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第二十七話 サマリアの奇跡

イエスの弟子になってからペトロの心を占めていたのは、イエスが奇跡を起こせることよりも、一体、どうすればイエスを盛り立てて上手く自分達の組織を成功させていくかということだけだった。


だから、信者や他の弟子達の前ではイエスの話を聞いていかにも感動し、イエスの一番の理解者のような振りをしていたが、実際のところ、彼の話になどまったく興味もなかったし、まじめに聞く気にもなれなかった。

というのも、彼の話は聞けば聞くほど、ペトロの常識から外れていたし、何よりイエスという人は知れば知るほど、謎が深まるだけだった。




一体、あの人はどういう人なんだ?



イエスに初めて会った時からずっと、それがペトロにとっては一番の疑問だった。

それはイエスの持つ雰囲気そのものが他の人とは違い、何か独特な異質さを漂わせていたこともあったが、それ以外はイエスという人が平凡すぎるくらい平凡だったことが何よりもペトロには不思議だった。


かつて弟子入りしていた洗礼者ヨハネは、いかにもカリスマ(人心掌握)的な要素を持った魅力的な人物だったのに対し、イエスはごくごく普通の、どこにでもいそうな、いや、むしろ普通の人の中でも見過ごしてしまいそうな、そんなしがない男でしかなかった。


そんな男が教祖?


初めはヨハネの元からイエスのところへ飛び出すきっかけを作った兄アンデレを恨んだ。

ただ、あのままヨハネの元に居ても面白くはなかったし、何か自分の運や能力を試したい気持ちもあった。

だから、飛び出してはみたものの、イエスとはうまくやっていけないなとすぐに分かった。

そう思った矢先、洗礼者ヨハネが逮捕され、ペトロは自分の選択(転職)が正しかったことにホッとした。


だが、それからはイエスには失望しっぱなしだった。


ペトロはあくまで保守的な男だった。

常識的な戒律はもちろん、ユダヤ教の教義に逆おうなどとは一度も思ったことはなかった。

なのに、敬虔けいけんなユダヤ教徒だったヨハネとは違い、イエスは戒律を説くどころか、むしろわざとそれを破っているようなふしさえあった。



そういえば・・・と、ペトロはヨハネの元弟子達がイエスに詰め寄っていた時のことを思い出した。





それは“ 贖罪しょくざい(ヨム・キプール)の日 ”にヨハネの元弟子達が断食していた時のことだった。


贖罪ヨム・キプールの日とは、神がその日までに人々の裁きを決めてあるとの言い伝えがあり、その日にそれまで犯した罪を神の前で懺悔して赦しを請えば、その裁きを変えてもらえるかもしれないというユダヤ教の祭日の一つだった。

現代においては、ユダヤ暦の7月10日、一般暦では9月末か10月初旬に行われ、この日は飲食はもちろんのこと、労働することも一切、禁じられていた。

そのため、戒律を厳格に守ることを教義としていたヨハネやその弟子達は当然、この日の“ 決まり ”を守って一切の飲食を断っていた。


だが、イエスはヨハネとは違い、そうしたユダヤ教の戒律がもはや形骸化けいがいかして人々の心には何の意味もなさなくなってきていることに注目していた。



そもそも、人が物を食べないからといって、それが神にとってどうだというのだろう?


人が哀れっぽく振舞ったところで、神は骨の髄までその人物を知り尽くしているというのに、その日だけ罪滅ぼしの態度を示したところで罪がゆるされるなどとはあまりにも虫が良すぎる。

元は神が創って人に与えた食べ物や金銀などの鉱物を供物として捧げたところで、果たしてそれで神が喜ぶだろうか?

人でさえ、自分があげた贈り物を逆に贈った相手から返されたら気分が悪いだろうに・・・。


では、なぜ、人は神に供物をするようになったのか?


すべては、自分の人生にいろいろな機会や利益を与えてくれた神に“ 感謝の心 ”を捧げるため、その“ 象徴シンボル ”として自分にとって大切な物を差し出しただけで、感謝の心もないのに物だけ差し出したところで誰も喜ばない。




だが、人はその最初の“ 心(意味) ”を忘れてしまった。




そして、慣習という惰性だせいに流され、目に見えない心よりも目に見える物や態度を示すことばかりが大切になってしまった。

しかも、数千年前のモーゼの時代から社会がずいぶんと変化している今、昔に作られた慣習をそのまま守り続けたところで、その根本にある“ 意味(心) ”に気づく人は少ない。


だからこそ、イエスはユダヤ教の戒律を守ることを教義にはしていなかった。

それを熱心に説く気もまったくなかった。



結局、イエスが断食しないのにごうを煮やしたヨハネの元弟子達は、彼にそのことで詰め寄ったのである。

それでも、イエスは彼らに向かって涼しい顔でこう言い放った。


「誰も、古着のハギレをわざわざ切り取って、真新しい着物に縫い付けたりはしないでしょう?

それとは逆に、新しいワインを古い皮袋に入れたりもしないはずです。

だって、そんなことをしたら古い皮袋がはちきれてしまいます。

戒律だって同じです。

古い世代から言われるがまま、意味も分からず戒律や習慣を後生大事に守り続けたところで、それで一体、世の中がどう良くなると言うのでしょう?

少しは戒律や慣習というものについて考え直してみてはどうでしょう?」


そのイエスの言い方にヨハネの元弟子達はカチンと来た。



この人は俺達を馬鹿にしているのか?


こっちはこれでも真剣に教義と向き合ってきた。

全てを完璧に守っているとは言えないまでも、それでも心を込めて取り組んできたつもりだ。

それをこの人は否定するのか?


だったら、ヨハネ先生がこれまで教えてくださったことは何だったと言うのか?


一体、この人は何様のつもりなんだ?



それがイエスに対する元弟子達の不信感が芽生えた最初の出来事だった。


ペトロは彼らの心に芽生えた不信感を何となく嗅ぎ取り、それが組織の分裂につながることをもっとも恐れていた。




このまま宗派に亀裂が入れば、当然、活動収入が減っていく・・・。


宗派のリーダーであるペトロにとって、後にも先にも利益と宗派を動かす運営資金の確保、それこそが一番の関心事であり、心配の種だった。

とは言え、正直なところ、ペトロも他の元弟子達と同様、イエスの態度を理解できないと思うことは度々、あった。




あの時もそうだった。ペトロはさらに思い出した。


それは、ユダ地方へ出かけて行った時のことだった。


ユダ地方からクファノウムのあるガリレー地方にまで戻ってくるには、イスラエルのど真ん中を占めるサマリア地方を通らなければならない。

そこで、イエスとその弟子達は途中、サイチャー(またはシェケムとも言う)という、エルサレムから北上して約65kmほどのところにある小さな谷あいの村を通っていた。


外国人からすれば不思議なことだが、イスラエルのど真ん中にありながら、サマリアはユダヤ人にとってまさに敵国とも言える異国の地だった。


と言うのも、サマリア人とユダヤ人の間には、歴史上、大きな確執がいくつもあったからだった。


その一つが、神から“ イスラエル(「神(良心)と格闘しながら世間から受ける苦難に打ち勝つ者」という意味) ”の名をもらってユダヤ国家のいしずえを築いたとされるヤコブがサマリアの地に移り住み、そこでヤコブの娘が土地の有力者にその貞操ていそうを奪われたことから彼の息子達が怒って大量虐殺を行ったと言われていた。


また、後世においてユダヤ人による独立国家イスラエル王国の首都シェケムがサマリアの地に築かれたが、その当時、世界帝国として名をせていたアッシリア帝国に占領され、あっけなく滅びてしまった。

その後、サマリアに移住してきたアッシリア人と、そのアッシリア人とユダヤ人との間に生まれた人々が定住するようになり、首都を奪われた恨みと純血にこだわるユダヤ人にとって“ サマリア人(サマリアの地で生まれ育った人々) ”は、“ 純血ではない=けがれた人々 ”としてさげすみの対象となった。


さらに、サマリア人にとって祖先とは土着民やユダヤ人、アッシリア人達であって、そうした祖先達の文化を自然と受け継ぐこととなり、宗教も祖先達が敬っていた宗教をそれぞれ混合させた混合宗教を信仰するようになった。

それが自分達の宗教を絶対とするユダヤ人の目には多神教信者に映り、ますます異教徒としてサマリア人をむようになってしまったのだった。


だから、ユダヤ教徒は戒律において、サマリア人と付き合うことを固く禁じられていた。




ところが、イエスはその戒律さえも守ろうとはしなかった。


あの日、旅の途中でお腹を減らしていたイエス達一行は、イエスを一人、サイチャー村の井戸近くに残し、弟子達が食料の調達に出かけていった。

ようやく買い物を終えて夕方近くに村に戻ってきた弟子達は、そこでイエスが井戸の水を汲みに来たサマリア女性に声をかけている場面に出くわした。



「お嬢さん、すみませんが、その井戸の水をわたしに一杯、くれませんか?

水桶バケツも何もないので、井戸の水が飲めなくて困っていたんです」

イエスはしゃがれた声で仏頂面ぶっちょうづらの愛想のない女に頼んだ。

「へっ? ちょっと、あなた、ユダヤ人じゃないの?

言っとくけど、あたしはサマリア人よ。なんで、ユダヤ人のあんたがあたしになんてものを頼むのよ?」

女はイエスが話しかけてきたことにびっくりしたようだが、すぐに仏頂面に戻ってぞんざいに答えた。


実は、ユダヤ人がサマリア人の持っている食器やその他のものを一緒に使うと言うことは、ユダヤ教の戒律において決して許されないことだった。

だから、イエスがサマリア女性に水桶バケツを頼んでいるのを見て、弟子達は声を失った。

だが、彼女が断ってもイエスは再び女性に話しかけた。

それで、弟子達は何となくイエスに声をかけづらくなり、そのまま彼らの様子をしばらく伺うことにした。



「あなたはまだ、気づいていないようだが、もし、あなたが神からの贈り物というものが何なのか知っていて、今、ここで水を頼んでいる者が誰かと言うことを知っていたら、あなたはきっとその水桶バケツの水を差し出す代わりに“ 生きた水 ”というものをもらえるでしょうね」

女はイエスの思わせぶりな言い方に少し興味を持ったようだが、それでも馬鹿にしたような薄い笑いを口元に浮かべた。

「ねぇ、ユダヤの旅人さん。

あんた、うまいこと言ってあたしにものを頼んだつもりだろうけど、あんたの手には神さまからの贈り物どころか水桶バケツすら持っていないんだから、よくもまぁ、そんなハッタリかますわね。

知らないんだろうけど、ここの井戸、相当、深いのよ。

何か悪さしたら、あたし、いつでもあんたを突き落とすぐらい、わけないんだから。

それであんたが死んだら、どうやって“ 生きた ”水なんてもらえるって言うのさ?

それに言っておくけど、この井戸はユダヤ人だけじゃなく、あたし達、サマリア人にとってもご先祖様であるヤコブ様があたし達に残してくださった大切な井戸なのよ。

だいいち、ヤコブ様ならあたしなんかにものを頼まなくても水が欲しかったらご自分で何とかなさっていたわ。

なのに、あなたはそのヤコブ様よりもずっと偉いとでも言うつもり?」

女は乱暴そうな口の利き方だったが、それでも何となく律儀りちぎで身持ちの硬そうな女のようだった。


それを聞いて、イエスはニヤッとして、

「あなたが言っているのは、この井戸の水のことだけでしょう?

わたしが言っているのはそんなことじゃありません。

この水を飲んでも、また、人はのどが渇くでしょうが、わたしがあなたに差し上げる水は、一度、飲んだら二度とのどが渇かない“ 生きた水 ”です。

その水を飲んだら、一生涯、その人の心の中でその水が自然と湧き出るんです」

と女に言うと、女は少し怪訝けげんな顔をしたが、イエスの真剣な眼差しを見て再び驚いたようだった。


生きた水ですって?


女は不審に思いながらイエスのことを面白いと思ったのか、口の端を上げてフンと鼻をならすと、イエスに背を向けて井戸の水を汲み出した。

「だったら、旅人さん。その、あんたが言う生きた水とやらをくださいな。

そしたら、あたしは二度とのども渇かないし、わざわざここに水を汲みに来なくてもよくなるんでしょ?」

そう言って、女は黙って水桶バケツをイエスに差し出した。

「じゃあ、あなたのご主人もここに呼んでくるといいでしょう」

イエスは女から水桶バケツを受け取ると、それをゴクゴク飲み干してそう言った。

「ふん、あたしに亭主なんていないわよ」

女は再び鼻を鳴らし、自虐的な言い方をした。

すると、イエスはさっきとは表情を変え、少し労わるような目で女を見た。


「まぁ、本当のところはそうなんでしょうね。

どうやらあなたにはこれまでご主人が5人もいたようだが、今、一緒に住んでいらっしゃる方もどうやらあなたの本当のご主人ではないようだ。

だいいち、ご主人らしいこともしないようだし、ね。

だから、あなたがおっしゃった通り、確かにあなたにはご主人はいないし、これまでご自分だけで一生懸命、ここの水を汲みに来られていたんでしょう」



女はそのイエスの言葉に声を失うと同時に、激しく感情を揺さぶられたのか身体が少し震えだした。

女は自分の動揺をイエスにさとられまいと、再び水を汲み出した。

「へぇ、あんた。

てっきり運が良くなるように悪魔祓あくまばらいしてやるから金をよこせっていう偽預言者かと思ったら、どうやらあたしのこと、何でもご存知の本物の預言者様のようだわ。

でも、あたしは悪魔祓いなんてしてもらわなくたって結構。

あたしはご先祖様をたてまつって、このお山で拝んでいたらそれで十分。

あなた達、ユダヤ人はそんな風にあたし達を引きずり込んで、そのうちエルサレムへ参拝しに行けとか、あなた達の宗教に帰依きえしろとか、お布施ふせがどうのと言い出すに決まってる」

女はそう言って動揺した気持ちを立て直したのか、イエスに冷たい笑みを向けると、そのままさっさとその場を離れていこうとした。

イエスは傷ついたメス猫に近づくように身じろぎ一つせず、両手に水桶バケツを持って去っていく女の背中向かって再び話しかけた。

「お嬢さん、わたしを信じてくれませんか?

そのうち、あなたにも時が来たら、山でご先祖に向かって拝むこともなければ、わざわざエルサレムへ参拝しに行く必要もなくなりますよ。

あなた方、サマリアの人々は一体、何に拝んでいるのか分かっていないようだが、わたし達、イスラエル(神と格闘しながら世間の苦難に打ち勝つ)人というのは、神が何であるかを分かっていて拝むのです。

だから、“ 救い ”というものは、そうしたイスラエル人の言葉から来るものなんです。

あなた達、サマリア人にもそれが分かる時はきっと来ます。

いや、もう既にその時は来ているのでしょう。


だから、あなたはわたしとここで“ 出会ったんだ ”。


これは神のお導きでなくてなんでしょう?

人との出会いは、すべて神のお導きです。

そうでしょう?


そして、その出会いをどうするか、どう思うかはあなたご自身の心によって決められます。

だから、神を本当に信じている人は、“ 真心と真実でもって ”天におられる御父に拝むのです。

正直に言いましょう。


神とは、“ 心(=Spirit、精神) ”です。(ヨハネ4章24節)


神とは、肉の目では決して見えない真心まごころそのものです。


だから、姿・形はいらない。

お布施も供物もいらない。


神が求めておられるのは、真心のある信仰者です。

ただ、あなたの心そのものを正直に神に打ち明けるだけです。

そうすれば、あなたの道は開かれる。

必ず、あなたの心を救ってくれる出会いや出来事が起こるはずです。

日々において少しずつ、あなたの心を成長させてくれる何かが必ず起こります。

それをあなたが真心で受け取っていったら、あなたの心はきっと救われますよ」

その言葉に女はイエスの方を振り返り、

「じゃあ、あたしが一生懸命、真心と真実で祈れば、神様はあたしの願いを聞いてくれるって言うの?」

と、目に涙を浮かべてそう聞き返した。

イエスはそれを見て、女の切実な願いを聞き届けるかのように真剣にうなずいた。


すると、女の目からそっと、涙が流れた。


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