第五十五話 死者復活
イエスがようやくべサニー村に到着するとの知らせがマーサとマリア姉妹に届いた時、当のラザルスは墓室に埋葬されてから既に4日目を迎えていた。
当然、たくさんの弔問客達が姉妹の元を訪れ、誰もが疑いもせずラザルスの死を悼んでいた。
姉妹は内心の不安と恐怖を押し殺し、弔問客の応対をしながらひたすらイエスが来るのを今か、今かと待ちわびていた。
そして、そのイエスがようやくべサニー村近くまでやってきたと知ったマーサは、マリアを家に残し、弔問客達に気づかれないよう一人こっそりとイエスの元へ駆けていった。
その頃、イエスをつけ狙うファリサイ派のスパイ達も、べサニー村に向かうイエス達の後をずっとつけていた。
イエスにはそれがよく分かっていたし、何よりこれから一世一代の大芝居を打つはずのラザルスにはかなり危険な存在であることは重々、承知していたが、それでもイエス以外に彼がこれからしようとすることに理解を示し、深く信頼できる人間は誰もいなかった。
そのため、彼らは2ヶ月間、慎重に慎重を重ねてこの計画をひそかに練り続けてきた。
とはいえ、イエスを出迎えたマーサの表情はかなり緊張していて、その立ち居振る舞いもいつものマーサらしくなく、なんだかそわそわしていて不自然だったが、何せ一家の大黒柱である兄を失った動揺からだろうと弔問客達はさほどマーサの動きを不審に思っていなかった。
だが、緊張感で張り詰めていたマーサは、弟子達と(ついでに、スパイ達とも)一緒にやって来たイエスが彼女に気づいて手を振ると、思わず安堵からつい嬉しそうに彼に笑みを送ってしまった。
それを見てイエスがしかめつらをし、小さく顔を横に振ると、はっとしてマーサはすぐに顔を引き締め、悲しそうな顔をして聞こえよがしに大声を張り上げた。
「ああ、ラビ、ラビ!やっと来てくださったのですね!
あなたがずっと兄の傍にいてくださっていたら、こんな風に突然、兄が逝ってしまうなんてことなかったでしょうに!
でも、わたしには分かっていますわ。
あなたが神様に頼んでさえ下さったら、きっと何でも叶えてくださるってことを!」
マーサは少し大仰にそう言ってイエスの元に駆け寄ると、おいおいと泣き声を上げながらその胸に自分の顔を埋めた。
イエスは泣き真似を続ける彼女の肩を優しくなでながら、しばらく黙って彼女を慰めている振りをした。
そして、イエスもまた、周りによく聞こえるようにマーサに言った。
「マーサ、心配することはありません。あなたのお兄さんは必ず再び、起きてきますよ」
「ええ、ええ、ラビ。分かっていますわ。
きっと兄は必ず最後の日には復活を遂げるのだと」
マーサはそのイエスの言葉に聞えよがしにそう応えた。
すると、イエスはマーサの頬を優しく撫で、その顔を自分に向けさせた。
「わたしがその復活であり、わたしがその生命です。
わたしを信じる人は、たとえ死んだとしても、必ず生き返ります。
そして今、生きてわたしを信じるという人は、誰も今後、決して死ぬことはありません。
マーサ、あなたはこれが信じられますか?」
「ええ、ラビ。わたしはあなたを信じていますわ。
あなたこそメシア(救い主)だと、神の御子だと、わたしは信じています。
そして、その神の御子がこの世に来られたのだということもわたしは信じています」
マーサは、真剣な目をイエスに向けて静かに言った。
イエスはそれを聞くと、ただにっこりと笑って頷いた。
マーサはその笑顔を見てなんだかホッとしてその場にイエス達を残し、家で待っているマリアを呼びに急いで屋敷へと戻って行った。
そして、家に帰ってきたマーサは、また周りに聞こえんばかりの大声でイエスの到着を妹マリアに告げた。
「マリア、イエス先生よ!
先生がやっと来て下さったのよ!
先生はあなたを呼んでいらっしゃるわ、早く一緒に来て頂戴」
その声にマリアは慌てて屋敷を飛び出た。
イエスがやっと来てくれた!
マリアは弾む心を表に出さないように気をつけながらも、安堵の嬉しさで涙が出てくるのを止められなかった。
あと少し。
あと、ほんの少しでお兄さんの汚名が晴れる。
あれほど苦しんできたラザルス兄さんにも、私達にも、その心が休まる日々が訪れるのだ。
そう思うと、イエスの元に急ごうとするマリアは自分の足があまりにも遅いような気がした。そんなマリアの腕を引っ張るようにして、マーサも急いで彼女をイエス達が待つ場所へと急がせた。
その時、屋敷に集まっていた弔問客達は、姉妹が突然、慌ただしく家を飛び出していくのを見てかなり驚いていたが、彼女達がラザルスの埋葬された墓室にイエスを案内しに行ったと屋敷の使用人から聞くと、彼らもまたラザルスの墓室へと足を急がせた。
マーサと共に慌ててイエス達の待つところまで走ってきたマリアは、イエスを見つけると、すぐさま彼の足元に跪いて泣き出した。
「ああ、ラビ。ああ、イエス先生。
あなたが兄とそばにずっとおられたのなら、わたしの兄は逝ってしまいませんでしたのに」マリアはそう声を振り絞って叫び、大声で泣き喚いた。
いろいろな重圧や不安に押しつぶされそうになりながら、必死に兄を救おうと迫真の演技を続ける彼女の姿につられ、イエスも感動して涙があふれてきた。
ラザルス、あなたの妹達は何て優しく強い娘達だろう。
あなたと共に心から神を信じ、あなたを愛するがゆえにその命を投げ出してまで精一杯、あなたを救おうと頑張っている。
ああ、あなた方こそまさしく神が導く勝利者なのだ。
あなた方は“愛し合う家族”という、この世で最も素晴らしい勝利者なのだ。
イエスは、この後のラザルス達の成功を確信し、喜びが胸に押し寄せてきた。
だが、今ここでその勝どきの笑みをこぼすわけにいかない。
早速、イエスは突っ伏して泣いているマリアを立ち上がらせ、ラザルスが眠る墓室へと案内させた。
その間、イエスの弟子達も、彼らの後をつけてきたファリサイ派のスパイ達も、誰も彼らの芝居には気づいていなかった。
そうして、彼らがラザルスの墓室に着く頃には、ちょうど弔問客達も姉妹に追いつき、ぞろぞろとそこに集まってきていた。
彼らはイエスの泣いた顔を見て、イエスもよほどラザルスの死を悲しんでいるものと思い、いっそうしんみりとラザルスを偲んだ。
だが、彼らの何人かはイエスについての噂を知っていて、隣の弔問客達にそっと彼の噂をもらした。
「おい、イエスって、あの盲人やら悪魔つきを治すって評判の御仁だろう?
だったら、ラザルスもひょっとして・・・?」
「ひょっとしてって、お前、こんなところで滅多なことを言うもんじゃない。
もし、そんなこと、誰かに聞かれでもしたら、偉い騒ぎになるぞ」
「でも、もしかして、もしかしたらってこともあるだろう?
だから、マーサやマリアはあの御仁をここに呼んだんじゃないのかな。
それにラザルスはみんなが言ってるみたいに本当に天罰を受けて病で死んだんだろうか?
わたしにはラザルスがそんな悪い奴だとは思えんかったがなぁ・・・」
「そりゃあ、お前の言うとおりかもしれんが、『それは神のみぞ知る』だ。
とにかく神が下された裁きで、ラザルスは死んだのだ。
わたしらの目には見えない、何かの罪をラザルスは犯してしまったのかもしれん。
哀れなラザルス。早く懺悔をしておけば、こんなことにはならなかっただろうに」
弔問客の一人がそう話すと、別の弔問客がそれに口を挟んできた。
「何せ、ラザルスはあまりよろしくない皮膚の病を患っていたってもっぱらの評判だったからな。
それをラザルスは僧院にも相談せず、ずっと黙っていた。
そうやって後ろめたいことを隠し続けていたことが神のお怒りに触れたのかもしれんな」
「マーサやマリアも気の毒に。
父親も亡くなり、兄にもこんなに早く逝かれては先行きもままならんだろうに」
弔問客達は、そうして口さがなくラザルス一家の事を噂し合っていた。
そうした人々のささやき声がマーサの耳に届くと、さっきまで落ち着きを取り戻していた彼女は再びそわそわしだした。
何せ、他人のあら探しが三度の飯より好きな都会の人達のことだ。
イエス先生がラザルス兄さんを起こす前に何となく胡散臭さを感じて、私達の計画に気づいてしまうかもしれない・・・。
マーサは彼らの噂話を聞いているうち、一人、不安が抑えられず、焦りだした。
そこで、彼女はラザルスの墓室となった洞窟の前に静かにたたずむイエスのそばに慌ててやってきた。
「あ、あの、イエス先生・・・」
マーサは、周りに聞かれないようそっとイエスの耳元に囁いた。
しかし、イエスはおびえるマーサを黙って横に押しよけ、墓室に向かって大声で叫んだ。
「さぁ、墓室を閉じている石の扉を取り除きなさい」
もちろん、この四日間、ラザルスの墓室は大きな石で入口が塞がれ、外界とは全く遮断されていた。
その闇の中で生死の境をさ迷い、不安と恐怖に震えながらじっと耐えて待っているラザルスを何としてでも救わなければならない。
そう強く決心しているだけに、イエスはぐっとこぶしを握りしめたまま怖気づいたマーサに構うことはなかった。
「ですが、先生。兄はもう4日もこの中にいますのよ。
すぐに扉の石を取り除いては、さすがに死臭が辺りを漂いますわ。
ですから弔問に来ていただいた皆さんには一度、この場を離れて頂き、私達が石を取り除いて中の空気を入れ替えますので、それからゆっくり先生に兄とお会いしていただければ・・・」
弔問客達の詮索におびえるマーサは、何とか彼らをここから立ち去らせようと、必死になってイエスに訴えた。
だが、イエスは静かに首を横に振り、彼女の肩にそっと手を置いた。
「マーサ。さっき、わたしはあなたに言わなかっただろうか?
もし、あなたが心から信じていれば、あなたは必ず神の栄光を目にすることができる、と。
マーサ、神に不可能なことはないんだ。
神は私達に生を与えることができれば、死をも与えることができる。
そして、神は決してご自分の民を見捨てたりはしない。
神はイスラエル人(神が与えた困難をその心でもって格闘し、それに打ち勝つ人)を決して忘れたりはしない。
― だが、それでもジオンは言った。
『主はわたしをお見捨てになった。主はわたしをお忘れになった』と。
だから、主はこう、おっしゃった。
『母親が乳房にすがる赤ん坊を忘れるというだろうか?
自分が生んだ子供に愛情を注がないものだろうか?
たとえ、その母親が忘れてもわたしは決してお前を忘れはしない!
ほら、わたしはお前のことをこの手の平にちゃんと刻みつけてある。
さぁ、目を上げて、よく周りを見回してみるがいい。
たとえ、お前がぼろぼろになり、誰にもかまってもらえなくなったとしても、
お前の心をぼろぼろにし、お前から何もかも奪い去った人々を
きっとお前の前に跪かせてやる。
その時、お前は知るだろう。わたしが主だ、と。
わたしに希望を見る者は決して失望したりはしない』(イザヤ49章14−23節)
だから、マーサ、その石を取り除きなさい」
イエスはそう聖句を説いてマーサだけでなく、墓室の中にいるラザルスを励まそうとその声を張り上げた。
傍でそれを聞いていた人々は、イエスとマーサのやり取りを不思議な面持ちで聞いていたが、イエスの大声に気圧され急いで墓室を塞ぐ石を取り除いた。
墓石の扉がようやくゴロゴロと音を立てて取り除かれると、イエスはその目を空に向けてそっと祈りを捧げた。
「御父よ、わたしはあなたに感謝いたします。
あなたはわたしの声を聞いてくださった。
わたしは何よりもそれが嬉しいのです。
あなたがいつもわたしの話を聞いてくださっていることはよく分かっています。
ですが、今、わたしが言ったことは、ここにいる全ての人達の為だと思って言いました。
だから、きっと彼らも、あなたがわたしをこの世に送ってくださったことを心から信じてくれるでしょう」
イエスはその祈りが済むと、空に向けていたその目を下ろし、今度はラザルスが潜む墓室の奥を見つめた。
「さぁ、ラザルス。出てきなさい!
天があなたに与えた美しい光を思いっきり浴びるといい。
光輝く神の手にその身を包まれなさい。
ラザルス、今まさしく“あなたの時”が来たのです!」
イエスが高らかにその勝利を叫ぶと、暗闇から白くぼぅっとした棒のような物がゆらゆらとこちらに向かって歩いてきた。
その手足と顔を白いリネンの包帯でぐるぐる巻きにされ、死者となって眠っていたラザルスが、ようやく暗闇から開放され、暖かく差し込んでくる光を楽しむようにしてゆっくりとイエス達の方に向かって歩いてきた。
すると、暖かな日の光がいっそう強く差し込んできて、ちょうど外に出てきたラザルスの白い包帯姿をきらきらと、まるで宝石のように美しく輝かせた。
「死者をくるんでいる包帯を解き、彼を自由にしてあげるといいでしょう」
イエスはそのラザルスの復活した姿に目を細めながら、マーサとマリアだけでなく、その場にいた全員に向かってそう告げた。
こうして、ラザルスはその死から蘇った。
人々に移す”かもしれない”病気になったと言うだけで、理不尽にも長く社会から葬り去られていたラザルスは、ついにその“社会的な死”から蘇ったのだった。