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第二十二話 啓示(けいじ)



イエスが一人、向かった先はクファノウムの街から北に向かって少し離れた山の上だった。



クファノウムに越してきて以来、イエスは、この山をこよなく愛していた。


だが、山と言ってもそれほど高くもないし、他の山と比べて特別、美しいわけでもない。

どちらかといえば、丘に近い山だったが、彼はそこに登ってのんびり一人散策したり、瞑想めいそうしながら自然を眺めることが好きで、時々、弟子や信者達から離れてそこで過ごすことが多かった。



今日も、いつものように少しぶらぶらした後、クファノウムの街や自然が眼下に広がる景色のいい場所を見つけると、イエスはそこに座ってヨハネの死について考え始めた。



なぜ、ヨハネは死ななければならなかったのか?

あれほどまでの善人がどうして、ああもあっけなく殺されてしまったのだろう?




イエスにはどうしてもそれが心にひっかかっていた。


人の為に力を尽くし、戒律をきちんと守って、己を常に厳しく律していたヨハネ。

そのヨハネをなぜ、神はむざむざ死なせてしまったのか?


イエスは、それを考えれば考えるほど悲しくなってきた。



ああ、神よ、天の御父よ。

なぜ、あなたはあのヨハネを死なせてしまったのだ?



確かにあなたは“ 命を与え、それを取り去るお方 ”。



だが、ヨハネは決してあなたの御目にかなわない男ではなかった。

彼はあなたの善を愛し、あなたを信じていた。

だから、彼もまた、あなたにとっては“ 可愛い息子 ”ではなかったのか?


せめて、その生涯をまっとうさせ、安らかな死を与えてくださってもよかったではないか?




イエスがそうして考え事しているその時、草むらにいる2匹のバッタが彼の目に映った。


バッタは、ユダヤ教の戒律において聖なる生き物として食すことが許されている。

イエスはその二匹のバッタ達を眺めながら、ヨハネが戒律に沿って肉食を避け、バッタを食していたという話を思い出し、在りし日の彼の優しい笑顔を目に浮かべた。




すると、その二匹のバッタ達が突然、争いだし、大きな身体をしたバッタが小さなバッタの上にのしかかった。

小さいバッタも必死に抵抗していたが、それでもすぐに大きな身体のバッタが小さい方に勝利し、とうとう小さいバッタをむしゃむしゃとみ出した。




それを見て、イエスはある種の衝撃を受けた。




これは・・・。



これは、わたし達だ。

今のわたし達、人間の姿だ・・・。



“ 同じ仲間(種族)同士 ”であっても、争い出したら情け容赦なく傷つけ、強い者が弱い者を食い殺す。

まさしく今の人間そのもの、わたし達そのものではないか・・・。


だが、そうやって争い続け、どちらかが勝ったとしても、結局、いつかは皆、“ 死ぬ ”。

大きかろうと小さかろうと、所詮は同じバッタ(人間)。

善人も悪人も、権力者も奴隷も、皆、いつかは“ 必ず死ぬ ”。


“ 永遠に生き続ける神 ”とは違い、人は皆、“ 神から平等に死を与えられる生き物 ”。

わたし達、地上(地球上)に生きる物はすべて、“ 必ずいつかは消滅する運命 ”にある。



なのに、人は争いあう・・・。




争っても争っても、結局、皆、死ぬだけなのに、一時だけの勝敗に狂喜乱舞し、人はなぜか争い続ける。






ああ、そうか・・・。

ヨハネはいどんでしまったのだ。



ヨハネは“ みずから ”争いに挑み、そしてやぶれただけなのだ。



バッタも、人も、それぞれ命は一つしか与えられない。

その命にそれぞれの人生(=歴史や価値観)が刻まれる。


だから、争ったところで、その命が二つや三つに増えて得するわけでもなければ、相手の人生(価値観)を否定し、消滅させても、必ずいつかは自分の人生(価値観)も消滅する。



なのに、人は争いあう。


人は相手の命を、誰かの人生(価値観)を消滅させなければ、自分は生き残れないと勘違いしている。



ヨハネは、一体、何をしようとしていたのだろう?

彼は戒律を守り、それを守るからこそ、神の恩恵がよりいっそう受けられると信じて疑わなかった。

善行をほどこせばほどこすほど、その人は報いられるべきとヨハネは言っていた。


だが、人がいいことをしたからと言って、それがあの天(宇宙)にどう影響するというのだろう?

悪いことをしたとしても、あの雲一つ、動くわけでもない。


人が何かを一生懸命行なったとしても、それは自分と同じ“ 人 ”にしか影響しない。

地上で何が起ころうと、天(宇宙)や自然は変わらずに動いてくれ、私達を生かしてくれている。



だったら、戒律は一体、何のためにあるのか?

“ 自分達、人間が楽しく幸せに暮らすために戒律ルールがあるんじゃないのか? ”



なのに、人は逆にその戒律ルールに縛られて不幸になっている。

目に見える戒律にばかり“ こだわり ”、目に見えないその本当の意義(=意味や価値)を、その“ 心 ”を見失っている・・・。


それに、そもそも、戒律を守る、守らないの話ではない。

今まさに窮地に陥っている自分達の住む社会をどうにかしなければならない話だ。


人は自分達を苦しめている“ 真の ”問題から、その本当の原因から目をそらしてくだらない争いに終始し、自分達、一人一人が協力して問題を解決するため立ち上がらなければならないのに、なぜかヨハネ一人きりに自分達の住む社会の矛盾を糾弾させてしまった。


だから、人を愛し、人を信じたヨハネはそのくだらない争いに自ら加わり、自分よりもずっと強い者達と一人で戦わざるをえなくなった。


だが、それはヨハネの本意ではなかったはずだ。


ヨハネが本当にしたかったことは、弱く苦しんでいる人達を助けたかったはずだ。

このユダヤから、この地上のすべてから苦しみ悩む人をなくし、彼らを幸せにしたかっただけだ。



この地上に生きる人間同士が互いに譲り合い、助け合って生きれば、それぞれの人生をまっとうでき、お互いその人生を満足して死ねる。


ヨハネもそれを信じて懸命に“ 人の為に ”働いていたはずなのに、争ったために力のないヨハネは負けて、理不尽にもその人生を短くしてしまった。




ただ、たとえ権力者に負けても、ヨハネのこれまでの人生すべてが無駄だったわけではない。


彼が生涯、命がけで人に尽くして働いてきたからこそ、その“ 善の心 ”に人々は信頼して共感し、あれほどまでに彼は成功し、あれほどまでに信者や弟子達の輪を広げて、そして互いにその人生を実り豊かにしていた。

ヨハネが生きていた時も人々は彼を慕ったが、死んだ時もどれほど多くの人が彼を思って泣いたことだろう?


わたしなど、死んで泣いてくれる人が一人でも本当にいるだろうか?


今のところ、ヨハネがいなくなった寂しさと奇跡の噂話を聞きつけて、面白半分でわたしを見に来る人はいても、実際のところ、わたしを慕ってくれているわけではない。

わたしを通してヨハネを見、ヨハネでなければ、メシアという彼らのやりきれない人生を“ 思い通りに ”救ってくれそうな誰かを求めているだけだ。


イエスというこのわたしを求めているのではない。


何か特別な誰かを頭の中で仕立てて、そのイメージ通りのことをわたしに求めようとしているだけだ。

そうして、またヨハネと同じような熱い心を持った者を人は犠牲にしてしまうのだろう。




だから、ヨハネは神によって殺されたんじゃない。


“ 人が ”、ヨハネを殺してしまったのだ。


あれほど人を愛したヨハネを、権力や戒律にこだわった人々はあっさりと彼を裏切り、自分達の“ 犠牲 ”にしてしまった。

神は、ただ、人のその裏切りに応えてヨハネの命をご自分の元に戻しただけだ。


せっかく愛の心を持ったヨハネを神はこの地上に送ったのに、人はヨハネを捨てた。

だから、神は人からヨハネを召し上げたのだ。


だが、ヨハネの死を無駄にしてはならない。


これ以上、誰かを犠牲にしてはならない。


互いがむさぼりあい、むことがあってはならない。


互いがその“ せい ”を豊かで満ち足りたものにするためには、何とか、この間違った社会の流れを食い止めなければならない。

このことをユダヤの民達に心底、気づいてもらわなければ・・・。




神が与えたこの地上で、これ以上、人が互いの血を流し合うのを止めなければ・・・。



イエスはそう考えると、意を決したように立ち上がった。

その時、彼の頬には涙が流れていた。

悲しいのでもない、うれしいのでもない。

ただ、涙がとめどもなく、流れてきたのだった。






そして今、ヨハネと同じようにピラトの手からヘロデへとその命を引き渡されようとしているイエスは、ヨハネが死んだあの時の気持ちを思い出していた。

この裁きの日まで、彼はずっとあの山で決意したことを胸に抱いて来た。




神とは、“ 究極の善 ”である。





神は、“ 人のように ”過ちを犯したり、裏切ったり、ねたんだり、悪意を抱いて誰かを不当におとしいれたりは決してしない。

完璧なる“ 善 ”そのもの、“ 愛 ”そのものである。



その神を信じるということは、善(神)を愛するということだ。


それは、戒律を守ることでも、祈りの儀式を欠かさぬことでもない。

寺院や神殿に行くことでも、供物を捧げることでもない。



ただ、ひたすらに自分の心にある良心(=神)を守り続けることだ。


その心に愛(=神)を絶やさぬことだ。





だが、人はそれをすぐに忘れてしまう・・・。


人は自分の心に与えられたはずの神の姿(The image of God、旧約聖書「創世記」第1章27節参照)を見失い、目の前の形でしかない金や権力、戒律、その他の常識に縛られ、自分達、仲間同士で互いを苦しめる。


だから、それを人々に伝えなければ、彼らはいつまでも神を見失い、さまよい続けるだろう。

何も知らず、ただ憎み合い、むさぼり合うだけで終わってしまう・・・。



そこには何の救いもない。


だから、この“ 真実 ”を伝えることこそ、神が自分に与えた使命なのだ、とイエスはそう信じ、そのために働いてきたつもりだった。

しかし、それがなかなか人々に受け入れてもらえないこともイエスはよく分かっていた。



この仕事を始めた時から、いつの日かこうして権力者の前に引き出され、彼らの争いに巻き込まれるだろうと、イエスは何となく気づいていた。


そして、それはヨハネが死んだ時に確信に変わった。


それほど人々の心は不信に満ち、互いに牙を向け合うことでしか自分を守れないと固く信じ込んでいるようだった。



だから、いくらイエスが愛を説こうと、そんな彼の純粋さを人々はかえって不審がり、ことさら彼を嫌った。

それでも、イエスは人から石を投げつけられようと、唾を吐かれようとそれに耐え続けてきた。


その一方、イエスをちやほやしてくる人々の大半は、彼の奇跡のわざにあやかって病気や困難から逃れたがっている人々か、あるいは自分の利益のみを求めたがる人達であって、結局のところ、彼の話を理解しているわけでも、彼の伝える“ 神 ”の言葉を信じているわけでもなかった。




そうして、周りにたくさんの人が集まるようになっても、イエスはいつも孤独だった。



だが、わたしは一人でいることには慣れている。


小さい頃から弟達に実の子ではないと勘づかれ、いじめられて育ってきた。

人並みに大して何も出来ない自分を見下されることもしょっちゅうだった。

だから、それほど孤独を寂しいと強く感じてもこなかった。



わたしの人生の大半が孤独なのだから、今さら気に病むほどのことでもないだろう・・・。





だが、そうは言っても、イエスの心の奥底に、そんな孤独な自分にも人として誰かから愛されたいと願う、本当の自分もいた。



それゆえ、人が嘘偽りなく心から愛し合える、そんなつながりをどうにか作りたいと思い、この仕事を始めたのだった。

だが、人の愛を求める彼の欲と、人から嫌われてでも社会に向かって真実を伝えなければならない使命との狭間で、イエスは常に葛藤していた。


こんな風に引き立てられることがないよう、どこかで妥協したっていいじゃないかと逃げたくなる気持ちもどこかにあった。


それでも、どうにも逃げられない運命をイエスは感じていた。




律法書を紐解き始めた時から、イエスの心にはずっと神の言葉が重くのしかかっていた。


わたしは、神から“ 生 ”を受け、さらに自身でこの道を選んだ以上、他の預言者達と同様に試練の定めを歩まねばならない。

預言者ヨナやイザヤ、エレミアたちがそうだったように、死ぬほど辛酸をなめつくすことだろう。

敵に病んだ背中を足で踏まれようとも信念を保ち続けられるか、良心を捨て去ったりしないか、わたしは神に試される。


どんな辛い目にあわされようと、最後まで神を、善を信じ続けられるか、それこそ神がわたしに与えた試練・・・。




そのイエスの使命を実はヨハネはすぐに気づいていた。


大した学もなさそうな貧しいイエスが、なぜか僧侶以上に人並みはずれた見解でもって律法書を説くのを聞いて、これはただ者ではないとヨハネにはすぐに分かったからだった。


-  神の精神がその人の心に宿る。

   神の知恵が、神の御心を理解する知恵が、

   正しい道を教え、人に元気をもたらす心が、

   正しい知識と神を畏怖し、謙虚に振舞える心が、

   その人の心に宿る。

   だから、その人は神を恐れ、敬うことに喜びを感じる。

              (イザヤ記 第11章2-3節)



律法書のあの言葉通りなら、間違いなくイエスの心には神の精神が宿っている。

そう思って、ヨハネはイエスを“ 神の子羊 ”と呼んだのだった。



確かに、すべては律法書の言葉通りに進んでいる。

これは既に、神により計画されていたのだ。



何が正しい道かは、すでに神がその天と地の法(=自然の法則、道理)できちんと定めておられる。



だから、わたしの取るべき道は一つしかない。

神(善)を信じ続けることだ。

正義が勝つと信じ続けることだ。


そして、わたしはこの信念に命を捧げなければならない・・・。



― その人は、乾ききって過酷な地面に根を張りながらも

  神の御前でたおやかな苗のごとく優しい心を持って育った。

  だが、その人は決して私達を惹きつけるような魅力もなければ、

  権威もない。

  もちろん、わたし達が期待するような美しい容姿も

  持ち合わせていない。

  何の形らしい形を持っていない。



  だから、人々に嫌われ、人々に拒否される。



  悲しみの人、苦しみに慣れ親しんだ人。


  人が顔を背けるぐらいにひどくその人は嫌われ、

  決して敬われることなどなかった。


  だからこそ、その人はわたし達の心の弱さや痛みを知り、

  それに伴う悲しみを癒してくれた。



  だが、わたし達はその人が苦しむのは神によって虐げられ、

  そうした不幸を負わされて生まれてきたのだと思った。


  しかし、その人は神にではなく、わたし達の持つ心の弱さによって

  その心を刺し貫かれたのだ。



  その人は私達のさまざまな心の罪によって押しつぶされたのだ。



  そうして、その人はわたし達に平安の道を伝えながら、

  わたし達の罰を一身に背負わされた。

  わたし達の未来をその人はその身でもって教えてくれたのだ。

  だから、その人の心の傷によってわたし達は癒される。


  本当にわたし達は、羊のようにあっちこっちに走り回り、

  一人一人が好き勝手な道へと突き進んで行った。

  主はそんなわたし達の心の弱さから来る罪を

  その人の苦しみとして課し、

  わたし達が一体、どんな罪を犯したのかを教えてくれた。

  (イザヤ53章)


主は、わたしに人の罪を課した。


主は確かにわたしを選んだのだ。



だが、たった一つ、私と神以外に人が気づいていないことがある。

特に、わたしを死に追い詰めようとする彼らには気づかないことが・・・。


そうして、寺の警備人達に乱暴に引き立てられながら、イエスはまだ、希望を失ってはいなかった。



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