第四十二話 神聖
「わたしが皆さんに伝えている言葉は、神から教わった言葉だからです。
神がわたしという“ 存在 ”(=生命)をこの世に送ったのは、神の御言葉を伝えさせるためです。
そして、わたしが伝えている言葉が本当に神の御言葉かどうか、わたし自身が勝手にねつ造して造った言葉かどうかは皆さんの心次第です。
皆さんが神(善)を信じ、神(良心)に従う人ならば、わたしの言葉が本当に神の教えから来ていると分かるでしょう。
でも、そうでなければわたしの言っている意味は分からない。
人は、自分をよく見せようと言葉を飾れば、それなりに人から好かれたり、持ち上げられることもあるでしょう。
でも、神(善意)を信じ、神(正義)の味方をして、神(博愛)の為にものを言う人は、真実の人です。
だから、その人の語る言葉に嘘はありません」
そのイエスの言葉に群衆は再びざわめきだした。
ちょうどそこに、さっきパレードでイエスの噂をしていた見物客達が通りがかった。
「あれ、さっきの似顔絵の男だ」
「ああ、あいつがイエスなんじゃないのか? 例の?」
と、一緒に歩いていたもう一人もイエスを見てうなずいた。
「ちょっと、イエスって人なの、あの人? なんか有名な人?」
その会話を聞きつけて、聴衆の中の一人の女が彼らに尋ねた。
「ああ、ガリレー地方じゃ奇跡の男ともっぱらの評判らしい。さっきも神殿の警備役人があいつを探し回ってた。
どうやらお偉いさん達に目をつけられているらしいよ」
「へぇー、そうなの? じゃあ、やっぱりすごい人なんだわ」
と、彼らがイエスの噂話を始めたところ、ちょうどそこへスパイ達も通りがかり、とうとうイエスの姿を見つけて早速、彼の元へ聴衆をかき分けてやって来た。
「お前っ! ようやく探し当てたぞ。 また、いい加減な事を言って人をたぶらかしているんだろう。よくもまぁ、そんなサル芝居ができたもんだっ!」
スパイ達は顔を真っ赤にして汗をにじませながらイエスの真正面に立った。
「いい加減かどうかはあなた方がわたしの話をちゃんと聞いてからにしてほしい。
第一、あなた方はどうしてわたしを追いかける? どうしてわたしを傷つけようとする?
あなた方は戒律(法律)、戒律と言うが、あなた方だってちっとも預言者モーゼの書いた戒律なんて守っていないじゃないか。
サバス(安息日)の戒律を破っているとあなた方は何度もわたしに言いに来るが、では、預言者モーゼはどうなんだ?
彼は割礼の儀式をユダヤにもたらしたが、あなた方はそれをサバス(安息日)の日にやっているじゃないか。
だったら、それはサバス(安息日)の戒律を破ってることにはならないのか?」
イエスはいい加減、スパイ達のしつこさにうんざりしてきて、思わず声を荒げてそう言い放った。
すると、スパイ達はますます顔を真っ赤にして怒りだした。
「なっ、何? それはどういう意味だ?
預言者モーゼ様とお前とは違うっ! お前はただのインチキ預言者じゃないか!」
「そうだ、そうだ! お前は悪魔だ。悪魔が屁理屈を言ってユダヤの戒律(法律)を捻じ曲げている。それをとがめて何が悪いっ!」
「お前はこの国の偉大なモーゼ様の名まで穢すのか?!」
スパイ達は一斉にイエスを非難し始めた。
「おいっ、お前達、こいつは飛んでもない嘘つきなんだぞっ!
サバス(安息日)の日に金を儲けようと若い弟子達をこき使ってとうもろこし畑で働かせたり、足の悪い年寄りに自分が座る敷物を持って来させたりしたんだ。
しかも、今だって律法書を持ち出してうまく言い訳し、人を煙に巻いたりもする。
こんな奴を信用して話を聞いていたらお前達もえらい目にあうぞっ!
さぁ、帰った、帰った。こんな奴の説法なんて聞くんじゃないっ!」
そう言って、スパイ達は聴衆を手で追い払った。
それを見て、イエスはため息をつくしかなかった。
スパイ達はもちろん、ユダヤ人達が異様に預言者モーゼを敬うのは仕方なかった。
モーゼがこの国にとって偉大な預言者であることは確かだった。
かつては奴隷の身分だった古代ヘブライ人達の中から一人、立ちあがり、当時、世界帝国の頂点に立つエジプトのファラオ(王)と対峙して、圧政に苦しむ仲間の為にストライキ(強制労働の拒否)を申し出た者こそ、このモーゼだった。
そして、数々の奇跡を行ってファラオ(王)に改心を求めたが、それが受け入れらないと分かると、自分達の国(居場所)を造るべく603,550人(注釈1)以上もの人々を引き連れて40年間、砂漠の中で苦難をしのびながら彼らを統率してきたのもモーゼだった。
その後、ようやく自分達の国(居場所)を築ける土地が見つかり、このユダヤの基礎を築いてくれたのも、やはりモーゼだった。
だからこそ、ユダヤ人にとってモーゼが永遠のヒーロー(英雄)であり続けるのは当然だった。
しかし、そのヒーロー(英雄)が遺した功績に比例して、その罪過の影響もまた、大きかった。
その最たる罪過の一つが、モーゼの戒律至上主義にあった。
実は、モーゼ自身、ヘブライ人達を統率していくのにかなり苦労していた。
喧嘩は絶えない、物は盗む、影口やいじめはしょっちゅう、人が集まればその分、トラブルも増える。
普通の安定した国(土地)においてもいろいろと問題は発生するのに、砂漠のような過酷な生活環境で人々の軋轢が生じないわけはなかった。
さらに、彼らは安心して住む場所(土地)もなく、常に周辺国の人間から命を狙われたり、いじめられたりして差別されていたのだから、そのストレスは極限状態だったに違いない。
そんな中で、彼らをリーダーとしてまとめるのは相当、難しいことだった。
そこで、モーゼが考え出したのが戒律(=ルール、法律)だった。
戒律さえ定めておけば、コミュニティー(仲間内)で許容される範囲から逸脱しようとする人々を制限でき、トラブルが起きても戒律に即して裁定すれば、皆も納得するだろうと考えたからだった。
もちろん、戒律を定めたことが悪かったわけではない。
おそらく、初めのうちはモーゼも神(良心)の声に従って、適宜な戒律(法律)を作っていたのだろう。
だが、モーゼ一人がそれを作っていたことで、いつの間にやら彼の都合や価値観(好み)のみに基づく戒律になってしまったのである。
その上、モーゼは自分が作った戒律に必ず、『神はこうおっしゃった』と神の名を出してくるので、モーゼの書いた戒律はすべて神の指示にすり替わってしまったのである。
つまり、この時から神が“ 主 ”でなく、モーゼが“ 主 ”となってしまったのだった。
しかも、厄介なことにモーゼと言う人は、かなり気性が荒かった。
元々、彼はエジプトに住んでいた際、仲間がエジプト兵にひどく叩かれているところを目撃し、その復讐の為にひそかにエジプト兵を殺して埋めたという殺人犯だった。
そんな気性の荒い男が柔和な物言いをするはずもなく、彼の作る戒律の多くは、「~しなければ、お前達は滅びる」とか「死罰が下される」といったきつい言葉でいつもくくられていた。
そのため、戒律を与えられた人々は神の名とモーゼの強烈な言葉に恐れおののき、恐怖でもって戒律の指示に従うようになったのである。
その後も、そうした祖先からの教えを受けたユダヤの人々は、時代を経る毎にますます戒律に絶対服従となり、とりあえず戒律なら何でも素直に従うことこそ敬虔な信者、ひいては立派な人間の証だと思うようになってしまっていた。
だから、イエスがモーゼや戒律について少しでも批判しようものなら、それこそ殺されてもおかしくないほど、ユダヤの人々にとってモーゼの名と戒律は神聖なものだった。
ちなみに、イエスが話に出した“ 割礼の儀式 ”とは、男の子が生まれた場合、その子が生まれて八日目に陰茎の包皮などを切除する儀式のことである。
元々は、古代よりエジプトでも同じような習慣が、医学的見地もしくは衛生上の理由で行われていて、子孫を繁栄させる為に早くから性交渉の障害を取り除こうと始まったものである。
現代においても、そうした医学的な理由から1990年代までアメリカ人男性のほぼ100%近くが割礼手術を受けていた。
しかし、最近ではそれほど利点はないものとして、赤ん坊の割礼手術は減少傾向にある。
また、割礼の儀式はモーゼによって作られたとイエスは言ったが、実はこれはモーゼではなく、ユダヤ教の司祭が作ったものである。(新約聖書ヨハネ7章22節参照)
だが、これもイエスのみならず誰もが勘違いするほど、ユダヤ国内では様々な戒律が複雑に絡み合い、戒律 ≒(イコール)モーゼ、モーゼ ≒ 神という考えが潜在的に浸透してしまっていたからだった。
(注釈1)
603,550人→旧約聖書の「民数記」第1章46節に書かれている当時のヘブライ人の人口である。
エジプトを出国してから二年と二ヶ月目の初日に計測された人口統計だとされている。ただし、20歳以上の兵士になれる男性人口のみ数えられているので、女性と子供の数は入っていない。