第三十三話 奇跡の始まり(1)
「さぁ、どうした、ナザレのイエス。
お前の奇跡とやらを早く見せてくれ」
その時、突然、ヘロデの横柄な声が鳴り響いた。
・・・。
その声にイエスは一瞬にして過酷な現実に引き戻された。
奇跡! 奇跡! 奇跡!
あなた方は、どうしてそれほど奇跡が必要なのだ?
あなた方が神に向かって奇跡を願うほど、一体、あなた方が神に何を尽くしたと言うのだ?
私達、人の子に一体、何ができるのだ?
神に代わって天を動かすことができるか?
太陽を創り、日の光を万人や万物に与えてやれるのか?
月や星を動かし、この天空に時を刻ませてやれるのか?
海を波立たせ、人の子が船でどこへでも行けるよう、海路を創ってやったのか?
必要な時に雨を降らし、人々の口に入るよう、食料となる作物を実らせ、収穫の知恵を授けてやれるのか?
私達、人の子は何もできないじゃないか。
すべては最初から神に与えられていた。
その与えられた中で、人の子は生かしてもらっている。
実に様々なものを神は常に、絶え間なく与えてくれているのに、あなた方はそれをありがたいと思わず、何でも与えられて当然だとおごる。
そして、もっと、もっとと欲しがり、不正な手段を使ってでも誰かや何かから奪おうとする。
そうして、欲に欲を重ね、不満に不満を載せ、そして妬みに妬みを加えて互いに争い合う。
そんなあなた方がどの面を下げて神に奇跡を求めるのだ?
日々、与えられたものに気づかず、自分は与えられていないと自分勝手に嘆き、不平不満を天に向かってぶつけたことがないとでも言うつもりか?
それを神が気づいていないとでも?
あなた方は神を侮っている。
何にも知らない、その存在すらも自分達の願い事が叶わないからと、疑っている。
だが、神は確かに存在する。
あなた方には見えないだけだ。
人の心を失い、良心(神)を棄てて人の生命を奪った。
その動機も神が定めた人の道から外れ、神の情けすら請えない非道なもの。
そんな人殺しのあなた方に神の恵みを求める資格がどこにあるのだ?
わたしはこれまでずっと間違っていたことが、一つある。
それは、いつかあなた方がわたしの言っていることを分かってくれる日が来るかもしれないと、淡い期待をしていたことだ。
わたしは愚かにも人の子すべてを信じようとした。
だが、あなた方にわたしの真心は通じない。
あなた方は人の子の姿をしているだけで、もはやあなた方の心には人の心はないからだ。
真心のない人間に真心は分からない。
愛や幸せにも気づけない。
人の心を失うとは、そういうことだ・・・。
人の心を失った者とは、愛や幸せを与える神を失ったも同然なのだ・・・。
そうして、イエスはかつての自分を思い出していた。
まだ、山でもう一度、やり直そうと誓った弟子達全員とお互い心が通じ合える、そんな日が来るんじゃないかと、ほのかな希望を抱いていたあの頃の自分を・・・。
もしかしたら、あの百人隊長のガイウスとその部下達のように、お互い信頼しあい、助け合い、どんな時も支えあえるような関係を築けるんじゃないかと甘いことを考えていた自分を・・・。
だが、そんなイエスのささやかな希望など、あっという間に消えていった。
まるで彼の周りは果てしない砂漠だけが広がり、そこには蛇やさそり、ハイエナのような人間達が、ひたすら彼の肉体が横たわるのをじっと待っているかのようだった。
そして、彼の周りにそんな人達がはびこり始めたのは、ガイウスと出会ってから少し経ったぐらいの頃だった・・・。
イエスの一番弟子ペトロは、正直なところ、イエスの説法の中身などどうでも良かった。
彼はイエスの弟子として入門して以来、ただイエスが起こしたこの宗派が拡大し、組織的にも経済的にも潤っていくことを一番の目標にしていた。
だから、説法の中身よりも何か“ 人を強烈に惹きつける言葉 ”もしくは“ 人の欲望を刺激する奇跡 ”の方が彼には必要だった。
そうは言っても、イエスに奇跡はもちろん、自分達が期待するようなことができる力がないことを、ペトロは最初から分かっていた。
ただ、その一方でイエスの周りで時折、起こる説明のつかない不思議な出来事も彼には無視できないものだった。
それを利用するしかない。
それを上手く人に宣伝すれば、きっと人は集まってくる。
むろん、信者が増れば、宗派の存在価値や説得力が増すだろう。
だが、それが頻繁に、しかも自分達の思い通りに起こるわけでもないので、ペトロはイエスとこの宗派をどう売り込もうかと、その宣伝方法に悩んでいた。
そう言えば、とペトロははたと思いついた。
この前、あの人が言っていた、人に見えないように何かを行えという話も多少、理はあるかもしれない。
やたらとたくさんの奇跡を吹聴したり、見せるような真似をするより、もったいぶって何か分からないような話をしてしまう方が人の興味をそそるかもしれない。
そして、それとなく奇跡を匂わせてしまう。
そうすると、人は勝手に想像して自分の都合のいい解釈をするものだ。
そうか・・・、ということは、あの人の話は実はそれを匂わしていたんだろうか?
だったら、わたしはあの人の才覚を少々、見くびっていたのかもしれない。
そんな算段ができるぐらいなら、案外、うまく立ち回ってそれなりの働きをしてくれることだろう・・・。
その日もペトロは、そんな風に家で朝食を食べながらあれこれと仕事に思いを巡らせていた。
ペトロの一日は本当に忙しかった。
前の弟子達が去った後も、噂を聞きつけて入れ替わり立ち替わり、新しい弟子がイエスの元へと入門しにきた。
その弟子希望者を選考したり、説法を行う場所の交渉に行ったり、人を集めるのも当然、必要だった。
ヨハネの死後、ファリサイ派やサドカイ派は、新興で宗派を作る者に鋭い監視の目を向けていたし、もちろんイエスの動きも見張られていた。
だから、場所はもちろん、説法を聞きに来る人々もある程度、どういった人達なのか事前に調べて気を配らなければならなかった。
とはいえ、ペトロはそういった仕事の面ではかなり有能な男だった。
何より、彼はとても働き者だった。
弟子達の誰よりも早くに起きて支度し、他の弟子達を集めて的確な差配を行い、夜遅くなっても彼は嫌な顔一つせず、率先して下の弟子達を助け、みんなと一緒に働いていた。
だから、弟子達の中で誰よりも頼られ、慕われるのも彼のそんな優秀な仕事ぶりが大いに認められていたからだった。
リーダーにふさわしい人物とはペトロのことだ、と誰もが称賛するところだった。
そして、彼自身も自分が有能であることに絶対的な自信を持っていた。
わたしはもう、ただの元漁師ではない。
国中の注目を集める宗派の一番弟子なのだ。
誰もがひれ伏し、ありがたがる奇跡の人の一番弟子となるのだ!
そして、この宗派を、あのイエスをもっと売りだしてわたしは出世してやる!
誰よりも強く、裕福な幸せな男として名を残してみせるっ!!
そんな夢を描くペトロの心は、少しずつ何かが変わってきていた。
イエスが当初から抱いてきた思いとは全く異なる、何か黒い塊のようなものがペトロの心の中で次第にできつつあった・・・。
そして、それがはっきりと目に見える形となって現れたのは、ある日の出来事からだった。
その日、イエスは珍しく朝早くからペトロの家にやってきた。
「おはよう。今日はどこで説法ができるんだい?」
いつもより目覚めが早かったらしいイエスは、さわやかな笑顔を向けてペトロにそう尋ねた。
「おはようございます。
すみません、すぐ支度してご案内します。
今日は、クファノウムにあるシナゴーグを貸してくれるそうです。
なんでも百人隊長のカシウス様の口利きで、ぜひともイエス先生に説法をお願いしたいと言ってまいりました」
ペトロは朝食のパンを頬張りながらあわてて椅子から立ち上がり、イエスに今日の予定をそう告げた。
「百人隊長のカシウス? ああ、あのローマの軍人さんのことか」
イエスはその名を聞いてあの大柄でひどく真面目くさったカシウスのことを思い出し、ふっと笑みをもらした。
「はぁ、そこのシナゴーグはカシウス隊長が建造に携われたとのことで、彼の口利きならばぜひ、イエス先生に来ていただきたいと。
ですが、ご本人は外国人なのでシナゴーグの中に入れないですし、喪中ということもあって先生のお話は聞きにいけないとのことでした」
ペトロがもらした“ 喪中 ”という言葉で、イエスは彼の部下が亡くなったことに気がついた。
「そうか・・・。
あれほど大切に思っておられた部下を亡くされて、さぞかしお気を落としのことだろうに。
そんな時にわたしのことを気にかけて、そうした礼を尽くすとは。
なんと律儀なお方だ。
ああ、もちろんだ、彼の気持ちをくんで喜んでそこへ行かせていただこう」
イエスはそう言って下を向いてカシウスのことを考えた。
ああいう人に出会えたことは何と素晴らしいことか!
世の中にはまだまだ、ああいう真心をもった立派な人もいる。
そう思うと、これまでわたしの話が通じないと空しさにとらわれ、悲観的になっていた自分が情けない。
ああいう人が頑張っていらっしゃるのなら、わたしも頑張らないと・・・。
どんな時であっても、思いやりと感謝を忘れない素晴らしいお人だ。
人を束ね、上に立つ者ほど謙虚で心優しくあらねばならぬと自分を厳しく律するお方でもある。
ああいう心持ちをわたしも見習いたいものだ・・・。
イエスはあのいかついカシウスが一瞬、イエスに見せた優しい笑顔を思い出し、心が洗われるようなさわやかな気持ちになった。
その時、イエスを現実に引き戻すかのように、台所の奥の方から誰かが激しい咳をする声が聞こえてきた。
「ペトロ、誰か病気なのか? ずいぶんとひどい咳をしているようだが・・・」
イエスがそう尋ねると、ペトロはにっこりと笑って答えた。
「ああ、義母です。
ちょっと風邪を引いたようなんですが、大丈夫です。
ご心配には及びません、働いていればすぐに治るでしょうから。
それよりわたしは支度してきますので、しばらくここで朝食を召し上がってお待ちいただけますか?
ついでに、今日のお供であるマタイも呼んでまいります」
ペトロはそう言って支度をしに行ったので、イエスはペトロに言われたように椅子に腰かけて朝食を食べることにした。
だが、咳は絶え間なく続く。
気になったイエスはじっとしていられなくなり、台所へと向かった。
そこにはペトロの妻の母であるデボラが働いていた。
「あら、イエス先生、コンコン。おはよう・・・コンコン、ございます」
苦しそうにデボラは咳をしながら、無理やり笑顔でイエスに挨拶した。
デボラはおとなしくて面倒見のいい女性で、今のところ、イエスの食事の世話はもっぱら彼女がしてくれているようなものだった。
イエスの母マリアは、イエスと同じクファノウムの家に同居していたが、彼女はこれまた一緒に同居しているイエスの弟達の面倒を見るのに忙しく、イエスとは滅多と会話もしなかったし、顔を合わすこともそれほどなかった。
狭い家に住みながら、よくぞここまで疎遠になれるなと周囲が不思議がるほど、イエスとマリアの親子関係は複雑であり、むしろお互い故意に避けあっているかのようだった。
だが、そうしているからこそお互い同居していて衝突やわだかまりが発生しにくいとも言えた。
それほど、イエスの家庭環境は病巣が深く、もはや他人にはどうすることもできないものだったのである。
そのため、イエスの世話はもっぱら近所に住むペトロの義母であるデボラと、もう一人の弟子であるゼベダイ兄弟の母サロメが行っていた。
だから、デボラは台所にやってきたイエスを見て、早速、彼のために朝食を作ろうとした。
そんなデボラの頬がいつもよりずっと赤らんでいるのを見て、イエスは気の毒になり、そっとその額に手を当ててみた。
その異常な熱さにイエスはびっくりした。
「なんて、ひどいっ! まるで竈並みに熱いじゃないか!
寝てなくては!!」
イエスはあまりの高熱に驚いて、デボラの腕を引っ張り、寝室へと連れて行こうとした。
「大丈夫です、コンコン、イエス先生。
動いていれば、そのうち熱は静まりますから」
それでも咳は止まらない。
どうやら何日か前からかかっていた風邪をこじらせたのか、デボラはすでにかなり重病だった。
この人は我慢強くて、ペトロ以上に働き者だからなぁ・・・。
イエスは、そうして意地を張って働こうとするデボラを無理やり寝室まで引っ張っていき、彼女をそのまま寝床に寝かせた。
「とにかく、このままじゃいけない。医者を呼ばないと」
イエスは今一度、デボラの額に手を当て、その熱の高さを確かめると、額を冷やす布を探し始めた。
「いえ、先生、コンコン、本当に心配なさらないでくださいまし。
コンコン・・・、わたしは働いていたら、すぐに治りますから・・・コンコン」
そういってデボラは苦しそうな息をしながらイエスを安心させようと、再び笑顔を作った。
「いや、駄目だ。そんな熱で動いたら、死んでしまう。
とにかく、医者を呼んで養生しなさい」
イエスはさっきよりきつい調子でデボラを叱り、起き上がろうとする彼女を休ませようとした。
ちょうどその時、支度を終えたペトロが部屋にやってきた。
「先生、支度が済みました。さぁ、参りましょう」
「ペトロ、見ての通り、デボラは病気だ。
このままにはしておけない。仕事の前に医者を呼んできてくれないか?
ほら、お前も触ってみたら分かる。かなり高い熱がある。
このままじゃ、デボラは死んでしまう」
イエスは再びデボラの額に手を当てて、ペトロを促した。
「ああ、先生・・・、先生の手は冷たく気持ちいいですね・・・コンコン」
デボラはそう言って少しあごを上げて気持ちよさそうな笑みを浮かべ、そっと目を閉じた。
どうやら熱のせいなのか、眠くなったらしい。
彼女はそのままスーッと寝入ってしまった。
それを見て、ペトロはやれやれと言わんばかりにため息をついた。
「先生、とりあえずハンナを呼んで妻に義母の世話をしてもらいます。
今日一日、寝ていればきっと治りますよ。
それでもし、熱が下がらないようでしたら、医者を呼びます。
今からハンナのところへ行って、その後、マタイも呼んできますから、またしばらくここで待っていてくれますか?」
ペトロはそう言うと、早速、家畜小屋に行って妻のハンナに義母の状態を説明し、その後、別の棟に住むマタイの家へと急いだ。
マタイの住む棟もそれほどイエスやペトロの住んでいるところから遠くない。
ただ、マタイは朝に弱く、いつも集合時間に遅れてくるので、他の弟子達が彼を呼びに家まで来ることが多かった。
ペトロが彼の家にやって来ると、相変わらずマタイはまだ寝ているらしく、彼のいびきの音が下の通りにまで響いていた。
それを聞いて、ペトロは二階の窓に向かって大声を張り上げた。
「おーい、マタイ! 起きろよっ!
支度しろっ! 仕事に出かけるぞ!!」
ペトロの大声にマタイはようやく目が覚めたのか、慌てて寝床から飛び起きた。
寝ぼけ眼で窓から下をのぞくと、通りでペトロがイライラした様子で腕組みしながら立っていた。
「すまん、すまん。すぐ支度して、降りて行くから」
マタイはばつが悪そうに頭を掻きながら、下にいるペトロに手を振った。
そんなのんきなマタイを見て、ペトロはチッと舌打ちした。
ペトロはマタイの支度が終わるのを待っている間、仕方なく今朝の考え事の続きをすることにした。
宗派を大きくするにはメシア(救世主)の存在は欠かせない。
だが、あの人にはメシアたる確証がない。
メシアらしい何かの証拠を示さないと、誰もあの人を信じやしない。
だったら、どうする?
あの人に奇跡が起こせない以上、どうすればあの人を本物のメシアだと皆に納得させられるんだろう?
奇跡を見せずに、多くの人にそれを信じさせる。
本当にそんなことができるんだろうか?
ふむ、人に何かを信じさせるには、何が一番いいんだろう?
やっぱり、まず、目で何かを見せないと誰も信用しない。
たとえ、何かを見たとしても信じない時だってあるしな。
いや、待てよ。
さっき考えていた通り、もったいぶってなかなか見せないのも神秘的といえるが、人は意外と全く見ていないものの方がよりいっそう期待して勝手に想像するんじゃないのか?
そう、人は勝手に解釈して“ 自分の都合のいいように想像する ”。
そして、その想像にほんの少し裏づけになるような言葉を聞くと、つい自分の想像を確信してしまうものだ。
裏づけになるような言葉・・・。
そうか、そうだ! その手があった。
ペトロはポンと手を打つと、自分の思いつきににんまりした。




