第六話 母ヘロディアスと娘サロメ(2)
そうして、ヘロディアスは娘の顔をみているうち、かつて自分とヘロデが恋に落ちた時のことが思い出されてきた。
ヘロデから結婚を申し込まれた時、ヘロディアスが初めに躊躇したのは娘のサロメが気がかりだったからだった。
幼い頃より「ハスモン朝の末裔として、そして王家の姫として、人から後ろ指を指されるようなことがあってはなりません」と娘には言って聞かせてきただけに、自分の再婚がどう娘に影響するのか母親としてヘロディアスは少し不安だったのである。
それでなくてもこの再婚には多少の反対者が出てくることは十分、予想していたので、育ち盛りの娘であり、また誰よりも潔癖な娘が一番、傷ついて反対するのではないだろうかと彼女は心配していたのだった。
一方、前夫ヘロデ・フィリップには正直なところ、ヘロディアスは少しも気がとがめてはいなかった。
何せ、前夫には愛情らしい愛情を感じていたわけではなかったし、政略結婚で嫁がざるを得なかった彼女にとって前夫との結婚生活はただ、ただ空虚で退屈だった。
それに“ 恋 ”というものを知らずに、フィリップが支配するあの小さな都市カエサリア・フィリピに閉じ込められたまま一生を終えるのかと思うと(とは言え、一年の半分以上はローマの別宅で過ごすのだが・・・)、気の強いヘロディアスでさえ一時は自分の人生を悲観したこともあった。
カエサリア・フィリピ(現ゴラン高原のバニアス)は、エルサレムやヘロデの建設した都市ティベリウスからもはるかに北に離れたヨルダン川上流に位置しており、川の最大源流の一つである泉があることでよく知られていた。
その泉は、ユダヤの最高峰であるヘルモン山の雪解け水が洞窟からほとばしるようにして湧き出ており(現在は地殻変動のためその面影はもうない)、カエサリア・フィリピはまさに水の豊かな自然に恵まれた美しい土地だったが、それ以外は何もない退屈な中堅都市だった。
亡き父ヘロデ大王がカエサリア・パレスティナを、異母兄ヘロデ・アンティパスがティベリウスを建都したのと同じように、フィリップもまた父や異母兄に倣ってカエサリア・フィリピを建ててはみたが、元々、面倒くさがり屋のフィリップには政治や領土の統治といったことは所詮、不向きな仕事だった。
物事をじっくりと考えることが嫌いな彼は、表向きで問題が起きるとすぐに占い師や霊媒師にその答えを頼りがちで、時には貴族達に買収された占い師の言葉に度々、振り回されてもいた。
そのため、一神教であるユダヤの民達の目から見ると彼の行為は多神教の異教徒のように映り、彼がユダヤの王としてふさわしいとは決して思えなかったのである。
そんな民達の気持ちにも気づこうとせず占い師や霊媒師に言われるまま寺の改築や偶像を建造したがるフィリップを、ユダヤの民達だけでなく、妻であるヘロディアスも冷ややかに眺めていた。
しかも、娘のサロメもまた、実は子供の頃からずっと心密かに自分の父親を毛嫌いしていた。
と言うのも、政治向きの事はまだ子供のサロメにはよく分からなかったが、母親はもとより周りの者達が自分の父親を蔑んでいることは、幼い頃から彼女も何となく気づいていた。
だから、ヘロディアスがヘロデとの再婚についてサロメに打ち明けた時、真っ先に喜んだのは他ならぬ娘の方だった。
それは、叔父であるヘロデ・アンティパスがフィリップ夫妻を訪ねてきた際、サロメ自身、ヘロデの力強い眼差しと自信に満ち溢れた態度にすっかり魅了されたこともあるのだが、何よりヘロデには周りの者達が自然と腰を低くするのを見て、サロメは密かに「この人こそユダヤの王にふさわしいわ」とそう思ってしまった。
だから、フィリップよりもヘロデ・アンティパスこそ自分の父親だと公言できる方がサロメには何だか誇らしくてうれしかったのである。
こうして、意外にも娘からの祝福を受けたヘロディアスは、それですっかり安心してヘロデの元へ嫁ぐ気になった。
やはりハスモンの血は裏切らないわ。誰が王にふさわしいか、この子はちゃんと見抜いているんだわ。
そう思うと、ヘロディアスは娘サロメの成長を喜ぶと共に、彼女こそ自分の最大の理解者であるとして、ことのほか信頼を寄せるようになったのだった。
そのため、ヘロディアスはいつもサロメを傍に置き、二人は親子と言うより姉妹のように仲が良かった。
その上、ヘロデもまた、サロメには何くれとなく気を配ってくれて、実の娘と変わらないぐらい彼女を可愛がってくれている。
だから、そんなヘロディアスにとって今は自分の人生において幸せの絶頂期とも呼べるものだった。
だが、その幸せをあの成り上がりの者のヨハネが今まさに打ち壊そうとしている。
なのに、あの人はそのわたしの不安や苦しみを分かってくれない・・・。
その事がヘロディアスの頭をよぎると、さっきまでぼんやりと娘を見ていた目に再び涙が溢れてきた。
「お母様、そんな悲しい顔をなさって一体、どうなさったというのです?
ねぇ、お話くださいませな、ねぇ?」
サロメは再び泣き出したヘロディアスを慰めながら、そう言った。
その娘の優しい態度にほだされたヘロディアスは、一体、どうしたらいいものかと途方にくれて、娘にさっきヘロデと言い合った事について訴えることにした。
「サロメ、ねぇ、わたくしの可愛い娘。ハスモンの血を引くわたくしの最大の宝石。
あなたならきっと、わたくしの気持ちを分かってくれるでしょう?
わたくしは今、最も危うい立場にいるのです。
あなたも知っての通り、わたくしはあなたの実のお父様を置いてガリレーのテトラーク(属州知事)である今のお義父様のところに嫁いで来ました。確かにそれはユダヤの律法においては許されるものではないかもしれません。
でも、ハスモンの血はユダヤにおいては最も古い、最も純粋な血なのです。
これを絶やしては神より祝福されてきた神聖で高貴な血筋が絶えることになってしまいます。そして、ハスモンの血は王家の血である以上、それにふさわしい王家の地位を保っていかねばなりません。
だからこそ、わたくしはあなたの実のお父様よりもユダヤの王位に最も近く、最もふさわしい今のお義父様のところに嫁いで来ました。
それは、ユダヤの王家をわたくしの代で絶やしてはならないと思ったからです。
そして何より、わたくしこそこのハスモンの血を守るべき者として神に選ばれたのだと分かったからです。
でなければ、神はわたくしを今のお義父様に出会わせたりはなさらなかったでしょうし、たとえ会ったとしてもお互い結婚なぞする気もなかったでしょう。
でも、お義父様もわたくしもお互い愛し合ってしまった。お互い、一目で運命を感じてしまったのです。
だから、この結婚は神の思し召しだと思い、また、ハスモンが築き上げてきたこのユダヤの国の為でもあると考え、わたくしはお義父様からの求婚を受ける気になったのです。
でも、わたくしのそんな切なるユダヤへの愛も知らず、ユダヤの民達は変な偽預言者の説法に惑わされ、わたくしとお義父様を引き離そうとしているようなのです。
そして、そんな彼らを炊きつけているというのが、あのヨハネとか言う、ヨルダン川で洗礼を行っている男らしいのです」
そう言って、ヘロディアスがヨハネの名を口にすると、サロメはその名にピンと来たらしく、ヘロディアスの話に口を挟んだ。
「あら、その男なら今、宮殿内の牢にいると聞きましたわ」
「そうです、あの牢にいる男なのですよ。
ようやくあの男のベルゼブブ(ハエの姿をしたデーモンの王子。語源は昔、ユダヤの敵国が信仰していた主神を皮肉って作られた呼び名である)の魔力から民達を救おうと、聖なるアブラハムの子孫であるエルサレム神殿の人々が立ち上がりましたのに、お義父様はどこか気乗りしない様子で・・・、何だか、おかしいのです。
先ほどもわたくしがあの男の処罰を尋ねたら、まるであの男への処罰を怖がっていらっしゃるみたいに少し躊躇なさって、いつものお義父様らしくなかったのです。
だから、もしかしてお義父様はあの男の魔力にかかってしまったんじゃないかと、わたくし、もう心配で、心配で・・・」
ヘロディアスは一気にそうまくし立てると、再び涙で濡れた美しい顔をカウチの上に埋めた。
サロメはその母親の様子を見て、優しく彼女の肩を叩いて慰めた。
「お母様、どうか泣かないで下さいませ。わたくしまで辛くなりますわ。
そんなお母様、わたくし、初めて見ましたわ。
それほどまでにお母様が愛していらっしゃるお義父様との仲を引き裂き、さらに国と民のことをいつも考えていらっしゃるお母様の気高く美しい心を踏みにじるなんて、なんてひどい人達なんでしょう。
そのヨハネとかいう男、わたくしが聞いたところによると、ヨルダン川で洗礼を行いながら人々に懺悔を迫るとか。
こんなひどいことをしておいて何が懺悔なものですかっ!
その男の方こそ自分が犯した罪を悔い改めればいいんだわ!」
サロメは母親の悲しむ姿を見て、怒りをあらわにし、ヘロディアスの気持ちを代弁するかのように声を荒げた。
「ああ、サロメ。何てあなたは賢くて優しい子なんでしょう。
あなたならきっと分かってくれると思っていたわ。
でも一体、どうしたらいいだろう?
このまま何もせずにうかうかしていたら、きっとあの男の魔力にとりつかれて、ユダヤの民達はわたくしとお義父様の仲を引き裂こうとするでしょう。
ああ、わたくし、一体、どうしたらいいの?」
ヘロディアスは、頭からすっぽりと覆うようにしてかぶったベールの裾を悔しそうにぎゅっと握り締め、既に母親の話を聞いて怒りで燃え上がっているサロメの様子にすっかり安心しきり、何とかしてくれとすがるような目でサロメを見た。
「そんなこと、わたくしが許しませんわ。お母様。ええ、決して。
デーモン(ギリシャ語またはギリシャ神話による悪魔の意)の力になぞ、屈したりするものですかっ!
わたくしもハスモンの姫です。神が必ず力を貸してくださいますわ。
だから、元気をお出しになって、ねぇ、お母様」
そう言ってサロメは再び母の肩を優しくなでた。
そして、何かを思いついたようにその手をはたと止めた。
「そうですわ、お母様。わたくしにいい考えがございます。
噂によりますと、あの男は預言者エリヤの生まれ変わりだと言われているそうです。
エリヤが神の命で死者から蘇り、ヨルダン川に舞い降りたとか?
だから、あの男の化けの皮を皆の前ではがして本物の預言者ではないことが証明されれば、皆、あの男のことなど信じなくなって、きっとあの男は仕方なしにハデス(ギリシャ神話における地獄の意)に帰っていくのではないでしょうか?」
そう言ったサロメの目はどこか空恐ろしいほど冷たく、怪しく光った。
「どうするというのです?」
その娘のただならぬ様子に、ヘロディアスは気おされたように少しおびえた目をしてそっと尋ねた。
「ご心配なさいますな、お母様。わたくしにお任せくださいませ。
悪いようには致しませんわ。
ハスモンの血に賭けて、必ずやヨハネの魔力からお母様とお義父様をお守り致します」
サロメはそう言うと、その怪しい目の光をいっそう強めてヘロディアスに優しく微笑んだ。
その微笑を見て、ヘロディアスもそれ以上、何も言えず、その目に魅入られたかのようにただ、じぃっと娘の顔を見つめるしかなかった。