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第二十一話 契機(きっかけ)

ご感想を頂きました皆さん、どうも有難うございます。

これからも精進していきたいと思いますので、お手数ではございますが、これからもどしどし、いろいろなご意見(厳しいご意見でも)をお待ちしております。

今後ともよろしくお願い致します。


そうして、ヨハネは死んだ。



首切り役人は、ヨハネの死を彼の身内に知らせるよう看守に指示すると、淡々と髪をつかんで、召使が持ってきた銀の皿の上にその首を載せた。


それを受け取った召使は、しっかりと目が見開かれたままのヨハネの恨めしそうな目を見たくなくて、すぐさま白い布をその首にかぶせると廊下の先だけを見つめ、そそくさと首の載った皿をサロメ達のいる宴会場へと運んでいった。





サロメとヘロディアスも、あの後すぐに男性客達の宴席から退しりぞき、既に女性達の宴会場に帰ってきていた。



女性達の宴席でも、豪華な食事が並べられ、ワインや酒が振舞われて、血生臭い処刑話とは無縁の、きらびやかで派手な出し物が次々と演じられていた。

ヘロディアスは、軽業師達の見事なアクロバットを眺めながら、宴が始まる前のあの胸騒ぎを思い出していた。


すべては順調に、“ 自分が思った通りに ”事は運んでいたはずなのに、まさか娘のサロメが突然、予想もしなかった事をしでかすとは・・・。


ヘロディアスは、“ 自分ではどうすることもできない人の心のあいまいさ ”に不安と苛立いらだちを感じていた。




果たして、サロメのはかりごとが功をなし、ユダヤの民達に今度こそヘロデと自分の権威を強く示せるか、そして、家臣達もヘロデと一体となってアラブと戦ってくれるか、それはヘロディアスにも誰にも分からない未来のことだった。




だが、その先の見通しができないことにヘロディアスは余計、不安をつのらせていた。

どうにもあらがえなかった政略結婚のしがらみから解放されて、ヘロデとの恋愛を押し通した彼女は、運命さえも自分の思い通りにできると自負していただけに、なぜか突然、思いもよらない事が起きると、明らかにうろたえてしまった。

そして、そんな不安と恐怖を自分に感じさせる娘が何となく憎らしくなってきて、ヘロディアスは思わずサロメの方に目を向けた。


だが、娘の方はそんなヘロディアスの思いなどまったく知らず、さっきから無邪気そうに軽業師や音楽隊の出し物を喜んで見ているようだった。

そうして、サロメの様子からすると一見、明るく楽しげな音楽や宴席の女性達の笑い声になじんでいるようにも見えるが、実はサロメの心はまったく別の事を考えていた。



彼女は、これから運ばれてくるヨハネの首を想像して、ワクワクしながらそれを待っていた。

子供の頃から母や召使達に教えられてきたよみがえりや霊の存在、おどろおどろしい魔界など、そうしたファンタジー(幻想)が頭の中を駆け巡ると、サロメは今から運ばれてくるヨハネの首が本当に空でも飛んで自分に話しかけたらいいのにとさえ思っていた。




子供の怖いもの見たさ。

たった、それだけの事でヨハネは死に追いやられたのである。




だが、それを許してしまったのは、何よりもヘロデとヘロディアスの“ 不義 ”であり、彼らの再婚が起きていなければ、誰も何も傷つかずに済んだはずだった。

その上、その不義が起きてからも彼らは無理やりそれを正当化しようとしてしまった。

それがかえって、まだ不義と正義のさかいがあいまいな、子供のサロメの心を強く混乱させてしまったのだった。



実父を捨てて伯父おじに走った母。


国家の女王である母を公然と非難する洗礼者ヨハネとユダヤの庶民達。


慣れない異国の地に嫁いできて15年間、一度も夫を裏切ることなく添い遂げてきて、よわいを重ねたために、すげなく実家に追い返された義父の正妻。


単なる情事に身分や血筋、政治的事情をこじつけて、不義を正義にすり替えて戦争しようという義父。



大人ですら、このうちのどれが正しく、どれが間違っているかの白黒しろくろはなかなかつけづらい。

それはある程度、知識と経験を積み、人の心の弱さを知っているからこそ、それぞれの出来事にいろいろと複雑な事情がからむものと思うからだ。

だが、それがまだ思春期の子供だと、さらに難しくなる。


知識と経験がないゆえに人の気持ちへの理解がとぼしく、良心によって白黒の判断はつけられても、それが現実と違うと混乱する。

まして、それに肉親が関わっていれば、肉親を正義の手本とするので、それが本末転倒していると、もっと混乱する。



こうして、サロメは殺人を正義にしてしまった。



だが、サロメ以上に人の心にもっとうとかったのは、母親のヘロディアスの方なのかもしれない。

サロメの無邪気な姿にまどわされ、娘の心が病んで人間らしい愛や情けを失っていることにこの母はまるっきり気づいていなかった。

だから、サロメがヨハネの処刑を求めたことで、ヘロディアスもようやく娘の心に異常が起きていると気づいたようだが、それでもその異常の原因が自分にあるとはまるで分かっていなかった。



この娘は、一体、どういうつもりで、ああも大胆なことを言ってのけたのだろう?

何も恐ろしさを感じないのだろうか?


ヘロディアスは、ただ、サロメの心に潜む闇の深さに空恐ろしさを感じていただけだった。


気弱で、人と事を構えることが苦手な父親とは似ても似つかないサロメの激しい気性は、ヘロディアスも十分、心得ていた。

しかし、その気性以上に、自分が育てた娘が自分の想像を越えた何か不気味な存在になりつつあるような気がした。

ヘロディアスはそう考えると、目の前で繰り広げられている華やかな出し物をはずんだ気持ちで眺めることができず、ますます気分が沈んでいくようだった。


そこへ、処刑場から戻ってきたヘロデの召使が、サロメが所望しょもうした品をたずさえて女性達の宴席の場にやって来た。


召使は、丁重に頭を下げて足早にヘロディアスとサロメのいる席まで銀の皿を運んできた。





一瞬、それが何なのかサロメとヘロディアス以外は誰も分からなかった。





真っ白できれいな布がかけられた銀の皿がしずしずと運ばれてくるのを見て、他の女性客達は皆、特別な料理か、それとも何かすばらしく珍しい品物でも贈られてきたのかと思い、期待と羨望せんぼうの入り混じった眼差しでその皿を見つめていた。

そして、サロメとヘロディアスの前のテーブルにその皿を置くと、召使はさっと、その布を取り払った。



「きゃあっっっー!!!」

と、女性客達はその皿の上にある“ 物 ”に気づいて、一斉に悲鳴を上げた。


中には、あまりの衝撃に耐え切れず、その場で気を失って倒れる者もいた。


ヘロディアスは、他の女性達のように動じることはなかったが、それでも凝視することはできず、すぐにその目をヨハネの首から引き離した。


だが、サロメは動揺するどころか、まるで珍しい品物を鑑定するかのように、恨めしそうに自分を見つめるヨハネの首をじぃっと見入っていた。




何なの、これは?



ヨハネの首を見た途端、サロメはすぐに落胆した。




生首って、もっときれいなものだと思っていたわ。

もっとこう、ロマンチックで、もっと幻想的で、不思議な魅力があるものだと・・・。


生々しく血がしたたり、男の顔がみにくくゆがんで、何とも形容しがたいほどおどろおどろしい形相をしているだろうと期待していた。





だが、サロメの目には、ヨハネの首はあまりにも汚らしかった。


切断されて地面を転がった際についた泥なのか、それとも固まってどす黒くなった血なのかよく分からなかったが、何か黒い塊があちこちこびりついていてひどく汚れている上、牢で長い間、過ごした男の顔には不潔さが漂っていた。


髪もひげも伸び放題で、あちこちシラミが沸き、長い間、洗わないであかにまみれたその顔はとてもロマンチックな物とは言い難かった。

それが、ピカピカに磨かれた銀の皿に載せられていると、何だかとても奇妙な光景で、どこか滑稽な感じもした。


そうして、しげしげとその汚れたヨハネの首を眺めていたサロメだったが、もはや興味が失せてきたのか、プイッと横を向くと、

「もう、いいわ。それを持って下がって」

と、すげなく手を振って召使にそう命じた。


ヘロデの召使は、サロメの命じるままに再びヨハネの首に白い布をかけ、丁重に頭を下げると、またそれを持って退出していった。




だが、あまりの恐ろしさにその後もしばらく他の女性客達は身をすくめ、皆、黙りこくって凍りついていた。

サロメは、どちらかと言うと恐ろしさより不潔さにおぞましさを感じて気分を悪くしたようで、目の前のワイングラスに手を伸ばし、その中身を飲み干した。


その様子を見て、ヘロディアスは少しため息をつき、手で合図して沈んだ宴席の雰囲気を再び盛り上げることにした。



そうして、何事もなかったかのように陽気な音楽が奏でられ始め、踊り子達も華やかに踊り出したが、それでもやはりどこかうっすらとした寒々しさはいつまでも残ったままだった・・・。






その後、ヨハネの死体は、本来ならば荼毘だびにふされて他の囚人と一緒に埋葬されるはずだったが、首切り役人の情けによって、看守が死体を引き取りに来るよう使いを送ったため、クファノウムにいるナサニエルやフィリポ達、ヨハネの元弟子達にもヨハネの死が伝えられた。


あまりに突然の訃報に、元弟子達、全員が驚きを隠せず、ただ呆然としてお互い顔を見合わせただけだった。

特にナサニエルとフィリポは、遺体を見るまでは絶対に信じないと言って、真っ先にクファノウムを飛び出し、そのままティベリウスへと向かった。


いつも見舞いに来る時と同じように、宮殿の地下牢へと続くじめじめとした階段を下りながら、ナサニエルはヨハネの温かい笑顔が自分を出迎えてくれるはずだ、と信じていた。



だが、今日はヨハネが収監されていた牢の前を通り過ぎ、その先にある処刑場へと導かれると、そこには確かに首と胴が切り離されたままのヨハネの死体が板の上に転がされていた。





フィリポはそれを目にした途端、見るも無残な姿に耐えられず、思わず目を背けた。



ナサニエルは、逆に今にも師が自分に語りかけてくれるのではないかと期待し、生首となったヨハネの恨めしそうな目をじっと見つめていた。

だが、ヨハネは何も語らなかった。





その時、ナサニエルの目から涙があふれてきた。

既にフィリポも嗚咽おえつを漏らしていた。



「先生っー!!!!!!」

言葉にならない叫びが地下牢いっぱいに響き渡った。

ナサニエルはヨハネの首を抱いて泣き崩れていた。




こんな馬鹿なことがあって、たまるものか。



ヨハネ先生は殺されるようなことなど何もしていない。


ただ、間違ったことを正そうとして、はっきりと物を言っただけじゃないか。

暴力を振るったとか、熱心党や他の過激な宗派のように、武器を持って相手を威嚇いかくしたわけでもない。


なのに、どうしてこんなことになってしまうんだ?




ナサニエルとフィリポは、あまりに理不尽なヨハネの死に納得できず、怒りと悔しさで涙が止まらなかった。

そして、どうすることもできない自分達の無力さをかみ締めるしかなかった。






そうして、あれから随分と時が経ち、ヨハネと同じくとらわれの身となったイエスは、エルサレム神殿の警備役人にこづかれながら、今まさにピラトの屋敷からヨハネを処刑したヘロデの元に送られようとしていた。



そのピラトの屋敷は、元はヘロデの父であるヘロデ大王が住んでいた宮殿で、東に位置するエルサレム神殿と対峙する形で、最も西の端に建てられていた。

ユダヤ総督に就任して以来、ピラトは普段、エルサレムよりもカエサリア(現テル・アビブ近郊)にある別の宮殿に住んでおり、ペサハ(過ぎ越し祭)のような国家行事や祝祭がある時だけ市街の特別警備を指揮する為、エルサレムにあるこの宮殿に滞在した。


一方、ヘロデも、ローマからガリレー地域のテトラーク(属州知事)に任命されていたため、ピラトと同様、普段はティベリウスに住んでいたが、これまた国の行事となると彼は必ずと言っていいほど、ここエルサレムにやって来た。

だが、ユダヤ総督でもない彼には実質的にエルサレム市街を統括する権限はなく、むろん、ヘロデ大王の宮殿には滞在できない。


そこで、彼は仕方なく、父親が建てた宮殿と神殿の両方を結ぶ連絡橋のまん中辺りに建てられていた、ハスモン宮殿という小宮殿に滞在した。

ヘロデはそこに居を構え、いろいろな行事に顔を出しては、自身をユダヤの次期王であるかのように人々にアピールしていた。

その態度からして、彼の魂胆こんたんがあまりにも見え透いていたので、ピラトにしてみればいちいちヘロデの存在はしゃくに障ったが、ユダヤ人の文化や習慣に精通していない外国人の彼には戸惑うことばかりでどう対処していいのか分からない。


だから、ヘロデが自分より前にしゃしゃり出ることを、ピラトはどうしても止めることができなかった。


イエスをヘロデの元に送った時も、ピラトとしては瑣末さまつな事件を裁くのが面倒だったのもあるが、実は心の底で、ヘロデが今回、イエスをどう裁くのか見物みものだと少し意地悪く考えてもいた。




というのも、ピラトもまた、あの処刑された洗礼者ヨハネのことを少し耳にしていた。



ヨハネが処刑されて間もなく、アラブとの戦争が始まると、ヘロデは国境地域に配備していた貴族達の裏切りにあい、アラブとの決戦にことごとく破れていた。

その後も、ヘロデの対応は後手後手ごてごてで、敗戦するとすぐさまローマのティベリウスに泣きつき、ティベリウスはここぞとばかりにヘロデの肩を持って、早速、シリア総督にアレタス4世を何としてでもひっとらえるよう命じていた。



そのため、ローマは今、アラブ攻略をもくろみ、着々とその準備を進めていたのである。



こうして、当初は領土拡大を狙ってアラブと戦争したはずのヘロデは、結局、味方の家臣に離反されたことで敗戦してその領土をかえって狭め、さらに王位継承を期待して長年、へつらってきたローマからはひそかに裏切られて、王位どころか逆に自国の自治独立権をも奪われかねない状況にまで追い込まれていた。


そんなヘロデの愚かぶりに、ユダヤの庶民達はヨハネを殺した天罰が下ったのだと影でささやき合っていた。

もちろん、そんな陰口はすぐに広まる。

だから、カエサリアにいるピラトの耳にもその話はもれ伝わってきていた。


あの時も、預言者か何だかよく分からんユダヤ教の説教屋を処刑して、えらく下から叩かれていた。

どうやら、あのイエスと言う男もあの時の説教屋とよく似ている。

はて、さて、ヘロデの奴、今度は一体、どうあの男を裁くつもりだろう?



だから、ピラトはイエスを見てヨハネのことを思い出し、彼をヘロデの元へ送る気になったのだった。

つまり、それはヨハネの死が、外国人のピラトですら覚えているくらい、人々の記憶に長く留まる強烈な出来事だったということでもあった。




そして、それはヨハネの代わりにイエスの名が徐々に世間に知られるようになる、“ 契機きっかけ ”でもあった。




ナサニエル達がヨハネを埋葬した直後から、既にヨハネの死の知らせは巷の人々の間を駆け巡っていた。

さすがに彼が牢にいる間は、その人気に陰りが見えたが、死んでしまったとなると、途端に彼は悲劇のヒーローに祭り上げられ、あちこちで彼の噂をして、涙にくれる人まで出てきた。


そんな中、イエスも、フィリポやナサニエルからヨハネの最後を聞かされ、悲しんでいた。

ただし、それほど深い悲しみではない。


ヨハネとは2、3度会っただけで、それほど長い付き合いでもなかった。


だから、イエスにとってヨハネの死は、ナサニエル達のそれとは違い、遠い出来事でしかなく、ヨハネ個人の死をいたむというよりヨハネの処刑がもたらした理不尽さの方がイエスにとっては大きな問題だった。

そのため、イエスがヨハネの死を知った時、最初に感じたのは悲しみではなく、怒りだった。



裁判もなく、逮捕された理由も明らかにされず、たった一晩で有無も言わさず処刑されたヨハネ。

そのヨハネの無念さを思うと、どうにもイエスは許せなかった。


まして、ナサニエルやフィリポ達、元弟子達にあれほど慕われ、ユダヤの人々に敬愛されてきたヨハネに一体、どんな落ち度があったと言うのか?

彼はただ、このユダヤの地が繁栄されることを願い、そのために人々を立ち直らせようと懸命に“ 人の道 ”を説いていただけだ。


なのに、そんな勇気と信念を持つ有能な男を抹殺することで、どれほどこのイスラエルに大きな損失を招くことになるか、そんな当たり前の損得勘定すらできない今の権力者達にイエスは深い憤りと憎悪を感じていた。





ああ、御父よ、あなたはなぜ、彼を救ってくださらなかった?




どうして、彼ほどの男を死なせる必要があったのだ?





イエスは、どうしてもその謎が解けず、それを直接、神に尋ねてみたくなった。

そして、その耐え切れない思いに駆られたイエスは、弟子達には黙って一人、そっと外へと出て行った・・・。


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