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第三話 裁判(3)

洗礼者ヨハネとは、その当時、ユダヤの中でも庶民の側に立った宗教家だった。


彼は、ユダヤ教の実質権限を巡って長く争い合っていたサドカイ派とファリサイ派の政治的および宗教的対立を痛烈に批判し、その歯に衣着せぬ豪傑な物言いとすぐに泣き出すと言う情のもろさも手伝ってか、庶民の間では絶大な人気を誇っていた。

また、彼はヨルダン川の近くでラクダの毛織で編んだ服に皮帯かわおびをしただけの不恰好ぶかっこうな様子で大声を張り上げ、遠くから彼の噂を聞いてやって来るユダヤ人達にこう呼びかけた。

「己を省みるがいい。そうすれば、天国は近くなる!

我らの預言者イザヤはこう言った。

『砂漠で一つの声が叫んでいる。主の道を整えよ。主の為に、まっすぐな通り道を整えよ』(イザヤ40章3節)と。

今こそこれまでの行いを悔やみ、身を慎んで、その身を実りあるものにするのだっ!」


そうして、洗礼者ヨハネは社会におけるモラルの低下そのものを嘆いてその警鐘を鳴らすと共に、多くの人が社会変革を担えるよう、一人一人に“自省とその行動改革”を強く訴えたのだった。


その彼のメッセージは、当時、ユダヤ教社会にものすごい衝撃を与えた。

特に、急激な社会変化の中でその価値観と社会格差についていけなくなっていた貧しい庶民にとって、彼の言葉はまさに心の救いとなったのである。


そんな彼の噂を聞きつけてか、ナザレのイエスもまた、ヨハネのいるヨルダン川へとやってきた。

懺悔と共にヨルダン川の水でその心を洗え、とばかりに洗礼活動にいそしんでいたヨハネは、そこでイエスと知り合うことになる。

そして、ヨハネはイエスの人柄に強い感銘を受け、その後、彼が同じような洗礼活動を始めたことを知って彼の弟子達にこうもらした。

「わたしがこれまでずっと待っていたのは、あの男だ。

わたしの後にやって来るが、わたしを超えていく男だ。

なぜなら、あの男の方がわたしよりも先に律法書(旧約聖書)の中で“存在していた”んだから。

あの男が現れたことで律法書(旧約聖書)の預言が実現した。

わたしは“水で”神への洗礼をほどこすが、彼は“神の精神”で持って洗礼を施すことができる。わたしはきっとあの男の靴紐を結ぶほどの価値もないだろう。

あれこそまさに神が授けた息子と言うものだ」



だが、ヨハネの弟子達の方はそんなイエスの活動を初めは快く思っていなかった。

何人かの弟子達の間ではイエスがヨハネと同じように洗礼活動を行っていることで議論が紛糾ふんきゅうし、結局、彼らはヨハネのところに大勢で押しかけてきた。

「ラビ(先生)、あなたが以前お話なさっていたヨルダン川でわたし達の反対側にいたあの男のことを覚えていらっしゃるでしょうか?

あの男が最近、頻繁に洗礼活動を行っているようなのです。このままでは他の人達は皆、彼の方に行ってしまいます。ラビ、私達は一体、どうすればよろしいでしょう?」

イエスに自分達の信者を奪われることを恐れたヨハネの弟子達は、そう言ってヨハネに強く詰め寄った。

だが、その言葉を聞いてヨハネはほほ笑みながら彼らをこうさとした。

「人というのは天から与えられたものしか受け取ることはできない。

お前達だって、わたしが話したことをちゃんと覚えているだろう。

『わたしはメシア(救い主)ではない。わたしはその救い主の前にこの世に送られた男だ』と。

花嫁というのは花婿のものと決まっている。そして、花婿の“友達”というのは、花婿がやって来るのを待っていて、その声を耳にしたらその喜びで一杯になる。

だから、その喜びこそ今のわたしの気持ちなのだ。わたしは今、それで一杯になっている。

あの男はもっと大きくなっていかないといけない。

一方、わたしはもっと自分の身を小さくしなければ」


その言葉を聞いた弟子達は、それほどまでにヨハネが賞賛する男とは一体、どんな人物なのか見て来てやろうと、そのうち直接、イエスのところへ出かけて行く者まで現れた。

そして、その弟子達の何人かはそのままイエスに従って行った。



しかし、そんなことがあっても、ヨハネもイエスも、お互い敵対することはただの一度もなかった。

彼らはお互い、現在のユダヤ社会を憂えてその崩壊を予見し、その危機感からそれぞれの活動を始めたのであって、互いの支持の多さを気にするよりもむしろ、志を同じにする仲間が増えることの方が何よりも嬉しかったのである。

だから、イエスが彼の弟子達を連れてユダの地方へと出かけていき、そこで活動を行うと、ヨハネもまた豊富な水を求めてヨルダン川の源泉とされるサリム近くのエイノン(現在の場所は不明)と呼ばれる泉のほとりで自身の洗礼活動を行った。

こうして、彼らが広く分散し、それぞれの場所でその活動を行ったため、多くの人が常時、洗礼を受けに行ったり、話しを聞きに出かけるようにもなっていった。


しかし、こういった心の底では互いに信頼し合い、その友情をはぐくんでいるような、ヨハネとイエスのいい意味でのライバル関係もヘロデとヘロディアスが結婚したことで突如、終わりを迎えることになる。



実は、“あの事件”が起きる以前からずっと、洗礼者ヨハネはファリサイ派とサドカイ派という、ユダヤ社会ではかなりの権力を握り合う両派に対して、度々、強い批判を浴びせてきていた。


その当時、ユダヤ社会は、政治および宗教思想の中心となるグループとしてファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派、熱心党といった派閥にそれぞれ分かれており、中でもサドカイ派とファリサイ派は主流派で、しかもこの両派は特に強い対立関係にあった。

彼らの対立は、元々、トーラ(モーゼ5書)と呼ばれるユダヤ教の律法書(現在の旧約聖書のこと。当時は国の法律や教科書のようなものだった)についてそれぞれ異なる思想を形成していたところにあったが、何よりその対立をさらに深めていたのはローマ帝国の支配下に置かれることへの意見の相違であった。


もちろん、「ローマに従属しなくていいのなら、それに越したことはない」というのはどの派閥においても言えることだったが、特にサドカイ派はローマへの反感はとりあえず脇に置いといて繁栄しているローマからの恩恵は積極的に受けていこうとするグループだったのに対し、ファリサイ派を始めとする他のグループはあくまでローマへの強い嫌悪感を隠そうとはしなかった。

それを愛国心と呼ぶならある意味、そうかもしれないが、問題はそれほど単純なものではなかった。


と言うのも、ファリサイ派はサンヘドリン(長老会)を形成し、主にユダヤ教社会の民法や宗教法をつかさどっており、常に律法書(旧約聖書)に基づいた戒律を強く固持しなければならない立場のグループだった。

そのため、宗教はもとより、法律そのものが異なるローマ帝国の思想を受け入れることはユダヤ教の戒律において大罪であると同時に、彼らの司法権力そのものがローマ帝国に奪われてしまうことを意味していた。実は、そのことで彼らは一度、ヘロデ大王に大きな抵抗を試みてみたのだが、ことごとく処罰されてしまい、かえってその権限を弱めることとなってしまった。

それゆえ、ヘロデ大王はもちろんのこと、彼を後ろ盾するローマ帝国に対してますます反感を募らせていたのだった。

一方、サドカイ派は伝統的にエルサレム神殿などの僧職を始めとする宗教そのものをつかさどっていて、特に戒律を気にするよりも寺院の運営やその拡充の方に力を注いでいた。そのため、富裕信者が増えて自分達のふところが潤い、神殿経営が拡大していくことにそれほど罪の意識は感じなかったのである。当然、ローマ帝国に対しても概して寛容的になりやすく、また経済的にも裕福だったことからその生活は次第に豪奢ごうしゃなものになりつつあった。

だが、人々を指導するはずの僧侶達が風紀を乱していったことでユダヤ社会全体がデカダンス(退廃)的な雰囲気に包まれ、それまでの倫理観を次第に脅かすようにもなっていた。


こうして、両派がその利害を巡って言い争う毎に社会的なひずみが生まれ、異教徒のローマ帝国への反発と経済的格差から来るストレスも相まって、狂信的なユダヤ教徒の中には暴力的な手段に訴えてでも敵対するグループを排除しようとする者まで出てくる始末だった。

そうして、ユダヤの治安はますます混乱していったのである。



そんな最中、この両派の対立構造にこそ問題があるといち早く気づいたのが洗礼者ヨハネだった。

彼は、争いばかりで何ら建設的な解決方法を考えようとしない両派に見切りをつけ、自ら独立した洗礼活動を行うことで両派になり代わってユダヤ社会の改革に乗り出したのである。


そして、この彼の動きに大いに賛同したのがユダヤ庶民だった。


彼らもまた、社会に対して強い不安と疑念を抱いていたため、それを強く糾弾してくれるヨハネに大きな拍手を送り、彼を盛んに支持したのである。

だからこそ、エルサレムやユダ地方のありとあらゆる土地からはもちろんのこと、遠いヨルダン方面からも彼らはヨハネの洗礼を受けようと彼が活動しているヨルダン川にまでわざわざその足を運んだ。



そして、その噂を聞きつけた当のファリサイ派とサドカイ派もまた、ある日、突然、ヨハネが洗礼を行っているところにやって来た。

ところが、ヨハネは大勢の人々に混じって彼らがやって来きたことに気づくと、途端に彼らに向かって大声でこう叫んだ。

「そこの吸血鬼共っ!来たるべき主の怒りをかわせるように一体、誰がお前達に忠告してやれるだろう?

さぁ、今こそ懺悔して身を慎み、その身を実りあるものにせよ。

そして、自分達こそアブラハムの子孫だ、などとうぬぼれるな!神はこれらの“小石達”の中から我らの祖先であるアブラハムの子孫をお育てになるのだ。

主の怒りの斧はすでにそのお前達の根元に置かれている。

良い実をつけない木はすべて切り倒され、そのまま業火ごうか(=悪癖・悪習といった悪循環の苦しみ)に投げ込まれることだろう」

これを聞いて彼らは恐れおののき、そそくさとその場を立ち去った。

そして、帰ってくるなり、そのまま自分達の上の者にその出来事を報告したのだった。



もちろん、その報告を受けた両派はそれ以降、ヨハネの事を危険視するようになった。



それに、サドカイ派とファリサイ派は確かに対立関係にあったが、表向きはどうあれ、自分達がこれまで統括してきた伝統的なユダヤ教体制を存続させることに関しては両派とも意見を同じにしていた。

だから、ヨハネのようにそれを根こそぎ改革しようとは決して思っていなかったのである。

それゆえ、庶民に向かって両派を強く非難し、その権威に疑問を抱かせるような説法を行うヨハネは、当然、彼らの目からすると自分達の体制そのものを脅かそうとする危険人物と映ったわけである。



そこで、両派は早速、これを排除しようと、まず手始めにヨハネの洗礼活動の違法性を訴え、彼を逮捕することにした。



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