第三十四話 奇跡の始まり (2)
ちょうどそこへ、マタイが支度を終えてようやくペトロのところへやってきた。
「すまん、待たせたな。さぁ、行こうぜ」
マタイは、寝癖のついたままの髪を手でなでながら、まだ寝ぼけ眼でペトロに謝った。
「いや、大丈夫だ。
今日は突然、イエス先生が朝早くからうちにいらっしゃったんだ。
だから、わたしも早めにお前を呼びに来た」
ペトロはあくまでさり気なく、それでいて慎重に、まだ頭がはっきりしていないマタイにそう言った。
「そうなのか? でも、今日、何か大事な用でもあったっけ?」
マタイが怪訝そうにそう聞くと、ペトロはついうわずった声を出して自分のもくろみがばれないよう、できる限り自然な調子を崩さないようにした。
「いや、実はイエス先生は“ 幻影 ”を見られたんだ」
「“ 幻影 ”? 何だ、それ?」
マタイが耳をそばだてると、ペトロは声を潜めた。
「予知みたいなものさ。未来が見えたそうなんだ。
実は今日、うちの義母が病気になった。
それでイエス先生は、その幻影を見られて慌ててうちを訪ねていらっしゃったんだ。
そうしたら、確かに義母が倒れていて、先生は義母を寝床に連れて行き、そっと額に手を当てられた。
そうすると・・・、驚くようなことが起こったんだ」
「え? 何が起こったって?」
マタイは興味しんしんでペトロの方に体を乗り出した。
「・・・それが、不思議なことに義母の病気がたちどころに治ったんだ。
かなりの高熱で立ち上がることもできなかったのに、治った途端、イエス先生の食事を作るぐらいに回復していた。
な、すごいだろ?」
ペトロはもっと低い、独特の声でマタイにそっと打ち明けた。
すると、それを聞いたマタイは目を丸くして、ペトロに信じられないとばかりに首を振った。
「額に手を当てただけで、熱が下がったって?
そんな馬鹿な。 それで、食事まで作ったっていうのか?
本当かな?」
「そうさ、信じないのか?
だったら、女房のハンナに聞いてみろ。そうだ、っていうはずさ。
急いでここに来たっていうのも、仕事のことだけじゃない。
俺もイエス先生のあの業を見て、あまりにもびっくりして誰かに打ち明けずにいられなくなったからさ。
“ ここだけの話 ”、イエス先生には本当に奇跡を起こす力がある。
でも、あの先生のことだ。きっと、誰にも言うなとおっしゃるだろう。
ほら、この前、山でもそうおっしゃってただろう?
『人目のつかないよう善行を行いなさい(マタイ第6章参照)』って」
ペトロは、最後に自分の話を裏付けるよう、イエスの言葉を付け加えた。
すると、マタイはそれを聞いて生唾をゴクンと飲み、そのペトロの言葉にうなずいた。
「お前にだけは黙っていられなくて打ち明けたが、このことはできれば伏せておかないとな。
マタイ、今日のことは絶対に他言無用だからな」
ペトロがそう念押しすると、マタイは神妙な顔つきで首を縦に振った。
これでいい。
これで、きっと噂は広まる。
ペトロは心の中でそうつぶやいた。
人は黙っていろと言われたら、絶対に話す。
まして、自分では解明できない不思議な出来事ならば、なおさら、人にそれを相談したり、尋ねたくなるものだ。
それに、おっちょこちょいのマタイのことだ。
つい、うっかり口を滑らせて話してしまうだろう。
だから、この話もすぐにそこいら中で噂になるはずだ。
噂が噂を呼んで、人は集まってくる。
そうなれば、しめたものさ。
ペトロは我ながら自分のもくろみに感心し、自然と口元がほころんだ。
そうして、ペトロ達が戻ってくると、イエスはハンナの給仕を受けて朝食を食べながら彼らを待っていた。
マタイは、イエスに挨拶するとすぐにハンナにさっきのペトロの話について聞こうと、彼女を部屋の外に呼びだした。
「ハンナ、お母さんのデボラが病気で倒れたってのは本当か?」
「ええ、さっきイエス先生が母の熱に気づいて寝床に連れて行ってくださったんです」
「それで、デボラはイエス先生の朝食まで作ったって?」
「ええ、作ってましたよ」
マタイはそのハンナの言葉に驚いて目を丸くした。
さっきのペトロの話は本当だったんだ!
イエス先生が“ 奇跡 ”を起こしたってのは。
それだけ聞くと、マタイはそれ以上、彼女に何も言わず、その場を離れた。
ペトロのもくろみなど何も知らないハンナは、イエスが来る前のことをそのまま話しただけだったが、ペトロから事前に話を聞いていたマタイはハンナの言葉をペトロの話に合わせて解釈した。
こうして、ありもしない奇跡がさも信ぴょう性のある事実へとマタイの頭の中ですり替わってしまった。
なんてことだ。
本当にイエス先生に奇跡を起こせるなら、このまま黙っているわけにはいかない。
もっと皆に知らせないと。
イエス先生が本物のメシア(救世主)だと皆に分かってもらうのが俺達の役目じゃないか。
でも、ペトロにああ、言われたしなぁ。
どうしよう?
マタイはペトロが黙っていろと言ったことを思い出し、一人、考え始めた。
だが、それが既にペトロの術中にはまっていることにマタイはまったく気づいていなかった。
噂というものは、おおっぴらに宣伝されるものではない。
静かにひそやかに流れてこそ、その信ぴょう性は高まる。
だから、ペトロはそれを狙ってマタイに言うなと念押ししたのである。
つまり、マタイが「ここだけの話」とそっと人に伝えれば伝えるほど、人はその話を信じて、また同じようにそっとよその人に流すのである。
そうして、ここからペトロのもくろみはものの見事にはまっていったのだった。
それから、ほどなくして3人は早速、カシウスの口利きで招かれたシナゴーグへと出発した。
彼らが到着すると、既にイエス達を待ちうけて、大勢の人達がシナゴーグの外で騒いでいた。
すると、一人の中年男がイエスに気づき、すぐにイエスの前へと走ってきた。
「ああ、イエス先生、お待ちしていました!
どうか、わたしの息子をお助けください! うちの子にとりついたデーモン(悪霊)を追い払っていただきたいのです!」
「デーモン(悪霊)がとりついてる?」
イエスは眉を上げて疑わしそうに男を見た。
「ええ、確かにとりついているんです。
だって、わたしと話をしていると突然、火がついたように怒り出すかと思えば、逆に何日も黙り込んだりして。
他のラビ(先生)にも何人かご相談しましたが、どなたもうちの子からデーモン(悪霊)を追い払うことができなくて困っています。
あとはもう、イエス先生だけが頼りなんです!
どうか、どうかうちの子に先生のお情けをかけてやってくださいまし」
中年男は真っ青な表情で、イエスの前に手を合わせ、拝むようにして彼に頼みこんできた。
イエスはその男の悩みを聞いて、顔をしかめながら大きなため息をついた。
「どうも、世間の人は皆、そうしたねじ曲がった考えを持つんでしょう。
デーモン(悪霊)祓いなんて必要ありません。
とにかく、息子さんをここに連れてらっしゃい」
イエスにそう言われて、男は慌てて人々の間に隠れていた嫌がる息子を無理やりイエスの前に引っ張ってきた。
イエスの前に連れてこられた男の息子は、ぶすっとした表情で突っ立っていた。
どうやら反抗期らしい。
イエスはその息子の表情を見て、すぐに事情が呑み込めた。
そこで、父親から遠ざかるようにしてその息子の肩を抱き、人々から背を向けて二人きりで話すことにした。
「あなたが怒ったり、だんまりを決め込んだところで、何かが良くなったり、あなたの思うような結果になりましたか?」
イエスがそう言うと、少年はハッとしたようにイエスの方に顔を向けた。
「あなたがぶすっとしてお父さんとけんかをすることで、お父さんはあなたの不満に気づいてくれましたか?」
イエスが再びそう聞くと、少年はばつの悪そうな表情を浮かべ、イエスから顔をそらした。
「何があなたの望みなのかは知りませんが、あなたがそういう態度を取ったところで実際、あなたの思い通りになっていないでしょう?
お父さんの様子を見れば、むしろ違う方向へ行ってしまっている。
それは、あなたがお父さんにあなたの気持ちや考えを言わないからです。
もう、赤ちゃんの頃のように黙っていてもお父さんがあなたの気持ちを分かってくれたり、何か欲しいものを与えてくれる年齢じゃありません。
あなたには、お父さんとは違う、あなた自身の気持ちや考えができつつある。
一方、お父さんには既にお父さんの気持ちや考えがあります。
どちらも違う人間なので、それを何となく押し付けあっていたら反発するばかりだし、お互いの本当の気持ちや考えが伝わりません。
それではいつまでたっても何の解決にもならないし、あなた自身も不満だらけで心が休まらないでしょう。
だから、あなた自身、どうしたいのか自分の気持ちや考えを見つめなおし、お父さんにそれを伝えることで、そこでようやくお互い理解しあえるようになるのです。
それに、たとえあなたの気持ちや考えをお父さんに分かってもらえなくても、あなたの心の中にいる神はあなた自身のことをよく理解してくれています。
だから、大丈夫。
あなたはあなたの気持ちや考えを大事にして、あなたの心にいる神に従い、まっすぐに進んでいけばいい。
たとえ、誰からも理解してもらえなくてもあなたの心が良かれと思うこと、正しいと思うことを頑張っていれば、きっと救いはあります。
あなたの願いはかないます。
だから、自分を信じなさい。
自分を疑い、人に怒りを抱いて呪えば、あなたの心に本当のデーモン(悪霊)が宿ります。
そして、結局、望みはかなわず、周りはもちろん、自分自身も傷つくことになってしまうのです。
わたしのこの言葉をあなた自身の心でよく噛みしめ、考えてみてください。
そして、それが本当だと信じるならあなたはきっといい方向へと進んでいけるはずです」
イエスがそう話すと、少年は顔を上げてイエスを見つめた。
その真剣な眼差しに気づくと、彼は素直にコクンとその頭を縦に振った。
「お父さん、大丈夫。もう心配しないで。
デーモン(悪霊)は消えたよ。だから、後でちゃんとお父さんと話をするよ」
息子が父親を振り返ってそう言うと、中年男は涙を流して喜んだ。
もちろん、それを聞いて周りの人間達はもっと驚いた。
「何人ものラビがさじを投げたあの子が何とあっという間に元に戻ったぞ」
「いやはや、こりゃあ驚いた。
まさかこんなにすぐにデーモン(悪霊)祓いができるなんて」
「噂には聞いていたが、これほどの実力とは。
ぜひともその奇跡をもっと拝ませてもらいたいものだ」
人々は口々にそう言って、イエスをほめたたえた。
だが、イエスは人々の称賛をよそに冷たい口調でこう言い放った。
「あなた方は信じるべき言葉と信じてはいけない言葉の区別がつかないから、都合の悪いことが起きるとすぐにデーモン(悪霊)の仕業だ、などという考えにとりつかれるのです。
この世は神が支配している、神が守ってくださっていると心から神を信じている人は、デーモン(悪霊)などに囚われたりしません。
デーモン(悪霊)が入ってこれる隙すらないことをよく知っているからです。
『幸も不幸も、光も影も、生も死も神がもたらす』(イザヤ第45章7節)
預言者イザヤのこの言葉の意味をよく分かっている人なら、どんなことが起きようとも、慌てることもなければ、騒ぐこともない。
ただ、神を信じてやるべきことをやっていれば、どんな願いもかなえてくださる。
どんな時でも救ってくださる。
それが“ 神の奇跡 ”というものです」
イエスのその強い口調に圧倒されたのか、人々は一瞬で静まりかえった。
そして、イエスはペトロ達を従えて、シナゴーグの中へと入って行った。
だが、それでもイエスのその言葉が人々の心に届くことはなかった。
それは、イエスの弟子のマタイも同じだった。
結局、デボラの病気をたちまち治したというペトロの嘘をすっかり信じてしまったマタイは、シナゴーグで起きた悪魔祓いをそばで見て、さらにいっそうその確信を強めてしまった。
もちろん、そんな出来事すら見ずに噂のみ耳にした人々は、もっとイエスにそんな力があるのだと期待し、奇跡を求めてぞくぞくとイエスの元へとやってくるようになった。
そうして、噂が噂を呼んでイエスの評判が次第に高まるにつれ、逆にイエスに妬みや反感を持つ人々も徐々に増えていったのである。