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第五十一話 ラザルスの病死(3)

それから、2ヶ月も経たないうちにラザルスの危篤を告げる知らせが届いた。


― イエス先生、あなたの愛する者が急病で死にかけています。


その知らせを受け取ったイエスの心にはまだ、あの時、ラザルスが見せた笑顔が焼きついていた。


そんなはずはない。

イエスは直感的にそう思った。


彼が死ぬなんてまだ、早すぎる。まして、神がそんなことをなさるとはどうしても思えない・・・。


イエスにはラザルスの死がどうしても信じられなかった。

しばらく悶々(もんもん)と考えていたが、その時、イエスはラザルスの言葉を思い出した。

「いっそこのままわたしは死んでしまいたい。そうすれば、何の罪もないマーサやマリアが人から何かを言われることもない。でも、その一方でわたしはこのまま死にたくもないのです。」


そうか、ははーん、何かはかったな。


イエスはその知らせに何かしらラザルスの意図を感じると、ベサニーから来た使いの者に落ち着いて返事した。

「承知しました。必ずそちらに伺います、とお嬢様方にお伝えください」

使いの者はそれだけ聞くと、すぐにベサニーへと戻っていった。


「ラビ(先生)、べサニーに行かれるのですか?」

その時、イエスの家でその知らせを一緒に聞いていたナサニエルは、恐る恐るイエスに尋ねた。

ナサニエルもその他の弟子達も、まだラザルスにはきちんと会ったことはなかった。

だから、会ったことのないラザルスの危篤のことよりも彼はイエスの命の方が心配だった。


イエスが再びエルサレムのあるユダ地方(べサニーはエルサレムから東に4kmほど離れたところにある)へ赴けば、今度こそ命の保証はないかもしれない・・・。


「ああ、もちろん。だが、これはただ、彼を看取りに行くわけじゃない。彼が神の与えた試練をどう乗り越えて、どう自分の身の潔白と、神の素晴らしさを世間に知らしめるか見に行くためだ。きっとこれは見物に違いない」

そう言って、イエスはうれしそうに笑った。

それを見て、ナサニエルは首をひねった。


だが、イエスはそれからすぐにベサニーへ旅立つことはなかった。

必ず行くと言いながら、彼はなぜかクファノウムに留まったままだった。だから、ナサニエルは、きっとイエスも身の安全を考え、ベサニーに行くことをあきらめたのだな、と少し安心した。


ところが、その2日後、イエスは弟子達を自分の家に集め、再度、ユダ地方に行くことを告げた。

「えっ?ユダへ? ラビ(=先生)、それだけはおやめください」

ペトロはすぐに反対した。

「どうして?」

イエスは、挑戦的にペトロに聞き返した。


「だって、この前、エルサレムを訪れた時、石まで投げつけられてひどい目に会ったではありませんか。

なのに、なぜまた、ユダ地方に行かれるなどとおっしゃるんです?

わざわざ殺されに行くようなもんじゃありませんか。」



まさか、どうして?

などと聞き返されるとは思っていなかったペトロは、少し戸惑った顔をした。


彼にしてみれば、イエスの身を心配する言葉を口にしただけだったのに、まるでそれが嘘だと言わんばかりにイエスが挑むような目をしてきたので、何だか自分の心を読まれた気がしてドキッとした。




最近、ペトロは、何となくイエスを避けていた。


それはあの、イエスに黙って信者に吹っかけている悪魔払い料の件もあっただろうが、何よりイエスにあの時、「下がれ、悪魔サタン」と怒鳴られて以来、気持ちの上で彼から遠く離れてしまっていた。

ならば、イエスの弟子を辞めればいいだけなのだが、それでもペトロが弟子を辞めなかったのは、ひとえに彼の大いなる野望の為だった。



ペトロは内心、イエスの後釜あとがまを狙っていた。


つまり、イエスの教団の配下にいる信者や弟子をそっくりそのまま自分のものにしてしまおうと考えていた。



しかし、これを上手く成就するにはペトロにとっていくつか難関があった。


それは、イエスを取り巻く弟子達の水面下での派閥争いだった。



もちろん、イエスの宗派においてリーダーであるペトロにつく弟子達は多かった。

それでも、彼の座を横取りしようと狙ってくる連中はいくらでもいた。


その中で、今のところ最もペトロにとって目障りだったのは、ヤコブ・ゼベダイとその弟ヨハネだった。



しかし、正直なところ、ペトロは彼ら兄弟自身には何の脅威も感じていなかった。


彼ら兄弟は別にこれと言って、秀でたところもなければ、それほど目立って人を魅きつけるものは何もなかった。

だから、彼らに全く脅威を感じたりはしなかったが、彼らの母親であるサロメ・ゼベダイには少なからず一目置いていた。



サロメ・ゼベダイは、ペトロの義母デボラと共に、イエスの身の回りの世話をする役として何かと教団に出入りすることが多かった。


生来、彼女はペトロと同じくやり手なのか、ペトロですら内心、舌を巻くほどサロメは気が利く女性だった。

しかも、サロメ自身は直弟子ではなく、一信者である分、イエスも彼女の出入りにそれほど強く固辞もできない。

だから、彼女は教団のあらかたに通じており、女ゆえに信者同士の立ち話などにも気軽に入っていけ、その上、我が子がイエスの直弟子となれば、ペトロ以上に教団の表から裏までを知っていた。



もちろん、ペトロの方も、自分の義母であるデボラをイエスの世話役にして、サロメのように信者達の輪に入って事情に精通するだけでなく、彼らの気持ちを自分の方にさりげなく向けてほしかったのだが、おおよそペトロの期待に応えられそうにない大人しい性格だった。

だから、世話役の仕事でも逆に年下のサロメからしょっちゅう指図されるぐらいで、ペトロとしては歯がゆくなるばかりだった。


しかも、最近、サロメの動きを見ていると、どうも彼女はイエスに接近して自分の息子達を自分の代わりとしてリーダーに推薦しようとしているようだった。


ただ、今のところ、彼女が目立った動きをしているわけでも、ましてイエスにはっきりとそのことを口にしたわけでもなかったから、ペトロとしては自分の気の回し過ぎなのかもしれないとも思ったが、それでも母親とその息子達が目障りであることは確かだった。



それに、リーダーというペトロの立場が、かえって他の弟子達の余計な反感ややっかみを買わないわけでもない。


ペトロを妬んで逆に他の弟子達がゼベダイ兄弟側につくことも考えられた。


また、イエスがこのまま危険な行動をしようとすればするほど、弟子達自身、自分の身の安全を考え、自然とイエスから離反していくだろうともペトロは計算していた。



そのため、ペトロは、イエスの安否をことさら強調し、それに気遣う振りをしながら、一方で一体、どのくらいの弟子達がユダ行きに反対する自分の意見に賛同し、自分の味方になってくれるかをひそかに伺っていた。




まず、ペトロの予想では既に12弟子達のうち、アンデレ、マタイ、そしてヤコブ・アルファイとその息子タダイは十分、自分の味方につくと確信していた。


彼らはそういった派閥争いになると、すぐに多勢に味方する連中だとペトロは最初からそう読んでいた。

だから、ペトロとしてはそれほど彼らを自分の側に取り込むことに気を使うつもりはなかった。

放っておけば、勝手に自分についてくるだろう、というのが彼の予想だった。




だが、ナサニエルとフィリポだけは問題外だった。


彼らのうち、特にナサニエルは、決してペトロにつくこともなければ、別の派閥に加わる心配も全くなかった。

彼らはヨハネの弟子だった頃から派閥争いを強烈に嫌悪し、誰にもおもねることはなかった。



だから、最初から彼らを自分の仲間として見ることもペトロとしては一度もなかった。




それと、ナサニエル達とは別に、シモンとトマスも、ペトロは度外視していた


と言うのも、トマスは、ナサニエルと少し似たところがあって、そうした派閥争いを面白がって茶化すことはあっても、決して真面目に参加してくることはなさそうだった。

だから、ペトロのやり方にトマスが口を出したとしても、それが自分の益になることはないだろうと、ペトロはトマスの人柄を信用していなかった。


ただ、ナサニエルと違ってトマスは愛想の悪い男ではなかったので、とりあえず「ついてくるなら、メンバーにしてやってもいいかな」程度にしか思っていなかった。



また、シモンは、教団の弟子がまだ少なかった頃にイエスの12弟子のメンバーとして名を連ねていただけであって、実際のところ、彼が教団に所属していることすら今では怪しかった。

彼がどこにいるのか誰も知らないことが多く、ある日、突然、現れたかと思ったら、またどこかへ消えてしまって、2~3週間、見かけないこともざらだった。

なので、ペトロや他の弟子達はもちろん、彼を弟子にしたはずのイエスさえもシモンのことを気にかけることは全くなかった。


なので、この二人もペトロの眼中にはなかった。




だが、もう一人、ペトロを悩ませる難物がいた。


それは、金庫を預かるユダ・イスカリオテのことだった。



人たらしとも言えるほど、ペトロはどんな人間とも打ち解けるし、ある程度、人を見る目にも自信があったが、そのペトロでさえもユダという男がどんな男なのか、皆目、見当がつかなかった。


ユダ自身、無口でおとなしい性格と言うのもあったのだが、ペトロとしては一体、どのくらい彼が信用に足る人物かと言うと、その人柄を測りかねていた。



もちろん、仕事(金庫管理)に関しては申し分なかった。


しかも、悪魔払いの料金や信者からの寄付金などの管理についても万事、つつがなくやってくれているし、まして、そうした教団内での金の流れや内容をイエスに告げ口されることもなかった。

だから、その点においてはユダを信頼していたのだが、ユダという人物がまったく分からないだけに、今後、ユダとどうつきあっていったらいいのか、人たらしのペトロですら困っていた。



あいつは、一体、何を考えているんだろう?


それがユダに対するペトロの印象だった。

それ以外に何も感じない。


???(疑問符)だらけの男としか言いようがなかった。


だが、今後、教団の資金管理をうまく運用するには、やはりこれまでその仕事に精通してきたユダの手腕はぜひ残しておきたい。


だから、ペトロとしてはどうしてもユダを自分の仲間に取り込む必要があった。

そのため、ペトロは今のところ、ユダを攻略するきっかけを探っていたのだった。





こうして、ペトロは、教団内での派閥争いに勝利しようと、古参の12弟子達はもちろん、入信してきた若い弟子達をも自分の味方につけようと、いろいろ苦心していた。




そんな矢先に、イエスがわざわざ自分の身を危険にさらすようなユダ行きを言い出したことは、ペトロにとって思いがけない好機チャンスの到来でもあった。



万一、イエスに何かあれば、教団は黙ってても自分の懐に転がり込んでくる。




一瞬、その考えがペトロの頭をよぎった時、イエスがまるでそれを見透かしたかのように

「どうして?」

と聞き返してきたので、その言葉が「どうしてお前は行ってはいけないと反対するのか?」という意味ではなく、「どうしてお前がわたしの身を心配するのだ?」という意味で皮肉られた気がした。


だが、ペトロは、もはやイエスの死を願う自分がそれほど悪いとも思わなくなっていた。



本当に勝手な人だ。

あれほど危険だと何度も口を酸っぱくして言ってやったじゃないか。

それでも耳を傾けない。

どうしてこうも我が強いんだろう?



大体、この人は自分の考えしか頭にない。

教団内の運営にしても、弟子達の世話にしてもそうだ。


まるで自分の知ったこっちゃないと言わんばかりにすべてわたしに押し付けてくる。



結局、このわたしがこの教団をここまで大きくしたんだ。


この人はただ、わたしがいろいろ皆に吹き込んだ奇跡話のおかげで名が売れただけで、実際のところ、何もできやしない。



まったく役立たずとは、この人のことだ。



だから、もう、この人がいなくても誰も困りはしない。

むしろ、死んでくれた方がかえって皆、危険にさらされることもなくなるし、これまで人々に広めてきた奇跡話の裏(真実)を探られる心配も無くなる。




だが、この人が死んでもこの教団だけは何とか存続させなければ・・・。


ペトロはそう考えると、イエスのユダ行きを真っ向から反対する立場スタンスを取ることにした。


「ラビ(先生)、ユダに行くのは本当に危険です。

私達、皆があなたの身を心配しているのはよくご存じでしょう?

だったら、なぜ、わざわざ今、ユダに行こうと言うのです?」


その言葉に他の弟子達も加勢した。


「ラビ、本当に危険です。お止めください」

「なぜ、行かれるんです?」

「どうかお願いします、今回だけはあきらめてください」



「お前達、何を心配している?

この地上では、一日の半分は天から日の光が与えられている。


人が、天の光を仰いでまっすぐ歩けば、その人生につまづくことはない。

だが、その光を仰がずにこそこそと闇を歩こうとすれば、必ずつまづく。」

そう言うと、イエスは再び、ペトロを見据えた。




「わたし達の友であるラザルスが病に倒れ、眠りについた。

だが、それをわたしは行って、起こしてやらないといけない。」



「だったら、そのまま寝かせておけばいいではありませんか。

そのうち、寝てれば治りますよ」

と、若い弟子の一人が皮肉っぽくイエスの話を茶化した。

彼のなめた態度からして、若い弟子達の何人かはすでにイエスよりもペトロについているようだった。



一緒に話を聞いていたナサニエルは、イエスがラザルスの死んだ事を暗に匂わせていると思ったが、それでも彼が「起こしに行く」と言った意味がよく分からなかった。


イエスは若い弟子の茶化した態度にキッとした目を向けて、

「ラザルスは死んだのだ。

あなた達も連れて行こうと思ったから、わたしはしばらくここにいたのだ。


もし、わたし一人でラザルスのところへ行っていたら、あなた達は“ 神がラザルスに与えた知恵 ”を見ることができなかっただろう。

それを見たら、あなた達も少しはわたしの話を信じるだろう。

さぁ、行こう、ラザルスのところへ。」


そう言って、イエスは立ちあがると、いつもの旅支度をしてさっさと家を出て行った。



とりあえず、“師の”イエスが出て行ったのを見て、弟子達はもはや誰も反対できなくなった。

しばらく皆、シンとした後、その場にいたトマスが椅子から立ち上がり、

「さて、我々も師に従って行きますか? 

まぁ、モレェ(注1)と共に、モウェへの旅立ちになるかもしれないけどね。」

などと笑えない皮肉を仲間の弟子達に言った。


その駄洒落だじゃれに弟子達は少し気がゆるんだのか、それまでの張り詰めた空気や殺気だった雰囲気も薄れ、イエスの言った謎めいた言葉の意味に何となく興味を惹かれ、彼らも結局、ぞろぞろとイエスに従って出て行った。




こうして、イエスと弟子達は、ラザルスのいるベサニー村へと出発した。



そして、これが確かにイエスにとっての“ 死への旅立ち ”となったのだった。




注1

モレェ・・・Moreh。ヘブライ語で「男性教師」の意味。

モウェ・・・Mavet。ヘブライ語で「死」の意味。


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