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第二十話 生贄(いけにえ)

サロメが踊り終えると、客達は一瞬、シンとなった。


その後、すぐにわぁっと歓声が上がって、割れんばかりの拍手喝采が部屋一面に鳴り響いた。



「なんと、素晴らしいっ! 

なんと、艶やかなっ!

まるで天使が舞い降りてきたような見事な舞であった!」

ヘロデは興奮して大きく手を叩いていたが、それでも足りないとばかりに何度も賞賛の言葉を口にした。

サロメは予想以上の大きな喝采にちょっと驚いたが、ヘロデとヘロディアスが満足そうに微笑んでいるのを見て、ようやく自分の踊りが成功したことに実感が湧いてきた。



そこで、ほっとしたサロメがゆっくりとお辞儀をすると、その彼女の自信に満ちた優美な動きにすっかりみとれた男性客達は、いっそう彼女をめそやした。

「さすがはハスモンの姫。

あの気高さは、まさしく王家のあかしというもの。

ローマ広しと言えども、あれほど気品のある美しい娘はいないだろう」

「おっしゃるとおり。ヘロデ王もさぞかしご自慢だろう」

と、最後はちょっと皮肉っぽく客の一人が言うと、それを聞いた他の客達も意地悪っぽくヘロデに目をやった。


「おお、サロメ。さぁ、もっと近くに参れ。

お前の踊りは本当に素晴らしかった。

神もきっとこれを見てお喜びになっておられるだろう。

お前からの贈り物は、この世のどの品よりもまさるとも劣らない。

神でさえ、今夜のお前の踊りを見て何の褒美ほうびも授けずに、そのまま帰したりはしないだろう。

それゆえ、わたしが神に代わってそなたに褒美を取らせようぞ。

さぁ、何がいい?

“ 何でも、よいぞ。 ”

何が欲しいか、遠慮せずに申してみよ」

ヘロデは目尻を下げて、うれしそうにそう言ってサロメをうながした。




そのヘロデの言葉に、サロメは驚いた。

まさか、これほど事がすんなり運ぶとは、サロメ自身もまったく予想していなかった。



元々、ヘロデは略奪婚の負い目からか、サロメにはめっぽう甘い。


これまでも義理の娘を自分になつかせようとして、ヘロデがサロメの願いを断ったことなどただの一度もなかった。

それは、サロメの方もよく分かっていて、義理の父に何かを頼めば、必ず答えてくれるものと思っていた。


だが、居並ぶ家臣や重鎮達じゅうちんたちを前に、ヘロデがそれを口にするとなると、それはある意味、おおやけの場での約束、つまり“ 公約 ”となるため、果たせなかったら、それこそヘロデの信用問題にも関わる。

たとえ、サロメが世間知らずの子供だったとしても、王家の娘である以上、政治にたずさわる家系に生まれた者として、ヘロデの立場は心得ていた。


だから、まさかヘロデがすぐに自分の要求を聞いてくれるとは思っていなかったのだった。



今日はよほどご機嫌らしい・・・。



とは言え、ヘロデにそんなにあっさり約束されても、それもまた、サロメにしてみれば、面白くない。


義父ヘロデが自分を女、子供と見て、最初から大した要求はしてこないだろうと踏んでいるからこそ、そうやって軽く約束を口にするんだろうと、サロメは既にヘロデのおごりを読んでいた。


そして、ヘロデが次に口にした言葉も、やはりそのサロメの読み通りだった。


「宝石か? それとも東方の珍しい絹や香油か?

あるいは、城はどうだ?

お前ならこの国だって惜しくはないぞ。ワハハハハ」

ヘロデが冗談交じりにそう言って大声で笑うと、客達もそれにならって一緒に笑った。




それを聞いて、サロメはムッとした。


ヘロデや客達が明らかに自分をあなどっていることが分かり、サロメはプライドを傷つけられていた。

と同時に、ヘロデのその油断が、かえって自分の計画にとても有利に働いていることにサロメはすぐに気づいた。



公の場でヘロデから言い出したことで、ヘロデは自分との約束をうやむやにできないし、さらに母ヘロディアスをヘロデのきさきとして強く印象づける絶好の機会にもなる。


それに気づいたサロメは、きらっと目を光らせ、さっき以上に優美で落ち着いた仕草でヘロデの前にひざまずいた。


「では、お義父様とうさま

わたくしの立っての願い、お聞きくださいますか?」

「おお、何でもよいぞ。申してみよ」

ヘロデはサロメの真剣な目には気づかず、陽気な声で義娘むすめを促した。


「わたくしの欲しいものは宝石でも、城でもございません。

わたくしの願いはただ、一つ。

お義父様の健康と、この国がお義父様の御世においてさらに繁栄すること。

それ以外に何を願いましょうか?」

サロメは目を伏せて神妙な面持おももちでそう答えた。


かわいらしい声と仕草で、いかにも人の心をくすぐるような手練手管に見事に乗せられたヘロデは、うれしそうに顔を紅潮させ、客達と共にさらに笑った。

「おお、何とかわいいことを言ってくれる。

お前のような謙虚な娘は今時、珍しい。

これはますます、お前に何かを授けずにはおられんぞ。

さぁ、サロメ。わたしに何かさせてくれ。

何でもよいぞ、申してみよ」


そこで、サロメは伏せていた目を上げ、今度は挑むようにヘロデを見つめ、こう切り出した。

「いいえ、お義父様。

お義父様はこれまでサロメに何でも買い与えてくださいました。

ですから、わたくしは欲しい物など何もございません。

お義父様のように強く偉大なお方を父に持ち、優しく美しい母に愛されるわたくしは神に祝福された幸せ者にございます。

ですが、そんなわたくしにもただ一つ、どうしてもせないことがございます」

「ほぅ、一体、何が解せないと言うのか?」

「はい。

それは、ユダヤを最も愛する母がどうしてあれほどまでにユダヤの民達に非難されるのか?

なぜ、神は預言者エリヤの生まれ変わりとしてヨハネという男をおつかわしになり、“ 神ご自身がお定めになった正統なユダヤの女王の生まれである母 ”を侮辱されるのか、それがどうしてもわたくしには分かりません。

一体、あの優しい母がユダヤの民達に何をしたというのでしょう?

ユダヤの王であるお義父様を愛したことが罪だ、と神はおっしゃるのでしょうか?

ですから、わたくしはどうしても知りとうございます。

わたくしの母を侮辱し、お義父様とお母様の仲を引き裂こうとする、あの洗礼者ヨハネが果たして本当に預言者エリヤの生まれ変わりか、いなかを」


サロメはそう言い終わると、ヘロデを真正面から見据えた。


そこで、初めてヘロデはサロメの意図に気づいてハッとした。



「その答えをどうやって知ろうというのだ?」

だが、ヘロデは嫌な予感はしながらもサロメの策略にまんまと引っかかり、つい、声を落として尋ねてしまった。


「では、お義父様、わたくしにヨハネの首を。

預言者エリヤの生まれ変わりと名乗るあの男の首を、聖なる銀の大皿に載せてわたくしにいただけませんでしょうか?

もし、ヨハネが真に神から遣わされた預言者エリヤの生まれ変わりなら、首をはねられようとも必ず死者からよみがえり、まさしくその口でもって母の罪を解き明かし、わたくしの愚かさを糾弾することでしょう。

ですが、もし、蘇ってこなければ、あの男は真っ赤な偽者にせもの

民達を愚弄ぐろうし、神によって女王となるべく生まれた母を侮辱した神への反逆者にございます。

神はわたくしの問いに答えてあの男の真偽を裁き、万一、民達を扇動するデーモン(悪魔)とみなせば、そのままあの男をハデス(地獄)へと送り返してくださるでしょう。

さすれば、お義父様、その“ ご神託しんたく ”を賜る儀式をこのサロメが執り行うことをお許しいただけませんでしょうか?」


そうして、サロメはさっきまで挑戦的に輝かせていたその目を伏せ、再びしおらしく頭を下げた。




“ ご神託 ”とは、なんとも小賢こざかしい言い様ではないか。


母親のかたきであるヨハネを始末するだけでなく、神からのお墨付すみつきをもらうことでヘロディアスがユダヤの真の女王であると、絶対的に人々に認めさせることもできる。



サロメにまんまとしてやられたヘロデは、彼女のしたたかな策略に思わず舌を巻き、ヘロディアスを恨みがましく振り返った。



恐らくこれはヘロディアスが裏で糸を引いているに違いない。


あれほどヨハネの処刑を望んでいたヘロディアスのこと。

義娘むすめをそそのかして、首を取って来いとでも言ったのだろう。

子供のサロメがそれを真に受けたとしても不思議はない。

だが、何と愚かしいことをしてくれたものだ。


まさか、人前でヨハネの件を持ち出すとは・・・。



そう思ってヘロデは顔をしかめ、妻の方を見たが、当のヘロディアスは、娘の心の内にある計略などついぞ知らなかったので、唖然あぜんとしたままサロメを見つめるしかなかった。


勝手なもので、あれほどヨハネに恨みつらみを抱いていたヘロディアスだったが、ヨハネの逮捕以来、彼についての話題が少しずつ遠のくと、自分への世間の風当たりが薄らいできたこともあって、ヘロディアスは段々、ヨハネの存在を気にかけなくなっていた。

それよりも今は、アラブとの決戦やローマの動向の方が気になり出し、もはやヨハネの事などどうでもよかった。


それでも、ヨハネにプライドを傷つけられた恨みを決して忘れたわけではなかったが、サロメの前で突っ伏して泣きわめいたことでヘロディアスの気持ちはずいぶんと落ち着いてしまっていたのである。



だから、今さらヨハネの処刑を求めようとはヘロディアスはまったく思っていなかったのだった。


なのに、自分よりも娘の方がヨハネの事を重く受け止め、今日まで感情的に取り乱すこともなくその殺意を温存し、冷徹に計略を練り上げた挙句、神託にかこつけてそのヨハネの首を求めるという、あまりの冷酷非情さに我が娘ながらサロメという女をヘロディアスは末恐ろしく思った。

それは、激情に駆られてつい殺意を口にするが、その場限りですぐに怒りを忘れてしまう自分とはかけ離れた、理解しがたい無情の考え方だった。


とは言え、自分がサロメに向かって「あんな男、死ねばいい」とか、「早く首をはねられてしまえ」と散々、言い募ってきただけに、今さら娘の無慈悲さをとがめる訳にもいかず、ヘロディアスはサロメの顔を呆然ぼうぜんと眺めるばかりだった。




そうして、ヘロディアスが何も言わずにいたため、ヘロデは自分が思った通り、彼女が裏で画策かくさくしたに違いないと確信し、ヘロディアスに苛立いらだちを覚えながら、サロメの要求をどうしたものかと考え始めた。


普段ならば、ヘロデもサロメの願いを子供の戯言たわごとと一笑にふすところだが、さすがに自分への加勢を求めるために招いた家臣や客人達の前で、自分が言い出した約束の褒美を授けないわけにはいかない。

そんなことをすれば、彼らへの褒美も反故ほごにするかもしれないという疑いを持たれることになる。

しかも、ヨハネは遠まわしながらヘロデの政治を批判し、それで世論が彼の味方についていたということもあって、ヨハネの処分いかんで国内の世情がヘロデに対してさらに批判的になって乱れるか、それとも見せしめとなってヘロデの権威が強調され、逆に安定させられるかという、ヘロデの政治判断力そのものが問われていることでもあった。



しかし、洗礼者ヨハネを処刑することはヘロデにとって一種の賭けに近かった。



果たして、この処刑をユダヤ人達はどう受け止めるだろうか?



アラブとの決戦を前に国内の政情が不安定になれば、相手にわざわざつけ入る隙を与えることになる。

全く厄介なことをしてくれる。

これだから女は浅はかだ、と言うんだ。

ヘロデはそんな腹ただしさを抱えたままヘロディアスから目を引き離すと、サロメの方に渋々ながら顔を再び向けた。



だが、サロメは自分のせいで義父と母がかなり困った状況になったとは知らず、自信満々で立っていた。

それどころか自分の言っていることこそ、まさしく正義なのだと心底、そう思い込んでいた。

ただ、ちょっとだけ彼女の心に引っ掛かったとすれば、母を非難したという以外にヨハネという男が一体、これまで何をし、どう生きていたのかをサロメ自身はまったく知らなかったので、そんな会ったこともなければ見たこともない男への憎悪を保ち続けるのが自分でもかなり難しいという点だった。



知らない男を憎み続けるのは難しい・・・。

だが、母があれほど敵視していた男なのだから、よほどの悪党であるに違いない。


それが、彼女の心の中にあるヨハネを断罪する唯一ゆいいつの根拠(理由)だった。

そして、そのあいまいな理由の上によく知りもしない男の命を神の名の下で“ 人身御供 ”にすることで、彼女は母とユダヤという国に自身の忠誠心を示そうとしていた。


それを絶対的な正義だと信じて・・・。





一方、そんなサロメを見つめていたヘロデは、彼女の表情からその意思の固さを見て取ると、大勢の客達の前でうまく言いくるめてやり過ごすわけにもいかず、結局、何もできないまま彼女の要求を黙ってむしかなかった。

そこで、ヘロデはふうっとあきらめたように大きなため息をつくと、自分の傍にいた召使に向かって牢にいる首切り役人にヨハネの処刑を命じるようはっきりと告げた。



すると、二人のこのやり取りをさっきから固唾かたずを呑んで聞いていた客達から、たちまち「おおーっ!」という驚愕の声が上がった。

ヘロディアスも驚いたように眉を吊り上げ、サロメと夫の両方を交互に見つめていた。


そうして、ヘロデはもちろん、ヘロディアスや客達も、今後の展開がどうなるものかと恐れと不安を抱いてその表情を暗くしたが、そんな彼らの輪の中でただ一人、“ 神から授けられる命というもの、そして神の存在へのおそれを知らない ”サロメだけが、自分の要求がヘロデに受け入れられたことを知り、勝ち誇ったようにその顔を輝かせて微笑んだのだった。







一方、その頃、牢にいたヨハネがよく考えていたのは自分の裁判の事ではなくて、ライバルであるイエスの事だった。



イエスがいろいろな奇跡を起こしているらしいとの噂は、牢につながれているヨハネの耳にも随分とたくさん届いていた。

イエスとは一度、会ったきりで、ナサニエルとフィリポを通じて話を交わして以来、彼とはまともに会ったことはなかったが、できれば、イエスともう一度、じっくりと会って話してみたいとヨハネは常々、考えていた。



どうすればここを出られるのだろう・・・?




ヨハネは、自分がこの世に執着している未練がましい男だとは思われたくなかったので、前々からずっと、いつでも殉教する覚悟はできていると弟子や信者達に宣言していたが、実のところ、彼には死ぬ気などさらさらなかった。

それは別に、ヨハネが本気でユダヤを改革する活動に取り組んでいなかったわけではなくて、単にヨハネ自身が「死」というものをあまり深くとらえていないせいだった。



つまり、彼は“ 自分がいつかは死んでいなくなる一個の動物なのだ ”とは全く考えたことがなかったのである。



この世を生きることに力の限りを尽くし、その人生を何より楽しんできたヨハネにとって、“ 自分が死ぬ日 ”は幻想にも似た、程遠い未来のような気がしていた。

だから、イエスが彗星すいせいのごとくやって来て、自分以上に活躍している話を聞き、本心から喜ぶと同時にそれがヨハネの闘志に新たなる火をつけていた。


ヨハネとしては、イエスの活躍はそれとして認め、これまで以上に自分の活動に奮闘することをまだ、あきらめていたわけではなかった。



やりたいことは、まだまだたくさんあるんだ。

そうそう死ぬわけにはいかない。




それが、ヨハネの本音だった。


また、自分ほど戒律を守り続けてきた男はいないと自負していたので、何となく「神は敬虔けいけんな自分を許して、特別にその寿命を好きなだけ延ばしてくれるかもしれない」などという、根拠のない妙な信仰心を心の底では抱いていた。



確かに、ヨハネは律法書に書いてある戒律を誰よりも厳しく守ってきた男だった。


食事は、戒律で許されている野原のバッタや巣の中の蜂蜜を取って食べ、できるだけ殺生せっしょうをしないようにと肉を食べることは一切、なかった。

それゆえ、生活の全てに渡って質素倹約を原則とし、弟子達にもこれまでユダヤで伝えられてきた戒律は絶対に破らないよう徹底して教えてきたのである。


そうして、ヨハネは神の教えは律法書にあると固く信じ、そこに書かれてある全てがこの世を正しく生きるすべなのだと考えて、彼は真摯しんしにユダヤ教に打ち込んできた。



しかし、戒律主義者と呼ばれるファリサイ派にしても、ユダヤ教の寺という寺をすべて牛耳ぎゅうじるサドカイ派にしても、自分達の勝手都合でその戒律をねじ曲げる向きがあり、そういったことからヨハネはどちらの派にも属せず、自分からその枠を飛び出したのだった。

果たして、その決断が本当に良かったかどうかはヨハネにもはっきりと分からなかったが、とにかくヨハネは自分なりに理想の宗派を作ってみたいと以前からずっと考えていた。



だから、そんなヨハネの頭にはそれを実現するための活動に関するいろいろな案はあっても、根源的に“ 自分自身の存在が一体、何であるか ”については一度も想像したことがなかったのだった。

そのため、ヘロデの命令を受けた首切り役人がヨハネの牢にやって来た時も、ヨハネは相変わらず自分の首を切りに来たとは実感できず、斧を持った役人に

「何しに来た?」と、のん気そうに尋ねた。



「洗礼者ヨハネ。特令だ。

お前の首は神へのご供物として捧げられる。

何か言い残す事はないか?」

黒い頭巾ずきんをかぶった首切り役人は、普段と変わらず穏やかな様子のヨハネを見て少し言いにくそうに彼の処刑を告げた。



首切り役人も、ユダヤの一庶民に変わりはない。


それまでのヨハネの活躍振りもよく知っていたし、人の子である以上、何ら正当な理由もなく人を死に追いやる気には到底、なれなかった。

しかも、ヘロデの命令を持ってきた召使からサロメとヘロデのやり取りを聞いていただけに、こんな処刑はいただけないと心の底では苦々しく思っていた。



だが、所詮、自分はヘロデに雇われている一庶民に過ぎない。

身分も他の庶民と比べたらずっと低い。


立場が普通よりも悪いことに加え、自分は裁判官でもなければ王でもなく、これまで罪人の処刑を仕事と割り切って断行してきただけに今更、その立場をくつがえしたり、自分よりも目上の者にはむかって、その決定や判断に異議を唱えるつもりなどまったくなかった。


だから、何も言わず、いつも通り、淡々と処刑を執り行うつもりだった。


「わたしが一体、何を言い残せと言うのだ?

別に、命は惜しくはない。

だが、今のままでは納得がいかん。

わたしの裁きはまだはっきりとは決まっていなかったはずだ。

なのに、どうして急に処刑と決まったのだ?」

ヨハネは何ら理由を言われないことに腹を立て、頑として自身の判決に抵抗しようとしていた。


「特例と言っただろう。

お前が本当に預言者の生まれ変わりかどうかを調べるため、突然、処刑することに決まったのだ」


本当の事を言うつもりは首切り役人にはなかった。


黙ってヨハネの首を切り、ヘロデに差し出せば、それで穏便に事は運び、妙な罪悪感を抱かずに済む。

さっきまで彼は、役人らしい事なかれ主義をつらぬくつもりだった。

だが、ヨハネのまっすぐでけがれのない目を見ていると、どうしても情が抑えきれず、首切り役人はつい、本当の事を言ってしまった。


「何っ? 預言者の生まれ変わりかどうかを調べる為の処刑? 

何を馬鹿な事を言ってる。

そんな下らない理由で処刑を決めるとは子供だましもいいところだ。

まして、処刑されたら死人に口なしではないかっ! 

冤罪えんざいで逮捕されたのに、一度も公の場で反論する機会も与えられんとはますますもって納得がいかん。

わたしを弁護する者を今すぐここに呼んできてくれ。

そして、ちゃんとした裁判を開くんだ。

裁判もしないまま正当な理由もなしに首を切られては、こっちは天国にも地獄にも行かずこの世をさまよって一生、彼らにとりいてやるぞっ!

さぁ、わたしの弁護人を今すぐ呼べ。

戒律にある通り、わたしには正当な裁判を受ける権利があるはずだっ!」


ヨハネはそう言って顔をぷんと横に向けると、腕組みをしながらその場にどっかりと座り込んだ。

役人はそのヨハネの一分の隙もない正論にすっかり怖気おじけづき、おどおどしながら彼をなだめようとした。

「とやかく申すな。

お前が本当に預言者エリヤの生まれ変わりならば、たとえ首をはねられようとも生きて戻ってくることができるだろう。

それがこの処刑を執り行う理由だ」

「馬鹿馬鹿しいっ!

死んで生き返ってこいだと? 

一体、誰がそんなことを言い出したのだ?

わたしは一度だって、自分が生まれ変わりだなどと言ったことはないぞ。

それはわたしをおとしいれようとする奴らの詭弁きべんじゃないか!」


ヨハネは首切り役人の苦しまぎれの言い逃れに、さっきと変わらず強い調子で畳み掛けるように反論した。

そこで、首切り役人はもはやヨハネをなだめることをあきらめ、他の看守達を呼んでヨハネを無理やり取り押さえて処刑を断行することにした。


もちろん、ヨハネは看守達の無理強むりじいに何とか抵抗しようとしたが、既に牢につながれてから随分と月日が経っていてその体力もすっかり衰えていたため、彼は簡単に看守達に押さえ込まれていた。


そうして、ようやくヨハネは自分が本当に今、“ 死 ”を迎えようとしているのだと気がついた。



わたしは・・・。

わたしは、このまま死ぬのか・・・?

それが神の答えか?


なぜだ?



なぜ、わたしは死なねばならん?

なぜ、こんな不当が許されるのか?


わたしはあれほどまでに戒律を守り続け、正しい事を行なってきたのではないのか?

分からない。なぜだ?

なぜ、このわたしが死なねばならない?

なぜ、このわたしが・・・?



その時、初めてヨハネは自分の信仰心を疑った。

自分の死を恐れた。

わたしは本当に神を信じていたんだろうか?

わたしは一体、何を信じて今日まで生きてきたんだろう・・・?




そんな思いを抱きながら、ヨハネは看守達にされるがまま、彼らに腕をねじ伏せられて身体をひきずられ、首切り台にその顔をギュッと押し付けられた。

そして、木でできた首切り台のひんやりとした冷たさがその頬に伝わった瞬間、「あっ!」と声を上げる間もなく、首切り役人はヨハネの首筋にその太い斧を振り落とした。





すぐにガキっと、首切り台に斧が当たる鈍い音がした。




すると、ゴロンと、胴体から離れたヨハネの首が首切り台から落ち、そのまま血をしたたらせながら勢いよく地面の上を転がっていった。


そうして、ヨハネの首は点々と血の跡を地面につけながら転がっていき、ようやく止まると、その首はちょうど首切り役人達の方を真正面から見据える形で向き直っていた。



その目はまるで生きているかのようにしっかりと見開き、今にも役人達に食って掛かかりそうな強い光を放っていたが、その頬にはヨハネが最後に流したであろう涙の跡が泥に混じってくっきりと残っていた。



そして、その涙に濡れた頬が何よりもヨハネの無念さを強く物語っていた。









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