第十九話 狂宴
そんなサロメやヘロディアスの様々な思いがこめられたヘロデの誕生祝いの宴席は、そろそろ日が暮れかかってくる黄昏時から始められた。
宴会場は既に、長くて幅の広い大きな食卓がUの字型になるようにいくつか置かれていて、それらをぐるりと取り囲むようにふかふかのクッションやマットレスが敷かれた大きなカウチ(長椅子)がたくさん据えられ、さらにその食卓の上には美食家アピキウス(AD1世紀の美食家)(注釈1)もびっくりするくらい、世界中から取り寄せられた食材を使った色とりどりの豪華な料理が次から次へと運ばれてきた。
まずは、“ムルスム”(蜂蜜や香料を混ぜた甘めの白ワイン)が食前酒として手渡され、前菜として、
・ユダヤ国産赤レンズ豆のスープ
・孔雀のハミン卵と、蜂蜜または松の実ソース添え
・高級トリュフのガリュムソース照り焼き
・レタスやアーティチョーク(朝鮮アザミ)
・アスパラガスのワインビネガー漬け
・最高級の羊のチーズやアルプス産のチーズを含んだ各種チーズの盛り合わせ
などが客達に振舞われた。
* レンズ豆
・・・レンズ豆は日本の大豆同様、中近東では古来からよく食べられた
食材で、特に赤レンズ豆のスープはイスラエル建国の祖である
ヤコブが、赤レンズ豆スープと引き換えに兄エサウから相続権を
奪い取った話や、ダビデ王が神の神輿を運んだ祝いに
国民全員にこのスープを配ったと旧約聖書に記されている
ことから、ユダヤでは葬儀や祝祭で出される伝統料理の一つで
ある。
そのため、ユダヤ人にとってレンズ豆は豊穣と
清めの象徴であるが、逆にローマ人にとっては尊大さや有害、
ユダヤ人独特の過剰な民族意識の象徴だと思われていた。
しかし、その一方でローマの貴族や富裕層もレンズ豆を
好んでよく食べていた。
* ハミン卵
・・・ユダヤ式のゆで卵のことで、現在ではアラビア語で
ベイド・ハミンと呼ばれる。
元々は、古代エジプトでヘブライ人(古代ユダヤ人)達が作って
いた料理の一つで、6時間~一晩かけてゆっくり卵をゆでると、
クリーミーな味わいのおいしいゆで卵に仕上がる。
ユダヤ教の戒律で調理をすることが許されない安息日などに
出される定番料理でもある。
* トリュフ(西洋ショウロ)
・・・トリュフは紀元前17世紀からシュメール人も食していたとされ、
古代ギリシャ人はトリュフの新しいレシピを作った料理人に
市民権を与えるなど、古代から高級食材として重宝されていた。
「パンとサーカス」の言葉で有名なAC1世紀頃のローマの
人気風刺作家ユウェナリスは、トリュフを俗っぽさや
退廃の象徴と見て、無能な政治家ほどトリュフを
食べると皮肉った。
* ガリュムソース
・・・日本で言う魚醤油のこと。
イワシや鯛などの魚の内臓を発酵させて作っていた。
古代ローマでは欠かすことのできない定番調味料である。
次にメインディシュ(主菜)だが、宗教の自由が許されているローマでは、ラクダ・豚・ウサギ・鷹・フクロウ・コウモリ・ダチョウ・フラミンゴ・ネズミといった鳥獣類、イカやタコ、カニ、牡蠣、ウナギ、クジラなどの魚介類がよく宴会で出されたが、ユダヤでは(現代と比べたらさほどうるさくはないが・・・)戒律上、これらの食物が禁忌とされているので、一応、これらの食材は避けられた。
そこで、ラム(羊肉)は過ぎ越し祭でも神への供物として捧げられるなど、ユダヤでは最上の食材だったので、この日の宴会にも野菜やハーブなどの具が詰められたローストラムのミントソース添えが振舞われた。
その他では、ローストビーフやビーフシチューなどの牛肉料理、ローストチキン(鶏肉)、ガチョウ、アヒル、鳩、七面鳥といった鳥を使ったもの、さらには山羊や鹿のような狩猟で仕留めた野生の肉まで出された。
また、ユダヤ教において魚はヒレやウロコがはっきりしているものなら何でもいいので、地中海で獲れるマグロやタイ、サバ、アンチョビー、シーバス(スズキ)といった魚がよく食されていたが、特にローマでは魚は肉よりも高級品であり、中でも赤く美しいウロコを持つタテジマヒメジ(=Red mullet、赤ヒメジとも呼ぶ)は最高級の魚として珍重されていたため、今夜は蒸したタテジマヒメジのガリュムソース添えもメインディッシュとして食卓に出された。
最後にデザートは、
・ザクロ、イチジク、ナツメヤシ、ブドウ、アンズなどのフルーツの盛り合わせ
・アーモンドやピスタチオ、ヘーゼルナッツ、ウォールナッツ(クルミ)のおつまみ
・プラケンタ(チーズと蜂蜜のケーキ)
・エンクリデス(蜂蜜漬けの揚げビスケット)とイトリオン(ごまビスケット)
・リンゴと極細めんのシャーベット
などが客達の前に並べられ、客達も次々と運ばれてくるそれらの豪華な料理をおいしそうに平らげていった。
* ザクロ
・・・古代エジプトでも食されていた古来からの人気の果物であり、
ユダヤではその実の頭の部分が“王冠”のように見えること
から、王家やその一族の繁栄の象徴とされていた。
また、旧約聖書においてもモーゼが“ 神から約束された土地 ”
を探すため偵察隊を派遣したところ、彼らがその土地から持ち帰
ったのがブドウとイチジク、そしてザクロの実だったと記されて
いる。
* リンゴと極細めんのシャーベット
・・・BC5世紀頃には既にアケネメス朝のペルシャ帝国において、夏場
に氷を貯蔵する“ヤフチャール”という氷室が作られていて、
素麺のような小麦の極細めん(ヴェルミチェッリ)を凍らせて
レモン汁やバラ水などをかけたペルシャ式シャーベットが
食されており、現在でも“ファルーデ”いう名で親しまれている。
そのため、AC1世紀頃までにギリシャやローマ、中国、
インドといった世界各地でカキ氷や冷たいデザートが作られており、
ユダヤもかつてはアケネメス朝ペルシャの支配下に置かれていた
ことから、一年の大部分は雪で覆われているゴラン高原の
ヘルモン山に氷室を作って夏場の暑さをしのいでいたと
思われる。
ちなみに、日本も古代から氷室の技術が伝えられていて
氷を食す習慣があり、平安時代の人気エッセイ(随筆)だった、
(今ではブログと言うかもしれないが)「枕草子」にも
カキ氷を楽しむ風景が描かれている。
また、こうした食事の合間には大量のワインやその他のドリンク類も運ばれてきて、それらは客人達の喉の奥にどんどん注ぎ込まれていった。
特にワインは、この当時、BC121年に作られた100年もののヴィンテージワインから安物のテーブルワインまで幅広く醸造され、ローマ以外でもギリシャやエジプト、ガリア(現ヨーロッパ)、アフリカ、中国、インドと世界の様々な地域で作られた輸入ワインもいろいろと出回っていた。
そのため、今夜の宴席でも世界で指折りのワインがいろいろと取り寄せられていた。
中でも、ローマ史にその名を刻まれるほど有名ブランドだったファレルニア・ワインは、芳醇な香りを持つアルコール度数15%の白ワインで、ライト・甘口・辛口の3種類があり、10~20年ものが一般的だが、年代が古いものほど高値になるという超高級ワインでもあった。
年代が古ければ古いほど高値になることから、100年もの、200年ものといった伝説のワインもあれば、一方でその名を騙った偽造ワインも数多く出回り、本物のヴィンテージワインを飲むのはある意味、とてもステータスなことだった。
加えて、ヘロデが用意したのは、ローマよりも古い醸造の歴史を持つユダヤ国産のワインで、これはバラの花びらを一週間ごとに入れ替えながら一ヶ月近くワインに漬けて甘くするローズワインだった。
これらの他にもエジプト産の高級白ワインや、“偉大な王の為の酒”と賞賛されるシリア産のバビロニウム・ワイン、また、ワイン以外でも“ラー王(太陽王)の飲み物”として知られるエジプト産のジトスビールに、蜂蜜と水を発酵させて作る蜂蜜酒、リンゴを発酵させて作るリンゴ酒なども用意されていた。
もちろん、これだけ大量のアルコールを飲めば、そのうち悪酔いして嘔吐する客が出てくるだろうが、その時に備え、テーブルの下にはボールが置かれていて、いつでも好きなだけ吐けるようにもなっていた。
ただし、現代においてローマ人達がたくさん飲んだり、食べたりするために“わざと”吐いていたという話がまことしやかに伝えられているが、そういった事実はなく、むしろ飲みすぎで吐いていたというのが実情のようである。
さらに、こうした豪華な食事や飲み物によるもてなしだけでなく、食卓の傍では始終、歌手や踊り子達が歌い踊ったり、楽隊が笛やハーブを奏でたり、また、軽業師などが見事な曲芸を披露して客達の目を楽しませていた。
そうして、注がれるワインの量がどんどん増していき、夜の闇がもっと深くなってくると、男性客達はべろんべろんに酔ってだらしなくなり、酒を運んでくる若い女奴隷の尻や胸を触ったり、片付けをしている少年奴隷達にいやらしく寄りかかったりして、宴席はだんだんみだらな雰囲気に包まれていく。
そういった理由からか、自由奔放に男女混合で宴会するローマとは違い、ユダヤでは普段、上流階級の子女達が男性客と同席してワインを飲むことがあまり許されておらず、ヘロディアスやサロメのような女性や子供達の宴席は最初から男性客達のそれとは別に設けられていた。
しかし、今夜はヘロディアスとサロメを社交界でお披露目するということもあって、ヘロデはとりあえず食後のワインが運ばれ始めたぐらいに女性達の宴席に使いをやり、ヘロディアスとサロメを男性客達のいる宴席に招くことにした。
その間、ヘロデと客人達はワインの杯を傾けながら、最近、巷で話題の新しい預言者についていろいろと噂話に興じていた。
「わたしが聞いた話だと、どうやらイエスという男は悪霊つきを追い払うことができるそうだ」
「それだけじゃない。
わたしが聞いた話だと病人をたちどころに治したらしいぞ」
「おっ、わたしもそれは聞いた。
何でも盲人の目を治してやったということだ」
「そんなバカな。
わたしが聞いたのは水をあっという間に上等のワインにしたという話だけだ。
そんな、病人や悪霊つきの話なんて聞いたこともない」
「ほぅ、上等なワインにねぇ。
だったら、ここに並べられているワインよりもずっと上等のものを出せるということかね?」
ヘロデは客の一人がワインの話を口にすると、すかさず口を挟んだ。
「ハ、ハ、ハ。それは無理と言うものでしょう。
ここより上等のワインと言ったら、後は天国のワインぐらいなものでしょうね」
とローマから来た客の一人がおべんちゃらをヘロデに言うと、ヘロデはニヤッとしてその客に杯を上げて微笑んだ。
「そう言えば以前、巷で噂になっていたあのヨハネと言う男は一体、どうなりましたかな?」
いかにも自慢たらしいヘロデの態度にちょっと辟易し、地元貴族の一人がさり気なく話題を変えて尋ねると、
「その男は私共の方でまだ、取り調べております」と、
固い顔をしてワインを飲んでいたサドカイ派の僧侶の一人がそれに答えた。
「ああ、その男のことならわたしも知っておりますぞ。
何でもあのヨハネとかいう男は、死者から蘇った預言者エリヤの生まれ変わりだと聞き及びましたが、事の真偽はいかがです、ヘロデ王?」
エルサレムに住んでいるローマの役人の一人が、からかい半分でその質問をヘロデに振った。
「馬鹿馬鹿しい。
死人が蘇ったなんて。そんな馬鹿げたことがあるはずないでしょう」
すると、突然、ヘロデの甥のアグリッパが話に割って入り、さも信じられないと言わんばかりに首を横に振って彼らの話を一蹴した。
「お前は、死者が復活するのを信じられないと言うのか?」
アグリッパに話を横取りされてムッとしたヘロデは、少したしなめるような口調でアグリッパに言った。
「ふん、そんな話、わたしは信じられませんね。
大体、死者が生き返ったところなど誰が見たと言うんです?
誰もいないじゃありませんか。
叔父上こそ、そんな馬鹿げた話を信じていらっしゃるんですか?」
アグリッパは意地悪そうな微笑を浮かべながら、不遜な態度でヘロデに挑んだ。
「いや、いや、アグリッパ様、魂というのは不滅なのです。
我らの預言者モーゼ様やエリヤ様のように聖なる魂は肉体を得れば、いつだってこのユダヤの地に戻ることは可能なのです」
ヘロデとアグリッパの間に流れた不穏な空気を感じ取って、ファリサイ派のメンバーの一人がすかさず二人の間を取り持つようにして言った。
「ほぅ、聖なる魂が肉体を得ればねぇ」
アグリッパはそれでも不遜な態度を崩さず、ファリサイ派の男の話をまぜっかえした。
「そ、そうです。それがメシア(救世主)なのです。
メシアこそ、神がこの世に生まれ変わられたお姿を体現するものなのです。
我らの偉大なるダビデ王がそうだったように・・・」
相変わらずアグリッパの人を食ったような言い方に、ファリサイ派の男はちょっと気おされ、ゴホンと咳払いするともったいぶってそう付け加えた。
ところが、それを横で聞いていたサドカイ派の別の僧侶が聞き捨てならないといった風に彼らの話に割って入ってきた。
「何を言う。魂の不滅などあるものか。
死者が復活するなどと馬鹿げた話を信じるのは教養のない世俗の者だけ。
しかも、そんな話を彼らに教え込んでいるのはもっぱらあなた方、ファリサイ派の方々ではありませんか」
「そちらこそ、何をおっしゃる。
死者復活は馬鹿げた話などではないっ!
あなた方は僧侶でありながら、律法書に書かれてある事をお信じにならないのですか?
それでは神の奇跡を侮っているようなものではありませんか」
ファリサイ派の男はそのサドカイ派の僧侶の言葉に口をとがらせて反論した。
「何っ!
神殿を司り、神からの神託を賜る私達の教えを飛び越え、ろくすっぽ律法書を読んだこともない庶民に口伝えでデタラメを教えようとしている方がよっぽど神を侮る行為ではないか!」
当初は、ヘロデとアグリッパのつばぜり合いだったのが、いつの間にやらファリサイ派とサドカイ派の宗教闘争へと移り変わり、退屈してきたアグリッパはあきれたように肩をすくめて、まだ言い争っている二人から宴席で酒を飲んでいる客達に目を移した。
話には聞いていたが、まさかこれほどとは。
さすがにユダヤ人というのは宗狂じみている。
宴席での話題が死人や預言者の話だなんて。
陰気臭くて酒がまずくなるわ。
あーあ、こんな退屈で陰気臭いユダヤから早く出たいものだ。
来て見て分かったが、やっぱりここは垢抜けない田舎領土だな。
叔父上だってやたらとローマ人気取りで洗練さを装っているが、死者やら預言者の話となると途端に目の色を変えていた。
あれじゃ、本気であんな馬鹿げたおとぎ話を信じているらしい・・・。
おめでたいことだ。
アグリッパはヘロデの鼻にかかったような話し声を耳にすると、フフッとほくそ笑み、宴席の客達に見せつけるかのように、いたずらっぽく口を大きく開け、いかにも退屈だと言わんばかりにあくびした。
ヘロデはそのアグリッパの様子に気づいて少し顔をしかめたが、それ以上、アグリッパに取り合わず、そのまま客達と談笑を続けた。
それを見て、アグリッパはますます退屈になった。
そこへ、女性達の宴席に行っていたヘロデの使いが戻ってきて、ようやくヘロディアスとサロメの到着をヘロデに告げた。
「おお、そうか。待ちかねたぞ。
さぁ、二人を早く中へ!」
自慢の妻と義理の娘を紹介できるとあって、ヘロデがうれしそうにその声を張り上げると、男性客達の視線が一斉に扉へと向かって注がれた。
すると、扉が大きく開かれ、そこにはまさしく男達の期待を裏切らない絶世の美女が二人、堂々とした風情でたたずんでいた。
特に、サロメの登場は見事なものだった。
白く透き通ったベールに覆われた黒髪は、宴席の明かりに反射して黒真珠のようにほのかに輝き、さらにその髪を飾っているヘアピースにちりばめられたミルク色の真珠は、夜空に浮かぶ星のようにきらきらとしていた。
そして、ベールの下ではにかんだようにして歩くサロメのほっそりとした華奢な身体は、これまた輝かんばかりの真っ白なキトンに包まれ、サロメが一歩進むごとに彼女の透き通るような美しい素肌がそのキトンのすき間から垣間見えた。
そんなサロメの美しさを目の当たりにした客達は、誰もが貝から生まれたと言われる美の女神アフロディテを頭に思い浮かべた。
さらに、その横を歩くヘロディアスも圧巻だった。
若く瑞々(みずみず)しいサロメとは異なる、まさに妖艶な美しさを放っていた。
豪奢な金の縁取りのついた濃い紫色のキトンに、薄紅色のストラ(女性用のショール)を身にまとい、金褐色に染めた髪には金と赤メノウのついたティアラ風のヘアバンドが飾られていた。
その姿はまさに優美な孔雀の女王が化身したようで、男性客達はヘロディアスが自分達の方へ近づいてくるのをぽぉっとした表情で眺めていた。
少し白けてきていた宴席は、この二人の美女の登場で一気に活気づいた。
ヘロディアスは、ヘロデの前に進んでくると早速、ひざまづいて誕生日の祝辞を述べた。
「陛下、お誕生日おめでとうございます。
どうか、末永く陛下の御世が続き、このユダヤの地にさらなる繁栄と安寧がもたらされんことを心よりお祈りいたします。
ヘロデ王に神の祝福あれっ!」
ヘロディアスが高らかにそう叫ぶと、客人達はそれに合わせて自分達の杯を高く掲げてヘロディアスの祝辞に続いた。
「ヘロデ王に祝福あれっ!」
「では、陛下。このヘロディアス、今夜は陛下の為に心尽くしのお祝いの品を持ってまいりました」
そう言うと、ヘロディアスは目を伏せて娘のサロメをヘロデの前に押し出した。
「祝いの品?」
ヘロデは、ヘロディアスの言葉を怪訝そうに聞き返した。
「はい。ここにおりますわたくしの娘、サロメはわたくしにとっては砂漠におけるルビー、地中海の真珠にも勝るとも劣らぬ宝物。
その宝物が今夜、皆様の御前にて、陛下に末永く栄光と繁栄がもたらされるよう神への祈りの踊りを奉納させていただきます」
ヘロディアスがそう告げると、ヘロデは子供のように無邪気に目を輝かせた。
「おおっ! サロメが祈りの踊りを披露してくれると言うのか?
それはなかなかの趣向じゃ。
さぁ、早く見せておくれ」
ヘロデはうれしそうに手を叩き、周りの客達もそれにならってヤンヤと騒ぎ始めた。
そこで、サロメは宴席に設けられた場の真ん中に立ち、ドキドキする小さな胸をそっと抑えて音楽が鳴り出すのをじっと待った。
小さい頃からサロメは、踊りが好きで得意でもあった。
踊りが上手な召使女をわざわざ雇い、その女から世間で流行している新しい振りを習ってはそれを何度も練習していた。
もちろん、身分ある女性が人前で踊ることはよほどの儀式でない限り、ありえないことなのだが、それでも貴族の娘達の間では邸内の庭で歌ったり、踊ったりするのは遊びの一つだったので、サロメもかなりその遊びに入れ込んでいた。
その甲斐あってか、今夜は自身だけでなく、得意とする踊りも披露する絶好の機会に恵まれたわけだが、それでも今夜の踊りは特別な踊りであり、場所も普段とは違って失敗が許されないところだけに、彼女の緊張はさすがにすぐには解けなかった。
だが、一旦、音楽が流れ出すと、サロメはさっきまでの緊張などまるでなかったかのようにしなやかに大きく腕を広げ、白鳥が舞っているような優美な動きで踊り出した。
その動きに合わせて、彼女の腕につけた金のブレスレットがなまめかしく光り、客達の目を眩ませると、今度は彼女の細い身体が悩ましくくねり出し、男性客達はそれを食い入るように見つめていた。
中でも一番、熱心に見入っていたのは、サロメのいとこのアグリッパだった。
ヘロデの宴会に退屈してその場を不躾にも立ち去ろうと思っていたアグリッパは、サロメが登場した途端、気が変わり、今ではサロメの姿に釘付けだった。
これは、これは。
まさしく砂漠に埋まっていたルビー。
これほど美しい娘がこんな辺ぴなユダヤにいたとは・・・
アグリッパはニヤッと笑うと、サロメから目を離すことなく、ワインをぐびっと飲み干した。
そんな男達の熱い視線に気づくこともなく、真剣に踊っていたサロメはだんだん楽しくなってきて、大胆な動きをしながら宴席の客達を見渡す余裕も出てきた。
その時、ふと見たことのない端正な顔立ちの男性に気づき、サロメはちょっと顔を赤らめ、チラッとその男性を振り返った。
すると、その男性もサロメの視線に気づいたらしく、ニッと笑顔を返し、サロメの踊る姿をまるで目で愛撫するかのように追っていた。
首筋の辺りから二の腕、そして胸の谷間へ、さらに足首を見つめて膝、太ももと徐々にその視線は這い上がっていく・・・。
アグリッパの目は、まさにゆっくりと、しかも執拗にサロメの身体をなめまわし、サロメはそんなアグリッパのじらすような視線に耐え切れず、ようやく彼から目をそらした。
そして、踊りも後半にさしかかってくると、彼女の額には少し汗がにじんできて、それがいっそう彼女の美しい素肌を輝かせていた。
そうして、男性客達は皆、固唾を飲んで彼女の踊りを見つめ、彼らの真剣な眼差しを全身に浴びながら、サロメの踊りは最高潮へと達していった。
【注釈1】
アピキウス(またはアピシウス)・・・AD1世紀に活躍したグルメ評論家。贅を尽くした美食に財産を使い果たし、貧しさで美味しいものが食べれないことに悲観して、服毒自殺したと言われている。
ちなみに「アピキウス料理大全」の著者としても紹介されるが、実際は彼の残した料理レシピを基に後世の翻訳家が本にしたのであって、彼自身の著作ではない。