第五十話 ラザルスの病死(2)
ハンセン病は、感染した菌の潜伏期間が長いというだけでなく、発病後の進行もかなり遅く、良性のレプラ菌であればその進行自体ない。
そのため、症状は患者によってまちまちで、それがこの病気の診断や治療法を見えにくくしていた。
万一、感染した菌が悪性であれば、命の危険はないとは言え、放っておくと失明や筋力低下といった重度の障害が起きることもある。
逆に、軽症であれば単なる吹き出物で終ってしまうこともある。
ラザルスの症状はまだ初期段階で、2年前から顔に少しずつ赤い斑点が出来始めたのだが、今後、どうなるか分からないだけに、目立った発疹や斑点が徐々に広がってきたり、手先の感覚が鈍ったり、手先そのものが変形してきたりすると、どうしても患者自身、重い障害への不安がつきまとう。
まして、病気のことなどついぞ分からない他人からすれば、そうしたラザルスの姿が目につくと、自身にもその危険が及ぶのではないかとあらぬ恐怖に怯えてしまう・・・。
だから、病原菌の知識がまだなく、まして社会制度として一般庶民への情報量を極端なまでに狭めていた当時のユダヤ社会では、治療法がない病気に対して発症したラザルスはもちろん、周囲の人々の不安や恐怖は簡単に増幅しやすかったのである。
ハンセン病だけでなく、この当時に起こった様々な皮膚病は、社会的に感染拡大を防ぐ意味もあってか、各地域に情報ネットワークを張りやすいユダヤ教の僧侶達が疑いのある患者の診察を行うことになっていた。
まず、事故によるものであれ、自然発生したものであれ、腫れ物、発疹、斑点、目立つ痣といったものが肌に表れると、疑いのある患者を僧侶のところに連れて行き、僧侶はその肌の状態を検査する。
そして、それが何らかの皮膚病だと診断されると、事細かな清めの儀式や短期間の隔離といった治療らしき行為が行なわれ、それでも尚、その症状に改善が認められないと、患者は“不浄者”として生涯、人の住む場所から隔離されてしまうのである。
しかし、僧侶が患者を診断することもなく、さらに「この者は穢れている」と公に言いふらされない限り、その疑いは周囲の噂だけで済む。
幸いにもラザルスは、経済的に恵まれていたことと、それまでに築いてきた社会的な地位もあって、周囲の余計な詮索を何となく避けられていたが、それがなければ彼の病気はもっとひどい扱いを受けなければならなかった。
かと言って、彼の突然の隠棲に疑問を持たない人はいない。
だから、結局、どこかしら周囲は彼の病気に疑いを持っていたのだが、それでも彼が地元でも有数の資産家であることと、ユダヤ教を統括するサンヘドリンのメンバーの一人であるヨセフ・アリマシアと強いつながりがあることは知れ渡っていたことから、周囲もあえてそれをうやむやにしていたのだった。
それでもこのまま病状が悪化すれば、どうなるかわからない。
まして、近頃のユダヤ社会は誰かれとなく非難や弾圧にさらそうとする向きさえ出てきていた。
だから、いつの日か自分は辺境地に追いやられるか、誰かに殺されてしまうかもしれないとラザルスは強い不安にさいなまれていた。
それに何より、ラザルスは妹達のことが心配だった。
自分の将来はどうであれ、自分のために若い身空で結婚も出来ず、一生、独り身で過ごすことになっては、あまりにも彼女達が可哀想すぎる。
ラザルスはマーサやマリアのことを思うといっそう胸が痛くなった。
イエスと出会って自分の弱さをさらけ出して以来、ラザルスは以前よりずっと強くなっていた。
弱みを見せまいと構えていた頃と比べたら、極度に他人の視線を恐れることもなくなった。
自分を愛してくれる家族がいる、そう思うだけで彼の心にはじわじわと力が湧いてくるようだった。
だからこそ何とか愛する家族を守りたい
その気持ちがいっそう強くなると、このまま病気が進行するのを黙って放っておくことも、厳しい迫害が家族に及ぶのを指をくわえて待っていることも、ラザルスにはもっと我慢できなくなっていた。
だから、前回、イエスがエルサレムから帰路途中、ベサニー村のラザルスのところに立ち寄った時も、ラザルスは自分が今、考えている事を正直にイエスに打ち明けた。
「先生、今回、エルサレムにいらっしゃって市街の様子をご覧になったかと思いますが、もうこの国で今までのような平穏な暮らしはできなくなるかもしれません。
わたしの病気のこともありますが、何より人の心が殺伐としてきて、このままだとわたしの病気が公にさらされるのも時間の問題のような気がしてきました。
病気のわたしがどこかに隔離されたり、追放されるのは構いません。
でも、わたしは妹達が心配です。
妹達は病気でもなければ、人に指差されるような悪いことなど何もしていない。
けれど、わたしの病気が公になったら、きっと妹達にも危害が及ぶ。
だから、いっそこのままわたしは死んでしまいたい。
そうすれば、何の罪もないマーサやマリアが人から何かを言われることもない。
でも、その一方でわたしはこのまま死にたくもないのです。
矛盾しているでしょうが、わたしだって何も悪いことなんてしていない。
神に恥じるような生き方はこれまで一つもしてこなかった。
なのに、このまま死んでしまったら、それこそわたしの病気を疑っている者達は、わたしを罪深い者、天罰を受けて病死した者と影でののしることでしょう。
それでは、自分があまりにも惨めです・・・。
生きることもままならない、死んでも自分の身の潔白を証明できない。
一体、わたしはどうしたらいいんでしょうか?」
ラザルスはそう言って悔しそうに涙をにじませた。
別に病気になりたくてなったのではない。
人が無理をすれば、当然、その肉が悲鳴を上げることもある。
生老病死、人間である限り、その運命から逃れることは誰にもできない。
それが人間の悲しい性だ。
なのに、人は病気や不幸を忌み嫌う。
病気や不幸、災難に出会った人々を「神が与えた天罰だ、それまでの悪行の報いだ」と口さがなくそしる。
たとえ、面と向かってそしらなくても、そうした人々を何となく避けるようにもなる。
まるで自分達にはおおよそそんな不幸はやって来ないと言わんばかりに・・・。
病気になったラザルスの心を一番、苦しめていたのは実は病気そのものではない。
病気の中でも人々から最も忌み嫌われる“らい病”という病に罹ってしまった自分が、まるで大罪人のように人々の間で噂され、心ない中傷や見え透いた同情、彼を嘲り笑う声が何となく聞こえてくることだった。
ついこの前まで周りからもてはやされ、愛されていたはずの自分が、境遇が変わってその力が弱まると、あっという間に迫害され、孤独の闇へと追いやられる。
そうした人の変わり様が、ラザルスにとってはどうにも理不尽に思えて悔しかった。
また、それが彼の信仰をも揺るがせていた。
「ラザルス、あなたは言いました。
神に恥じない生き方を自分はしてきた、と。
だったら、あなたはなぜ、顔を下に向けるのです?」
イエスはそっとラザルスに問うと、ラザルスは思わずうなだれていた顔を上げた。
「人は神ではありません。
だから、間違ったことも言う。
あなたのことを誤解することもあるでしょう。
でも、神はそうではない。
神は決して間違ったりしない。
そして、神の深謀遠慮はこの天(宇宙)と地(地球)を統べるものです。
人の知恵など塵ほどでしかない。
だから、神はあなたのことを誰よりもご存知です。
あなたが神を信じ、神に恥じるような生き方をしてこなかったことを、神はあなた以上にご存知です。
だったら、間違った考えを持つ人々に何と言われようと、あなたが顔を下に向ける必要などどこにもありません。」
「・・・。でも、なぜわたしは病気に罹ってしまったのでしょう?
なぜ、わたしが・・・、わたしが一体、何をしたと言うんでしょう?
神はどうしてわたしに病気を授けたんでしょう?」
ラザルスはそう言うと、悔しさで胸がいっぱいになったのか、目に涙があふれてきた。
「ラザルス、人はみんな、生きる時間(寿命)と神から与えられた使命を持って生まれて来ます。
そして、その使命は一人一人、違う。
神はその使命を果たさせる為に、人を育てます。
この天と地の秩序を保つために、この地上を救うために、そしてその人自身をも幸せにするために、神は人それぞれをきちんと育てるのです。
だから、神は人にこうおっしゃった。
― わたしこそお前達の心に最も適切なことを教え、
お前達が進むべき道に導く“ 主 ”である。
もし、お前達が自分の胸に手を置いてわたし(良心)の声に
耳を傾けるなら
お前達の平安はまるで川のごとく絶え間ないものとなり、
お前達の正義はまるで海の波のごとく押し寄せるだろう。
(イザヤ48章17~18節)
だが、人は所詮、未熟者です。
生まれてからもずっと、自分の使命に気づくこともなければ、他人の声に惑わされ、自分の心に宿る主(良心)の声も次第に忘れがちになる。
だから、神は人に試練や困難を与えます。
― 神は光も与えれば、闇も創る。
(イザヤ45章7節)
その人を正しい道に導くためなら、あふれんばかりの愛で包むこともあれば、容赦なく厳しくすることもある。
けれど、神が一番、あなたに話しかける時は、あなたが闇にいる時です。
― 主は、絶望の淵にいるお前達にこそ話しかけてくれる。
あらゆるしがらみやそれまでの苦難の鎖を解き、
より自由な、広い世界へとお前達を導いてくれる。
(ヨブ記36章16節)
あなたが困難に会ってくじけそうな時、そんな時ほど神はあなたに教えてくれるのです。
“あなたが進むべき最善の道を。”
“あなたが知るべき最良の知恵を。”
あなたが自分の心に宿る神(良心)の声に耳を傾け、懸命に生きようとすれば、きっと神はそうやってあなたを救ってくれる。
けれど、他人の声に惑わされ、あなたが神(良心)を棄てようとすれば、あなたは自分にとって最も幸せな道を見失うことになるのです。
― 世を恨み、人を妬む心に神は宿らない。
(ヨブ記36章13節)
神はあなたに病を授けた。
あなたが神を愛し、心から神を信じているなら、それはあなたにとって必要なことだったから、神はあなたに病を授けた。
この地上にとってもあなたが必要だから、あなたに病を授けたんだとわたしは思います。
だから、ラザルス。くじけてはいけません。
人がなんと言おうと、あなたはあなたの生き方をすればいい。
わたし達は“ イスラエル ”人です。
イスラエル、それは自らの未熟さゆえに失敗を繰り返し、何度も何度も困難に直面し、苦労を重ね、幸せにしてくれと神に懇願しながら神(良心)と人の声(誘惑や悪意)の狭間で葛藤してきたヤコブ(人間)に対し、神が、
『お前の名はイスラエル、それは神が与えた困難にもめげず、最後にはその困難と世間にも打ち勝つ者という意味の名だ』(創世記32章28節)と名付けたことから、わたし達一人一人の心にその名が刻まれ、今日まで数千年間、受け継がれてきたのです。
だから、あなたも一人のイスラエル人(困難と世間の非難に打ち勝つ者)として強く立ち向かっていってください。
あなたなら、きっとできるとわたしは信じています。」
イエスがそう言ってラザルスの肩に手を置くと、ラザルスは再びうなだれていた顔を上げて、イエスにその目を向けた。
その目はまだ涙に濡れてはいたが、さっきまではなかった優しい光りがその目には宿っていた。
“ 理知 ”という名の美しい光がその目の中で静かに佇み、さっきまで暗くかげっていたラザルスの顔を今は明るく輝かせていた。