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第三十一話 アンデレとペトロ

アンデレは、初めてイエスに出会った日のことを思い出していた。


― あの男は神の子羊だ。


ヨハネ先生はそうおっしゃっていた。

その師の言葉からイエスに興味を持ったアンデレは、彼の家で延々と話した日のことを昨日のことのように覚えていた。

しかし、アンデレには、今だヨハネが言った意味がよく分からなかった。


アンデレは、自分が弟ペトロ(本名はシモンだが)とは違って、それほど才覚のある方でも人を取りまとめられるリーダータイプでもないこともよく分かっていた。

だから、親から言われて仕方なしに漁師の仕事を継いだのだが、自分ではまったく好きにはなれない仕事だった。

かと言って、他に何かしたいのかと聞かれても、別にこれと言って何もなかった。


このままベサイダで一生を終わるのは嫌だ。

そう思い、弟ペトロを誘ってベサイダの町を飛び出してはみたものの、何の目的もないアンデレとペトロ兄弟はすぐに路頭に迷うことになった。

そんな時にヨハネの話を聞いて、兄弟はとりあえず彼の門を叩いたのだった。


初めのうちは、ヨハネの弟子であることは楽しかった。

たくさんの仲間に取り囲まれ、信者の数もどんどん増えていくようで、自分達の未来は明るいように思えた。師であるヨハネは戒律には厳しかったが、評判通り、面倒見も良く、優しかった。だから、アンデレは実の父以上に、ヨハネのことを慕っていた。

しかし、そのうち段々、アンデレはヨハネの弟子であることに苦痛を感じるようになってきた。


それは何よりも、他の弟子達との競争が彼にはついていけなかったからだった。


宗教上の勉強会においても、戒律においてもヨハネの弟子達の熱心さは他の宗派の群を抜いていた。

特に、ファリサイ派のようにただ戒律の知識だけを詰め込む勉強ではなく、ヨハネ達のグループはそこに実用的な方法を新たに模索しようとしていた。

そのため、そういった勉学を目的として各地から集まった弟子達はかなりの知恵者であったし、アンデレやペトロのようにまるっきり目的もなく始めた者にとっては、まるで金魚がいきなり大海に放り出されたような気分だった。



それでも、アンデレもペトロも何とかそれについていこうと頑張ってはいた。

しかし、ヨハネの教義の解釈を巡っては論争し、戒律のやり方においても論争する。

こういった学問に対する情熱は、アンデレとペトロにはまるっきりなかった。

見よう見真似でやってはいたが、人と比べてアンデレはそれほど要領がいいわけでもなかった。


ペトロの方は、何をさせてもそつがないゆえに、どこに行っても何も問題ないように思えた。


そんな時に、アンデレはヨハネの言葉を耳にした。

「あの男は、神の子羊だ。

わたしは水で洗礼を施すが、彼なら聖なる神の精神でもって洗礼を施してくれるだろう。わたしにはまるで鳩が彼の肩に舞い降りたように、神の精神というものがあの男に降り注がれ、彼の中に宿っているのが見える。

彼こそ、この世の罪という罪を取り払ってくれる男だ」

そのヨハネの言葉にアンデレは答えを見たような気がした。



あの人が神の精神というものをわたしに施してくれたら、わたしも何か道が開けるんだろうか?


アンデレは、そんな気持ちからイエスの家に行き、彼に質問し続けた。

ぶっきらぼうに見えたイエスだったが、アンデレの質問にはできる限り答えてくれた。

その真摯な姿にアンデレは希望を覚えた。



ヨハネ先生の言っていることは正しいかもしれない。

この人についていったら、わたしの生き方を何とか変えてくれるかもしれない。


そう思ったアンデレは、それまでヨハネに対して抱いていたのとはまったく違った希望をイエスに見るようになった。


そして、弟ペトロを誘って、彼はイエスに弟子入りしたのだった。


その結果、ペトロとアンデレはイエスに弟子入りして以来、確かに以前とはまるっきり異なる待遇が受けられるようになっていた。


イエスと同じ棟に住んだことから彼の傍近くで一切を任され、他の弟子達からも一目、置かれるようになり、彼らは自分達の立場がヨハネのところにいた時よりも格段に良くなっていることに気がついた。


だから、アンデレは他の弟子達が去ったとしても、今の立場を捨てる気にはならなかった。

それに、彼としてはさほどイエスのやり方に危機感を感じてはいなかったのである。




しかし、弟ペトロの方は、逆に大きな危機感を感じていた。


兄アンデレに誘われるままイエスに弟子入りをしたペトロは、最初はそうでもなかったが、その後、自分がリーダー格に納まるようになると、イエスのところでの仕事が気に入り始めた。

それゆえ、彼の心に大きな野望が宿ったのだった。



もっと信者の数を増やし、もっと活動の輪を広げていけば、もっとこの宗派は拡大していく。

それが私達、皆の利益にもつながる。



利益を考え、その目標に向かってあれこれ工夫するのがペトロは何より得意だった。

だから、イエスの気持ちや彼の言っている意味を考えるよりも、彼の名を売ることの方が大事だと考えるようになっていた。


この人は、こういうことにはまるっきり向いていない。


その鋭い分析力でペトロはイエスの活動について、そう結論づけた。


確かに、この人の説法や雰囲気は他の人にはないものがある。

しかし、実用性はまるでない。

どこか夢見がちで柔らかな物言いなのに、それでいて世間に反発されやすい強烈なことを、なぜか突然、この人は言い出す。

それでは人がこちらを向いてくれるはずもない。


社会に融け込めるような、ある程度の妥協と言うものが必要なのだ。


しかし、この人にはそういった才は、まるっきりない。

頑固とも言えるぐらい自分の信念を曲げないところがある。

それでは人が怖がって、活動自体が縮小していってしまうではないか。

そうであっては困る。

これを何とか食い止めないと、私達が食いっぱぐれてしまうのだ。



ペトロはイエスの元を去る気はなくても、イエスの活動方法については常々、疑問を感じていた。

それに、自分が弟子達をまとめている以上、この宗派を絶対に成功させなければ、という強い責任感にも駆られていた。

だから、彼にとってはイエスが話す“ 神についての真実 ”よりも宗派と自分の成功こそがもっとも大切なことだった。



こうして、残された12人の弟子達は様々な思惑を抱きながら、再びイエスと共に新たな出発を誓いあったのだった。





そして今、ヘロデの前に立つイエスはあの時の弟子達の誓いをまるで遠い昔のことのように思い出していた。


あの時まで、あの山の上で自分の考えを話した時まで、正直なところ、イエスは誰に対しても、弟子や信者達に対してですら心を許す気にはなれなかった。

それは彼が人を恐れていたからだった。

きっとわたしが話をしても信じないだろう、と最初から人に対して不信感を抱いていたせいかもしれなかった。



だが、あの時、神について自分なりに誠意を込めて説明したつもりだった。

そして、その考えを聞いて彼らだけは自分の元に残る、と言ってくれた。

イエスには、それが何よりも嬉しかった。


わたしだけでは何もできない、わたしだけでは・・・。

一人が種を蒔き、別の人がこれを刈り取る。

あの諺通りかもしれない。


わたしの心に愛と真実があり、彼らの心にも、またその愛と真実がある。

そうした互いの心と心が上手くつながった時、神は人の愛に喜び、そしてその力を貸してくださるのだ。


だって、“ 神は愛そのもの ”なのだから。


―  わたしはここです、ここにいます。

  主がわたしに、その子供達をくださった。

  私達はイスラエルにおける、全知全能の主からの徴だ、象徴だ。

  全知全能の主はジオン(明日(神)に希望を抱き、夜明けを信じる人)の山におわす。

(イザヤ8章18節)

律法書にあるそのイザヤの句を思い浮かべながら、イエスの口元が自然とほころんだ。


天の御父が彼ら12人をわたしに与えてくださったのだ。

そして、わたしは彼らを育て上げなければならない。



彼らがわたしの話を聞いて理解し、天におられる私達の御父の愛を知れば、彼ら一人一人が御父の愛を信じれば、神はこの荒んだ世界に情けをかけてくださるかもしれない。

この乱れきった世の中にもう一度、その愛の御目を向けて救ってくださるかもしれない。

そして、人々の心に本当の愛と真実が蘇った時、わたしもまた、人としてこの世界で受け入れてもらえるだろう。


皆、仲良く、平安に幸せに暮らしていけることだろう。


だから、わたしがもっと自分の考えを話し、ヨハネのようにわたしの愛を彼らに降り注げば、彼らも少しは気づいてくれるかもしれない。

彼らもその心の扉を少しは開いてくれるかもしれない・・・。



イエスは、あの時、そうして人の愛を信じようとしていた。

人に対し、わずかな希望を持とうとしていた。


しかし、所詮、それははかない夢でしかなかった。

だが、この時のイエスは、それがまだ、よく分かってはいなかった。



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