第四十五話 交流(コミュニケーション)
イエスと出会って以来、エルサレムに寄ったら必ず声をかけてくれと親交を結んでいたニコデマスは、まだファリサイ派のスパイがイエス周辺をうごめいていなかった平和な頃、イエスの説法会に一度、出かけたことがあった。
その日、イエスは街角で説法を終えると、ある一人の商人がぜひともイエス達を夕食に招きたいと申し出てきた。
そこで、ニコデマスもイエスに誘われて一緒に同行したのだが、その夕食会にはなんと、近所に住むヨセフ・アリマシアも招待されていた。
商人の家に入った途端、ニコデマスは見覚えのある顔に気づいて思わずハッとした。
だが、その時はお互い一切、言葉を交わさず、黙って一緒に食卓を囲むこととなった。
ところが、食後の談笑が始まるとなぜか突然、ヨセフの方からニコデマスに近寄って来た。
「あなたはどう思われました、あの方の話を?」
ヨセフは前置きも言わず、率直にそう尋ねてきた。
さすがは商売魂に優れているしたたかな商人だな、とニコデマスはその時、ヨセフについてそう思った。
決してさり気なさと感じの良さは崩さないのに、物事の核心をズバリと突くような鋭い質問をしてくる。
まさしく商売の駆引きで長年、培ってきた知恵と威厳、洞察力が自然とヨセフには身についているようだった。
「わたしはあの方の話を信じています」
一方、ニコデマスは学者らしい生真面目さからなのか、包み隠さず正直に自分の気持ちを打ち明けた。
ヨセフはそれを聞いてにっこり笑った。
だが、そのニコデマスの言葉に共感している様子でもなく、感じのいい笑顔を崩すこともなく、一度だけ「わかった」と言う風にうなずくと、そのままニコデマスには何も言わず、また、別の人々と談笑し始めた。
その後、ヨセフは何かとニコデマスに親しみを持って話しかけるようになった。
サンヘドリンで会うと、なぜか彼の方からニコデマスに寄って来て挨拶してくるようになり、それをきっかけにお互い打ち解けるようになっていった。
しかし、周囲はそんな彼らの親密さにまったく気づいていなかった。
それもこれも、ヨセフの普段からの人当たりの良さからして彼が積極的に人と交流するのはごくごく自然なことであり、ニコデマスの寡黙で実直なところがヨセフとは対照的なこともあって、彼らが公の場で談笑していてもさしておかしいと思わず、むしろ二人の間にはサンヘドリンのメンバーという以外、何ら共通点が見いだせなかったからである。
もちろん、まさか‘ あの ’イエスとも彼らが親交を結んでいるなど誰も想像だにしなかった。
そんなひそやかな二人の交流がしばらく続いた後、ある日、ヨセフはニコデマスを自分の家の夕食に招待した。
そこでヨセフは初めて、イエスの説法について自らの気持ちを打ち明けてきた。
「ニコデマス、信頼できるあなただからこそわたしは正直にあの方の説法について話そうと思う。
わたしは今、とても驚いている。
実際、あの方のような話はこれまで一度として聞いたことがない。
まさかあのような、といったら失礼だろうが、何ら学識もなければ、権威も何もなさそうな若者にどうしてあんな話ができるのかと不思議に思うと同時に、あまりにも本質をついた言葉に衝撃を覚えたのだ。
不思議だ。だが、心洗われるとはこういうことなのかもしれない。
なんら社会的地位や背景があの方にはないからこそ、素直になってあの方の話を聞き、童心のような新鮮な気持ちであの方の言葉を咀嚼した時、わたしは清々しい気持ちになった。
一個の人間としてあの方の話は真実だと思えた。
“ 神とは何か、がわかった気がする。”
だが、その一方でわたしは恐れている。
あの方の話はこれまで一度として聞いたことがないし、まして、これまでの教えとは全く違う印象を受けた。
それがあまりにも革新的なため、あの方はまさしく異端児として人々からそしりを受けるだろう。誤解もされやすい。
正直、あの方の話は深い。
まるで海の底のように深すぎる。
しかし、聞く者によってはその深さがわからない。浅くて単純な話のようにも聞こえてくる。
それが何よりもわたしは怖い。
浅く見えてる海ほど実はものすごく危険で恐ろしい海だったりもする。
あの方の話は、そんなに甘く単純な、優しいものじゃないような気がするのはわたしだけだろうか?」
食後に出てきたワインの杯を少し口につけ、ヨセフはポツンとそんなことをもらした。
「それはわたしも同じでした。
一体、あの若者のどこからそんな智恵が浮かんでくるのかと不思議に思いました。
だからこそ、確かに彼は‘ 神の子 ’と直感したんです。
確かにイザヤが残した預言、“イマニュエル”(「神が私達と共にいる」の意)がやって来たんだと思いました」
ヨセフはイザヤの名を聞いて少し眉をしかめた。
「イザヤか・・・。
イザヤこそ、神の怒りとこの世の荒廃を告げた預言者・・・。
神はイスラエルをお怒りなのだろうか?
現状を見渡す限り、イザヤの預言を体現するかのように私達の社会は荒んでいっている。
もちろん、わたし達はこれを何とか建て直す方法を模索したいのだが、当のサンヘドリンが今ではあの体たらくだ。
建設的で前向きな話に耳を傾けるどころか、占いやら神託などといい加減なオカルト話にうつつを抜かし、自らの保身に躍起になって誰も上層部には意見できない。
自由で闊達な意見交換なんてのも今では見せかけに過ぎない・・・」
珍しくそう言ってヨセフは愚痴をこぼした。
サンヘドリンで会う際も、常ににこやかな笑顔と気さくな態度を崩さないヨセフが、実はこれほどまでにサンヘドリンに対して強い不満を持っていようとは誰も気づかないだろうが、どうもワインに酔ったのと、信用のおけるニコデマスの前だったこともあってか、ヨセフはつい、そんな本音をポロっと漏らしてしまったのだった。
だが、その本音はニコデマスも同じだった。
「わたしもあなたのおっしゃる通りだと思います。
今後はもっと最悪になってくるかもしれません。
彼らの動きは本当に危険です。かつてのような気高い志や博愛精神など微塵もなく、庶民の無知蒙昧をいいことに、現実と矛盾するようなオカルト嗜好を振りかざし、後先も考えず我が利のためだけに突っ走ろうとしている。
そして、それに異を唱えただけで抹殺しようとする。
それは恐怖政治以外の何物でもない。それこそ“ この世の終わり ”です」
声を潜めてニコデマスはそう言い切った。
それにはヨセフも言葉なく、ただ頷いただけだった。
そして、しばらく二人は沈鬱な面持ちでワインを黙って飲んでいたが、その後、ヨセフはおもむろにイエスの話を始めた。
「あの方は、それを止めようと街角に立って説法をしているんだろうか?」
「はい、恐らく」
「だが、それほど難しいことはないだろう。
それでもなお、一人でそれを伝えようとでも言うのか?
たった一人で?」
「はい、きっと」
「なんと無謀な! なんと過酷な運命を自ら選んだのだろう!
たとえ真実を知っていても、黙っていれば済むものを・・・。
何もせずにやり過ごせば人らしい幸福もつかめるだろうに。
なぜ、そうまでして命の危険を冒そうと言うのか?
国の為、人の為になぜ、それほどまでにあの一介の名も無い若者が犠牲になる必要があるのだ?
誰もあの若者に期待もしていないのに・・・」
ヨセフは目を丸くしてそう言った。
「恐らく、彼は逃れられない運命を背負って生まれてきているんだと思います。
ヨナと同じように・・・。
預言者ヨナも同じように神から逃れようと、船に乗った。
ニネヴェの街に警告に行けと神から命じられたが、それを避けて船に乗り、一庶民としての幸せを追い求めようとした。
だが、それは許されなかった。
彼もヨナと同じく、逃れられない試練を背負って生まれてきたんだと思います。
この世の人から投げかけられる、いわれないそしり、誤解、あらゆる誹謗中傷・・・、そうした人の弱さの膿を根底から絞り出させ、神の真実とその偉大さを伝え、それによって人々の心に希望を与え、その荒廃を食い止める。
彼はその、神の目的に適うよう、“ 神が望むようなこの世で人が幸せに生きられるような国を作る為に ”まさしく神によって創られ、選ばれてこの世に生まれてきた“ 神の子 ”なんだと思います」
ニコデマスがじっと杯の中のワインを見つめながらそう話すと、ヨセフはぐっと眉を吊り上げ、ニコデマスを見つめた。
「あの方を守らねばならん、必ず。
たとえどんなに危険でも我々だけでもあの方を守らねば!」
そしてその夜、二人はイエスを守りあおうと、杯でもって互いに約束を取り交わしたのだった。
ニコデマスとヨセフがそんな約束をしていることなど露とも知らず、イエスは相変わらず身の危険にさらされるエルサレムの街角で説法を行っていた。
初めは、ファリサイ派やサンヘドリンのスパイだけを警戒すればよかった辻説法も、次第にエルサレムの街全体が緊迫してきたこともあって、今はどこであろうと気を抜けなくなってきていた。
それでもイエスは説法活動をやめなかった。
正直なところ、イエスも何度か逃げ出してしまいたい衝動に駆られたことがあった。
もう、何もかもやめてしまおうかとも思った。
だが、それが自分には許されないことをイエスは自覚していた。
説法しているだけで石が投げられ、怒号が飛ぶ。
「早く奇跡の業を見せろ」と、からかいや罵詈雑言が浴びせられる。
世知辛い世の中だな、とイエスは思った。
自分にもらえる結果やご利益ばかりを求め、自分以外の誰かや何かの為に何かを与えようとしたり、生みだそうとはしない。
与えられないことにばかり不満をもらし、何かを創りだす気力も向上心も失われてきている。
大都会のエルサレムの方がガリレー地方より現状は厳しいのかもしれない・・・。
どうにもならない絶望感を抱え、ここに住む人々は何かにすがりたがっている。
すがりついてそれがなくなったら生きていけないと思っている。
自分たちこそそれを生み出せる能力を与えられていながら、それをもらっていないと泣きわめき、天に唾を吐いて文句を言う。
そして、目に見える何かがもらえると思うと、わき目も振らずそちらに向かって走りだす。
きっとどこかに何かいいものがあるはずだと思い込み、前も後ろも、周りさえも目に留めず、ただ躍起になって探しまわる。
彼らは一体、どこへ行こうとしているのだろう?
わたしに奇跡の業や徴を求め、それが彼らの人生に何の意味があるというんだ?
どうして彼らには分からないのだろう?
誰もがその心に“ 神 ”を持っているということを。
神からすべてを与えられているということを。
自分達の天国は、この地上にあることを。
そして、それを創りだすのは自分達だということを。
どうして彼らは気づかないんだろう・・・?
イエスは、次第に難しくなっていく説法活動に虚しさを感じるようになっていた。
いくら説いても誰も耳を貸しはしない・・・。
だが、イエスはやめるわけにはいかなかった。
わたしがここで使命を捨てたら、わたしが神から見捨てられる。
それほど怖いものはなかった。
孤独と共に生きてきたイエスにとって、心のよりどころとしてきた神を捨てることは自分をも捨てることに近かった。
そして、人が罵倒し、非難すればするほど、かえって自分の言っている事が間違っていないと証明したくもなっていた。
意固持になっているのかもしれないな・・・。
とイエスは自分を皮肉っぽく笑った。
だが、わたしはあきらめない。
たとえこの世の人々、全員が非難したとしても、わたしは最後まであきらめない!
そう、わたしは神に誓った。
神の真実を世に伝える、と。
だから、それを果たすまでは決して死ねない。死ぬはずがない。
神はそう、わたしに約束したのだから・・・。
イエスは自分の胸にこぶしを置いて、そう自分を奮い立たせた。
- わたしは忘れない。
あの困難と苦しみさまよった苦い日々のことを。
わたしは決して忘れない、
あの辛酸をなめつくした苦痛の日々のことを。
そして、それがわたしの魂を深く、重く沈ませる。
だが、それでもわたしは心にこれを叫ぶ。
わたしには、必ず希望がある、と。
なぜなら、主の偉大なる愛は決してわたし達を消滅させたりしない。
“ 神の愛は必ず、わたし達を救ってくださる為にある。”
神に希望を抱く人にとって、神は素晴らしい。
神を求める人にとって、“ 神は善である。”
人が若い時に苦労することはいいことだ。
そうして、その人を孤独の中に座らせよう。
主がそれをその人に課したのなら。
たとえその顔が屈辱の泥にまみれたとしても
それでもその人には希望がある。
たとえ頬を打たれてもそれでもなお、頬をもう一度、差し出し、
屈辱にまみれればいい。
それでも、その人はきっと立ち直れる。
だって、神は永遠に人を見捨ててるわけではないのだから。
神はたとえ、人に悲しみや苦しみをもたらしたとしても、
必ずそれと同じぐらい喜びや幸せをもたらしてくれる。
だから、神の愛は偉大なのだ。
別に神は好き好んで人に苦しみや悲しみを
もたらしているわけではない。
この地上におけるありとあらゆる苦しみやしがらみに
囚われ続ける人々が足蹴にされ、
人としての尊厳を脅かされ、
さらに正義ある者から何かが奪い取られる、
こういったことを主はちっとも見てらっしゃらないとでも言うのか?
主は一度、決めたことを人のように覆したりしないし、
人に嘘をつくこともなければ、人を裏切ることもない。
一度、約束したことは必ず果たす御方である。
“ 幸と不幸は両方とも、神から授けられる。 ”
人に必要だからこそ、神は人にそれらを授ける。
だから、人は自分達の間違いや欠点を神に躾けられた時、
どうしてそれを主に文句が言えようか?
感謝こそすれ、どうして主に不満を持てようか?
(哀歌3章19-42節、イザヤ45章、48章17-19節、エレミア10章23-24節)
だが、そうは言ってもそうした負けん気や情熱、誠意、信念だけで、現実における人との軋轢や誤解、衝突を回避することは難しい・・・。
そのため、イエスも策を練り、エルサレムに来てからは全員が分散して、それぞれ別の場所で説法活動や布教活動を行うようにしていた。
これまでのようにぞろぞろ連れ立って歩くことはガリレー地方とは違って、エルサレムではかなり目立ちやすいと考えたからだった。
それでも、イエス一人がひそやかに活動したとしても、たちどころにサンヘドリンのスパイ達に居場所を突き止められ、何かといちゃもんをつけられたり、妨害されたりして逮捕される危険が消えたわけではない。
ただ、最悪の時に備えて、自分以外の弟子や説法を聞きに来た人達に危害が及ばないよう、イエスなりに“ 人知れず ”気遣ってのことだった。
そうして、外の敵との衝突をうまく避け、あえて言葉にせずとも人に対して細やかな気遣いをしていたつもりのイエスだったが、まさか“ 自らのそんな日頃の素行やちょっとした言葉の行き違いによって ”内なる敵を作ることになり、それがこの後、彼の生死を分ける大きなきっかけになろうとは彼の敵達はもちろん、当のイエス自身もこの時、まったく気づいていなかった。