第二十四話 山上の奇跡(1)
そして、ヘロデはイエスに取り入るような笑みを浮かべて、イエスに再び話しかけた。
「ナザレのイエス。
わたしはどうしてもお前に一つ、頼みたいことがある。
それは“ 悪魔祓い ”だ。
以前、王であるこのわたしを散々、愚弄した男がおった。
名を洗礼者ヨハネという。
こやつは自分を預言者エリヤの生まれ変わりだと吹聴し、ユダヤの民達の心を惑わして、このユダヤを征服しようと企んだ。
そこで、最初は貧しい人々に施しをしたり、洗礼を行ったりして民達の警戒心を解くと、次に自分にとって目障りだった寺院やサンヘドリンの者達を批判して攻撃するようになった。
そして、この悪魔はユダヤの民達の心を掌握するようになると、今度はユダヤの王であるこのわたしになり代わろうと、このわたしを人々の前でこき下ろして王族の権威を失墜させようとしたのだ。
ところが、それをわたしの義理の娘だったサロメが見破り、何とか悪魔の企みを阻止せんと、男の正体を高貴な者達の前で見事、暴いてみせたのだ。
ところが、悪魔であるヨハネは地獄に帰らず、義娘に恨みを抱き、清らかで美しかった我が義娘に呪いをかけ、残酷にも死に追いやったのだ。
その上、このわたしにも呪いをかけ、数々の厄災を起こすようにもなった。
だから、ナザレのイエス。
そなたを見込んでぜひとも頼みたい。
このわたしにかけられたヨハネの呪縛を解いてくれまいか?
わたしを逆恨みする洗礼者ヨハネの魂が今もってこの世をさ迷っているなら、どうかこのわたしに恨みを抱くのはお門違いだと知らしめ、神に仕えよと告げてほしい。
それとも、そなたはその洗礼者ヨハネの生まれ変わりなのか?
ならば、わたしは今一度、そなたを始末せねばならん。
あの洗礼者ヨハネの魂をすみやかにハデス(地獄)に返すために、な。
さぁ、ナザレのイエス。そなたの力をこのわたしに見せてみよ。
さもないと、そなたはその身の潔白ができんぞっ!」
そう言って、ヘロデは最後にその語気を強めてきた。
つまりは、イエスが奇跡の業でもってヘロデの呪縛を解くか、あるいはそれができなければ、自ら処刑されることによってヘロデの身を清めるための神の生贄になれ、とヘロデに迫られているようだった。
結局、生きて解くか、死して解くかの違いだけで、ヘロデの呪縛を解くことだけを求められて、裁判の話とはまるっきり関係のない私的な願い事だった。
それでも、ヘロデにしてみれば、名もない庶民、しかも罪人として訴えられている男に向かって王が頭を下げてものを頼むという異例の応対をしてやったことで、イエスを僧侶達からかばってあげた上に、救いの手すら差し伸べてやっているとでも思っているようだった。
だから、ヘロデは言い終わると、満足そうにその唇に再び笑みを浮かべ、イエスをじっと見つめた。
何が呪いだ、とイエスはあきれ返っていた。
だが、ヘロデはもちろん、彼のそばにいるサンヘドリンのメンバーや僧侶たちもそうした霊魂の存在や悪魔祓いに疑問すら抱いていないようで、ヘロデの話に口をはさむ者など誰もいなかった。
それどころか、サンヘドリンのメンバーにおいてファリサイ派は、そうしたオカルト教義を重視して人々に公然とそれを教示する宗派だったので、当然、ヘロデの話を至極、神妙な面持ちで聞いていた。
でまかせにもほどがある、とイエスは思った。
そもそも、人ごときが神のように永久不滅にこの世をさまよえる訳がない。
この世を人の魂がさ迷うなどとは、あなた方、“ 神と人を同じだと考え、時には神になり代わろうとする不敬者 ”が勝手に妄想しているだけのことだ。
魂を伴う生を与えるのも神ならば、戻すのも神である。
神は人とは違い、人の命(=存在)を無責任にほったらかしたりも、無視したりもしない。
だから、時期が来たら、神は人にちゃんと“ 死 ”を与える。
神は、ご自身で一人一人に命を与え、そして死ぬ時にはちゃんとこの世から自分の元へと戻される。
それこそ悪人だろうと、善人だろうと関係なく、どんな人間に対しても神は絶え間なくその人が生きてきたそれまでを見続け、その一生を考慮し、一人一人に死を与えてくださるのだ。
それはたとえ、ヨハネのように人間同士が醜く争い、“ 人が犯した ”過ちによってその命が悲しく“ 壊された ”としても、神はその命をほったらかしたり、さ迷わせたりもしない。
それが自然の摂理であり、天地(宇宙)の法則だ。
だから、ヨハネの魂はすでに神に返されている。
神のみが個々の生命=心を創り、この地上におけるあらゆる生きとし生けるものの調和を考え、“ 計画する ”。
人はその神の計画の中で、自身に与えられたその一生を楽しむことだけを考える。
神から与えられた(期間の)命を精一杯、生きて満足し、周囲の人々と仲良く助け合い、“ お互い協力して幸せになることだけ ”を求められる。
それ以上も、以下も神から求められていない。
人だけでなく、虫や動物、草木に至るまであらゆる生物の一生を“ 公平に ”見続け、その面倒を見るなど人にできる訳がない。
ただ、この地上(地球上)で、天地の法則(自然の摂理)に従い、自分と周りを大切にして、この地上の生きとし生けるすべてのものを“ 愛すること ”だけ、人は神から求められている。
なのに、人はそれで満足できず、「もっと、もっと」と欲をかき、自分の思い通りにこの世を生き続けようと、むなしく“ もがく ”。
だから、神のごとく永遠に存在し続けようとするその飽くなきおごった欲こそ、神を侮った考えだということにあなた方は気づかない。
それほど人の欲はすさまじく、あさましい。
しかも、そのあさましい欲から考え出した憶測でヨハネの清い魂を悪魔呼ばわりするとは、もっと性質が悪いっ!
イエスは一人、心の中でそう毒づいた。
それに、イエスはもう、うんざりしていた。
「あなたの持つ奇跡の業でもって、わたしを救ってください」
人が自分に求めてくるのは結局、いつも“ それ ”だった。
そもそも、イエスに奇跡話がつきまとうようになったのは、ユダヤ人達の文化や意識にも問題はあったが、実は彼自身のせいでもあった。
というのは、奇跡が起こる、起こらないで神が存在する、しないの議論になり、そこから神が誤解されている以上、その誤解の原因である「奇跡」というものを語らなければならない。
そこで、人の関心を引き、自分の話を聞いてもらうための“ 宣伝 ”として、イエスは弟子達に人々が求める奇跡についての噂を広めるよう自ら指示したからだった。
だが、それは一時だけのことで、神についての誤解さえ解けば、人々がこれまで求めてきた「奇跡」というものがいかに無意味で虚しいものかわかってくれるはずだ、とイエスは安易に考えていた。
だが、イエスのところにやって来る人のほとんどは、ただひたすら“ 自分たちの期待に沿った何か劇的な変化 ”が突然、自分の人生に起こることを願っていた。
それこそが彼らの信じられる唯一のものだった。
しかし、人の期待に沿わない、思いも寄らないことが起こるからこそ、「奇跡」なのだ。
まして、僧侶やサンヘドリンのメンバー達が言ったように、イエス自身に奇跡を起こす力などどこにもなかった。
奇跡そのものを起こせるのは、イエスのようにこの地上でしか生きられない存在(=being)ではない。
それは、この地上から遠く離れた天(宇宙)全体を支配する、人とはまったく違う別の“ 存在 ”がしていることだった。
だが、彼がその“ 存在 ”についてどれだけ主張しようとも、姿、形といった物質にその目や耳を侵されている人にとっては、それは“ 無 ”でしかなかった。
ただ、何かが起こった。
そうした結果や起こったことだけが、彼らの大半がすぐさまその目や耳を向ける一番の関心事だった。
そして、もっと怖いのは、その起こったことに彼ら自身の勝手な偏見や憶測、妬みといったものまでが付け加えられていくことだった。
“ それ ”が起きたのは、イエスが山上でヨハネの死について考えていた時だった。
彼が深い感慨に浸って泣いていた時、遠くの方から人がやって来る気配を感じた。
かなり大勢の人達がこぞって山に登って来ているようだった。
イエスは、泣きはらした目を見られまいと袖でごしごし目をこすり、やってくる彼らを避けようと立ち上がって去ろうとしたが、向こうはイエスに気がついたようだった。
イエスをずっと探していた信者や弟子達は、イエスを見つけると、うれしそうに手を振ってイエスに向かってやってきた。
「ラビ、こちらにいらっしゃいましたか。随分とお探ししました。
お弟子さん達に聞きましたところ、よくこの山にいらっしゃると聞いて、すぐにお会いしたくてみんなでやって参りました」
一人の中年の男が、イエスのところまでやって来ると少し息を切らしながらそう言った。
「そろそろ戻ろうかと思っていたところです。
皆さん、こんな遠くまでわたしを探しに来てくださったのですか?」
イエスは、彼らがわざわざ自分を探してここまでやってきたことに驚いていた。
「イエス先生、私達もお迎えに参りました。
一体、どちらに行かれたのかと心配しましたよ」
彼らと一緒にやってきた弟子のペトロは、山登りに疲れたような顔をして話に割って入ってきた。
「すまない。少し、一人で考え事がしたかったのだ。
しかし、どうしてあなた方はこんなところまでいらっしゃったのです?」
イエスは、さっきの信者の方を振り向いて尋ねた。
「ヨハネ先生がお亡くなりになったと聞きまして、皆でヨハネ先生の死を悼んで、神に祈ろうということになりまして。
それで、生前、ヨハネ先生がイエス先生をとてもほめていらっしゃったと知り、ぜひともイエス先生のお話を伺いながら、ヨハネ先生の死を弔おうとやってきた次第です。
イエス先生、どうかヨハネ先生を失った私達の心を癒していただき、ヨハネ先生の魂が安らかに眠られるよう一緒に祈っていただけませんでしょうか?
ここにいる者、全員がヨハネ先生にお世話になった者達ばかりです。
ほんとうにあの方ほど、心優しく面倒見のいい方はいらっしゃいませんでしたから」
そう言って中年の男はヨハネの思い出し、頬に流れた涙を拭った。
すると、他の信者達も男と同じように次々とヨハネの思い出を語りだした。
「本当にヨハネ先生ほどいい先生はいらっしゃいませんでした。
いっつも私達の生活を気遣ってくださったり、金に困っている者にもいろいろ恵んでくださって。
親のない子を保護してくださったり、男手のない女の家にもお弟子さん達を引き連れて手伝いに来てくださったり、子供から年寄りに至るまでそれはそれは、献身的に私達の面倒を見てくださいました。
私達が悲しんでいる時は一緒に悲しんでくださったし、冗談もよくお話になって本当によく笑う方でした」
「あの方はほんと、喜怒哀楽が激しい先生だったからな。本当に・・・、いい先生だった」
そうして、信者の一人が声を詰まらせ、泣き始めると、他の信者達からも嗚咽が漏れ出した。
ヨハネ、あなたはなんて幸せな人だったのだろう!
彼らはあなたを愛していた。
あなたもまた、彼らを心から愛していた。
それこそ、天国ではないか。
お互いが愛するからこそ、愛される。
それが天国に住む人達だ。
わたしは、今日ほど人に慰められたことはない。
世の中、まだまだ捨てたもんじゃない。
彼らならきっと、わたしの話に耳を傾け、“ 神 ”の言葉を信じてくれるかもしれない・・・。
そう考えると、イエスは感極まって涙が出そうになる自分を抑えながら、少し広めの原っぱへと皆を連れて移動した。
「ここなら皆、一緒に座ってお話ができるでしょう。
わたしも皆さんと同じようにヨハネ先生のことを考えていました。
ヨハネ先生の魂はすでに神に戻されました。そして、今、彼は安らかに眠っていることでしょう。
彼はたくさんの愛の実をならし、皆さんにそれを分け与えました。
彼は決して貪欲に自分だけ特別に愛されようとすることなく、惜しみなく皆さんに自分の心の実を分け与え、皆さんの心にその実を植えました。
だからこそ、その実が皆さんの心をいつまでも癒してくれるはずです。
彼の肉体は消えてしまっても、その実があなた方の心にある限り、彼の心は永遠に生き続けるのです。
また、それ以上にあなた方ご自身でヨハネ先生にもらった愛の実を育て、それを増やし、誰かに分け与えることもできます。
ヨハネ先生はきっと、それをずっと願っておられたことと思います。
だから、皆さんお一人お一人の心の中でその愛の実が育てられ、さらにいっそう実り豊かに増えることをわたしは神に祈ります。
ヨハネ先生の遺した美しい愛の実がこれからもずっと豊かに皆さんの心の中でたわわに実りますよう、神よ、どうか私達の心を清めてください」
イエスがそう話すと、それを聞いた人々は皆、静かに
「アーメン(ヘブライ語で『その通り』の意)」と、同調した。
すると、さっきまでどんよりしていた雲の隙間から突然、神々(こうごう)しいまでの光の矢が射し込み、きらきらと彼らの頭上で輝きだした。
そして、ひんやりとした空気がイエスの頬をなでると、イエスは少し目を閉じてつぶやいた。
「わたしはあなたを称えます、御父よ、天(宇宙)と地上(地球)の主よ。
あなたは賢者や学者、権威者達から姿を隠され、子供のように純粋な心を持つ人達にあなたご自身を明らかにされる。
ああ、そうですね。
これこそ、あなたの歓びなのですね」
イエスは静かにそうつぶやくと、再び彼の前に座っている大勢の人々の前で、こう話した。
「ヨハネ先生の死を悼む心優しい皆さんだからこそ、わたしはぜひともお話したいと思います。
どうか、わたしの話を聞いてください。
皆さんは命の大切さというものをよくご存知だと思います。
この生命というのは、“ この世でたった一つ ”、神が誰一人として“ 分け隔てなく ”、一人一人に与えられた天からの贈り物です。
誰も、どの生物も一つ以上の命を授けられることはなく、神は私達、すべての生物に公平に命を授けました。
それは、神が私達一人一人を、ありとあらゆる生物を平等に愛しているからです。
そして、神は私達一人一人を信頼し、私達それぞれに別々の役割(使命)を課して、それぞれに期待をかけ、この世に送ってくれたのです。
それはどんな命であっても、同じです。
神はこの天地におけるあらゆる命に対して、同じように信頼し、皆、幸せになってくれと願いを込めてこの世に送ったのです。
だから、この世の、どんな生命をも貴重で聖なる神からの贈り物です。
私達が日々、食む動物や植物、生を営むための水や大地、ただ地を這っているだけのように見える昆虫すらも、それぞれ生命があり、それぞれ“ 心 ”があります。
その一生は何ら人と変わりません。
それらの命もまた、私達と同じように神から役割を与えられ、立場はそれぞれ違っても私達と同じように喜んだり、悲しんだりして日々を過ごし、天地の法則に従ってその一生を終えます。
私達、人もまた、喜んだり、悲しんだりしてそれぞれの日々を乗り越え、天地の法則によって死んで土に返れば大地の肥やしとなり、次の命の礎になっていきます。
だから、人も、その他の生物も皆、そうやってお互いを生かし合い、助け合ってこの天(宇宙)の下で生きているのです。
神はすべての生物がこの地上でお互い調和して生きられるよう、その御心でもって深く広く考慮し、この天(宇宙)と大地(地球)を創ってくださいました。
そして、神様は私達にこう、おっしゃっいました。
― この大地(地球)が存続しつづける限り、
種を蒔く時、収穫する時
寒さ、暑さ、
夏や冬、昼や夜、
これらは決してやむことはない。
実り豊かであれ、そして人の数を増やすがいい。
この大地一杯に広がって、埋め尽くすがいい。
空をかける鳥、地を這う動物、海を巡る魚、山や大地を覆う草木、
これらすべてはお前達の手にやろう。
だが、決して、正当な理由なく、その命の血を流してはいけない。
やましい動機によってどんな命をも殺めてはならない。
わたしはすべての生物に対して必ず正当な理由(動機)を求める。
それはもちろん、人からも必ず求めるだろう。
(創世記8章22節−9章5節)
そうして、天の御父は私達の為(=益)になるなら何でも与えてくれたのです。
でも、人は他の生物よりもずっと欲が深く、誰よりも、何よりも特別に愛されようとする厄介な生き物です。
だから、一度、与えられたものに満足すると、それを与えてくれた神からの愛や恩を忘れ、もっとたくさんのものを、もっと楽に与えられることばかり望むようになります。
そうして、中には神から与えられることそのものが当たり前となり、与えられた命を正当な理由もなしにもて遊んだり、安易に壊そうとさえする者もいます。
わたしは、ヨハネ先生の命を奪った人々に正当な理由はなかった、と考えています。
あれは決して、正しい判決(理由)によってヨハネを処刑したのではないと思います。
だから、わたしは皆さんにこの話をしようと思いました。
皆さんに肝に銘じておいてほしいのです。
人は決して神(善)を超えられません。
善を、正義を、真実を、愛を不当に傷つけてその“ 報い ”を受けない者は、この世では誰一人として、何一つとしてないのです。
必ず、その報いの時は来ます。
それが天地の法則であり、神(善)の裁きです。
だから、いい気になって神(善)をも超えたように慢心し、不当に人の命を、その他の生物をもて遊んだり、安易に傷つけようとする悪どい心を持った者に、神はその時期を見計らってその報いを与えるのです。
その一方で、神は不当に傷つけられた人々もちゃんと見ています。
たとえ、どんなに世の中から見捨てられようとも、神は一人一人の一生をそれぞれきちんと見ているのです。
だから、神の愛を決して、忘れないでください。
人を妬んだり、我欲で人と争ったり、奪ったりといった悪意はもちろんのこと、たとえどんなに辛いことや悲しいことがあっても、この世を恨んだり、誰かを、何かを不当に傷つけないでください。
神(善)を信じてください。
恨みを心に宿すというのは、その心に神(善)が宿らないということです。(ヨブ記36章13節参照)
その心に安らぎや幸せをもたらす神(善)は訪れません。
だから、神から今、あなたに与えられているすべての命の素晴らしさに気づいてください。
日々、私達は一人一人、神から愛され、守られ、与えられているということに気づいてください」
そう言ってイエスは少し息を継ぎ、そしてまた、話を続けた。