第五十二話 現実
「ナザレのイエス。もう、お前の神通力とやらは地に堕ちたか?
これほど言っても、何もできんとは、サンヘドリンの者達が言う通り、お前には奇跡を起こす力などどこにもないようだな」
ヘロデはうつむいたままのイエスに業を煮やして舌打ちをした。
その通りだ。
わたしには奇跡を“ 起こす力 ”なんて、どこにもない。
わたしに“力”があるのではなく、神がわたしにその力を与えてくれていただけだ。
神がわたしに、愛と、勇気と、知恵と、力と、希望を与えてくれていたから、
わたしはこれまでなんとか生きてこられた。
どんなに苦しい時でも、どんなに悲しい時でも、どんなにみじめだった時でも、
わたしを支え、勇気づけ、導いてくれたのは、神だった。
何度も死の淵をさまよい、何度、わたしがくじけそうになっても、
それでもわたしを見棄てず、わたしを支え、わたしに生きる勇気をくれたのも、
やはり神だった。
あなた達には分かるまい。
それが、
それこそが“ 奇跡 ”だということを・・・。
イエスは自分の足元を見つめながら、過ぎ去って行った遠い昔と、そして捕縛され、人々から嘲笑される現在とが錯綜する、そんな様々な思いに浸っていた。
そうして、自分の思いに浸ったまま何も言わないイエスにうんざりしてきたのか、ヘロデはとうとうしびれを切らし、顔をしかめると、自分の真横にいた僧侶長とサンヘドリンのメンバー達に目配せした。
「それで、こいつをどうすると言うのだ?」
イエスに興味をなくしたヘロデは、彼の処分をもてあまし、僧侶長にそっと尋ねた。
僧侶長は待ってましたとばかりにしたり顔で、ヘロデの耳元に顔を寄せ、コソコソと密談をし始めた。
しばらくして、僧侶長の話を聞き終わったヘロデは「ふんっ」と鼻息荒く席を立ちあがると、慣れた手つきで兵士達に合図を送った。
その途端、イエスは兵士達に囲まれ、再び乱暴に拘束された。
「ナザレのイエス、
わたしはこのイスラエルの地に平和をもたらしたいと願う神の子の一人である。
それゆえ、自分は神の子と偽り、人々を扇動したお前と、その正統性を疑い、お前の虚言を戒めたいというサンヘドリンの者達、両方の言い分に耳を傾け、公正なる裁きを行いたいと思うが、そもそもその裁きを行うには法的手順も大切だ。
確かにお前はわたしの管轄であるナザレの出身者ではあり、本来ならばわたしが裁きを行うべきだろう。
だが、お前が神の子かどうかというその嫌疑の内容と、また、事件が起きた場所を考慮すれば、やはり、ここエルサレムでサンヘドリンの裁きを受けた方がふさわしかろう。
だが、現行の法的手順からすると、お前の裁きを行うのはサンヘドリンではなく、ユダヤ総督であるピラト閣下ということになる。
よって、お前の身柄は再び、ピラト閣下に委ねることとする。
よしっ、これにてここでの裁きは完了した。
連れていけっ!」
ヘロデはそれだけ告げると、もはやイエスを振りかえることもなく、さっさとその場を離れていった。
後に残された僧侶長やサンヘドリンのメンバー達は、再び意地悪い笑みを浮かべ、「ざまぁ見ろ」と言わんばかりにうなだれたままのイエスを見つめていた。
― 私達、ユダヤ人の手で奴を殺しても意味はないんです。
部屋に戻ってきたヘロデは、黄金に縁取られているゆったりとしたカウチに身を横たえ、さっき僧侶長が自分に言った言葉を思い返していた。
その言葉はむしろ、今のヘロデには“渡りに船”(=好都合)だった。
あの時、義娘サロメの言葉に乗せられて安易に洗礼者ヨハネを処刑してしまったように、今度も自分がイエスを処刑したら、また厄介なことになりかねない。
だからこそ、二度と同じ失敗は繰り返したくなかった。
その後、僧侶長がさらに続けて行った言葉もヘロデにとっては願ってもないことばかりだった。
― ユダヤ人同士がこれ以上、争っていても仕方ありません。
ここは一つ、庶民の憎まれ役を“ローマ(帝国)”に引き受けていただいてはどうでしょう?
確かに。
ユダヤ人のわたしではなく、何としてでもあのエセ預言者を“ローマ”に殺してもらわないと・・・。
ヘロデは僧侶長が自分の耳元で囁いたあの言葉を思い出し、一人、満足した様子で頷いた。
この件をきっかけにピラトを追い出す事ができたら、わたしにもまた、運が巡ってこようというもの。
こうしてイエスがわたしやこの国に現れてくれたことは、奇跡と言えるだろう。
ナザレのイエス、確かにお前はわたしの救い主になってくれるかもしれんな。
ヘロデは思わずフフっと笑った。
ここしばらく不幸が続いていたヘロデにとって、それは久方ぶりに心から喜べるうれしい出来事だった。
たとえそれが、人一人の命を抹殺することで得られる幸せだったとしても・・・。
一方、最初にイエスの件をヘロデに回したピラトは、すっかり一件落着したものと思い、まさかそのイエスが再び自分の屋敷に現れようとは思ってもみなかった。
だから、召使が彼の部屋にやって来て再びイエスが連行されてきたことを告げると、ピラトは予想していなかった厄介事が舞い戻ってきた事にいらだち、眉間に皺を寄せた。
まさか、またか・・・。
もう、いい加減にしてくれ。
何度、説明したら分かるんだ、あのガチガチ頭のボンクラ坊主共っ!!
ローマ法では“罪状(理由、証拠)の無い者は、裁けない”と、あれほど説明したじゃないかっ!
憤まんやるかたない思いを胸に抱き、ピラトは肩からずれたトーガ(ローマ時代の男性用クローク)の端を引っ張り上げると、ため息をついて再び玄関先へと向かった。
ピラトが玄関先に出てくると、まっさきに目に入ったのは連行されてきたイエスの姿だった。
イエスは、今朝と同じようにピラトの屋敷まで引き立てられている途中、ヘロデの兵士達にも唾を吐かれたのか、薄汚れた顔の上にまだ乾ききっていない湿った粘液がへばりついていた。
祭り(ペサハ)用に屠殺される羊よりひどい扱いだな。
玄関先に出てきたピラトは、そんなつまらない皮肉を考えながらイエスを一瞥し、僧侶達の方に向き直った。
「で? 一体、どうしてお前達はわたしの元に戻ってきたのだ?」
うんざりしながら、わたしは目を吊り上げて立っている僧侶達に尋ねた。
「ローマの定めに従い、ヘロデ様の元にこの男を連れて行ったが、ヘロデ様がおっしゃったのは、
『確かにこの男はナザレの出身で、居住している地域もガリレーのクファノウムだが、事の真偽を確かめるのはガリレー内で済む話ではない。
国の根幹にかかわるものだ。
エルサレム神殿を始めとした我が国全体の宗教の問題であり、我が国の神を愚弄するものである。
ひいては我が国の国政、および我が国の民全体を侮るものだ。
だから、この裁きは神殿のあるここ、エルサレム(首都)でなければならない。
だが、ユダヤの民やイスラエルの事を誰よりも考えていても、わたしは今、ガリレーを治める“一テトラーク(属州知事)に過ぎない”。
パックス・ロマーナ(ローマの平和)を守る為には、法を遵守しなければならないのだから、わたしがこの男の裁きを下すことは許されない事である。
よって、神殿内の司法権および首都エルサレムを預かるユダヤ総督のピラト閣下にこの男を委ねるべきだろう』と、いうものだった。
だから、わたし達は法的手続きに従ってこの男を連行してきたのだ」
と、僧侶の一人が長々とそう説明した。
何が、“一テトラーク(属州知事)に過ぎない”、だ。
あの気取り屋の馬鹿男め、
どうせ、わたしに厄介事を押し付けて、庶民の反感を買わそうっていう魂胆だな。
まさにあの姑息なヘロデの考えそうなことだ。
わたしはヘロデのしたり顔を思い浮かべ、心の中で悪態をつきながら苦笑した。
もはやバカらしくてまじめに取りあう気にもなれず、笑うしかなかったが、それでも事はそう単純に収まりそうにない。
仕方なく、また顔を引き締め、声を低めて僧侶達に向き直った。
「だが、今朝も言ったようにわたしの裁きではその男の取り調べはもう、ついている。
何度、調べても罪状らしい罪状はなかった。
ならば、この男を裁く“理由が無い”以上、裁くことはできない。」
わたしは再び、僧侶達に今朝と同じ言葉を繰り返した。
とはいえ、この首から上がこり固まったような頑固一徹のユダヤ人達がこれで黙って引き下がるだろうか?
まさか、また、ごね始めるに決まってる・・・。
そう思うと、唾を吐かれながらも黙って突っ立っている、この惨めったらしい男の気持ちが少し分かるような気がした。
いくら話そうとも通じない。
多勢でごり押しして道理を曲げようとする、そんな連中を相手にしていたら
こいつも頑固になるしかないだろう。
別にこの男もこうまでして争うつもりはなかったかもしれん。
第一、この男は「死ね」と言われるほどの悪事もしてないだろうに。
逆にこいつら、ボンクラ坊主共の方がよっぽどこの男に暴行を働いたり、罵詈雑言を浴びせて法に触れそうな、あるいは法を犯すような坊主にあるまじき非道をいろいろやらかしているだろうに。
だが、奴らは、つまらない“スペルビア”(=sperbia、ラテン語で「自負心、おごりに似た誇り」の意)にこだわり、他民族(他人)を馬鹿にし、自分達の“エゴ”(=ego、ラテン語で「私、自分」の意。)の為なら他人の事など考えず、平気で他人を陥れ、時にはその命すらも抹殺するような、そんな連中だ。
もはや、奴らに人の心(=良心)はない。
そんな人でなしに理(=正論、真理)など通じるはずもあるまいに・・・。
だが、それでもそんな連中にもまれて生きざるを得ないとしたら、そんな連中に流されて自分を押し殺し、黙って言いなりになってつき従うか、あるいは、こいつのように自分の命を懸けてでも信念を貫き通そうとするか、そのどちらかになるのだろう。
まぁ、男の意地ってやつだな。
そう考えたら、わたしもこの男と同じ立場なのかもな。
別にユダヤ人が死ぬほど嫌いだった訳じゃない。
だが、道理を言い聞かせても、それでもなお、その道理に逆らい、人を憎み、躍起になって相手を殺そうとするこの連中の気がしれん。
なぜ、そうまでしてわたしやこの男をやっつけたいのか?
なぜ、そうまでしてこんなくだらない争いを“執拗に”続けたがるのか?
まさしくくだらない、不毛な戦いだ。
大体、ヘロデにしたって、ここにいるサンヘドリンの連中にしたって、
誰一人、ローマの凄さなどまるでわかっちゃいない。
いかに連中がありとあらゆる姑息な手段を講じたところで、そんな汚いちゃちな真似が強大なローマに通じるとでも思ってるんだろうか?
現実を客観的に見直せば、もはやこのユダヤの地を取り戻せるはずもなかろうに・・・。
つまらないスペルビア(おごり)に“妄執”する彼らは、結局のところ、自分達の足元がどれほどもろく、危ういものかわかっちゃいない。
第一、わたしのような末端役人をいじめて追い出したところで、ローマからすれば屁とも思わないだろう。
軍備にしたって、一人で何とかしろと言われてるからわたしのレギオン(軍)だけしか来ていないが、そうじゃなければここにいる連中などあっという間に木っ端微塵だ。
本気になったら、ローマに根こそぎ奪われたっておかしかない。
だが、ここの連中はまだそれに気づかない。
ユダヤ教精神で持って抵抗すれば、この小国がいつか取り戻せるものと本気で思い込んでいる。
無駄だ。
ここはもうイスラエルなどではない。
ここは既にローマのものだ。この土地はもはやローマ帝国なのだっ!
そう思いいたると、わたしはもうこんなくだらない茶番を続ける気にはならなくなった。
「これが最後の通告だ。
何度も言ったが、もう、調べることは何もない。
ローマ法ではその男を起訴する理由が何もないのだ。
だから、さぁ、その男を連れてさっさと帰れ。」
わたしがそう言うと、僧侶の一人がニヤッと笑ってこう反論した。
「いいや、起訴する理由はちゃんとある。
パックス・ロマーナ(ローマの平和)を乱す人間はあなた方の法律でも裁かれるはずだ。
この男は、私達の教義を愚弄するだけでなく、多くの民衆を騙して扇動し、彼らを炊きつけて最終的には内戦を起こし、国家転覆(=クーデターもしくは革命)をもくろんでいるのだ」
何っ? 内戦? 国家転覆?
聞き捨てならない言葉に、わたしは眉間にしわを寄せ、事の真偽を確かめようとそう言った僧侶をにらみつけた。
「“あなたはご存じないかもしれないが”、この男の弟子の一人は、実は熱心党に所属するローマのお尋ね者だ。
この男の弟子として各地へと赴き、そこで説教活動と偽ってあることないこと言って民衆達を炊きつけ、デモや暴動を煽っては時にはそちらの兵士を傷つけたりもしたらしい」
その思いがけない報告にわたしは目を見張った。
そんな話など最初はなかったぞ。
と同時に、羊のように大人しそうに見えたあの男に自分がまんまと騙された気がして、思わず鋭い目を向けていた。
だが、どうやら紫のローブを着たあの男もそんな話は寝耳に水だったらしく、さっきまでうつむいていた顔を上げ、かなり驚いた様子でわたしと目が合った。
その様子を見て男の無実を確信し、わたしは一瞬、失いかけていた自信を取り戻してすぐさま僧侶達に詳細を聞こうと向き直った。
「そんな話を初めは言ってなかったじゃないか。
そんな情報をどこから聞いたのだ? ヘロデ知事からか?」
「それもある。
だが、私達はあなた方、ローマ軍とは別に、この国の平和を守る為、日頃からきちんと“独自の”警備機能を持っている。
だから、あなた方が知り様のない細かい国の情報もきちんと把握しているまでのことだ。
さらに、私達の聖なる大僧正カイアファ様が神の啓示を受け、前々から誰がこの国の平和をかき乱す首謀者かを見極めておられたからこそ、この男の弟子達が行っている余罪もいろいろ見つけ出す事ができたのだ。
むろん、私達の法では既に裁きは下りている。
だが、パックス・ロマーナ(ローマ帝国内の平和)という“国際的な法秩序の下”、私達はあなた方の、ローマ法に従ってこの男の裁きをあなたに任せると申し上げている」
そこまで僧侶が話すと、加勢するかのように、今度は別の僧侶が口を挟んできた。
「つまり、これは私達の神への反逆罪というだけでなく、あなた方、ローマ帝国のカエサル(皇帝)に対する反逆罪でもある。
だったら、あなたが私達に代わってこの男を処刑しても何らおかしいことはないではないか」
何だか、仕組まれている気がした。
あまりに話がうますぎる。
これまで散々、わたしやローマを目の敵にしてきたユダヤ人達が、急にわたしに取り入らんばかりに黙ってこの男を差し出してきた。
パックス・ロマーナ(ローマ帝国における平和)を最も乱したがっている連中が、まるで改心したかのように“ローマへの”反逆者という土産を持ってわざわざ玄関先に現れたのだ。
しかも、最初から切り札を出してくることなく、散々、じらした挙句、なぜか今になって急にそんな話を持ち出してくることからして、どうやら逃げ場を与えないようこちらの出方を伺っていたらしい。
そうまでして本気でこの男を殺したいと言うことか。
一体、こいつは何をやらかしたというんだろう?
むろん、わたしの評判を下げるのもこの坊主達の目的だろう。
だが、実際のところ、たかが得体のしれない男一人を処刑し、ユダヤ人の反感を買ったところで、今更、ローマ帝国内でのわたしの評価に変わりはない。
たとえこの地を鎮静できなかったとしてどこへ左遷されようと、所詮、エクイテス(重装騎兵クラス)上がり。
それほどこれまでの待遇が大きく変わるわけでもない。
わたしがいなくなっても、また名前の違う別の誰かがローマから派遣され、次のユダヤ総督に就任するだけのことだ。
だから、ここの連中が単純に計算するほどヘロデがこのイスラエルで王位に返り咲くことはもはやないだろう。
だが、この件に関してはどうしてもこの胸がざわつく。
まるで戦闘前に敵の潜む場所を耳を澄まして探ろうとする、あの居心地の悪い妙な静けさと似た気分だ。
絶対に、何かが起きる。
しかも、とんでもなく嫌な事が・・・。
これは心して事に当たらないと、本当に厄介な事になるぞ。
わたしは僧侶達の頑として譲らない非情な決意を感じながら、ついにあきらめてふぅーっと息を吐くと、後ろの護衛兵に手で合図を送った。
そして、再び紫のローブを着た男を屋敷の中へ引き連れていくよう指示した。
男は、寺の警備役人から押し出されるようにして護衛兵達に引き渡された。
その時、わたしはその様子を嬉々として見守るユダヤ人達に言い知れぬ恐怖を感じた。
それは戦場で自分の命を守ろうと剣やこん棒をもって襲いかかってくる相手に対する恐怖よりはるかに恐ろしい、“人の狂気と憎悪、悪意の深さ”を垣間見たような、そんな気持ちの悪い恐怖だった。
こいつらはもはや“人間”じゃない。
まさに人肉を屠って喜ぶ鬼畜だ。
姿・形だけを見ればまさしく立派な僧侶や教師のように見えるが、本性は薄汚い野獣だ。
その時、ふと、最初に尋問した際にあの男がわたしに言った言葉が思い出された。
― わたしの王国と言うものは、今の現実世界のどこにもない。
もし、そんなものがあったなら、わたしの僕でもやって来て、
わたしが逮捕されるのを黙って見ているはずもなかっただろう。
わたしはこうなる為に生まれてきたと思うし、
こうなる為にこの世界にやって来て、
ここでこうして真実を述べているのだから。
真実の側にいる者なら、誰だってわたしの話を聞く
真実とは一体、何なのだ?
この男がこうまでして告げたい事とは一体、何だと言うのだろう?
まして、逮捕され、処刑されるために生まれ来た、だと?
屠殺されるために、生贄に捧げられるために生まれてきたとでもいうのか?
一体、誰に、何のために捧げるというのだ?
やりきれない思いを抱え、わたしは再びあの男と話をするために屋敷の中へと戻って行った。