第五十四話 思想
そもそも、こうして今、イエスがサンヘドリンに逮捕され、ピラトの前で尋問を受けることになったのは、あのハンセン病を患っていたラザルスの元から便りが届いたからだった。
その便りは、ラザルスの危篤を知らせるものだった。
実は、その2ヶ月前、あのスコット(仮庵の祭り)での奇跡騒ぎから逃げるようにエルサレムを去ったイエスは、途中、べサニー村に立ち寄り、ラザルス一家と今後のことについて話し合った。
病気の進行で人々の迫害を恐れるラザルスは、エルサレムの内情を常にうかがっていたので、イエスはエルサレムで起きたすべての出来事をつまびらかに話すことにした。
サンヘドリンによる戒律の取り締まりが厳しくなってきたこと、自分の周囲に不穏な動きがあること、街の治安や貧困がさらに悪化していることなど、ラザルス達にはどれ一つ、いい知らせはなかった。
しかし、それでもラザルスはなんとしてでも生きようとしていた。
たとえその身が病に冒されていても、彼は最後の最後までこのユダヤで生き抜こうと決心していた。
だからこそ、たとえ辛い状況であっても現実を見据えなければならない。
しかし、その現実を考えれば考えるほど、ラザルスの病気をこのまま放っておくことは難しかった。
それほどユダヤの人々、特に都市圏に住む人々の風潮として、弱者や異端者を排除する傾向が強くなっていた。
イエスが見る限り、エルサレムはまさしく衰退していた。
社会での不平等な身分差はもちろん、経済格差が一段と拡大し、人々の日々の暮らしに対するうっ積した不満が弱者や異端者への極端なまでの迫害に駆り立てているようだった。
どこかしら人の心が狂ってきている。
そう感じるのはイエスだけではないはずだった。
イエスへの執拗な弾圧だけでなく、街のあちこちでいろいろなことが起こりすぎていた。
その要因として挙げられるのは、国内における極右勢力の急激な拡大だった。
確かに、イエスが生まれる前からファリサイ派だけでなく、熱心党やシカリ(短剣による武装テロリスト集団)といった極右勢力は、ローマ帝国や税金制度に反対して、長い間、エルサレムやその他の地域でデモを繰り返してきた。
しかし、昔は一応、神聖な期間として極右勢力も鳴りをひそめていたはずのペサハ(過ぎ越し祭り)やスコットの祭事中ですら、今ではエルサレムへの参拝客を煽る形で異様な盛り上がりを見せ、それが次第に誰も手がつけられない暴動となっていったのである。
イエスがこれまでに何度かエルサレムを訪れた際もそういった作為的な暴動が街のあちこちで起きていて、そのために以前よりもいっそうローマ軍やサンヘドリンの警護は厳しくなっていった。
そんな治安の悪さがエルサレムに住む人達の心をますます暗く澱ませていたのだった。
こうした極右勢力が異常に拡がってきた背景には、ユダヤの国際的な発展とは裏腹に起きた、人々の“価値観の揺らぎ”というものも原因していた。
ヘロデ大王時代から経済的な豊かさを見せつけるようにしてローマ帝国文化が入り込み、それと共に経済が急激に発達してくると、外国との付き合いが増え、ユダヤ人が外国へと移り住めば、逆に外国人もユダヤへと移住してくるようになっていった。
地中海交易で互いに利益が生まれる以上、そういった人の出入りは当然のことだったが、都市開発以外で多種多様な人が住む上での社会整備、つまり、教育や福祉サービスといったものがユダヤではまだきちんと整っていなかった。
しかも、ヘロデ大王はそれよりも先に経済的な利益を追求しようと急速に国際化を推し進めてしまったため、多極化してくる人種や考え方の違い、都市の移り変わりなど、地元に長年住んできたユダヤ人達にはその変化の早さについていけなくなったのである。
そうなると、彼ら自身が長年、培ってきたそれまでの価値観が通用しにくく、時にはそれが全く否定されたような形となり、ユダヤ人達はそれを守ろうとヘロデ大王とその後ろ盾となっているローマ帝国に反発し、立ち上がったのだった。
その最たる出来事の一つが、黄金の鷲打ち壊し事件であった。黄金の鷲とはその当時、ローマ皇帝の象徴であり、ローマに追従するヘロデ大王が、この鷲の偶像をエルサレム神殿の門の真上に参拝客を見下ろす形で飾ったのだが、これにトーラ(モーゼ5書)を学ぶ若い学生らが大いに反発して偶像の打ち壊しを行なったのだった。
そして、ファリサイ派の律法学者などがこの首謀者の学生らを擁護したのだが、老境で既に痴呆気味だったヘロデ大王は猛烈に怒って、打ち壊しに参加した学生全員を即座に処刑してしまったのである。
さらに、ヘロデ大王が死去した後も新しくユダ地方のテトラーク(属州知事)となった大王の息子アルケラウスが、ペサハ(過ぎ越しの祭り)で起きた反ローマデモを武力で抑えこもうと、女子供を含んだ3000人もの民衆を一挙に虐殺してしまったのである。
こうした出来事が庶民のナショナリズム(国家・民族主義)感情を一気に煽ることとなり、それほど大きくもなかったはずの極右勢力を調子づかせ、さらに凶暴で、もっと残虐なテロリスト集団へと発展させてしまったのだった。
だが、そうした古い価値観を守ろうとして立ち上がった彼ら極右勢力にしても、その活動目的はと言うと、ユダヤにおける貧困の解消と社会格差の是正、そして彼らユダヤ民族の独立だった。
つまり、彼らなりにイスラエルを、国際社会において“豊かな国”にしようと目指していたのである。
そのため、彼らはローマ軍や富裕層から奪った金品を一方で貧困層に配ったり、積極的に慈善活動に力を入れるなど、弱者の救済に余念がなかった。
だが、皮肉なことに彼らが行なっている活動内容は、彼ら自身の価値観から生まれたものではなく、まさしくローマ帝国がもたらした価値観そのものだった。
ローマ帝国からもたらされた価値観というのは、「国際的な経済発展によって得た利益が社会全体に還元され、それが社会サービスをより充実させる」と謳っていたが、基本的なモラルや理念がそこには欠けていたため、結局、それは単なる表看板でしかなかった。
つまり、表向きは最新で便利な社会サービスが掲げられるのだが、これにどうしても経済的な利益を追求しようとするので、モラルを飛び越えて値段のつけようのないものにまで値段がつくようなサービスとなっていったのである。
例えば、それまではイエスが説法をしたら、それを聞いた人の厚意から食事をもらったり、誰かの家に泊めさせてもらってお互い満足できていたのだが、ペトロのように悪魔祓いに一定の料金をつけることで、そのサービスを買える人と買えない人に分かれてくる。
これが格差を生むようになるのである。
そうなると、社会における満足度が常に物や金銭に摩り替わり、経済力があればあるほど満足感が買える仕組みになっていったのである。
そして、この仕組みの表看板に騙された人々がその価値観で持ってさらに欲をかくようになってくると、それがますます貧困層と社会格差を生み出していったのである。
結局、かつての価値観で満足していた頃を懐かしがる一方で、なぜかそれではもう満足しようとしなくなった人々がその不満をぶつけた先は、まずこの仕組みを最初にもたらしたローマ帝国とそれを取り巻く外国人だった。
それは、社会全体の価値観が全て経済優先となり、利益を横取りされることを極度に恐れるようになった彼らにしてみれば、身内のユダヤ人よりも外国人の方が自分達の嫉妬や憎悪の対象にしやすかったからである。
しかも、経済の発展は外国人の移住を含めて一つの都市に異常な人口増加を招き、これがさらに利害の衝突を生んでその憎しみを加速させてしまった。
そして、そうした妬みや憎しみが高じ、盗みや詐欺、暴行、強姦、それに伴う殺人や暴動など、ありとあらゆる犯罪が頻繁に発生し、地域の治安が脅かされるようになってくると、今度は「誰が一体、このユダヤをこんな風にしてしまったのか?」という罪人探しが身内同士でも始まった。
これは、ローマからもたらされた価値観にうまく順応し、それに満足しているユダヤの人々が、「自分達の新しい価値観を脅かす、もしくは足を引っ張っているのはその価値観から外れてしまった人々なのだ」とする“価値観の一極化”を目指し始めたのである。
要するに、ここには「社会的に何の問題もない優秀(?)な人間だけがいれば、常に経済的な潤いを生み出すことができ、格差も生まれないはずだ」という、いびつで偏った思想が蔓延し始めていた。
そして、その罪人として槍玉にあがったのが、何の罪も責任もない、ラザルスのような重病人や生まれつき障害を持つ人々、離婚や死別した女性達、親のない孤児、何らかの理由で十分な教育が受けられず貧困に苦しむ人々等々、ローマがもたらした経済的な価値観にうまく順応できず、かといって、極右勢力のように嫉妬や憎悪をあえて誰かや何かにぶつけられない、ぶつけようとも思わない平和的かつ社会的に弱い立場の人達だった。
こうして、病気を世間にまき散らしてしまうことで社会に損害を招くと疑われたラザルスは、“社会の敵”として迫害を受ける立場となってしまった。
まして、彼の病気は遺伝するというデマまで流れたため、家族も含めて弾圧にさらされる危険があった。
そのため、この危機を打開するには何よりも社会でのラザルスの汚名を晴らすしかなかった。
そこで、ラザルスはあることを思いついた。
それは彼が一度、死んでしまうというものだった。
ラザルスの病気は、その当時、治療法さえ見つからない不治の病となっていたので、その進行を止めることもできなければ、すぐに治すことなど不可能だった。
そうは言っても、病気をこのままにしておけば、遅かれ早かれ、自分が社会から抹殺されるのをじっと待つだけになる。
だったら、一度、死んでしまおう、とラザルスは考えた。
病気だった自分が死んで、再度、生き返ってくれば、それは病気が治ること以上にとてつもなく名誉なことになるからだった。
当時のユダヤ社会において“死者が復活する”というのは、宗教上のみならず、世間の常識においてとても神聖なことであり、もしかして誰かの身にいつかは起こりうるかもしれないと信じられていた。
それは、僧侶であるサドカイ派が死者復活を強く否定するのに対し、有識者を代表するファリサイ派が逆にこれを強く肯定して民衆にもそうした迷信教育を広く行なったため、その“迷信”は自然と民衆の潜在意識に刷り込まれていたからだった。
ただし、死者復活の概念は、何もこの時、ユダヤ教だけの専売特許ではない。
エジプトのファラオ(王)のミイラに象徴される、「現世で功績を残したり、善行を積んだ死者は、神となって再びこの世に戻ってくる」とする迷信は、これまでずっと人々の間で誠しやかに囁かれてきた。
アジアにおける仏教でも例外ではなく、死者は輪廻転生でもって何度でも生き返るものとする言い伝えがある。
時代や国を越えて、どの宗教やどの文化においても、そういった迷信や伝説というものは人々の噂や民話となり、やがては多くの人々が口にすることで、いつのまにか“真実”として受け入れられてしまう。
本来ならば一神教であるはずのユダヤ教が、「後世において必ず神として蘇ってくる」と信じて、預言者モーゼやエリヤ、ダビデといった数々のヒーローを祭り上げていったのも、長い歴史において人々の思想が自然とそうした様々な伝承に染まっていったせいかもしれなかった。
加えて、現実に拡がる政治不信や生活への不安から逃れようと、無意識に現実逃避する人々の心理がそういった迷信や伝説、妄想的な噂を信じやすくさせていったのかもしれない。
いずれにしろ、多くのユダヤ人にとって“死者復活”とは、「神によって現世での実績や善行を認められた人は、最後の日に死者からこの世に蘇って、富や名声を与えられる」として、ある意味、庶民の夢と希望のシンボルだったのである。
病気を理由に“社会の敵”として見なされたラザルスはそれを利用しようと考えついたのである。
つまり、ラザルスが“死者復活”を遂げれば、神によって善人として認められたこととなり、社会から一方的に押しつけられた人々に不利益を与える“かもしれない”という無実の罪を晴らすことができる。
これこそラザルスが考え出した苦肉の策だった。
しかし、失敗すれば、神や人々に嘘をついたとして、その場で殺されてもおかしくはなかった。
それでも、ラザルスは彼なりに“神を信じて”、この一世一代の大芝居を打つことにしたのである。
そして、このラザルスの危篤の知らせを受けたイエスは、持病はあってもつい2ヶ月前までピンピンしていたはずの彼がそんなに早く死ぬはずはないと不思議に思い、そこに隠された彼の意図をすぐさま嗅ぎ取った。
そこでイエスは、その知らせを受けてからすぐに出立せず、2日ほど日を置いてからクファノウムを出発し、それからさらに2日かけてようやくラザルス達の住むべサニー村に到着したのだった。