第三十九話 決意
イエスが律法書の中の“ 言葉 ”に気づくようになったのは、彼が最初、神の存在を疑ったからだった。
日々、親や兄弟から疎んじられ、忌み嫌われる自分の存在を呪い、自分がなぜ、生きているのか分からなくなったからだった。
神よ、あなたはなぜ、わたしをこの世に生まれさせたのか?
誰もわたしを愛してくれないのに、誰もわたしを必要としていないのに、なぜあなたはこの世にわたしを送ったのか?
その心の叫びが彼を律法書へと導いた。
そして、律法書はその彼の悲痛な疑問に答えるかのように、実に様々なことを教えてくれた。
律法書の中には、ありとあらゆる“ 人 ”がいた。
品行方正で非の打ちどころのない善人など一人としていない。
善人と言われている人間も、失敗し、挫折してその欠点をさらけ出す。
むろん、悪党も大勢、登場する。
人殺しや盗人、娼婦、女王様、金持ち、貧乏人、賢者、愚者、嫉妬深くてヒステリックな妻、浮気する夫、嘘をつく者、だまされる者、残酷な者、いじめられる者など、この地上のどこにでもいそうな人々が、様々な場所で、様々な出来事に出会い、その寿命を生きて死んでいく。
そんなありふれた人々のそれぞれの人生がいろいろとつづられていた。
それはまるで、何千年、何億年前に生きていたであろう人々が今もなお生きて、イエスの心に何かを訴えかけているようだった。
そうして、イエスが律法書を読み進めていくうち、彼自身の今までの疑問や心のわだかまりが消えると同時に、実は律法書に書かれた言葉がまさしく彼自身の運命をもつづっていることに彼は気がついた。
― 聞け、主であるわたしの言葉を。
主の言葉に震える、お前よ。
お前の兄弟達は、お前を嫌う。
お前をのけ者にもする。
それはわたしの名前のせいだ。(イザヤ66章5節)
― わたしはお前を子宮の中で模る前から知っていた。
お前は生まれる前からわたしは他の者とは別にしていた。
なぜなら、最初からお前をこの地上におけるあらゆる国々に
わたしの言葉を伝える預言者として定めていたからだ。
そこでわたしはすかさず主に言った。
『ああ、全ての統べる主よ、
そうはおっしゃっても
わたしは人々にどう話せばいいか分かりません。
わたしはただの子供も同然です』
だが、主はこうおっしゃった。
『お前はもう子供ではない。
お前はこれからわたしが命じるありとあらゆる者の前で
わたしが指示したことをすべて伝えなければならない。
彼ら、“ 人 ”を恐れる必要はない。
神であるわたしがいつもお前のそばにいる。
そして、どんなことがあってもわたしはお前を救い出す』
そして、主はその手を伸ばし、わたしの口に触れてまた、おっしゃった。
『わたしは今、お前の口にわたしの“ 言葉 ”を置いた。
だから、お前は今日からわたしの“ 預言者 ”
(=神の御言葉を預けられた者)である。
そして、わたしの言葉を持ってこの地上のありとあらゆる国々へと行き、
そこに根づいてしまったそれまでの考えを根こそぎ倒し、引き裂き、
ひっくり返し、さらに粉々にうち壊して、
その後、建て直してから
最後にちゃんとわたしの言葉が根付くように
人々の心に植えてくるのだ』
(エレミア1章5−10節)
もしかして・・・。
もしかして、これはわたしに向かって言っているのか?
いや、ばかばかしい。きっと気のせいだ。そうに違いない。
でも、どうしてもそんな気がしてならない。
なぜ、これほどまでにわたしの心の内を言い当てるようなことばかり目に入るのだろう?
なぜ、これほどまでにわたしの心はうずくのだ?
それに・・・、
それに、わたしは知ってしまった、神が何であるかを。
わたしには分かってしまった、この律法書には何が書かれているのか・・・。
だからこそ、わたしは人々に伝えなければならないのだろうか、
ここに書かれている真実を。
だが、はたして人々がわたしの言うことになど耳を傾けるだろうか?
普段とて、わたしを馬鹿にしてわたしの話など聞いてくれない連中ばかりなのに、これを他の人に告げたところで本当に信じてくれるだろうか?
たかが名もない地方の村から出てきた大工のせがれの話に一体、誰がその耳を傾けると言うのだろう?
イエスは首を横に振った。
やっぱりわたしの気のせいだ。
あんまり悲しすぎて辛かったから、わたし自身、精神が参ってしまっていたんだろう。
きっとどこかおかしくなったに違いない。
そうして、イエスはしばらくそうやって自分に言い聞かせ、律法書を読むことも止めていた。
だが、それからしばらくすると、彼の身辺が急に不穏になって来た。
まるで“ その時 ”が来たかのように、何かがイエスの周りで変わり始めていた。
まず、父のヨセフが突然、亡くなった。
建設現場の足場から落ちてあっけなく死んでしまったのである。
それまでは両親から離れて暮らすことはもちろん、長男としてヨセフの仕事を継がなくてはならない立場だったが、それが一変してイエスは自由に職業を選べるようになった。
だが、そうは言ってもそんなに簡単に仕事を選べるわけはなかった。
というのも、今までヨセフの腕を便りにイエスとその兄弟達はどうにか仕事をもらっていたのだが、一家の大黒柱であるヨセフを失って、途端にイエス達は路頭に迷うことになった。
そこで、イエスはありとあらゆる仕事をした。
ガリレーの都市部へ行って行商もしたし、漁師の仕事もやってみた。
交易の荷物運びや街角の尿壺を回収して尿に浸し、脱色したり、洗濯する洗濯屋の仕事、日雇いの建設業に農家の手伝いなど。
お金になりそうなことは人の嫌がる仕事でもいろいろやってみた。
彼はただ、何の目的もなく、何の情熱も野心なく、ひたすら働いていた。
だから、彼はたいてい、どこへ行ってもいじめられた。
その場になじまなかったからである。
イエスにすれば、なじめなかったというのが正直なところかもしれない。
やりたくもない仕事をして冷たくあしらわれ、さらに稼いだ金のほとんどはイエスを蔑む母や兄弟達に奪われていた。
イエスの弟達もヨセフの死後、彼の後を継いで大工の仕事をしていたが、何に使っているのか彼らが稼いだお金を家に入れることはまず、なかった。
母も彼らには決して催促しない。
さらに、母マリアは家事においては申し分なかったが、家計のやりくりにおいてはかなりだらしなかった。
そのため、毎月、一体、何にお金が消えているのかイエスには皆目、見当がつかなかった。
それでも生活費に困るようになると、母はいつもイエスに催促してくる。
そして、事あるごとに必ず「あなたは長男なのだから」が彼女の口癖だった。
だから、イエスは嫌でも彼らを養っていかねばならず、そのためにいろんな職業を転々と渡り歩いていたのである。
だが、どれもこれも結局、長続きせず、彼はとうとう仕事もお金も、何もかも失いかけていた。
そんな時だった。
イエスは偶然、洗礼者ヨハネのことを街で耳にした。
「この前、初めて洗礼者ヨハネの話を聞きに行ったんだ。
ものすごい人だかりで遠目にしか見えなかったけど、話はなかなかよかったよ」
「ああ、俺も聞きに行ったことがある。
ほんとに感動したな。確かにあの男は神の預言者かもしれないな」
“ 預言者 ”
その言葉にイエスはピクリと反応した。
ああ、そうか。
そうだったのか・・・。
イエスは苦笑いして首を横に振った。
ようやく分かった、わたしの間違いが。
わたしも預言者ヨナ(注釈1)と同じように逃げ惑っていたのかもしれない。
ヨナも神から同じように人々に“ 言葉 ”を伝えよ、と命じられ、それを伝えることを恐れて逃げ惑った。
だが、神は大嵐を起こしてヨナに迫り、結局、ヨナは真っ暗なクジラの腹の中に入れられてから初めて自分の過ちに気づく。
確かに、わたしも今、そうなっている。
お先真っ暗で途方に暮れ、神の手から逃れようにも逃れられなくなっている。
神は知っていたのだ、わたしが逃げ出したことを。
わたしの話など誰も聞かない、誰も信じないと決めつけ、わたしはただ、人から非難されるのが怖くて逃げだしたのだ。
だが、もはや逃げたところでどうしようもない。
わたしの運命は最初から決まっていた。
その時、イエスの脳裏にあの律法書の“ 言葉 ”が再び浮かんできた。
― わたしはお前を子宮で模る前から知っている。
お前が生まれる前からわたしはお前を別にしていた。
わたしは始めからお前をこの地上における
ありとあらゆる国々への預言者に定めていたのだ。(エレミア1章5節)
そう、わたしがしなければならない仕事はその仕事だ。
そして、わたしが心からやりがいを感じられる仕事も、それなのだ。
そのことに気づくと、イエスは早速、ヨハネがいるヨルダン川へと出かけて行った。
そこで洗礼者ヨハネと出会い、イエスは改めて神の“ 言葉 ”を伝えるのが自分の仕事だと確信した。
それからのイエスに迷いはなかった。
これまでひそかに培ってきた律法書の言葉が彼の脳裏に自然と浮かぶようになっていた。
しかも、今までの彼であれば考えつきもしないような、そんな“ ひらめき ”のようなものも絶妙なタイミングで浮かんでくることもあった。
それが俗に言う、神の啓示なのかもしれないなと、イエスはひとりごちた。
まさしく天職とはこのことかもしれない、とイエスが仕事に誇りと生きがいを感じ始めた頃、イエスは今までとは違う、別の言葉にも気がつくようになった。
それは、イエス自身の将来についてだった。
― その人は、神の御前にたおやかな苗のごとく、
乾ききった地面に生える根のごとく育った。
私達を惹きつけるような美しさもなければ、威厳もない。
私達が求めるような姿形も持ち合わせていない。
ただ、人々に嫌われ、人々に拒否されただけ。
悲しみの人、苦しみに親しんだ人。
まるで人がその顔を背けるように、その人は嫌われ、
そして敬われることなどなかった。
確かにその人は私達の心の弱さと悲しみを取り去ってくれた。
だが、私達は天罰によって、その人自身の罪によって
その人は打ちひしがれ、泥をかぶされ、
そして辛苦を強いられたのだと思っていた。
だが、その人は私達の行き過ぎた罪の為に刺しつらぬかれたのだ。
その人は私達の心の弱さゆえに押しつぶされたのだ。
私達に平安をもたらしたという罪で、その人の上に罰が下った。
だが、その人の心の傷によりわたし達は癒されることになる。
私達はまるで羊のように、皆が好き勝手な方向へと走っていった。
私達、一人一人が勝手な道へと突き進んでしまったのだ。
そんなわたし達の心の弱さを主はその人に押し付け、
その人を通してわたし達一人一人の罪を知らせてくれたのだ。
(イザヤ53章)
その人の上に罰が下った?
罰? 一体、この後、わたしの身に何が起こるのだ?
その言葉がズシリと彼の心に重くのしかかった。
それから間もなくして、洗礼者ヨハネが逮捕された。
イエスはその時はじめて、自分も同じ目にあうことを確信した。
それでなくとも世の中の不穏な動きはイエスも何となく分かっていた。
ファリサイ派やサドカイ派を始めとするユダヤ人同士が権力争いに明け暮れ、そんな国内の混乱に乗ずる形で外からローマ帝国がユダヤの利益を横取りするようになってくると、ユダヤの人々もまた、自分だけは損すまいとますます少ないパイ(利益)を奪いあうようになり、さらに世情の混乱は大きくなっていくかのようだった。
そのため、国内ではいつも争いが絶えず、その度にいつも誰かが殺されていた。
まるで誰かを血祭りに上げないと気が済まないかのように、人々の心は荒み、憎しみ、妬み、怒り狂っていた。
だから、そんな中へ彼らをいさめるための説法をしようものなら、イエスもまた、その彼らの妬みや憎しみ、怒りの餌食になることは目に見えていた。
だが、弟子達にはイエスのそんな危機感は伝わっていなかった。
逮捕された洗礼者ヨハネもまた、自分が本当に殺されるとまでは思っていなかった。
まさか、そこまでユダヤと言う国が既に病んで腐っているとは思いたくなかったからかもしれない。
彼はまだ、ユダヤの人々がいつか改心してくれるだろうと信じていた。
しかし、イエスはそうではなかった。
人の本音と建前を知り尽くしてしまったイエスは、彼らがそうそう簡単に改心することはないだろうと踏んでいた。
そうは言っても、このまま手をこまねているわけにもいかなかった。
洗礼者ヨハネのように人々の為に働こうとしてその真心が踏みにじられ、犠牲にされるだけだったら、ますますこの世界は悪事がまかり通り、第二、第三の犠牲者が増えるだけだ。
もちろん、自分もその第二の犠牲者になるかもしれない。
だが、そんな人身御供はもう、いらない!
ヨハネの死だけでもう、たくさんだ。
二度と、彼のような悲しい犠牲者を出してはいけない。
神(正義)を信じられなくなるような、そんな悲しい犠牲者を二度と出してはいけないのだ。
だからこそ、わたしはこの命を懸けてわたしの信念を貫いてみせる。
決して人に屈してなるものか。
― 彼らを恐れるな。わたしがお前と共にいる。
そして、必ずお前を救い出す。(エレミア1章8節)
そうだ、わたしには主がおられる。
神はいつもわたしと共にいてくださる。
神は必ずわたしを救ってくださるとわたしは信じる。
だから、わたしはヨハネとは全く違う方法で彼らと勝負する。
人とは真っ向から争わず、ただ、ひたすら神を信じて自分の信念を貫き通す。
どれほど危険や困難な目に会おうとも、神が必ず救い出してくださると信じてわたしはあらゆる試練にじっと耐え、彼らに神の真実を伝えてやろう。
― わたしの話を聞いてくれ、お前達、この地上の島々に住む者達よ。
これを聞くがいい、遠い国々に住む、お前達。
わたしが生まれる前から主はわたしを呼んだのだ。
わたしの誕生から主は既にわたしの名を口にしていた。(イザヤ49章1節)
そう、だからわたしの名前はイエスなのだ。
イエス、“ 神が救う人 ”。
それがわたしの名前だ。
だが、イエスがそこまで決意を固めていた頃には、既に弟子達とイエスとの間は少しずつ、溝が深まり始めていた。
そして、この後、あの山で誓い合ったはずの12人の弟子達の中からも、イエスとは正反対の方向へと歩き出そうとする者達が出てくることとなる。
(注釈1)
ヨナ→旧約聖書のヨナ記に出てくるBC8世紀頃に出没したとされる預言者。神からニネベの街の人々に説法をしろと命じられたヨナは、それを嫌がり、船に乗って神から逃げようとする。しかし、神が大嵐を起こしたため、船は沈没しそうになる。そこで、ヨナは船乗り達に自分のせいだからといって海に自分を投げるように頼み、船乗り達が仕方なくそうすると、確かに波が収まり、嵐も止んで船は助かることとなった。そして、ヨナもまた、クジラのお腹の中に飲み込まれて命が助かり、三日三晩、そこで過ごしている間に自分が神の命に逆らって逃げたことを反省し、神に謝るというストーリーが描かれている。