第五十七話 陰謀
だが、当然、カイアファのお告げはあらかじめ仕組まれていたものだった。
大僧正カイアファとその義父アンナス、そして少数のファリサイ派幹部達の間ですでに事前の打ち合わせがなされており、最初からイエスをローマ軍に引渡してピラトの手で処刑してもらう方向で話はついていたのである。
サドカイ派とファリサイ派、両者が強い対立を超えてまで結んだこの合意の裏には、かなり切迫したある政治的な事情がそれぞれ絡んでいた。
イエスを執拗に弾圧してきたファリサイ派は、もともと庶民を代表する政党であり、庶民を敵に回して世論の支持を失えば、その存続意義が問われることとなる。
だから、たかが偽メシア(救い主)の嫌疑や戒律破りくらいでイエスを断罪することは、かえって庶民の反感を買いかねなかった。
それほどイエスの評判が高まってきていたし、しかも死者復活の奇跡まで起こされ、さらに洗礼者ヨハネの処刑で人気を落としたヘロデ・アンティパスを見ていれば、再び自分達の手でイエスを抹殺することは自分達の政治生命の命取りにもなりかねなかった。
そのため、一度はイエスの家を訪ねて彼自身を取り込もうとしたものの(注1)、それに失敗した以上、彼らはイエスよりも逆に極右勢力の方を自分達の味方に引き入れてはどうかと考え始めた。
つまり、反ローマという点においては、ファリサイ派と熱心党をはじめとした極右勢力に異論はない。
だから、お互い手を携えればイスラエル国内での政治勢力を拡大するのに難しくはなかった。
しかし、この提携を大きく阻むのがエルサレム神殿の僧侶達が占めるサドカイ派だった。
ユダヤ教という国教の真髄を担う僧侶達の代表政党でありながら、どちらかと言うと、ローマ寄りの彼らをサンヘドリン内で説得し、ユダヤ人同士が一致団結するには、サドカイ派にも何らかの利点がなければ納得するはずはない。
ところが、ある事件が起こったことでサドカイ派の長である大僧正カイアファとその義父アンナスは、ファリサイ派が提案してきたイエス抹殺計画にようやくその首を縦に振るようになった。
その事件というのは、スコット(仮庵の祭り)が終わってイエスがエルサレムから去った直後に起きた、ある暴動のことだった。
その暴動はいつもとは違って、単にローマ帝国に反発する目的で起きたわけではなかった。
実は、ユダヤ総督のピラトは、都市整備事業の一環として35kmほど離れたところからエルサレムにまで水を曳くための、ある壮大な水道橋の建設を計画していた。
もちろん、この建設には莫大な費用が必要となる。
そこで、資金繰りに困ったピラトは、“コルバン”と呼ばれるエルサレム神殿の献金をこの資金に組み入れようとした。
だが、当然、神殿の僧侶達は猛反発し、これが結局、関係のない庶民をも巻き込んだ大きな暴動となってしまったのである。
そして、この暴動を裏で操っていたのが、実は大僧正の義父であるアンナス率いるサドカイ派の僧侶達であった。
水道橋の建設は、エジプト帝国やバビロニア帝国時代でも度々建設されてきたが、ローマの技術力はその頃とは比べ物にならないほどはるかに洗練されたものであり、まさしくローマ帝国の十八番とも言える公共事業だった。
そのため、水道管や水道橋の整備は常々頻繁に行なわれており、こうした公共事業により水上交通や貨物の水上輸送、家庭内のセントラル・ヒーティング・システムといった生活機能も格段に向上し、人々の暮らしはますます快適なものとなっていった。(ちなみにこの時代、床下暖房なども既に使われていた)
だから、ピラトはローマの各都市でごく当たり前に行われている都市整備を行うことで、ユダヤにも快適な暮らしを提供しようとしただけなのだが、残念ながらその相手があまりにも偏屈すぎた。
ユダヤ人、特にユダヤの富裕層にしてみれば、そうした将来性のある社会的な利得(=公益)に考えが行くよりも、現時点、自分達にどれくらいの益(=私益)が入ってくるのかに日々、執心していて、ピラトが見くびるほど、彼らユダヤ人はそれほど無知でもなければ、そうそう単純でもなかった。
そのため、何らかの利権がついてくる公共事業そのものには反対しなくとも、まさか自分達の懐を痛めてまでそれをやろうという気は彼らには更々なかったのである。
しかし、外国人で、しかも軍人らしい直線思考のピラトは、ユダヤ人達の持つこの複雑な深層心理にまで考えが及ぶことはなかった。
だからこそ、安直に神殿のコルバン(献金)にまで手を出そうとしたのだが、そんなピラトを威嚇することでうまく自分達の財源からその手を引かそうとアンナス達、サドカイ派はちょっとした暴動を仕組んだのである。
ところが、そのちょっとした暴動が、なぜか予想外にもかなりの大事になってしまった。
と言うのも、ユダヤ人の心の機微には疎くても、軍事の機微にはかなり鋭いピラトは、ローマ兵を一般市民に扮装させて暴徒の中に紛れ込ませ、暴動を内側から情け容赦なく叩き潰してしまったのだった。
この非情なまでに情け容赦ないピラトの手腕を見たアンナス達は、今までとは違う別の恐怖をピラトに感じ始めていた。
それは、かつてユダヤ総督だったヴァレリウス・グラトゥスの時と同じように、もしかしてピラトもまた、エルサレム神殿の実権を自分達、サドカイ派から奪い取ろうとするのではないか、と勝手に脅えだしたのである。
ここで言うエルサレム神殿の実権とは、神殿の大僧正の地位を意味するのだが、実はこの大僧正の地位を巡って、前ユダヤ総督のグラトゥスとサドカイ派の僧侶達との間には、公にはできないある事件が起きていた。
ユダヤ教の最高位であるエルサレム神殿の大僧正は、その当時、エルサレムに住む人々はもちろん、国内外を含めたすべてのユダヤ人を統括する上で王位と同等の権力を持ち、しかも、神殿や各寺院への税金および供物も一般税とは別に徴収することができる強大な権力を持つ存在だった。
そして、その大僧正が頂点に座すエルサレム神殿とその周辺土地も、ある意味、イスラエル国内にもう一つ王国が存在しているようなものだった。
このように、王位とは別に教理で持って人々と金を統率できるというユダヤ教独特の二極的な集権及び集金システムに、当然、利聡いローマ帝国が目をつけないはずはなかった。
ユダヤ人を抑えるにはこのエルサレム神殿を乗っ取ることが一番とローマはすぐさま気づき、ユダヤ統治をし出すと真っ先にこの大僧正を任命する権限を奪い取ってしまったのである。
そして、ピラトよりも10年程前にユダヤ総督に就任したヴァレリウス・グラトゥスは、ピラト以上にユダヤ人嫌いなことも手伝って、かなり好き勝手に大僧正の任命権を濫用したのだった。
そのため、現大僧正のヨセフ・カイアファの前にも、カイアファの義父アンナスを含め、既に4人もの大僧正がグラトゥスの機嫌により次々とその首をすげ替えられていた。
そして、この不安定な支配状況が災いして、ついには神殿内部で熾烈な権力闘争が巻き起こることとなり、中には次期大僧正の地位を巡ってグラトゥスを始めとするローマの有力者達に賄賂を贈る、したたかな僧侶まで横行するようになってしまった。
この風紀の乱れを危惧し、大僧正を輩出してきた家系として伝統と格式を誇るアンナス一家はとうとう怒りをあらわにすることとなった。
そこでアンナスは、腹心の僧侶達と密かに画策し、グラトゥスに恨みを持つローマ兵に金を握らせて、ある晩、こっそりと彼を暗殺してもらったのだった。
もちろん、この真相が外に漏れる心配はなかった。
下克上のローマでは、こういった権力闘争の末の暗殺はそれまでも頻繁に行なわれていたし、時には皇帝の息子でさえも側近に毒殺されながら、それでもなおその真相が何年もばれなかったこともあった。
そのため、ローマから遠く離れた小さな国のユダヤで起きたグラトゥスの暗殺など彼らローマ人にしてみればよくある不運な話程度であって、結局、真犯人は分からずじまいでうやむやに処理されてしまったのである。
そして、そのグラトゥスの後任であるピラトは、前任者とは違った根っからの軍人であり、ユダヤの治安維持に日々、奔走しているだけで、あの公共事業の資金問題が浮上するまでは、カイアファを大僧正に据えただけでエルサレム神殿内での内政には全くと言っていいほど、口をはさむことはなかった。
着任してすぐにユダヤ人との関係に出鼻をくじかれてしまったピラトは、ユダヤ人達を無理に抑え込もうとせず、どちらかと言えば、辛抱強く彼らと融和策を取ろうと、彼なりに苦慮していたからだった。
しかし、アンナスや政権に携わるユダヤ人達の方はそんなピラトの態度を弱腰外交でくるものと誤解し、彼の事をなめてみるようになっていた。
ところが、コルバン(寺院献金)を巡る暴動を抑えるにあたっては、ピラトは全く容赦しなかった。
ピラトとしてはそれほどエルサレムの治安が緊迫してきたためだったが、このピラトのユダヤ人に対する態度の変化をアンナス達は、街の危機というよりも自分達の身の危機と新たに解釈しなおした。
つまり、彼らとしては、これを機にピラトが今後は神殿の財政に介入しようと、武力でもって自分達の地位を脅かそうとするのではないか、と勝手に思い込んだのである。
そこで、ファリサイ派から「イエスを生贄にして極右勢力を煽り、イエスを殺害したユダヤでのピラトの評判を陥れて彼をユダヤから追い出そう」という策を持ちかけられた時、アンナス達、サドカイ派にとってそれはまさに渡りに船の申し出だった。
だから、表面ではいかにも気の進まないもったいぶった態を装いながら内心ではかなり喜び勇んで、長年、敵対する勢力とようやく手を結ぶことに同意した。
こうして、イエスの生命と引き換えに、サドカイ派とファリサイ派、両者はこれまでに自分達がそれぞれ保ち続けて来た地位や利権を守ろうと、互いに本腰を入れ始めたのだった。
(注1)・・・第37話「襲来(2)」参照