第五話 母ヘロディアスと娘サロメ(1)
本作品では人名表記におきまして、日本でのこれまでの表記と違う場合がございますが、元々、ギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語、英語などの様々な外国語を日本語の発音に置き換える際の違いによるものであり、作者の勝手な一存にて置き換えておりますので、何卒、多少の違いをご了承くださいますようお願い申し上げます。
そこで、ヘロディアスは、ユダヤ人の間での自分達の評判を探っておこうと前々から何人かのスパイを街中に送り込んでいたのだが、そのスパイ達が持ち帰った話によると、どうやら洗礼者ヨハネが最も自分達の結婚に異を唱えている人物とのことだった。
ヨハネの事は、ヘロディアスもこれまで何度か噂だけは耳にしていた。
だが、それは単なる街の人気者というだけで、それまでは彼のことなど大して気にもしていなかった。それどころか、スパイ達がヨハネの名を報告してきた時でさえ、一瞬、誰の事なのか気づかなかったくらいだった。
だから、そんな一時、立ちのぼってすぐにかき消えてしまいそうな煙のような男が、民衆に向かって公然と自分達を非難していることを知って、ヘロディアスは怒りで身体を震わせた。
『ヘロデ王は神に罪を犯したのだっ!
色香に迷って異母弟とはいえ、自分の弟の女を奪ってまで娶るとは何たる非道っ!
しかも、女も女だ。既に夫がいる身でありながら、慎みを忘れ、夫を裏切った挙句、これまた何の落ち度もない義姉を追放してまでその後釜に座るとはっ!
人としての情けというものがないのか!?』
そう言ってヨハネはその説法の中でヘロデとヘロディアスの婚姻に触れ、その不道徳を庶民達に向かって糾弾したらしい。
それを聞いたヘロディアスは、再びアルケラウスの時と同じように、ユダヤの民達が自分達をその玉座からひきずり下ろそうとしているのではないかと恐れ、彼らを煽るような説法を繰り返すヨハネに心密かに恨みを抱くようになったのである。
そして、その憎むべきヨハネがようやく捕えられたとの知らせを受け、ヘロディアスはこれでもう安心とばかりに嬉々(きき)としてヘロデの元へとやって来た。
しかし、夫ヘロデの方はそんな妻の安堵感とは裏腹に、どこかしら不安と戸惑いがない交ぜになったような複雑な心境だった。
実を言うと、ファリサイ派とサドカイ派の上層部からヨハネについての訴状を受け取った時、ヘロデは彼らの予想外の出方にその驚きを隠せなかった。
というのも、ヘロデから見たヨハネの活動は、戒律主義のファリサイ派に代わって戒律を守ることを率先して宣伝してくれているようなものであり、一体、それのどこが彼らの気に障ったのかよく分からなかったからだった。
しかし、一方では確かにヘロディアスが考えていたのと同じように、ヨハネの言動が自分達の評判に何かしら影響を及ぼしてローマにあること、ないこと吹き込まれても困るので、ヘロデはその訴状を受け取るとすぐにヨハネの逮捕状を出したのだった。
ただし、この時、ヘロデは別にヨハネを処刑しようとまでは全く考えていなかった。
それどころか庶民に人気のあるヨハネを処刑などしてしまったら、再びユダヤの民達の反発を買ってしまい、かえって自分達の立場を不利にしてしまうのではないかとヘロデは密かにヨハネの扱いを恐れてもいた。
断罪に処したぐらいで簡単に屈するような奴らではない。
そんなことでもしようものならますます歯向かって来るような連中だ。
アルケラウスの二の舞は踏みたくないからな。ここは慎重に対処しておかないと、かえって厄介なことになりかねない・・・。
ヘロデはそう考えて、とりあえずヨハネを投獄することで事態の沈静化を待とうとした。
だから、ヘロディアスがその嬉しさを隠せない様子でヨハネの処刑の日を尋ねてきた際も、ヘロデは少し眉間に皺を寄せ、ヘロディアスを少したしなめるような感じで答えた。
「まだ審議中なのだ。処刑の日など決まっちゃいないし、処刑するほどのこともないだろう」
ヘロデが面倒臭そうにそう答えると、ヘロディアスはさっきまでのにこやかな表情をさっと曇らせた。
「何をおっしゃるんです、あなた。あの男は公衆の面前でわたくし達を侮辱したんですよ。
テトラークであるあなたはもちろんのこと、ハスモン家の姫であるこのわたくしまでコケにされたのです。
このままでは民衆への示しがつきませんわ。それにあの男が出任せの説法をしたおかげで、ローマから何を言われるか分かったもんじゃありません。あの男をこのままにしておいたら危険ですわ。
今のうちに手を打っておいた方がよろしいじゃありませんか」
いつもとは違ってヘロデが自分の言う事を聞いてくれないのにヘロディアスは少し驚いたが、それでも気を取り直していつものようにそのなまめかしい身体を夫の方に投げかけると、猫なで声で夫に強くせがんだ。
「心配せずともファリサイ派やサドカイ派の連中が審議をしてくれる。下手に私達が手を出したら、それこそ民衆が何をローマに告げ口するか分かったもんじゃない。
今度のことはあくまで宗教的な問題として奴らに任せて、こちらは手を汚さない方が得策というものだ。お前が心配してくれるのはよく分かるが、もう少し辛抱して待った方がいい」
ヘロデはそう言ってさっきまでの硬い表情を和らげ、がっかりした様子の彼女をなだめようとした。
だが、ヘロディアスは、そのヘロデの言葉を聞いてもっと驚いていた。
いつもはあれほどまでに強引に事を進めるヘロデが、まさかこの時に限って“ 辛抱 ”などと言うとは彼女は思ってもみなかった。
まして、ヨハネは自分達の結婚を脅かす人物なだけに、その男に夫が寛容な態度を取るということは、夫が既に自分との結婚に後悔し始めているか、それとも自分への愛情がそれほど深くないような気がして、ヘロディアスにしてみれば何だか夫に裏切られたような気分だった。
だから、ヘロディアスはさっきまでしなだれかかっていた身体をすぐさま夫から引き離すと、今、聞いた事が信じられないといわんばかりに目を大きく見開いて夫を見つめ、そのまま怒ってヘロデの部屋から出て行ってしまった。
そうして、ヘロディアスがプンプンしながら自室に戻ってくると、ちょうどそこには娘のサロメが椅子に腰掛けて母の帰りを待っていた。
サロメは、ヘロディアスと前夫ヘロデ・フィリップとの間に生まれた子だったが、人のいいヘロデ・フィリップとは違い、その気性は母そっくりだった。
幼い頃からハスモンの名を汚さぬようにと母に言い聞かされて育ったサロメは、人一倍、気位が高く、加えて思春期の娘らしい果敢で潔癖な性格だった。
しかも、母譲りは性格だけでなく、その美貌も受け継いでおり、今日はその華奢な身体にツンとした胸が映えるような鮮やかな紅色のリネンでできたキトン(古代ギリシャ風のチュニック)を身にまとい、ゆるやかに結い上げた髪には豪華な金のヘアピンを飾ってどこか大人びた雰囲気をかもし出そうとしていた。
しかし、それでもやはりその顔にはまだ、少女らしいあどけなさがいくらか残っていた。
そのサロメは、ヘロディアスが部屋に戻ってくる足音に気づくと、すぐさまもたれていた椅子の背から身体を起こして立ち上がり、ピンと背筋を張って母親を出迎えた。
「ごきげんよう、お母様。さっきからずうっとお待ちしていましたのよ」
そう言って待ちかねていたサロメは、ヘロディアスを見ると嬉しそうにその顔をほころばせた。
「ねぇ、ねぇ、お母様、これをご覧になって。お義父様から今朝、こんな素敵なものを頂戴しましたのよ」
と、サロメはヘロディアスが既にいらだっていることに気づかないまま無邪気そうにキトンの裾をそっと持ち上げ、そこから自分のかわいらしい足先を見せびらかすようにして差し出した。
そうやって彼女が得意そうにヘロディアスに見せたのは、自分が履いている洒落た作りの黄色いサンダルで、そこには滅多と手に入りそうにない乳白色の小さな真珠が星のようにちりばめられていた。
見るからにしていかにも高価そうな、どうやら最近の流行りのものらしい。
それを見たヘロディアスは急に顔を歪めると娘から顔を背け、突然、わぁと叫んでそのまま傍にあったカウチの上に突っ伏して泣き出した。
母親があまりにも唐突に泣き始めたことにびっくりして、サロメは初め、ポカーンとした表情で母親の様子を見ていたが、すぐさまカウチの傍に跪き、その顔を心配そうに覗き込んだ。
「どうなさったのです、お母様? ねぇ? わたくし、何かお気に召さない事を申しあげたのでしょうか? ねぇ、お母様、泣かないでくださいませ。ねぇ?」
サロメはおろおろしながらヘロディアスに声をかけたが、ヘロディアスはそんな娘の心配をよそに泣き止む様子はなかった。
実は、ヘロデの元から戻ってきたヘロディアスは、何も知らない娘のサロメが嬉しそうにヘロデからもらったという高価な贈り物をみせびらかすので、つい嫉妬心に駆られて我慢できなくなった。
それでなくてもここ最近、ヨハネの言動のせいで自分達への周囲の評判が気になって眠れなかったので、サロメのサンダルを見た途端、それまで抑えていたものがヘロディアスの中で一気に噴き出してきたのだった。
サロメには何でも「いいぞ、いいぞ」と言って願い事を聞いてやるのに、どうして自分の立っての願いをあの人は聞いてくれないのだろう?
あんなヨハネなど処刑するぐらい、訳ないことなのに。
まだ子供でもらった贈り物を無邪気に見せびらかしただけの、しかも自分の娘に嫉妬するのは馬鹿げていたが、それでも自分の悲願だったハスモン朝の復興を前にして、しかも自分の全てを賭けた結婚を妨害するヨハネが処刑されるのは当然だと思っていただけに、ヘロディアスにしてみればヘロデの返事は余りにもそっけないものだった。
その後しばらくして、ヘロディアスはひとしきり感情を吐き出すようにして泣き尽くすと、泣き疲れたのか、ようやく濡れそぼったその顔をゆっくりとカウチから上げた。
「お母様、大丈夫ですの?一体、どうなさったのです?」
さっきからおろおろと心配そうにして慰めていたサロメは、ヘロディアスが顔を上げたのを見てほっとしたように優しく声をかけた。
ヘロディアスはその娘の顔をまるで他人を眺めるようにして少しの間、ぼんやりと眺めていた。