイエスという人が、ペトロにはどうしようもなく憎らしかった。



「出来る限り・・・早く何とか処置するように努めます。

でも、まだ誰にも話しをしていませんし、すぐにこの場で何時いつとは言いかねます」

ペトロがつぶやくように答えると、教師はすぐさま顔を引き締め、心外だと言わんばかりに片眉を吊り上げて見せた。


「ふむ。できるだけ早くと申されても、納得しかねますな。

ちなみに、あなた方のラビはペサハには当然、エルサレムにいらっしゃるんでしょうな?」

「はぁ・・・」

ペトロは教師の鋭い眼差しから逃れるように自分の目を伏せた。


「だったら、それまでには片づけていただかないと。

ご存知の通り、ペサハになれば民衆が大挙してエルサレムに押し寄せます。

もし、あの方がペサハの期間中ずっとエルサレムを闊歩するようなことになれば、それこそあの方が原因もとであらぬ暴動が起きても不思議ではありません。

民衆の血を流させない為にもあなた方の強い意志が必要です。

いいですか?

今、わたしにあなたが約束なさったことは、主に誓ったのも同然なんですよ。

『わたしとあなたの間には誰もいなくても、神が証人なのです』(創世記31章50節)」

静かな口調ながらも、教師はそう強くペトロを攻め立てた。


そんな教師を見ていると、ペトロはやはり自分が世間知らずの田舎者だと思い知らされたような気分だった。

雰囲気にしろ、交渉の進め方にしろ、戒律の教師の思うがままにペトロは翻弄されていた。

そして、その教師の後ろに燦然さんぜんと輝くエルサレム神殿とサンヘドリンの威光が、ペトロにはとてつもなくまぶしく、そして、空恐ろしかった。


「・・・分かりました。それまでには何とかするようにします」

ペトロにはもうこれだけしか言えなかった。



結局、この短い交渉の末にペトロがファリサイ派の教師と合意したことは、自分達の命と引き換えに、イエスをサンヘドリンに引き渡すということだった。


そして、それはまさしく悪魔に魂を売ることを意味していた。



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