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第二十八話 信心

実は、イエスは弟子達が戻ってくるのを待つ間、退屈しのぎに井戸にやってくる女達の世間話に耳を傾けていた。

そこで、井戸端会議する女達が最も盛んに噂していたのが、ある女のことだった。


どうやらその女はかなりの男好きらしく、いろんな男を渡り歩いているらしかった。


ところが、どの男もいい加減な男らしく、最初の夫もろくでなしの飲んだくれだったが、女は寂しさからまた男を変えては、その度にいつも裏切られているようだった。

女達の話からすると、実際のところ、噂の女は情の厚い、心根の優しそうな女のようだったが、それがかえって男達を甘やかしてしまうらしく、必ずといっていいほど男は彼女を食い物にし、飽きたらまた、別の女のところに行ってしまうようだった。


だが、それでも女は愛されることを求めて次の男を探す。


まただまされるのではないかと思いながらも、いつかは自分にも愛や幸せが巡ってくるのではないかと一抹いちまつの夢と希望を男(相手)の中に見つけようとする。


だが、今の男もどうやらこれまでと変わらず、みじめな暮らしとケンカを繰り返すだけで、結局のところ、女の生活は男に生活費をむしり取られてすさんでいく一方だった。

しかも、女はそんな恋愛を性懲しょうこりもなく5回も繰り返してきたため、近所の女達からすれば、彼女は格好の物笑いの種だったのである。



だから、近所の女達がくすくすと笑いながら意地悪そうに女の話をするのを聞いて、イエスは当の本人が現れた時にはすぐにその女だと気がついた。

と言うのも、夜の闇が押し迫って辺りが暗くなり、夕餉ゆうげの支度に女達が忙しくなる夕方頃に女が人目を避けるようにしてわざわざ水を汲みにやって来たからだった。

そして、その女の暗く沈んだ目を見て彼女の傷ついた孤独な心の内をイエスはすぐに感じ取った。


彼女は救いを求めている。


イエスはそう感じると、ためらいもなく彼女に話しかけた。

しかし、弟子達からすればそれは非道に近かった。

戒律を破ってユダヤ人がサマリア人に声をかけること自体、ペトロや他の弟子達にとっては飛んでもないことだった。



しかも、ペトロはイエスが以前、彼ら弟子達に指示したことをよく覚えていた。



最初、あの人は私達に向かって何て言った?

多神教で考え方がまったく違うサマリア人のような異教徒のところへ説法をしに行くな、と言ってたじゃないか。

だったら、なぜ、そのサマリア人に教えを授ける?

彼らは異教徒だ。



彼らは私達とは“ 違う ”。



彼らは私達と“ 血もつながらなければ ”、“ 習慣も文化も宗教も違う ”異人だ。


彼らに私達、ユダヤの教えなど分かる訳ないじゃないか。


だが、実のところ、ペトロも他の弟子達も、さっきまでイエスが一体、何をサマリア女に説いたのかその意味が分からなかった。

なのに、サマリア女はイエスと言葉を交わした後、なぜかさっきとは違う生き生きとした表情で帰っていった。

明らかに彼女はイエスの言わんとした事の意味が分かっているらしく、その言葉に“ 生きる希望(生きた水) ”を得たようだった。


それを見て、ペトロも他の弟子達も何だか罰の悪い感じがして、イエスになぜ戒律を破ったのかと責める気になれなくなった。


と言うより、イエスという人にあきれ返ってしまった。


同じユダヤ人でありながら、ペトロにとってはイエスの方がサマリア人よりもずっと“ 異質 ”な気がした。


そして、その気持ちは少なくともヨハネの元弟子達も同じようだった。


だから、イエスのところにやってきた弟子達は皆、不自然なほど黙りこくっていたが、イエスはその不穏ふおんな空気に気づいていないのか、立ち上がって彼らににっこりと微笑むと、

「そろそろ行こうか?」と機嫌よく言った。




ところが、その後もペトロ達をさらに驚かすような出来事が起きた。

彼らがようやくその村を離れかけたその時、さっきのサマリア女が他の村人達を引き連れ、イエスの話を聞きに来た。


「ユダヤの旅の方、さっきはどうもありがとうございました。

おかげで、とってもすっきりした気持ちになりました。

それで、あなたのお話がとても心に染みたことを他の人に話したら、彼らもあなたのお話をぜひとも聞きたいと言うので、こうして皆を連れてきました。

もし、よかったら、もう少し私達の村にいて、私達とお話していただけませんか?」

サマリア女はさっきとは違う丁寧な口調でイエスにそう申し出た。

それを聞いてイエスは快くうなずくと、弟子達の当惑をよそに結局、二日ほどその村で滞在することとなった。



それがますますペトロを始めとする弟子達を苛立いらだたせた。



どうして異教徒達の村に二日も滞在しなくちゃいけないんだ?

あんな汚らわしい村に?


サマリア人にいくら“ 宣教アピール ”したところで当のユダヤ人にはちっとも広まらないんだから、まったく“ 宣伝 ”にはならないじゃないか。

昨日もそうだ。

もらった供物やお布施ふせを考えもなしに全部、配り歩いていたら、この教団は大きくなるどころかつぶれてしまう。

もっと計画的に信者の数を増やすよう働いたらどうなんだ、あの人は。



ペトロはそうして昨夜のイエスが海の上を歩いていた謎を考えているうち、それまでのイエスとの出来事を思い出し、結局のところ、教団の運営について考え始めた。



ちょうどその時、彼の肩をぽんぽんと叩く人がいた。

イエスだった。


ペトロは振り返った途端、頭痛の種となりつつあるイエスがにっこりと笑って立っているのを見て、イラっとした。


「おはよう。後で呼びに行こうと思っていたんだが、ちょうどよかった。

悪いが、皆を呼んできてくれないか?」

「どこかへお出かけですか?」ペトロは自分の聞いていない仕事(宣教)の予定でもあるのかと当惑しながらそう尋ねた?

「昨日の場所へ行こう。そこで皆に話しておきたいことがあるんだ。

多分、昨日のことでまた、騒ぎになるだろうからね」

イエスは何となく皮肉っぽい口調でそう言った。


昨日のこと?

皆に供物としてもらった食べ物を配ったことか?

それとも・・・、あの海の上を歩いたことか?


だが、少なくとも海の上を歩いた出来事は私達、弟子以外は誰も知らないはずだ。

もしかして、もう誰かが他の人に話したんだろうか?

「あの・・・、昨日は、・・・昨日はどうやって舟にまで来られたんですか?」

ペトロはついにイエスに尋ねた。


「歩いていっただけさ。それがどうかしたのか?」

イエスは変なことを聞くと言わんばかりに怪訝けげんそうな顔をした。



「あ、あ、歩いたって、あの・・・海の上を、ですか?」




「は? 何を言っているんだ?

わたしは山から下りて港まで歩いていっただけだ。

それがなぜ、海の上を歩いたことになる?」

イエスはもっと不思議そうにペトロを見た。

それを聞いて、ペトロは驚いて目を丸くした。

「え? え? でも、私達の舟はもう港を出てましたが・・・」


「わたしが行った時、あなた達の舟はまだ港を出ていなかったよ。

昨日、あなた達と別れてからもう少し山にいようかと思ったんだが、かなり雨が降ってきてすぐに引き返したんだ。

それで山から下りて、暗かったからふもとの家で松明たいまつを借りて港に行ったら、あなた達の舟はちょうど漕ぎ出したところだった」

「そんな! そんなはずはありません。私達の舟は沖までかなり進んでいたはずです。

わたしは舟を漕いだ数をちゃんと数えてましたから」



「“ 前に進んでいる気になっていた ”だけで、あなた達はちっとも進んじゃいなかったよ」



「は?」ペトロはあんぐりと口を開けた。

「あなた達は一生懸命、漕いでいるつもりだったんだろうけど、あんな嵐の中を漕いだところで前に進むはずないじゃないか。

漕ぎ出すべき“ 時と場所 ”を間違えたら、前になんて進めない。

神が動かしていらっしゃる時と場所、自然の法則をどうにか変えようなんて考えないことだ。

神は必ず自分を前に進ませてくれる、きっといい方向に導いてくれると信じている人は、神の創った時や自然、運命に逆らわない。

だが、神の善意を信じず、常に不安や恐怖を心に持つ人はいつも神に逆らおうとする。


そうして、周りが見えないまま後ろへと下がっていき、自ら落ちていく(堕ちていく)」



そのイエスの言葉にペトロはゾッとした。



何だか、この人は何もかも見通している気がする。

まるで自分の運命さえも見通されている気がして、ペトロはイエスのことを空恐ろしく感じた。

そして、それ以上、イエスと話しているのが嫌になり、ペトロは皆を呼びに行くからと断ってそそくさと港を出て行った。




弟子達が港に集まってくると、イエスは早速、舟に乗り込み、昨日と同じ山の上へと出かけて行った。

そこで、イエスは原っぱに座った彼ら一人一人の顔を確かめるように見渡してから静かにこう切り出した。


「昨日の出来事でこれからいろいろと状況が変わる前に、一度、皆に言っておかなければならないことがあります。

昨日、たくさんの人が亡くなったヨハネ先生を慕い、彼の代わりとなる者を探してわたしのところにやって来ました。

ですが、もう既に気づいている者もこの中にはいるでしょうが、わたしはヨハネ先生とは違います。

だから、わたしはヨハネ先生の教えをそのまま継承するつもりはありません。


例えば、戒律についてですが、わたしは戒律ルールだからと言って闇雲にそれが正しいとは決して言いません。

なぜ、その戒律を守らなければならないのか? 

その戒律は一体、何の為にあるのか?

あなた方にはまず、それをちゃんと考えて理解して欲しいのです。

だから、以前、断食についての意見を聞かれましたが、そもそも断食と言うのは一体、何の為に行わなければならないのでしょう?

ヨム・キプール(贖罪の日)に断食しなければならないのは、自分達の罪をゆるしてもらいたいからであって、別に神があなた達にそれをしろと強制しているわけではない。


まして、断食というのは、元々、私達の祖先であるモーゼが命からがらエジプトを脱出し、食糧難や多くの敵に襲われながらも何度も神に助けられたことへの感謝と、その苦しかった時代を忘れないよう、その時と似たような苦しみを味わって今一度、身を慎んで謙虚になろうという儀式でしょう?


だったら、人前でわたしは断食しています、と見せびらかす必要は全くないじゃありませんか?

あなた方が本当に罪を悔いて神に赦してもらいたければ、それこそ人前ではそんな素振りなど一つも見せずに断食すればいいのであって、公の場でいかにも『わたしは断食しています』と示したがるのは、実際のところ、神に赦しを請う為ではなく、人の関心や尊敬を集めるのが目的なのです。

人から何となく、『あなたはとても信仰心の厚い人なんですね』と思われたい、認められたいと思っているから、そうするのです。

だったら、それはもはや天の御父に褒められる為の行為ではありません。

“ 人に褒められる為の行為 ”です。


でも、あなた方が本当に神から認められたい、愛されたいと願うなら、断食だろうと何だろうと黙って一人ですればいいのです。

別に人前で大っぴらにする必要はない。

まして、嫌がっている他人を巻き込むなどもってのほかです。


もちろん、人への善行も同じです。

わざわざ人目につくよう善行するのは神に褒められたいわけじゃない。

周囲から『あの人はいい人だ、立派な人だ』ともてはやされ、その評判から何らかの見返りを得ようと“ 欲している ”から、わざわざ人前で善行したがるのです。

だから、よく通りやシナゴーグ(寺や教会)の前でやたらと寄付を募り、大勢の偽善者達がまるで競い合うかのようにいくら大金を包んだかを言い合っていますが、それを善行だなんてわたしはちっとも思いません。

真の善行というのは、右手がそれをしてても自分の左手ではそうとは気づかないくらい、さりげなく相手を気遣ってするものです。


なのに、多くの人が寄付や賽銭さいせんをすればするほど、善行が積まれて神様のご加護があるなどと言っていますが、それは結局、神を信じて頼っているわけじゃない。



物やお金を“ 信頼 ”しているんです。



神を信じられない人達は、常に目に見えない恐怖や不安を抱きやすい。

だから、ある人はお金を、ある人は地位や名誉を、また、ある人は他人に愛されることばかりを求める。

そうして、目に見える物やお金、人に囲まれていれば、安心だし、安全だと思い込んでいる。

だけど、いくらお金を稼ごうと、いくら地位や名誉、人気を築こうと、たとえそれをたくさん蓄え込んだとしても、いつかそれはすぐに消えたり、壊れたり、なくなったりします。

他人に頼っても結局、人も“ 形ある物 ”に過ぎないのですから、時には裏切ることもあれば、一時だけは熱烈な愛を傾けてもいつの間にかその愛が冷めることもある。

さらに、人は死んでしまえば、もう、何もできなくなります。

それほど人の愛や命ははかない。


なのに、多くの人が神を信じず、人や物、お金といった形ある物の方が絶対だと信じている。

また、中には神こそ人の敵だと思っている者もいる。


だから、神から与えられた自分の運命を呪い、それに逆らおうと懸命にもがく。

そうしないと、他の人よりずっとたくさん不幸や災難を背負わされるんじゃないか、と不安や恐怖を募らせているからです。



でも、この地上をよく見渡してごらんなさい。


空を飛ぶ鳥が『隣に住む鳥よりたくさん獲物を取らないと、わたしは生きていけない』とか、『わたしは鳥ではなく、魚になったらもっと楽に生きられるだろうに・・・』なんて考えたり、悩んだりするでしょうか?

まして、数年先、数十年先まであれこれ心配し、他の鳥を蹴落としてでもせっせと物を蓄えようとする鳥がいるでしょうか?


そんなことしなくても、たいていどの鳥も毎日、自然に生きているだけで、人と同じように仲間や家族と暮らし、そのうち寿命が来たらその一生を終えます。

むしろ、先のことを考えない鳥の方が(人より)よっぽど平和に暮らしているようにさえ見えます。


だから、人があれこれ心配をしたところで、それで寿命が延びますか?


一寸先も分からないのに、どうしてずっと先になっても今ある物やお金がきっと役立つはずだと分かるのでしょう?

それこそ“ 神のみぞ知る ”、でしょう?


この天(宇宙)と地(地球)を創り、あらゆる生物に生と死を与える神のみが未来のすべてをご存知なのだから、その神を信じて幸せな時は毎日を楽しく、試練の時は今を一生懸命、生きていればいつかは良くなるさ、でいいではありませんか?



アーメン?(=ヘブライ語で「そうでしょう、その通り」の意)



なのに、人はその自然な流れにあえて逆らおうとする。

自然に沿って生きていれば、幸せな時も苦しい時も、神はちゃんと正しい道を教えてくれるのに、人はその神を疑い、あえて神に逆らい、そして自ら間違った道を選び、不幸になる。



でも、こう言っても多くの人がわたしのこの言葉をかたくなに信じないでしょう。



物やお金を絶対(神)だと思っている人からすれば、わたしの言っていることには形が“ 無い ”。

だから、目に見えて成果や利益だとわかる“ 奇跡 ”に飛びつくのです。

そのうち、ほとんどの人達がわたしに向かって、

『イエス先生、イエス先生、私達はあなたのお名前の下でデーモンを追い払ったり、たくさんの奇跡を行なって見せましたよね?』と、言ってくるでしょう。

でも、そんな彼らにわたしはきっとこう言ってやります。

『わたしはあなた達など知りはしない。

そんな奇跡やデーモンなんて嘘っぱちを言って人の心を惑わし、真に人々に伝えるべき神の御言葉をねじ曲げて、人の心に不安や恐怖を撒き散らそうとする人々よ、わたしから去れ』と」



そこまでイエスは話すと、やっと一息ついた。


イエスの話を聞いていた弟子達は皆、ただ黙りこくっていた。

誰もがどう言っていいのか分からず、言葉を失っているようだった。


だが、それはイエスの話に感動していたわけではない。


少なくとも、ペトロは今のイエスの話にかなり困惑していた。


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