第二十九話 離反
この人は、一体、何を言っているんだ?
寄付や供物なんかどうでもいいって、そんな馬鹿なことがあるか?
皆、空気を食って生きてるわけじゃあるまいし。
自分だってそれで生計を立ててるようなもんじゃないか。
何をきれいごと、言っているんだ。
鳥ですら自分の縄張りを守るために戦う。
生き残るためには皆、それなりに勝たなくては誰かにやられるだけだ。
この人のように、のほほんと生きてたらそれこそ飢え死にだ。
まして、何がさりげなく、だ?
たくさんの寄付や信者を募るのは何もそれが目的じゃない。
多くの人に信仰を広めていくには当然、多くの人を説き伏せ、宣教していかなくちゃならない。
さりげなくなんてやってたら、誰も信じてはもらえないし、かえって教団そのものの存在を怪しまれるだけだ。
戒律バカだったヨハネ先生でさえその辺の事情はよく心得ていた。
もちろん、教団の運営にも熱心だった。
だが、この人は違う。
この人はそんなことを一つも考えない。
むしろ、弟子達が宗派を盛り上げようとしても、それに水を差す真似をする。
しかも、言ってる事が矛盾していていつも支離滅裂だ。
一体、この人は何がしたいんだろう‥‥?
ペトロは訳が分からず、ただイエスの顔を穴が開くほど眺めていた。
だが、イエスから自分が納得できる答えはもはやもらえないだろうと、ペトロはイエスのことを半ばあきらめていた。
ちょうどその時、昨日と同じように大勢の人達がイエス達のいる野原へとやって来た。
どうやらイエスが予想した通り、昨晩のイエスの話を聞きつけて人の数はさらに増えていた。
イエスは、やはり来たかと言わんばかりに一瞬、顔を硬くして立ち上がったが、すぐに愛想良くにっこり笑って彼らを出迎えた。
「ラビ、お探ししました。いつ、こちらにいらっしゃったのです?」彼らの中の一人が期待に胸を膨らませ、顔を紅潮させてイエスに話し掛けた。
「ちょうどいい時にいらっしゃいました。
今、弟子達に昨晩の事について話をしていたところです」
イエスはにやっとして、また、話し始めた。
「さて、あなた方にもお話ししておきましょう。
確かにあなた方は昨晩、ヨハネ先生を悼み、わたしが今後、彼の意思を継いで皆の面倒をいろいろ見てあげるものだと思われたかもしれません。
でも、わたしはヨハネ先生のように皆にパンやお金、その他のものを配るつもりはありません。
昨日、わたしは確かに皆さんにパンを配りました。
でも、それは一つの例えとして行っただけで、何もパンやお金、その他の何かを誰かに配ることが信仰だと言っているわけじゃありません。
信仰とは、“ 神を信じることです ”。
信仰とは、” 神を信じて今を精一杯、生きることです “。
何も特別なことをする必要はありません。
あなたが良かれと思ったことをあなたなりにやればいい。
そして、自分の心を満たすことです、物や形で“ 埋める “のではなく。
昨日、あのわずかばかりのパンを召し上がって、皆さん、気がついたはずです。
パンは食べても食べてもまたお腹がすきますが、心が満たされたら、たとえどんなにお腹が減っていたとしても幸せなのです。
だから、食べても食べても満足しないような虚しいパンを信じて働くよりも、あなた方の心を創り、一人一人にそれを与えてくれた“ 永遠なる命の源である神 ”を信じて働くことです。
そのために神は天よりあなた方の心が満たされるよう、メシア(=救世主、ギリシャ語では『キリスト』)をお遣わしになるのです。
そして、そのメシアについては天の御父があなた方一人一人の心に承認の印を貼ってくださいます。
だから、きっとあなた方自身でその人だ、と分かるはずです」
「イエス先生、私達は神を信じています。
でも、あなたのお言葉だとまるで私達が神を信じていないように聞こえます。
一体、神は私達に何を求めておられるのでしょうか?」
イエスの話に納得できないような表情を浮かべて、男が一人、立ち上がってイエスに尋ねた。
「神が求めておられるのは、神が送られた“ 人の言葉 ”をあなた方が信じることです」
イエスのその“ 言葉 “を聞いて、皆はざわめき出した。
そのうちさっきの男とは別の男が、立ち上がってイエスにまた、質問してきた。
「しかし、その人の言葉を信じろと言われても、嘘か真実かなんてなかなか分かりませんよね?
今は口先だけの人が多い世の中ですから。
やっぱり、態度や行動で示してくれないと信用することなんてなかなかできませんよ。
第一、メシアなら天からの奇跡の徴があるはずです。
例えば、預言者モーゼ様は、砂漠で飢餓に苦しむご先祖様達に″ マンナ ”を天から与えてくださった。
律法書にも『その人は天から彼らに食べ物を与えた』(出エジプト記16章4節)とちゃんと書かれてあります。
それ以外にも様々な奇跡を起こしてくださった。
天の神はそうやって私達が苦しい時にメシアをお遣わしになって助けてくださる。
これこそ天の恵みでなくてなんでしょう?
アーメン(そうでしょう?)」
男がそう話し終えると、他の人々も祈りを込めて
「アーメン(その通り)」と唱えた。
確かに、律法書(旧約聖書)にはヘブライ人達(古代ユダヤ人)と共にエジプトを脱出したモーゼが、砂漠をさすらっている際、天から“ マンナ ”(「これは何?」の意)というパンを降らせ、餓えで苦しむ人々に与えたという記述があった。(出エジプト記16章参照)
また、モーゼが起こしたとされる数々の″ 奇跡 ″的な出来事も書かれていた。
だが、その一方で、ヘブライ人達と共に砂漠を40年もさすらいながらリーダーとして人々をうまく統率できないモーゼ自身の苦悩や、食糧を確保するための様々な苦労も描かれていた。
つまり、モーゼに奇跡が起こせるのなら、何もわざわざ40年も砂漠を歩く必要もないだろうし、飢えで苦しむ前にマンナを降らせればいいはずだ。
だが、人は自分の都合のいいところだけを見て、都合の悪いところは見て見ない振りをする。
だから、ユダヤ人にとって預言者もしくはメシア(キリスト)というのは、必ず魔法のように何らかの奇跡を起こして自分達の願い事をかなえてくれるものというイメージが出来上がっていた。
物理的な助けがあれば、人は誰でも救われるわけじゃない。
イエスは彼らの言葉を苦々しく聞いていた。
その助けがなくなってしまえば、人はすぐに不満を言い出す。
モーゼが一体、何のために40年も何十万ものユダヤ人を引き連れて砂漠を彷徨っていたか、彼らは深く考えない。
ただ、マンナ(利益)が上から降ってきたことだけが救いだと思っている。
そうじゃない、そうじゃないんだ。
そんなものは食べてしまえば、すぐに消えてしまうものなんだ。
モーゼやヘブライ人達は、マンナのためだけに砂漠を彷徨っていたんじゃない。
彼らは平和で心豊かな暮らしがしたかったんだ。
争ったり、互いに苦しめ合うような社会から逃れ、互いに愛し合い、助け合えるような平和な社会を求め、危険を顧みず砂漠へと飛び出したんだ。
しかし、それは人間の力だけではどうにも達成できないことだった。
殺伐とした砂漠の中で、よそ者には冷たく、時には殺すことも辞さないような人の心を失ったこれまた同じ人間から命を狙われ、ただひたすら愛と平穏を求めて彷徨っていたのだ。
人はただ、食べて息を吸うために生きているんじゃない。
その心に愛と安らぎを育て、それを分かち合うために生きているんだ。
そうしてそれらを分かち合うことで、はかない生を互いに満足しあって生き、そして死ぬ。
それが人間の“ 生 ”というものだ。
人が持つその“ 心 ”こそ、人の“ 命 ”そのものなのだ。
彼らはその真実に気づかない。
律法書に書かれた、その真実に・・・。
イエスは、静かに首を横に振ると、再び話し始めた。
「真実を話しておきましょう。
マンナを天から与えたのは、モーゼ自身ではありません。
それは天の御父です。
御父こそ、万物を創り、人にもっとも必要な本物の“ 生きたパン ”をあなた達に与えるのです。
だから、神からのパンは天から降りてきて、この世界に“ 命 ”を与えるのです」
「では、先生、あなたの言う、そのパンを私達に下さい」
信者達は口々に言った。
イエスは彼らのその様子を見て、意を決したようにはっきりと大声で言った。
「わたしがそのパンです。
わたしこそ、あなた達の“ 命 ”のために神がこの世に与えた生きたパンです。
わたしのところに来る人は、決して餓えも乾きもしません。
わたしの言葉を信じる人は、神から“ 命 ”を与えられます。
真実が見えるようになります。
でも、あなた方はきっとわたしのところに来ることを拒むでしょう。
あなた達は今、わたしを見て信じられないでいる。
でも、御父を信じる人達は必ず皆、わたしのところに来ます。
だから、わたしはそれが誰であれ、決して追い払ったりはしません。
わたしはまさに、その為に御父に導かれてこの世に生まれて来たのですから」
そうイエスが話した途端、そこに集まった人達は、一斉に騒ぎ出した。
「は? 何だって?」
「生きたパンですって」
「そんな馬鹿な」
「よく言うよ、まったく」
そんな小さな声がさざ波のように広がり、人々はかなりイエスの話に動揺しているようだった。
そして、彼らは先ほどの親しみを込めてイエスを見つめていた眼差しを一変させ、急に態度を変え始めた。
その時だった。
「ちょっと、あんた。
あんた、ヨセフさんとこの息子さんだろ?
わたしゃ、あんたがナザレにいた時から知っているんだよ」
一人の中年の女が手を振って、イエスに呼びかけた。
イエスは、はっとしてその声のする方向に目を向けた。
一人の太った中年女が、大勢の人々の中央辺りに一緒になって座っていた。
「え?誰だって?」
彼女の横に座っていた男がその女に尋ねた。
「あれは、ヨセフって言う大工だった男の一番上のせがれさ。
わたしゃ、あの子のお母さんのマリアとは昔、同じ棟に住んでたからね。
あの子の小さい時をよぉく知ってるよ。
イエス、あんた、こんなことして一体、どうしようって言うのさ?
天から降ってきたパンだって?
何を言ってるんだい。あたしが何も知らないと思ったら、大間違いだよ。
あんたがオシメしてた時から、あたしゃ、あんたのこと、知ってんだからね」
女はそう大声で叫ぶと、立ち上がって自分の顔をイエスにも見えるようにかぶっていた赤茶色のヒマシオン(ローマ時代の女性用クローク。頭からすっぽりとかぶる長い布のこと)を少し後ろにずらした。
確かに、イエスがナザレで住んでいた頃に顔を見合わせていた近所の主婦だった。
イエスは、彼女に訳もなく人前で咎められて、その恥ずかしさで顔を赤らめた。すると、座っていた人々はそれに気づいてイエスに騙されたと思い、一斉にイエスと弟子達を非難し始めた。
その非難にひるむことなく、イエスは再び話を続けた。
「待ってください、皆さん。
わたしはただ、本当のことを言ったまでです。
今は誰もわたしのところには来れないかもしれません。
それは、わたしを送った天の御父がその人を導いてこない限りは無理でしょう。
でも、必ずあなた達にもいつか分かります。
御父がわたしのところに導いてきた人を、わたしは神の審判が下る最後の日まで育てることになるでしょう。
律法書にもこう書かれてあります。
『彼らは皆、神により教えられる』(イザヤ54章13節)と。
だから、天の御父の話に耳を傾け、その教えを受け入れる人は、必ずわたしのところに来ます。
誰も神というものを見たことはありません、ただ一人、神から送られて来る人以外は。
その人だけが天の御父を見たんです。
真実を言いましょう。
わたしの話を信じる人は、永遠の命であるあなた達の神、あなた達の“ 心 ”というものを創った“ 主 ”を得ることでしょう。
そして、わたしはあなた達の荒みきった“ 心 ”に栄養を与えるパンなのです。
わたしはあなた達の心を救う為にこの世に生まれて来た。
だから、わたしの今までの人生で得てきた血と肉を食べ、その心を培った人は永遠の命の源である神をその心に住まわせることができます。
あなた達の先祖は砂漠でマンナを食べたけれど、死んでしまいました。
どれほどの富を得ようと、権力を欲しいままにしようとそれで“ 永遠の命 ”は得られない。
あなた方の心に神がいることがどれほどの“ 安心 ”であり、幸せかも“ 分からない “。
けれど、わたしの言葉を受け入れる人はその安心が得られます。
わたしこそ、まさしく神が与えた生きたパンなのですから」
イエスはそうして怒ってののしる人々を静めようとしたが、彼らはその話を聞いていっそう怒り出した。
しかも、イエスの傍で黙って話を聞いていたヨハネの元弟子達まで、それまでの不満が爆発したのか、イエスに反発の声を上げだした。
「それはあまりにも子供っぽい説法ですね、イエス先生。
それを私達に受け入れろ、とでもおっしゃるのでしょうか?
あなた自身を天からのパンと思え、ですって?
冗談じゃない。あなたは何様です?
あなたは、ただの大工の息子でしょ?
自分がメシア(=救い主、キリスト)だなんておおぼらもいいとこじゃないですか。
真剣にユダヤの人々を救おうと骨身を削って働いてきたヨハネ先生を、彼がこれまでしてきたことをあなたは結局、否定なさるんですか?
あなただけが神を見た、ですって?
よくもまぁ、そんな大きな口が叩けますね。
私達は皆、神様をいつも見ていますよ、神殿で。
恐れ多くも神を我が心に住まわせるなんて不敬な考えなど、ここには誰もいません。
私達を侮るのも大概にしていただきたい。
それに何ですって?
心が満たされたら飢えも乾きもしないって?
現実をまったく分かっていらっしゃらない。
幼稚過ぎますよ、“ ラビ(先生) ”」
一人の弟子がそう言って、イエスをせせら笑った。
イエスは、むっとしてその弟子に言い返した。
「あなた達にはわたしの言うことが馬鹿げているのか?
言っておくが、肉体など物の数にもならない。
そんなものは魂を収めるただの入れ″ 物 ”でしかない。
天(宇宙)から見たら、ただの″ 塵 ”だ。
だが、人は人の心、精神、魂というものがあるからこそ、“ 人 ”なのだ。
そして、その心、精神、魂というものは、一人一人違う。
この大地(地球)に生きとし生けるものはすべてそれぞれ違う心を、魂を、精神を授かって生まれて来た。
だが、その心がないがしろにされ、傷つき、病む時、神はその心を救おうとする。
そのためにわたしがこの世に遣わされた。
あなた方には信じられないだろうが、人の心はこの世のすべての基である。
心が病めば、この世のすべてが荒み、心が平和であればこの世は天国になる。
だが、あなた方にはこの真実が分からない。
律法書にこう書いてある。
『精神で鍛練を積む者は理解を得、愚痴や不満ばかりを口にして神に物をねだる者は、人からの指示を黙って受け入れる』(イザヤ29章24節)
あなた方は神殿の僧侶達や先祖から言われた指示は黙って受け入れるのに、一番あなた方のことを思い、あなた方のために日々、助けてくれている神の言葉は聞こうとしない。
神殿で祈るよりも、賽銭を払うよりもっとしなければならないのは、ただ自分の胸に手を当てて神の声を聴くといい。
そこが神のおられる場所だ。
だから、預言者モーゼは何度も言ったはずだ。
『天国に行ってメシアが神の御言葉を聞いてきてくれたら私達は従いますよ、というものではない。
また、海の下まで行かないと神の御言葉が聴けないわけでもない。
御言葉はすぐそこ、お前達の口の中、心の中にある。
それならば、お前達だって従えるだろう?
わたしはお前達に生と幸福、死と不幸の道を教えよう』(申命記30章12~15節)
『神を心の全てで、魂の全てで、自分の力の限り、愛しなさい』(申命記6章5節)
『だが、お前達が神を忘れ、人と言う名の神に仕え、神が与えた良心に従わないならお前達は必ず滅びる。
さぁ、わたしは今、お前達に生と繁栄、死と滅亡の道を伝えた。
では、生の道を選べ、ならば、お前達は子々孫々、繁栄するだろう』
(申命記30章17~19節)」
イエスはそう強い口調でその弟子を諭したが、既に“ 心離れた ”弟子にはもはやイエスの言葉など無でしかなかった。
相変わらずフフンと鼻で笑うと、
「言ったでしょう、ラビ(先生)。
私達を侮らないでください、と。
偉大なる預言者モーゼはその御言葉をこう言ったのです。
『わたしはお前達に生と幸福、死と不幸の道を教えよう。
神を愛せ、神の道を歩き、神の指示はもちろん、″ 神との約束や戒律を必ず守れ ”。
そうすれば、お前達は長生きするし、子々孫々繁栄するだろう。
お前達がこれから領有することになる土地でも神は恵みをもたらしてくれる。
だが、お前達が神から離れ、(神からの指示や戒律に)従順な気持ちを忘れて“ 他の宗派や教義の神 ”に仕えようとすれば、お前達は必ず滅びる』(申命記30章17~19節)です。
律法書をよく知らないと思って勝手に御言葉を変え、私達を愚弄して“ 異教 ”の道に導かないでいただきたい」
イエスに諭された弟子はムッとして言い返し、そのままきびすを返すとすぐにその場を立ち去った。
そして、それに同調するかのように他の弟子達も何人か立ち上がり、イエスの顔をおずおずと見ながらも、さっきの弟子の後を追うようにして走り去った。
それを見て、我も我もとイエスの元に集まってきた人々もその場を逃げるようにしてそそくさと帰って行った。
結局、後に残されたのは、イエスと、最初に彼についてきた12人の弟子だけだった。
「あなた達は、去っていかないのか?」
イエスは、彼らが残っているのを見て、少し口の端を上げて自嘲気味に笑って言った。