第四十九話 ラザルスの病死(1)
その知らせは、べサニー村に住むイエスの信者、マーサとマリア姉妹から届けられたものだった。
― イエス先生、あなたの愛する者が急病で死にかけています。
まさか、あのラザルスが?思いがけない知らせにイエスは驚きを隠せなかった。
イエスがラザルスという男に出会ったのは、あのサンヘドリンのメンバーであるヨセフ・アリマシアを通じてのことだった。
ラザルスの亡き父シモンは、元々、エルサレム近郊に拡がったオリーブの山やブドウ畑を所有する、ユダヤでも指折りの大地主だった。
ローマ帝国のユダヤ統治により交易事業が盛んになり始めると、やり手のシモンはオリーブやブドウ、大麦といった農作物、その他にオリーブの木を使った調度品などをローマや近隣諸国と取引するようになり、そういった交易の仕事を通じて同じ商人であるヨセフ・アリマシアとも親交を結んでいた。
そのため、シモンとヨセフは昔から家族ぐるみの付き合いをしていた。
そして、そのシモンの息子であるラザルスは、裕福な地主の長男として父シモンだけでなく、その他の人々にも将来を嘱望された跡取り息子だった。
このラザルスをシモンは、殊のほか可愛がっていた。
と言うのも、ラザルスの母であるシモンの妻はお産で亡くなっており、ラザルスの他にマーサとマリアの娘しかいないシモンにとって、ラザルスは目の中に入れても痛くないほど大事な一人息子だった。
だから、シモンは片時もラザルスをそばから離すことがなく、遠方の仕事であろうとも息子を連れて歩くほどの可愛がりようだった。
それはもちろん、息子を可愛がっていたというだけでなく、跡取りとして自分の仕事を早く覚えてもらいたいという、商売好きな父親の我がままでもあった。
だが、その父親の期待に応えるようにラザルスはすくすくと成長し、物覚えがつく頃には幼いながらも父に代わって仕事の差配までできるほど利発な子でもあった。
そうなるとますますシモンはラザルスに期待してあちこち連れ回すこととなったのだが、これが結局、ラザルスのその後の人生にとって大きな仇となってしまった。
ラザルスが15歳になったその年、いつものように彼を連れて交易船で仕事に出かけたシモンは、出先のガリア(現在の、主にフランス・ベルギー地方)で運悪くインフルエンザに罹ってしまい、何とあっけなくこの世を去ってしまった。
しかも、一緒に連れて来られたラザルスの方も、父親と同じインフルエンザに罹ってしまい、ユダヤから遠く離れたガリアの地で生死の境を彷徨うことになった。
辺境の地ガリアでラザルスが助かる見込みはかなり薄かったのだが、それでも彼だけは幸い命を取り留め、故郷であるユダヤにようやく帰ってくることができた。
しかし、いかにインフルエンザからほとんど治癒していたとは言え、既に免疫力が極度に低下していたラザルスは、ガリアから不衛生な交易船に何日か乗せられてユダヤに戻ってくる間に、今度は別の病原菌に感染してしまった。
その時、ラザルスが感染したのが、実は“レプラ菌”だった。
レプラ菌とは、らい菌とも呼ばれ、結核菌に似た細菌の一種であり、現代で言う“ハンセン病”を引き起こす病原菌のことである。
ただし、このレプラ菌は、結核菌やその他の菌に比べ、感染力が非常に弱く、しかも感染しても体内で増殖するのが極めて難しいため(実際、研究用にわざと培養しようとしても難しいらしい)、発病するのもかなり稀なのだが、特に免疫力の弱い乳幼児やそういう状態にある人が多量かつ頻繁にこの菌を吸い込むとたちまち感染してしまい、さらに運悪く、感染した人のストレスが溜まっていたり、劣悪で不衛生な環境において免疫力が低下していくと、次第に体内で菌が増殖し始め、発病に至るのである。
その後、発病すると、まず末梢神経が冒されて手足の温度感覚や痛覚などが鈍り、指先や足首などが変形したり、比較的に体温の低い部位である頭や顔、目や耳などの皮膚に赤くただれたような斑点や白い発疹などが出たりする。
特にこういった症状が、服に覆われていない顔の部分によく表れることから他人の目につきやすく、結局、これが様々な誤解や偏見を生んで、古来より“らい病”と呼ばれ、忌み嫌われるようになってしまったのだった。
このように、レプラ菌は人に感染するのも稀なだけでなく、その体内で感染した菌が増殖するのにもかなりの年数(平均5年〜7年、中には10数年)と環境が必要なのだが、ラザルスの場合、自身が死の淵から生還してくる時にかなりの免疫力を消耗していた上、そこに最愛の父を失った悲しみと、若くして父の事業を継いで家族を背負って働かなければならない数々の重圧もあって、年月が経つにつれ、彼の心身は着実にレプラ菌に蝕まれていった。
そうして、彼はついに発病してしまったのである。
ちなみに、このような特殊な条件が揃わない限り感染及び発症することが難しいレプラ菌は、皮膚接触や遺伝で感染することはまずない。
しかも、発症しても菌の毒性自体がかなり弱く、仮に最悪、この病気を治療しなかったとしても(あくまで仮であり、ハンセン病の完治は現代ではもちろん可能)生命を脅かされる危険などもまずなかった。
ただ、こういったハンセン病に限らず、中世ではペストや結核、現代ではエイズといった伝染病や難病の類は、大抵、世に知れ渡ると、一方的な情報を鵜呑みにする宗教や人間関係の狭い地域社会においてはなぜか“天罰”や“遺伝”といったデマが出回りだし、それに触発された人々が病気や障害に苦しむ人々に対し、さらにいわれなき心理的抑圧や差別を与えるようになってしまう・・・。
ラザルスがこの菌に感染した頃のユダヤ社会もその例外ではなかった。
特にユダヤでは早くからこの病気が発見されていたが(恐らく、エジプトから亡命したヘブライ人達(古代ユダヤ人)が砂漠で40年間、放浪生活していた際、衛生状態が劣悪で感染者数が多かったためだろうが)、まだ治療法が見つかっていなかった。
そのため、不治の病として差別が根強く、発症した患者は必ず他の人々から隔離されてしまっていた。
ラザルスも、自分がこの病に冒されていると知るまでは、父の友人ヨセフ・アリマシアの協力もあり、若き実業家として大いに活躍して父以上の成功を収め、華やかな暮しをしていたのだが、この病気が彼の顔に出始めると、そう言った社会的背景もあることから、すぐさまエルサレムから4kmほど東に離れたべサニー村に居を構え、そこで人々から隠れるかのように隠遁生活をするようになってしまったのだった。
こうしてラザルスは、まだイエスとそれほど歳も変わらない働き盛りの身でありながら、結婚することも子供を作ることもすっかりあきらめ、その生涯をべサニーで過ごそうと覚悟を決めていた。
しかも、悲しいことに、この隠遁生活が強いられたのは何もラザルスだけではなかった。
ラザルスの妹であるマーサとマリアもまた、兄の病気に対する人々の偏見や差別を恐れ、結婚どころか縁談さえも断り続けていた。
だから、姉妹もまたひっそりと兄に寄り添うようにしてべサニー村で生活していた。
イエスがそんなラザルス一家に出会ったのは、彼の信者の一人となったヨセフ・アリマシアが隠遁生活をするラザルスの気鬱を案じ、イエスに助けを求めたからだった。
それまでは自信に溢れ、明るく朗らかで家族や友人を殊のほか大事にする好青年だったラザルスは、病気になってからはまるで人が変わったように部屋に閉じこもり、妹達にさえまともに口を開かなくなっていた。
しっかり者の姉マーサは、普段は長女らしい気の強さを見せてちゃきちゃき働き、使用人にも気配りをする優しい娘だったが、兄の病気を知るや、ラザルスと同じように落ち込んでしまい、何とか兄を立ち直らせようと彼女なりに奮闘していたが、気ばかり焦ってすっかり混乱してしまっていた。
一方、妹マリアは末っ子らしいのんびり屋で、兄や姉と違って普段はそれほど気が利く方ではなかったが、上の二人が落ち込んでいるのを見ると、自分達だけでは兄を救えないと思ったのか、早速、ヨセフ・アリマシアのところに相談しに行った。
ラザルス一家にとってヨセフは、亡き父の親友というだけでなく、シモンが死んでからはずっと、父代わりになってくれていたからだった。
そして、マリアから病状を聞かされたヨセフは、ラザルスが病気のせいでそれまでの友人を避けていることから、年齢が近いイエスをラザルスの話し相手として紹介してはどうかと彼女に持ちかけた。
そこで早速、二人はイエスをベサニー村にあるラザルスの屋敷での晩餐に招待したのだった。
イエスが初めてラザルスの屋敷を訪れた時は最悪だった。
前もってラザルスの事情を聞かされていたので、イエスはその日、自分一人で出かけて行った。
恐らく病気のことを知れば、弟子達はきっとラザルスを忌み嫌うだろう。
そう思ってイエスが弟子達を連れて行かなかったのは、この時代、治療法のない不治の病に対する彼らの感染を避ける為もあったが、人から疎外され、忌み嫌われる立場となったラザルスの気持ちが分かるだけに、大人数で屋敷を訪れることは他人の視線に敏感になっているラザルスにとってはかなり負担だろうと、イエスなりに彼の心を気遣ってのことだった。
一方、ラザルスも、妹マリアからヨセフが見知らぬ客人と共に屋敷を訪れることを既に聞かされていた。
もちろん、その時点で彼の心はすっかり見知らぬ客を警戒していた。
どうせ、自分の病気を嘲笑いに来たか、ほら吹き預言者が自分なら病気を治してご覧にいれますとでもヨセフに吹きこんだに違いない。
病気ですっかりいじけてしまっていたラザルスは、イエスはもちろん、ヨセフの思惑すらもあれこれと意地悪く想像し、彼らが来る頃にはこっぴどくからかって彼らを追い出してやろうと反発心満々で待ち構えていた。
そして、ヨセフに連れられてイエスが屋敷を訪れると、早速、ラザルスはイエスを挑発し始めた。
まず、普段、ミイラのように顔を覆っている包帯をわざと取り外し、彼は赤く皮が剥けて血だらけのようにも見える自身の醜くなった顔をイエスに見せつけるようにして、堂々とイエスの横の席についた。
これできっと、イエスは恐れをなすに違いない。
自分に移るかもしれない病の怖さに気づき、そのうち尻尾を巻いて逃げ出すだろう。
そう思って、ラザルスはほくそ笑んでいた。
しかし、イエスは一瞬、その顔を見て驚いたようだったが、それ以上、病気については何も聞いてこない。
顔についても何も触れてこない。
そこで、最初の思惑が外れたラザルスは、今度はイエスのそばにもっと近寄ったり、顔を近づけて話しかけたりしてみた。
触ってみたらもっと嫌がるだろうと思い、彼の腕にさりげなく手を置いて話しかけてみたが、それでもイエスはそれについては何も言わず、彼の手を払いのけることもなかった。
そうなると、ラザルスはなぜだかものすごくいら立ってきた。
自分が理不尽にも病に冒されてしまったことに対する怒りと共に、同情も嫌悪も見せず、まるでよくあることのように自分の病を受け止めているイエスの態度が、意気消沈して自信を失った自分からすると、自信満々で自分を見下す不遜な態度に思えたからだった。
しかも、運の悪いことに、晩餐の給仕をしようとマーサとマリアが使用人達と共に甲斐甲斐しく立ち働いていたのだが、たまたまラザルスの杯にワインを注ごうとしたマリアが誤って彼の手にワインをこぼしてしまった。
そのため、既にいら立っていたラザルスはとうとう癇癪玉を破裂させ、ついマリアに向かって大声で怒鳴ってしまったのだった。
ところが、さっきまでラザルスの悪意を含んだ不躾で馴れ馴れしい態度に何も言わず大人しく付き合っていたイエスが、なぜかその時になって突然、ラザルスを一喝した。
実は、父シモンが死んで以来、一家の大黒柱だったラザルスに、面と向かって意見を言える者はもはや誰もいなくなっていた。
むろん、その人生が順風満帆な時は、実力と自信を兼ね備えた彼が誰かの意見を頼る必要などまったくなかった。
多少の苦難も自分の機知で乗り越えることができた。
だが、人生が一瞬にして真っ暗になったかのような大きな挫折。
周囲はもちろん、ラザルス自身も経験したことのない、これからどう生きていったらいいかが分からない、とてつもなく大きな不安。
ラザルスは病気を発症したことで、そんな苦難に直面し、誰にも自分の心の内を打ち明けられずにいた。
そうして、彼はその苦しみからいら立ちを募らせ、つい家族や使用人に当たり散らすようになってしまっていたのである。
そうなると、ますます彼を恐れて、彼に意見を言ったり、逆らう者はいなくなった。
父代わりとしてラザルスをこれまで見てきたヨセフもまた、ラザルスのような苦難を経験したことがないだけに、彼をどう諫めて立ち直らせてやればいいのか分からず、苦慮していたのである。
だが、イエスはそんなことはお構いなしにラザルスを叱り飛ばした。
これに驚いたのはラザルスだけではない。
その場にいたマーサやマリアも目を丸くして、しばらく声も出ないようだった。
また、イエスが声を荒げるところなど今まで見たことのなかったヨセフも、一体、何事が起こったのかと目をぱちくりさせていた。
しかし、ラザルスはその途端、急に泣き始めた。
まるで子供が父親に叱られてしゃくりあげるように彼はオイオイと号泣し出したのである。
それは恐らく、彼の中で鬱積していた心のわだかまりが砕けた瞬間でもあった。
跡取りとして事業を背負わねばならないという気負いと妹達、家族への深い愛情から、父が死んだ時でさえ涙一つ見せず気丈に振舞っていたラザルスは、若い時から他人に弱みを見せまいと常にずっと気を張っていた。
しかも、たった15歳の少年の肩に大人でもたじろぐような重責がいっぺんにのしかかってきたため、彼はいつしか子供らしい無邪気な心や人間らしい弱さをさらけ出す場所を見失ってしまったのだった。
そのため、心の奥底にそれらをずっとしまいこんで誰にも甘えないまま大人になったラザルスは、病気になったことで自暴自棄となり、それまで抑えていた子供らしいわがままを家の中で通そうとし始めたようだった。
ただ、彼は既に15歳の少年ではなく、今や30歳を過ぎたいい大人だった。
それゆえ、なまじ大人としての知恵や立場がある分、彼のわがままぶりはある意味、性質が悪かった。
しかも、彼の病気を気遣うがゆえに、マーサやマリアは何も言えない。
たとえどんなに彼の暴言や態度がひどかろうと、マーサやマリアはじっと耐えるだけだった。
あんなに優しくて強かった兄さんがくじけるわけはない。
きっといつか、わたし達、家族の愛情に気づいて立ち直ってくれるはず・・・。
そんな思いで、彼女達は必死に兄と家を支え、頑張っていた。
これまでとは違った境遇に置かれ、世間の偏見や差別といった苦難に立ち向かわなければならないのは彼女達も同じだった。
それでも彼女達はそれに負けずに兄を愛し、彼を守ろうとしていた。
だが、その思いとは裏腹に、その彼女達の献身がラザルスをますますいら立たせていた。
どうにも自分を抑えきれず八つ当たりしてしまう自分の不甲斐なさや心の弱さがひしひしと分かるだけに、彼女達に対する罪悪感でラザルスは押しつぶされそうな気持ちにもなっていた。
彼らはそうして家族としてお互い愛し合いながらも、それがなぜか空回りしているようだった。
それは、ラザルス自身がそれまで周囲に固く閉ざしてきた心の壁を取り払い、自分の心にある人間らしい弱さや未熟さを素直に認めてそれを自分で責めるのをやめない限り、自分だけなく人それぞれの心にある弱さや未熟さを許せないことになる。
そうなれば、お互い本当の気持ちを言い出せなくなり、結局、我慢し合うことになってしまうのである。
だが、なんのてらいもなくイエスが、悪いことは悪いとラザルスを一喝したことにより、ラザルスはようやく自分の弱さを家族の前でさらけ出せることとなった。
と同時に、自分の暴走をどこかで止めてほしかったラザルスにとって、イエスに叱られたことは、彼自身、素直に家族に謝罪できるきっかけともなり、ホッとしたのだった。
すると、ラザルスだけでなく、抑えていた今までの辛さが一気に押し寄せたのか、マーサとマリアまでが堰を切ったように泣き出してしまい、結局、その夜の晩餐はまるで涙の洪水となってしまった。
そんな最悪な晩餐ではあったが、これをきっかけに家族という心の拠り所を得たラザルスは、ようやく安心することができたのか、再び持ち前の明るさを取り戻して積極的になり、そのきっかけを作ってくれたイエスにも深い信頼を寄せるようになった。
そして、その後は何かとイエスをベサニーの屋敷やエルサレムにある別宅などに招いて、そこで説法会を開かせてくれたりもしていたのだった。
彼自身は病気のため人前にはほとんど姿を見せなかったが、それでも状況が許す限り、外にも出るようになり、仕事もマーサやマリアを通じてこなすようにもなっていった。
そんなささやかな日常がラザルスの毎日を少しずつ明るくしていったが、それでもラザルスの病気も、それを取り巻く周囲の差別や偏見も、それほど甘いものではなかった。